もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

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一万円のシャツ

 着る物には無頓着、という顔をしている。そうでもないのだが。
 まず買物がうまくない。陳列されている中から気に入ったのを選んで買っても、いざ着る段になると、とたんに自信がなくなるのだ。もちろん何を着たからといってぐんと男ぶりが上るとは思っていないのだが、それにしても一番似合わないのを選んだのじゃないかといつも後悔してしまう。だから自分で買うことはあまりない。大昔までさかのぼっても、気に入って着ていたものといえば、貰ったもの、ないしは取り上げたものだった。貰ったものなら、たとえ似合わなくても後悔はしないだろうが、それどころか、不思議にしっくりくるものが多かった。

 二十年も前のこと――。
 西武百貨店で一万円もするシャツを買ってしまった。あとになって、その頃何か自棄になるようなことがあったのかと考えてみるのだが、思い当ることはなかった。社員旅行を控えていたのはたしかで、そうすると一丁決めてやろうとでも思い立ったのか。「ラコステ」なんてブランド名は、そのとき初めて知った。
 シャツの色は上下でくっきりと別れていて、上半分はぼけたような山吹色、下半分が紺色、本当にそんなのが気に入ったのかどうかもよく分らない、いけないことでもしているみたいに、そそくさと買い求めた。
 さすがにこのときは一万円のシャツを買ったという昂揚感もあって、家に帰ってすぐ後悔したわけではなかった。着てみると、案外いいかもしれないと思えた。何よりも、寸法が合っていた。
 社員旅行に着ていくと、女子社員たちは目ざとかった。
 「あら、素敵ね。ラコステじゃない?」
 「よく知らないけど」
 「いいものなのよ。今はシャツに負けていても、着てるうちに似合ってくるから」
 「ワニのマーク、右左逆じゃなかった?」
 「べつにいいんじゃないの?」
 おおむね評判は良かったようだ。
 ところが旅行から帰って、洋服ダンスに放り込んでおくと、三日ほどして虫食いに気づいた。背中に小さな穴が開いてしまった。他の衣類が無事なことを思えば、高いシャツは味もいいのかもしれない。

 一万円と思えばあっさり捨てるわけにもいかず、外へ着ていくこともかなわず、その後何年もタンスの中で眠っていた。
 あるとき、山谷に飲みに行くのに、このシャツを引っ張り出してみた。上半分が山吹色で腹から下は紺色、白いズボンを穿くと、紺色の部分が目立った。虫食い穴があるので、コールテンのジャケットを羽織り、これはもう滅多なことでは脱げない。そして下駄履き。すでに高いシャツではなく、あくまでもちょっとそこまでの恰好である。
 日が暮れかかっていて、まもなく飲むには最適の時間となる。途中公園に寄った。隣接する神社はお祭りだった。屋台の並んだ境内から少し離れて、ベンチに腰掛け煙草を吸っていると、通りがかりのおじさんが煙草の火を借りにきた。おじさんはそのまま、隣のベンチに腰をおろした。
 「祭りの季節だね」と、おじさんは言った。
 「そうだね」
 「一番忙しい時期だ」
 「はあ」
 「稼ぎどきだね」
 「え?」
 要領を得ない返答をしていると、おじさんもちょっとためらったようである。
 「テキヤさん、だよね?」
 「おれ?」
 「違った? テキヤさんかと思った」
 「違うよ」
 「魚屋さんってかんじでもないし‥‥」
 おじさんはこちらの腹の辺り、シャツの紺色の部分を指さした。「シャツの上に腹巻出して、ステテコ穿いてるから、テキヤさんかと思ったよ」
 ステテコではなく白いズボン。腹巻ではなく、「ラコステ」のシャツの柄‥‥なのだけど。

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