リリカ・ヴィーヴァ 〜福音歌手のオペラな日常〜

歌い手・当重茜として、また、ラジオ体操指導士・室仁あかねとしての、日々の思いなど、つれづれなるまま綴っております。

「お証し」

2018年5月25日(金)シェラトン都ホテル朝祷会


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会衆賛美・・・「希望」93番  主の愛のながうちに

聖書「コリント人への第二の手紙」4章13節 朗読


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特別賛美 「私は信じた。それゆえ語った」





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立証タイトル『私は信じた。それゆえに語った』
(コリント信徒への第2の手紙第413節)


 
主の御名を賛美します。ハレルヤ!
本日、私がこの世に生まれてから562ヶ月2日を迎えました。そしてこの朝も命与えられ、無事が守られ、こうしてこの場に導かれていることを心から感謝しております。
さて、私は、新潟県十日町市大字中条という雪深い山間地に生まれ、不思議な導きで今こうして大阪に暮らし19年1ケ月と3週間ほどたちました。生まれ育った家族の中では、私は自称『一代目クリスチャン』です。
私の父がこの世を去ったのは私が大阪に移る前のこと、今から20年前の19981218日でした。79歳でした。私はそのちょうど4か月後1999418日に大阪市平野区の単立ジェネシスインターナショナルチャーチで洗礼を授かりクリスチャンとしての生活が始まりました。
しかし、教会に通い、聖書を学ぶほど、私が受洗する前にこの世を去っていた父が一体どこに行ってしまったのか、大いに悩むことになります。
父は少し照れ屋で、雰囲気的には近寄りがたい側面もありましたが、私はとても父を尊敬しており、とにかく父のことが大好きでした。
父は死んでいったいどこへ行ってしまったのだろうと私が考えていたそんな当時、ノンクリスチャンだった姉から母へ、さらに母から私へと、ある事が知らされました。
父の書いた「私の学校」という題名の作文が姉の家から出てきたというのです。
父が亡くなった後、母は、父の生前書いた文献や研究レポートなどを資料として集めた「不利な条件を有利な条件に」というタイトルの文集を作成しました。しかし、姉はその文集に父の書いた「私の学校」が間に合わなかったことを非常に残念に思ったのでした。『私の学校』…これは、姉が大学の教育学部在学中、「理想の教師像」をテーマとした宿題提出の際、教育者の先輩である父に依頼した参考資料です。
その文中、私の心をとらえたのは、父が小学校3年生から6年生までの4年間、担任としてかかわってくださった若い先生の話です。その部分を紹介いたします。


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「3年生になると担任が変わった。師範学校の新卒で坊主頭、まだ少年のような先生であった。この先生には卒業まで受け持たれた。先生はクリスチャンであった。大変温和な先生で子供を叱る時も大声を出したり体罰を加えたりすることは決してしなかった。そこで腕白どもがいい気になって悪い子になると、先生は教壇から涙を見せて諭されるのであるが、これには腕白どももシーンとなってしまうのであった。先生は学校近くのお寺に下宿していて、よく子供たちを下宿に呼んでくれた。自分の反省を表記した日記を見せて、皆にも日記を書くことを勧めたり、『右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい』など色々聖書の話も聞かされた。
私達同級生は毎年同窓会を開き顔を合わせる。集ってみると何だか似たような根性である。小学校時代は先生の影響が大きいと言われるが、私達同級生のそれぞれ違う中にもどこか似通った点は4年間担任された男先生の感化によるのであろうか」
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そのように書かれていました。
母からさらに聞かされたことですが、その若い男先生、星名章先生は昭和32年、十日町市立飛渡(とびたり)第二小学校に校長として赴任されました。私の両親はその2年前の昭和30年、飛渡第二小学校枯木又分校に教諭として着任しておりました。
なんという奇跡でしょうか。校長先生にとって、初めて受け持って初めて卒業させた児童が後に結婚し、夫婦共々、赴任先の小学校の分校で働いていたのです。きっと、嬉しい想定外の感動的な再会であったに違いありません。
母から見た星名章先生は「本当に穏やかで物静かな先生、丁寧で腰が低かった」との印象だったそうです。
私はそれを聞き、父も幼いころ、キリストの福音を聴いていたのだなあ…そして、クリスチャンの私には容易に想像できることですが、私の両親は、信仰の先人である星名章先生から日々祈られていたに違いありません。私の心は慰められ、感動し、主をほめ讃えました。
さらにこの嬉しい知らせをきっかけにもうひとつ、私の幼いころの記憶がよみがえりました。
大学卒業後、南満州鉄道(通称満鉄)に就職した父でしたが、その中央試験所勤務時代の事、尊敬する方に誘われて何度かキリスト教会の礼拝に集ったことがあると懐かしげによく話していたことがありました。
戦前の尋常小学校という厳しい環境の中で教育者としての規制に苦悩しながらも勇気をもって子供たちに御言葉をお語りくださった先生、満州の地で弾圧もあったかもしれないそのような環境の中、教会へと導いてくださった方…まさに「大いに悩んだ」中においても、信仰の先人たちは信じているゆえに語ってくださったのだと、ただただ感謝し、主の御名をハレルヤ!と賛美するばかりです。
 
私たちには、コリントの教会に手紙を書かれたパウロと、さかのぼって詩篇の時代、さらにアブラハムの時代、さらには創世記の初期の時代と同じ信仰の霊が宿っています。はるかな時代を超え、遠い国を超え、すなわち、イエス・キリストの新しい契約の時代の日本の国に生かされている私たちに信仰の先人たちからキリストの福音が述べ伝えられ、継承され、今があることに、改めて大きな感動を覚えるものです。
 
同時に、私たちがキリストの霊を宿すということは、私たち自身が光る宝石なのではなく、まさに土の器であるわけです。透き通った材質ではなく土なので、内なるキリストの輝きは完全にシャットアウトされてしまい、外にはなかなか見えません。
でも、主にあって試練を経験して、砕かれ、ひびだらけになることにより、ひびの隙間からキリストの光を外に映し出すことができるようになり、世の光として、キリストの香りを放つ者と変えられるのではないでしょうか。
昨日は南港での「癒しと賛美」の集会で石井智子姉がピアノでご奉仕をされました。彼女は砕かれた土の器として麗しい輝きを放っておられました。ちいさなお子さんから高齢者まで、彼女のピアノの生徒さんたちに非常に慕われ非常に良い関係を見ることができました。素晴らしいことでした。
幸せそうな石井さんもたくさんの試練を体験されましたが、その一部を昨日お聞きすることができました。
ヤコブの手紙には『私の兄弟たち、様々な試練にあうときは、それをこの上ない喜びと思いなさい』と記されていますが、主による訓練一つ一つ、少しずつでも一歩一歩主に近づけてくださっていることと信じ、試練をも喜んで歩んでいきたいものです。
 
私は主を賛美する者として、最上のものをお奉げしたい!と願うものですが、主の訓練を経験して土の器が砕かれると同時に、キリストの光がクリアーに隙間から現れるように常に技術を磨いておくことも大切だと思います。光るものは磨かなかったら曇ってしまうし、触りすぎても手垢や指紋が付いて濁ってしまいます。
自分流に研鑽して自己流に陥らないように、聖霊に明け渡して最高の賛美をお献げしたい・・・このように切に願っています。
 
冒頭に56年2ヶ月2日ということを申し上げました。
今日皆さんにご紹介しました私の父のこの世の生存期間は79年2ヶ月14日でした。父の13年後に亡くなった母は89年8ヶ月10日でした。3年前に亡くなった姉は57年7ヶ月12日でした。さて、私は何十何年何ヶ月と何日生かされるのでしょうか?
それは、すでに神様は決めておられます。その神様に決められた期間、私たちの信仰の先人らが「私は信じた、それゆえに語った」と継承してこられたことをわたしも継承して「信じ、それゆえに語る」私と成らしめていただきたい!そのように心から願うものです。
 
お祈り







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