もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

ぼうふらだった頃

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ぼうふら。ふうらいぼうの幼虫。
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相客(3)待合せ

 「ここ、よろしいですか」と、女の声はぼくの方に向いているようだった。
 「どーぞ」と、あまり愛想のよくない声を出して、顔を上げた。
 「あ、先週も同席しましたね」
 「うれしい。憶えていてくれたんですね」
 「今日も、待合せですか?」
 それに対して答えがなかったのは、従業員が食券を取りにきたせいかもしれない。
 生ビールの小、電気ブラン一杯、ラビオリ、以上が女の注文である。このあいだもそうだった。
 従業員が行ってしまっても、女は黙って、目をそらしていた。知らん顔をするのはぼくも得意である。
 飲み物が運ばれてきて、生ビールにちょっと口をつけてから、女は言った。
 「今日は、来ないかもしれない」
 べつに興味はないのだ。ぼくは小さく頷いた。
 「あの人、亭主なのよ」
 「そう言ってましたね。別れた亭主と日曜日にデートだって」
 「あら、そんなこと言ったの? 酔ってたのね。って、いつも来ると酔うんだけど」
 別れた亭主と日曜日にこうやってデートをするのもしゃれているでしょうと、女は言い、土曜の夜じゃないんですかとぼくが言うと、土曜の夜はお互い楽しみがあるから、と男は笑って言ったのだった。

 「まだ別れたわけじゃないの。というか別れるつもりはべつにないの、わたしは。ご飯作ったり、洗濯してアイロン掛けたり、もともと彼の世話をあんまりやるつもりはなかったのよね。彼もそれでいいって、文句を言わなかった。そうすると一緒にいるのはなんだろうと思って、ちょっとべつに暮してみようかってことになったの。わたしが言い出したのね。倦怠期だとか、そんなふうには思わなかったけど」

 「あら。グラタン、おいしそうね。わたしも頼もう」
 女は従業員を呼び、グラタンと電気ブランを三杯注文した。
 運ばれてきた電気ブランのうち二杯を、女はぼくの方に寄越した。予期していたことだったが、ぼくは怪訝な表情を作った。
 「あ、ごめんなさい。余計なことして。もうしないから」
 「いや。いただきます」
 「つまんない話聞かせちゃったから、お詫びのしるし。男の人は飲んでも、そういう話はしないのよね」
 「そうですか? 結構するんじゃないですか?」
 「そうなの? あなたも?」
 「しますよ。でも、女性に向ってはしないかな」
 「あら、どうして? おかしいわ。男の人って、そういうものなの?」
 「そんなことはないでしょう。ぼくはそうだと、言っただけ」
 女はしばらくして、「女ってつまんない」とぽつりと言った。何を指してそういったのか分らなかったが、ぼくは黙っていた。

 「一緒に暮している意味ってあるのかしら。わたしがそういうと、彼は、そっか? なんてとぼけた声を出していたけど、反対はしなかった。べつに部屋代節約のために一緒にいるんじゃないものね? そう言うと、ふーん、なんて間の抜けた声を出して‥‥」
 すこし酔いが回ってきたらしい。
 「あら、どうしたのかしら」
 声はしっかりしているのに、女はぼろぼろ涙をこぼしていた。

相客(2)診察券

 いつもはひとりで静かに飲むのだが、そのときは隣りのハゲオヤジと盛り上ってしまった。といっても、ほとんど聞き役だったけれど。向いの席はなんども入れ替りがあり、閉店間際に女の客が座った。
 浅草すしや通りの古くからあるその店は、客の顔ぶれも見た目ちょっと柄が悪く、当時女の客は珍しかった。女の客がひとりで入ってくるなど、それだけで奇異だった。
 隣りのハゲオヤジは得意になって、外国で買った女の話をしている。この手の話はいつもなら閉口するのだが、憎めないオヤジだったからいやではなかった。
 「まったく、日本の恥さらしだな」
 適当な合いの手を入れると、「そんなことはない」とオヤジは胸を張った。
 「おれのものは、でかくて立派なんだ」
 そしてガハハハと笑った。
 「どれ」オヤジの股間に手を伸ばすと、笑い声はいっそう大きく店内に響いた。向いの女客の眉を顰めるのが目に入った。
 「しょんべんしてくらあ」
 オヤジが席を立つと、マグロのぬたをつつき日本酒を飲んでいた女客が、すかさず話しかけてきた。
 「あの方、下品な方ですね」
 ぽかんと見とれてしまった。すこし酔いがさめたようだ。女は痩せていて顔の造作も小さく、そのせいかちらと見たときには気付かなかったが、あらためて見れば結構年を食っているようだった。
 「あんな下品なおじさんと話すより、女の人と喋ったほうが楽しいでしょう?」
 ぼくはわざとらしくため息をついて、「そうでもないけど」と言ったが、女客はめげなかった。
 「怪しいものじゃありません」
 「怪しくったって、かまわないよ」
 「わたくし、こういう者です」
 女客が細い指先で押して寄越したのは、名刺ではなく診察券だった。
 「ま、おかまいなく」
 診察券を押し返しながら、何科にかかっているのかと好奇心がうごめきだしたが、あえて見ないようにした。
 下品なハゲオヤジは小便しながらもずっと笑っていたのか、笑いながら戻ってきた。女客は顔を背けた。
 「もう帰るわ。それか、一軒付合うか?」とオヤジは言った。
 「今日はもう飲みたくない」
 「そっか」
 勘定を済ませ、ぼくの首に腕を回して頬に分厚い唇を押し付けてから、オヤジは賑やかに出ていった。とたんに寂しくなった。飲みたくなくてもそこまで一緒に帰ればよかった。すぐにおあいそを告げたが、追いつくことはないだろう。
 「20円、細かいの、ない?」と店のおばちゃんが言った。
 「ないんだよ」
 すると女客がまた口を出してきた。
 「わたくし、持ってます」
 ぼくが言う前に、店のおばちゃんが言った。
 「あんた、関係ないでしょ」
 同性にぴしゃっとやられて、さすがにしゅんとなったようである。立ち上って女客に軽く会釈をすると、彼女は「ごめんなさい」と小さくつぶやいた。

相客(1)二杯目

 なぜか平日の早い時間。会社をさぼったのかもしれない。そのせいか神谷バーは空いていた。浅草自体が冷え込んでいて、日本人によく似た外国人もあまり歩いていなかった頃である。
 窓際の席に着くと、従業員が食券を取りにくる。まず運ばれてくるのは飲み物。生ビールの大と、電気ブランが二杯、うち一杯はロックで。ロックの一杯はすぐになくなる。生ビールもたちまち半分ほどになる。ここまでは早いが、それからは時計の針の方が早い。
 フライドチキンが出てきた頃に、やっと向いの席が埋った。恰幅のいい年配の男が軽く会釈し、ぼくも返した。やがてグラタンが運ばれてくる。とりあえず最初に頼んだものは揃った。向いの客の前にあるのは、小さなグラスの電気ブランが一杯と、氷の入った水だけだった。
 「これをね、二杯飲みたかったな」と男がつぶやいた。
 目が合うと男は照れたように笑った。

 「昔ね、兄さんぐらいの頃だな、たまに来て、一杯だけ飲んだ」
 「はあ」
 「とくに貧乏していたわけじゃないのだけど、弟や妹がいっぱいいて、ちょっとでも多く仕送りしてやりたかったから。そんな殊勝なことを言うぐらいなら飲まなきゃいいんだけどね」
 「はあ」
 「一杯だけ。そう思って、来た。もう一杯飲みたい、そう思いながらいつも一杯で帰った。結局二杯飲んだことはなかったな」
 「そうですか」
 「でも、その一杯がおいしかった」
 「今もこの近くにお住いですか?」
 「いや。田舎で小さなおもちゃ工場をやっていてね。これから東武線で帰るとこなんだけど、懐かしくて、ちょっと入ってみた」
 「そうですか」
 「この近くで住込みで働いていた。うん、辛いことはなかったな」
 よかったらフライドチキンつまみませんか。その台詞をなんども頭の中で練習したが、ついに言えなかった。

 「邪魔して、悪かったですね」
 男は椅子を引いて立ち上ると、頭を下げた。
 「いいえ」
 ぼくも立ってお辞儀をした。
 男が出て行ったあと、ぼくは従業員を呼び止めて、追加の注文をした。電気ブランを二杯、それと煮込み。

 窓の外のモノクロの風景の中に、外套にソフト帽の人の姿があった。さっきの人はあんなかんじだったろうかと思っても、服装すらよく思い出せなかった。路面電車のあとを追うように、荷馬車が橋を渡っていく。

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