もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

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相客(1)二杯目

 なぜか平日の早い時間。会社をさぼったのかもしれない。そのせいか神谷バーは空いていた。浅草自体が冷え込んでいて、日本人によく似た外国人もあまり歩いていなかった頃である。
 窓際の席に着くと、従業員が食券を取りにくる。まず運ばれてくるのは飲み物。生ビールの大と、電気ブランが二杯、うち一杯はロックで。ロックの一杯はすぐになくなる。生ビールもたちまち半分ほどになる。ここまでは早いが、それからは時計の針の方が早い。
 フライドチキンが出てきた頃に、やっと向いの席が埋った。恰幅のいい年配の男が軽く会釈し、ぼくも返した。やがてグラタンが運ばれてくる。とりあえず最初に頼んだものは揃った。向いの客の前にあるのは、小さなグラスの電気ブランが一杯と、氷の入った水だけだった。
 「これをね、二杯飲みたかったな」と男がつぶやいた。
 目が合うと男は照れたように笑った。

 「昔ね、兄さんぐらいの頃だな、たまに来て、一杯だけ飲んだ」
 「はあ」
 「とくに貧乏していたわけじゃないのだけど、弟や妹がいっぱいいて、ちょっとでも多く仕送りしてやりたかったから。そんな殊勝なことを言うぐらいなら飲まなきゃいいんだけどね」
 「はあ」
 「一杯だけ。そう思って、来た。もう一杯飲みたい、そう思いながらいつも一杯で帰った。結局二杯飲んだことはなかったな」
 「そうですか」
 「でも、その一杯がおいしかった」
 「今もこの近くにお住いですか?」
 「いや。田舎で小さなおもちゃ工場をやっていてね。これから東武線で帰るとこなんだけど、懐かしくて、ちょっと入ってみた」
 「そうですか」
 「この近くで住込みで働いていた。うん、辛いことはなかったな」
 よかったらフライドチキンつまみませんか。その台詞をなんども頭の中で練習したが、ついに言えなかった。

 「邪魔して、悪かったですね」
 男は椅子を引いて立ち上ると、頭を下げた。
 「いいえ」
 ぼくも立ってお辞儀をした。
 男が出て行ったあと、ぼくは従業員を呼び止めて、追加の注文をした。電気ブランを二杯、それと煮込み。

 窓の外のモノクロの風景の中に、外套にソフト帽の人の姿があった。さっきの人はあんなかんじだったろうかと思っても、服装すらよく思い出せなかった。路面電車のあとを追うように、荷馬車が橋を渡っていく。

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