もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

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2007年02月

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一万円のシャツ

 着る物には無頓着、という顔をしている。そうでもないのだが。
 まず買物がうまくない。陳列されている中から気に入ったのを選んで買っても、いざ着る段になると、とたんに自信がなくなるのだ。もちろん何を着たからといってぐんと男ぶりが上るとは思っていないのだが、それにしても一番似合わないのを選んだのじゃないかといつも後悔してしまう。だから自分で買うことはあまりない。大昔までさかのぼっても、気に入って着ていたものといえば、貰ったもの、ないしは取り上げたものだった。貰ったものなら、たとえ似合わなくても後悔はしないだろうが、それどころか、不思議にしっくりくるものが多かった。

 二十年も前のこと――。
 西武百貨店で一万円もするシャツを買ってしまった。あとになって、その頃何か自棄になるようなことがあったのかと考えてみるのだが、思い当ることはなかった。社員旅行を控えていたのはたしかで、そうすると一丁決めてやろうとでも思い立ったのか。「ラコステ」なんてブランド名は、そのとき初めて知った。
 シャツの色は上下でくっきりと別れていて、上半分はぼけたような山吹色、下半分が紺色、本当にそんなのが気に入ったのかどうかもよく分らない、いけないことでもしているみたいに、そそくさと買い求めた。
 さすがにこのときは一万円のシャツを買ったという昂揚感もあって、家に帰ってすぐ後悔したわけではなかった。着てみると、案外いいかもしれないと思えた。何よりも、寸法が合っていた。
 社員旅行に着ていくと、女子社員たちは目ざとかった。
 「あら、素敵ね。ラコステじゃない?」
 「よく知らないけど」
 「いいものなのよ。今はシャツに負けていても、着てるうちに似合ってくるから」
 「ワニのマーク、右左逆じゃなかった?」
 「べつにいいんじゃないの?」
 おおむね評判は良かったようだ。
 ところが旅行から帰って、洋服ダンスに放り込んでおくと、三日ほどして虫食いに気づいた。背中に小さな穴が開いてしまった。他の衣類が無事なことを思えば、高いシャツは味もいいのかもしれない。

 一万円と思えばあっさり捨てるわけにもいかず、外へ着ていくこともかなわず、その後何年もタンスの中で眠っていた。
 あるとき、山谷に飲みに行くのに、このシャツを引っ張り出してみた。上半分が山吹色で腹から下は紺色、白いズボンを穿くと、紺色の部分が目立った。虫食い穴があるので、コールテンのジャケットを羽織り、これはもう滅多なことでは脱げない。そして下駄履き。すでに高いシャツではなく、あくまでもちょっとそこまでの恰好である。
 日が暮れかかっていて、まもなく飲むには最適の時間となる。途中公園に寄った。隣接する神社はお祭りだった。屋台の並んだ境内から少し離れて、ベンチに腰掛け煙草を吸っていると、通りがかりのおじさんが煙草の火を借りにきた。おじさんはそのまま、隣のベンチに腰をおろした。
 「祭りの季節だね」と、おじさんは言った。
 「そうだね」
 「一番忙しい時期だ」
 「はあ」
 「稼ぎどきだね」
 「え?」
 要領を得ない返答をしていると、おじさんもちょっとためらったようである。
 「テキヤさん、だよね?」
 「おれ?」
 「違った? テキヤさんかと思った」
 「違うよ」
 「魚屋さんってかんじでもないし‥‥」
 おじさんはこちらの腹の辺り、シャツの紺色の部分を指さした。「シャツの上に腹巻出して、ステテコ穿いてるから、テキヤさんかと思ったよ」
 ステテコではなく白いズボン。腹巻ではなく、「ラコステ」のシャツの柄‥‥なのだけど。

他人の鞄が気になる

 財布ちり紙ハンカチ煙草はポケットに振り分けて、手ぶらでいるのが一番いい。どうしてもというときには、手提げの紙袋を持つ。旅行鞄は別にして、仕事にも仕事探しにも、鞄を持ったことはなかった。
 図書館の行き帰りも、手提げの紙袋である。重宝している。それでも、帰途スーパーで買物をするときにこの紙袋を持ち込むのは、ちょっと気が引けてしまう。
 万引きを疑われるのでは、と気になるのだ。まあ、しなければいいだけのことだが。
 レジで清算のとき、紙袋をいかにも無造作に、店員の視界に置く。無造作どころか、気にしているのである。おかしなものが入っていないか、確認することもある。どうなのだろう、ぽっかり口を開けた紙袋が、店のほうでは気にならないのだろうか。
 それでも雨の日に、濡れると破れるのではと心配してくれ、紙袋ごと入る大きな買物袋をくれたこともあった。

 最近、背広を着る機会があった。背広の上には、新調したコート。結構紳士らしいじゃないかと、鏡に見とれてしまった。そんなときに、鞄を買おうかなと、ふと思いついたのだ。
 ただし買うにしても、ひとつですませたい。A4判がすっぽり入る寸法、弁当箱が入るぐらいの厚みというのは問題ないのだが、背広のときには実直そうな紳士を際立たせ、ラフな恰好にも合うもの、と思えば、これはしっかり研究しなければいけない。外出するたび、他人の提げている鞄を気にするようになった。

 駅のホームで、ちょっとよさそうな鞄を見つけた。年配の男性が鞄を隣の椅子に置いて、文庫本を読みふけっていたのだ。勤務時間中といった恰好である。じっと見ていると、気がついたのかその人は、不安そうに鞄を引き寄せた。

待合せの不安

 先日、目黒の駅前で待合せをした。
 約束すること自体気が重いのだが、待合せとなると、これはもう苦痛である。
 待合せ場所には必ず早く着いてしまう。相手も早く来てすぐ会えれば問題はないのだが、ちょっと時間が経つと、古い付合いであっても、顔を忘れてしまったのではないかと不安になってくるのだ。絵心がないせいか、相手の顔を思い描けない。すっかり禿げていたり、頬に傷でもあったりすればいいのだが、そういった特徴がないと、頭の中の人相書きは頼りなげな輪郭だけである。その輪郭すら、時間の経過とともに薄れていく。人待ち顔の人やちょっと立ち止った人を、似ても似つかぬ人まで含めて、この人じゃなかったよなと、すべて点検してしまう。
 そして約束の時間になっても会えないときは、死んじゃったのかなと、心配してしまう。

 今から家を出ると電話がかかってきたのだから、すっぽかされることはないだろうし、その時点での生存は確認できたわけだ。それでも不安は残った。
 「アルタ、みたいな名前だよ」
 「アルタって新宿だろ? 新宿がいいの?」
 「新宿じゃなく、目黒。アルタじゃないの、アルタみたいな名前なの」
 アトレだとはあとで分るのだが、こんなやりとりをしたせいで、間違って新宿に行かないだろうかと、余計な心配をしなければならない。そのうえ、相手は老眼で近眼で乱視でもある。キスをするぐらい近づかないと人の顔は判別できないそうだ。そっちで見つけてくれるようにということである。

 早めに出たのだが、バスが駅前を通過してしまった。降車ボタンを押さなかったのが悪いのだが、通過するとは意外だった。次の停留所で降り、歩いて戻りながら気が気ではないものの、もう足早になることもなかった。携帯電話どころか、時計も持っていないのだ。じたばたしても始まらない。
 駅前に着くと、待合せの相手は遠くから手を振っていた。あまり早くからそんなことをされても困る。横断歩道も渡らなければならない。ちょっと手を上げて、あとは信号が変るまで、知らん顔をしていた。
 「よく分ったね」と言うと、
 「すぐ分った。背中丸めているし、だらしない歩き方してるから」
 早く判別出来て、その人は嬉しそうだった。

役に立たない足

 毎朝乗る京葉線の各駅停車はほどほどの混み具合なのだが、途中で快速に待合せしたあとは座れることもある。対する快速のほうはぎゅう詰めである。たまにどんなものかとぎゅう詰めを味わってみることもあるが、夜勤を終えての帰りで急いでいるわけではなく、ほとんどの場合そのまま各駅停車に乗っていく。ごく当り前の選択だろう。
 その日はうまく目の前の人が降りていき、しかも端っこの座席。こんなことでも幸運な一日を予感させてくれる。まあぼくの場合、一日は終りに近づいているのだけれど。
 終点まであと少しというところで、荷物をいっぱい持ったおばさんが乗り込んできた。しばらくきょろきょろしていたが、すいてはいても座席は埋っている。あきらめたようで、彼女はぼくの前に立った。もちろん席を譲る気はなかった。
 彼女はまず両手に提げていた荷物を床に広げ始めた。風呂敷包み。鞄。紙袋と布の手提げは安定が悪そうだった。その中から、鞄をまず網棚に上げた。結構腕は太そうだった。
 次に風呂敷包みも網棚に上げようとしたのだが、そうすると紙袋と布の手提げがパタパタと倒れる。彼女は持ち上げた風呂敷包みを床に降ろし、倒れた荷物をまた立て始めた。手順のまずさが気になるのだが、まあ関係のないこと、と思っていた。
 紙袋に手を入れ、中のこまごましたものを均したのか、それはなんとか立った。問題は布の手提げである。厚みがなく、どうしても単独では無理だった。紙袋に持たせかけると、どちらも倒れた。紙袋をもう一度立てる、そして思案の末、彼女は布の手提げを、ぼくの右足に持たせかけたのだった。

 もう他人の手順を云々している場合ではない。こちらの応対が評価される番である。とりあえず我慢した。風呂敷包みを網棚に上げるまでのことだ。ところが彼女は風呂敷包みを上げてしまうと、つり革につかまり、しばし物思いにふけるようだった。
 全神経が、手提げと右足の接点に集中する。なんだか痒くなってくる。たまらず足をずらした。手提げはぱったりと床に伏せ、彼女は黙って取り上げた。ほどなくして八丁堀に到着である。
 ここで電車はがらがらになる。彼女は少し離れた座席を、紙袋と布の手提げを置いて確保した。そのあと二往復して、網棚の鞄を降ろし、風呂敷包みを降ろし、せっせと運んだ。ゆったりと四人分ほどの座席を確保出来て、彼女は満足そうだった。終点東京までの1、2分は、彼女にとってもぼくにとっても、平和な時間だった。

競りかける女

 定刻きっかりにタイムカードを押し、会社をあとにする。京葉線の駅への10分ほどの道程は、途中まで寂しく、地下道をくぐったあたりから賑やかになる。ぼくと同じように夜勤明けという人もいないとはかぎらないが、おそらくは団地から流れ出てきた出勤する人たちである。
 会釈すらしないもののもうほとんどが顔馴染みとなった中で、ひとりとくに印象的な女性がいた。彼女はぼくの姿を前方に見つけると、猛然と走ってくるのである。駆け寄って腕を絡ませ、「おはよう」‥‥というのではない。ぼくを追い越し、前に回りこむと、そこで走るのをやめるのだ。歩きにくそうな靴をはいていて、歩みはのろい。はっきりいって、邪魔。蹴飛ばしたい思いを抑えつつ、彼女をよけて追い越す。差が開き始める。するとまた彼女は走り出し、ぼくを追い越し、わざわざ前に回りこんでは、走るのをやめてしまう。
 一時期こういったことがつづいた。
 いったい彼女は心のうちで、この素敵なおじさんとどんな会話をしていたのだろう。
 (おはようございます。もうすこし胸を張っていたほうが、いいと思うけど)
 (いつも元気だね。こっちは夜勤明けだからな)
 あるいは――。
 (目障りなのよ。前を歩かないで)
 (もっとまともな靴をはいたらどうだ)

 まあ、電車に間に合うかどうかの目安にしていたのだろう。もしくはそれが嵩じて、どちらが先に改札を抜けるか、勝負を楽しんでいたのかもしれない。もしそうなら、ぼくはほとんど負けなかった。

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