もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

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相客(4)関八州

 山谷の古く煤けた店。コの字型カウンターがあり、テーブル席をはさんで小上りがあるのだが、一人でそこに座れば、話し相手はいなかった。黒い猫が膝の上にいる。どちらかといえば猫は嫌いなのだが、猫のほうではそこを自分の場所と心得ているようだ。
 遅くなってから古い鞄を提げた男がひとりで入ってくる。まだ大丈夫ですかと静かに聞き、少しぐらいならと店員が答えれば、ほっとしたように入口近いテーブル席に着く。そこはぼくの座っているところから遠く、座ってしまえば頭に帽子を載せジャケットを着た後姿が見えるだけだ。背は低くころっと太った爺さんだった。

 爺さんが振り向いてちらちらとぼくを見始めた。目が合うと、首を竦めて元の姿勢に戻る。子供っぽい仕草にも見えた。ところが立ち上って、右手を低く構え、ぼくに向って仁義を切ろうとしたのだ。
 「爺ちゃん、こんなところで仁義なんか切らないでよ。大人しいお客さんばかりなんだから」と、ここの息子である店員が止めると、爺さんは座り、椅子はもうすっかりこっちを向いていた。
 「こんな爺ちゃんだけど、働かせてくれよ」
 「爺ちゃん、この人は、親方さんじゃないんだよ」
 「じゃあ、なんだよ」
 「そうだな、何にしようか」と、店員はぼくの顔をうかがう。
 「銀行員」
 とりあえずはそれでうやむやになった。

 爺さんは便所に行くのにぼくのそばを通り、ずっとテキヤをやっていたのだと言った。出てくると今度は、家出してきたのだと言った。
 「心配してるんじゃないのか?」
 「心配なんかしてないよ」
 「初めてじゃないんだろ」
 「うん。‥‥仕事やらしてくんねえかな」
 「おれに言ってもなあ‥‥」
 いったん席に戻った爺さんは、銚子とグラスを持って、またやってきた。ぼくの前に腰をおろしてから、「一緒に飲んでもいいか? もう来ちゃったけど」と言った。苦笑して眺めていた店員が、爺さんの鞄を持ってきた。賑やかになって、黒い猫はのっそりと離れていった。

 息子の嫁と折り合いが悪いという。息子の顔はずっと見てないという。
 「嫁に殺されて、どっかに埋ってんだよ」
 「ほんとに会ってないのか? 会ったのに忘れてんじゃないの?」と聞けば、「そうかな」と笑う。
 「刺青してんだぞ」と言うので、「見せてみろよ」と言うと、「うん」と答えたもののちょっと考えてから、「この次」と言う。
 二年前に婆さんが73歳で死んだと言うから、「爺ちゃんは今いくつなんだ?」と 聞くと、「え? 年なんて聞くのか」と、なんだか照れている。帽子を浮かし、「こんなもんだ」と言った。見事な禿げ頭だった。
 そのうち爺さんはテキヤをしていた頃の話を始めた。どこそこではどの親分に世話になったと、いくつも地名が出てきた。話は関八州に及ぶようだった。一応の相槌を打ちながらも、ぼくは別のことを想像していた。説得して爺さんを連れて帰ると、その家は何年も前からの空き家‥‥。

 他の客がいなくなっても、「まだいいよ。おつまみは出来ないけど」と店員は言った。店員がこの爺さんに好感を持っているようなのが嬉しかった。それでも爺さんは「帰る」と言いだした。早い時間から飲んでいるぼくの払いまでしてくれた。こんなにあると、分厚い財布を見せた。「見せるんじゃないよ、たかるやつがいるんだから」と、払わせておきながら言うと、「分ってる、そんなこと」と爺さんは言った。
 古い鞄を提げて帰り支度が出来ると、「一緒に帰ろう」と、今度はかわいく言った。

 爺さんの泊ってるドヤはぼくが乗るバス停の前にあった。
 「明日も来るのか?」と、爺さんは聞く。
 「そう毎日は来られないよ」
 「いつ来るか、分らないのか」と、握手をしながら怒ったように言った。
 「ちょくちょく来てるから、覗いてみなよ」
 「うん」
 ちょくちょく、なんて言わずに、あさってとか次の金曜日とか言えばよかったかもしれない。爺さんはドヤに入っていった。
 受付での手続きは長引いていた。いつまでも爺さんは靴を履いたままでいる。従業員相手に話し込んでいるのかと思ったのが、どうも様子が違う。背中を向けた爺さんは何かしきりに言い訳している。従業員はうんざりした顔で、たまに投げやりに口を開いている。爺さんはいっそう背を丸めて、それが苦情ならば聞き流そうとしているように見えた。
 バスが来たが、ぼくは乗らなかった。煙草に火を点け、出てくるのなら早く出てこいと思っていた。
 
 煙草の空袋を投げ捨てたとき、やっと中の空気が動いた。爺さんが靴を脱ぎ始め、ぼくはがっかりすると同時にほっとした。
 脱いだ靴を取り上げるのに爺さんは一度ぼくの方を向いたが、気付かない様子だった。頭の中からとうにぼくは消えていたのだろう。
 バスはもう来なかった。

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