流れのほとり

流れのほとりをトボトボと、写真と酒とタバコとコーヒーを頼りに、その備忘録。

ブレて行こう。 ケータイ投稿記事

表題の通り、僕はブレまくる。
前言撤回なんて朝飯前だし、
昨日とは真逆のことを言うのは、おちゃのこさいさい。
どんな政治家よりもブレることに関しては負けないと自負している。

と、自信満々に宣言しても、明日の僕は何を言い出すか、今の僕にはわからない。

「人生は希望に満ちている!」と言ったかと思った次の瞬間に、
「希望などは、とっとと捨てちゃいな!」と言うこともある。

「諦めるな!」と言ったかと思ったら、
「諦めたほうがいいよ。」と言ったりもする。

「よーし、やるぞー!」と意気込んだ瞬間に、ベットに横たわって、詩集なんぞを読んでいたりもする。

「私は絶対にこう思うし、そうするべきです!」と目くじらを立てている人を見ると、かわいそうになってくる。

「もうちょっと、ブレて行こうぜ。」

ブレない人というのは(そんな人がいるとは思えないけど)、昨日の自分の続きが、今日の自分だと信じ込んでいるのだろう。
明日の自分は、今日の自分と同じだと信じている。
だからちょっと、痛々しい。

少し考えてみる。

ブレない人は、毎日同じことを言う(ようにしている)。
「昨日、私が申しました通り・・・。」
おそらく、明日になっても同じことを言う。
これを時間を逆に考えると、こうなる。
「明日も私はこう言うでしょう。だからこそ今の私はそれを言うのです。そしてそのために昨日の私はそう申し上げました。」
こんな馬鹿な話はない。
一体誰が、明日の自分が話すことに責任を取れるのだろう?
そんなはずがない。
だからこそ、昨日の自分がいったことに従って、今の話をすることなんてない。
今は今である。
明日は明日。昨日は昨日。
ブレていて、構わないと思う。

幸福 ケータイ投稿記事

幸福を追いかけている間は、
おまえは幸福であり得るだけに成熟していない、
たとえ最愛のものがすべておまえのものになったとしても。

失ったものを惜しんで嘆き、
色々の目あてを持ち、あくせくとしている間は、
おまえはまだ平和が何であるかを知らない。

すべての願を諦め、
目あても欲望ももはや知らず、
幸福、幸福と言いたてなくなった時、

その時はじめて、でき事の流れがもはや
おまえの心に迫らなくなり、おまえの魂は落ちつく。

(ヘルマン・ヘッセ 『孤独者の音楽』とその前後)


これが平安というものの在り方だろう。

今年の目標。 ケータイ投稿記事

ども、大江弘信です。
お久しぶりでございます。

「ずいぶん、ほったらかしましたね。」

「はい。ご指摘の通りで。」

「何かあったんですか?」

「・・・あったような・・・なかったような・・・。」

「もう、誰も見てくれないですよ!」

「えぇ。そうですね。だらし無い男でございます。」

そんなわけで、久しぶりに書きます。

まず始めに、今日の一節。

『人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめる、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと−−−社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。
 本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
 言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
 言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。
 自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、すくなくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋め合わせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

スーザン・ソンダク』
(13日間で「名文」を書けるようになる方法 高橋源一郎)

一節じゃ、済まなかったですね。けっこう長かった。親指が何度かつりそうになって(携帯からなので・・・)、何本かタバコを吸ったくらい、長いね。

でも、凄い。これ。
引用する高橋さんも、書いたソンダクさんも、凄すぎる。
お二人は物書きなのに、なぜ、写真のことをこんなに知っているのだろう?

凄いね。凄いと思いません?

「いやいや、これは写真のことではなくて、文章の書き方の本だろう。」ですって?

何をおっしゃいますか、これは間違いなく写真をやる(やろうとする)人間に贈られた文章です。
僕はそう思います。
なんと言われようと!

僕もこれに習い、旅に出ます。
とりあえず、近所の喫茶店まで。
トボトボと、です。

そうそう、僕は昨日、深夜のDenny'sで、この本を読んでました。
そしたら、隣の席にカメラマンと思しき方が、話をしていました。(けっこう大声で)

「写真でなんて、食っていけねぇよ。これからはグラフィックとかにとって代わられるし、そしたら写真の仕事自体がなくなっちまう。
商業としての写真は終わりだな。芸術としては残るかもしれないけど、それで食えるのは一部の人間だけだ。」

実は、この手の話を耳にするようになって久しいです。
なので、僕は「そうかぁ、そうなのか!」と思うことにしています。
そして、写真のことについて思いを馳せるのです。

今の僕の考え(よく変わるので、あくまで今のです)を、ここに記しておきたいと思います。

光があれば、写真は(どのような形であれ)残るでしょう。それで充分です。
いや、光がなくとも写真は存在するのです。
僕の先生はポラロイドフィルムを擦って、NeverLightという作品を作りましたし、風の旅人に掲載された杉本さんの写真は、フィルムに電流を直接流したものだとか。
それらの作品が写真が存在し続ける可能性を証明しています。
光ではなく、人間が「見る」ことを放棄するか、「見る」ことを忘れるかしない限り、写真はあり続けることでしょう。

ただ、ここに一つ危惧されることがあります。
僕たちが「見る」ことを出来なくなっているという、事実です。

たとえば、ソンダクさんが言った「戦争」ということ。
たとえば、最近当たり前に使われる「テロ」ということ。
たとえば、隣のカメラマンが言う「商業」ということ、または「芸術」ということ。

どうして僕たちは、こんなにも「当たり前のサングラスごし」でしか世界を「見る」ことができないのでしょう。

もし、写真がなくなるとするなら、写真機(カメラ)が生産されないとか、グラフィックになるとか、3Dになるとか、そんなことではなく、
「僕たちが写真を見ることが出来なくなる」という風にして写真はなくなるのだと思います。

そんなわけで、前述の引用は充分に写真論であり、プロのカメラマンは「見る」ことのプロフェッショナルでなければならないと、改めて強く思うのです。

今年の目標は「とらわれない」と、「再び街へ」です。

チューニング ケータイ投稿記事

今日はなぜだか、いろいろと考えた。
しかも、どれもがとりとめのないものばかり。
自然、話は長くなる。
(途中で飽きなきゃね。)

事の始まりは、モノマネである。

僕はモノマネをすることがひそやかな楽しみで、
「おっ、イケそうだなっ」となると、練習をする。
シャワーを浴びてる時は、だいたい歌っているのだが、
レパートリーは限られているので、
モノマネをして歌うこともある。

今朝は矢野顕子で、THE BEATLESのStrawberry Field。

モノマネをするには、まず元になる声を聞く(入力)、
そしてその声を発する(出力)。
実は、それだけだと、モノマネはできない。

モノマネの肝心要なところは、出力した声を再び入力し、
最初に入力された声と整合させることをしなければならない。
つまり、このチューニングが大切になる。

「入力と出力と再入力と再出力と再々入力と…と繰り返される間に延々と続けられる、
このチューニングというのを、どう考えるべきか?」

これが、朝のシャワーのさいちゅうに頭をゴシゴシしながら、
その頭の中に浮かんだ疑問である。

くだらないと思われても、浮かんだものは仕方がない。

腹の出かたがヤバイなぁ〜とか、
抜け毛が酷いなぁ〜とか、
シャワー室の中で他に考えなければならないことは、山ほどあるのは、
百も承知!なのだが、仕方ない。

さて、それと共に浮かんだ仮説は、
「モノマネのオリジナリティは、ネタにあるのではなく、
このチューニングにある。」
である。

矢野顕子に矢野顕子の声の出し方を聞くことは出来ない。

そう、誰も声の出し方を、他人に教えることは出来ない。
それはチューニングとは、身体技法だからだと思う。
「身体は個性である。個性は脳(意識)にあるのではなく、身体にあるのである。」という、
養老先生の言葉を借りれば、
モノマネのオリジナリティはチューニングにあると言える。

そしてこの導きは、もう一つの疑問に光を照らす。

「僕はどのように、僕の声を獲得したか?」

これはモノマネの効用もあるのだろう。
僕は親の話し方や、テンポを(無意識にも)マネていたのである。

僕らは赤ん坊のころから、モノマネし続けている。
身体技法はモノマネを通してでしか、獲得できない。
剣道にしろ、スキーにしろ、舞踊にしろ、身体技法を必要とするものは、
師匠のモノマネから入るものである。

そして、モノマネにオリジナリティ(個性)があるとしたら、
その身体技法にしかない。

オリジナルの基盤に、モノマネがある。

ミラーニューロンというものがあるらしい。

「ミラーニューロンは霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。」(Wikipedia)

これは僕らの脳が多分に外部の影響を受けていることを示唆している。
もし、このような活動電位があるなら、
僕の声が父親に似ているのも、僕が言語を持つにいたったのも、
モノマネの効用ではないだろうか。
そして、それを出力するための身体技法にこそ、僕のオリジナリティがあるのではないだろうか?

モノマネは進んでするべきだ。

朝、最初の取材地、豪徳寺までに、
そんなことを考えていた。

そして、豪徳寺駅から豪徳寺までの途中にあるセブンイレブンの前で、
僕は新たな発見をする。

「コピペ脳には、このチューニングを省略してる節がある。」

コピペ脳とは、最近のマイブームで、
「あー、こいつの脳は、コピペだ。」という風に使う。

コピペというのは、コピー&ペーストの略で、
パソコンの機能の一つだ。
これは本当に便利な機能で、コピペをすれば、わざわざ打ち直さなくていい。

ある文章をA地点からB地点にコピペする時、省略されたのは、チューニングである。

ここで言うチューニングとは、自分の書きたい(出力)と、目の前にある文章(入力)との、
整合性を計る行為となる。

脳は便利な機能に弱い。
意識は「同じ」というものに惹かれるものだ。

なので、コピペ脳とは、
「自分で考えるという身体技法を省略した、考えることが出来ない奴」の代名詞として、
僕は使う。

モノマネ脳と、コピペ脳の違いは、
まさにここにある。

コピペ脳には身体技法がない。
ここでいう身体技法とは「考える」ということだ。

「考える」ことはチューニングと同じで、「僕はなぜ、このように考えるのか、誰にも教えられない。」のである。

そんなわけで、僕が本を読むのは、「著者が考えていること」が知りたいためではなくて、
「著者の考え方をモノマネする。」ためである。

たとえば、「動的平衡」という見方で、養老先生や福岡伸一さんが生命の話をしている本を読むとする。
そして僕は同じようにして、「動的平衡」という見方で写真のことを考える。

考え方をチューニングしていく。
このチューニングする作業が楽しいのである。


真冬の深夜、ノイズの中を指先に神経を集中させて、声を探す。
聞こえるはずのない東京のラジオ番組が聞きたくて。
時たま出会うロシア語の放送に未練を残しながら、
僕はまたノイズの中に戻っていく。

そして、かつての僕と同じように、
思考の森の中で、本を手掛かりに、聞こえるはずのない声を、聞こうとしている。

そのためには絶えず、チューニングし続けなければならないだろう。

言葉も数字も。 ケータイ投稿記事

東横線の日吉駅前にあるマクドナルドで昼食。

この駅の近くには大学があるらしく、店内は大学生で溢れていた。
いや、大学生で溢れていたわけでなく、
大学生が発する声(または会話らしきもの)で溢れていた。

大学生というものは、よく話すものである。
僕は大学に行かなかったから解らないが、僕には彼らは話すために大学に通っているように見える。
現に彼らがマクドナルドにいるのは、話すためである。
食事のためではない。

その点、今目の前にいるファミレスのおばさま達と変わらない。
全ては高校生のトイレの中の会話の延長である。

その隣にはスーツを着た若いサラリーマンが4人座って、任天堂のゲームをしている。
任天堂のゲームといっても、花札ではない。
流行りのニンテンドーDSだ。

これを見ていると、おばさま達や大学生のほうが健全だと思う。
ネット社会だと言われるが、この手の会話があるがぎり、コミュニケーションは今後も健全に機能するだろう。

僕はと言えば、日吉のマクドナルドの喧騒に堪えられず、逃げるように次の取材地まで着て、
駅前のファミレスでコーヒーを飲みながら、
もくもくとこれを書いている。
きっと、おばさまの中にも、「あ〜、あの人よく話すは。疲れた。」と、
帰宅して一人呟く人がいるだろうと、考えている。

明らかに、僕のほうが不健全である。
これは確かなことだ。

あちらが健全で、
僕は不健全である。

皆がせっせと会話をするために、大学に行ったり、職場に行ったりしていた頃、
僕は一人、図書館に行ったり、大通公園のベンチに座ったり、支笏湖のほとりに佇んだりして、
今と同じように、あーでもない、こーでもないとやっていた。
僕のほうが不健全なのは、明らかである。

僕の周りには、ペチャクチャおしゃべりをする人が少ない。
類は友をよぶのか、親しい人達は皆、「あ〜、疲れた。あの人よくしゃべるは〜。」と思う人達ばかりだ。(勝手にそう思っているだけだが…。)

類は友を…と言ったが、
そうであれば、彼らもまた、不健全である。(失礼!)

不健全であるが、まぁこれは仕方がない。
今さら、どうしようもない。
あのコミュニケーション能力は不健全さとは、相容れないのである。

大学生の会話は、パチンコ、恋愛、就職がモチーフである。
おばさまの会話は、子育て、子供の学校、共通の知人がモチーフになる。
なるほど、みなさん大変ね。

大学生は文学部の学生らしく、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の話をしていた。
話と言っても、知っているか、いないか、だったけど。
ヘルマン・ヘッセを知らなくても、文学部の学生になれるのである。
それは驚くに値しない。
「俺なんか、高校3年間、一冊も本なんか読んでないぜ!」と自慢げに話す学生もいたが、
それも驚くに値しない。

本なんか読まなくても、大学入試の問題は解けるのだから。
大学が、それでも構わないと思って、現行の入試システムを採用しているのだから、
その学生を責めることはできない。
同じ理由で、学生の質の低下を歎く大学教員に同情することもできない。

そもそも、まともな文学少年なら文学部なんぞに入らない。
文学好きは街場の工場とか、街路に憧れるものだ。
文学好きなら、医学部や理工学部がいいに決まってる。
どう考えたって、医者や技術者のほうが文学を理解していると思う。
特に身体性の文学は、理系のほうに分がある。

と言うのも、文系は概念を相手にし、理系は感覚を相手にするからだ。

一般的には逆に思われているが、僕はおそらくそれが本当だろうと思う。

数学的帰納法とか、熱力学第二法則とかは、感覚世界をきちんと証明してるし、
これ抜きに文学は成り立たない。

むしろ、この時の著者の心境は…などと言うのは、感覚世界よりも概念世界の話だと思う。

そして、肝心要の言葉自体が感覚世界と、概念世界の中間に位置するのであれば、
文学を志す人間は、自ずと感覚世界に立脚しようとするはずだ。

なにはともあれ、まず始めに理系があり、数学が苦手だからという理由で文系になるという、
今の構造ではなかなかこれは理解されないと思う。
文系は文学好きなのではなく、その正体は数学嫌いなだけである。

大学に行ってないから、本当のところは解らない。
でも、はたから見れば、そう思う。

ちなみに僕は、言葉も数字も同じにしか見えない。

僕はこのブログで、私のことを僕と呼ぶ。
それには理由が少しはあるのだが、ここでは教えない。

普段、友達と話す時は「俺」、目上の人と話す時は「私」を使う。
(僕を「僕」と呼ぶ理由がバレてしまった!?)

漫画ドラゴンボールの孫悟空は、自分のことを「オラ」と言う。
友達に対しても、亀仙人(師匠)にも、神様にだって「オラ」を使う。
だから、なんか不思議ちゃんキャラに見えるのだけど、これは現実にもある。

英語で、私は「I」しかない。
英語を使う人達は、友達にしろ、神様にしろ、相手が誰であれ、私は「I」である。

だとしたら、孫悟空は不思議ちゃんでもなく、
実は、外国人なのである。
(サイヤ人なんだけどね。)

漫画のキャラは、自分を呼ぶ時、だいたい同じ単語を使う。
ドラえもんもアトムも「ボク」だし、しんちゃんは「オラ」だし、まるちゃんは「あたし」だし、ハットリくんは「セッシャ」だし。
それはなぜなんだろう?

おそらく僕が思うに、キャラ=キャラクター=個性を表現するのに、自分の呼称を変えてはいけないのだ。
それはなぜか?

逆説的に問えば、僕ら(日本人)は、なぜ幾通りの自分を呼ぶ呼称を持ち得るのか?
その答が出てくる気がする。

それに対する僕の答、仮説。

「日本人(日本語)では、他者がいなければ、自己が成り立たない。」である。

「I」は「I」である。
言い回しとして、丁寧な言い回しがあるにしろ、
「I」は「I」にしかならない。
それは「I」の中に「ワタシ」とか、「僕」とか、「オイラ」とか、
「ワシ」とか、「ワレ」とかがあるのではなくて、
「I」は「I」でしかない。

ダイハードのマクレーン刑事が「ボク」と言ってはいけないのである。
もちろん、マクレーン刑事は「オレ」とも言ってない。
彼は「I」と言ったのである。

僕らは、自分の呼称をコロコロと状況に応じて変える。
それは自己を規定するのに、他者を想定しているからだ。
だから僕は僕を「僕」と、「私」と、「俺」と、「オイラ」と、「ワシ」と呼ぶ。
そして実は、自分の呼び名など、どうでもいいと思っている。

でも、もし本当にどうでもいいなら、
僕はどうして自分の呼称を決めることができるだろう?
どうでもよくないのだ。

初見のクライアントに「俺」を使うことは許されない。
旧知の友達に「我輩」を使うことも同じ。

これは、僕が決めることではないのだ。
周りの状況、他者が自分の呼称を決めるのだ。

そこには絶対的な自己はない。
自分の呼称さえ、自分で決めることができない僕ら(日本人)なのだ。

僕らには「I」に変わる言葉がない。
それは、僕らが自分を規定するのに、絶えず他者を必要とするからだと思う。

そんなわけで、ここで「僕」という理由。

異常事態。 ケータイ投稿記事

身体の調子が悪い。
全ては、ラーメン取材のおかげのような気がする。
絶えず体が怠い。
頭も冴えない。
なんとかならないものか。

ラーメンを食べる人も、作る人も、紹介する人も、
もう少し、僕のことを考えてくれても良いはずだ。
当たり前だけど、誰も僕のことを考えちゃくれない。

ラーメンを短期間に大量に食べると、ある特有な顔つきになる。
水っぽく顔が膨れてくるのだ。
特に頬から首にかけて、脂肪がつく。
ラーメン屋の店主やラーメンライターには、顕著にこの症状が見られる。
何でもホドホドにしたほうが良い。
そんなわけで、今日からラーメンを食べないことにする。
取材で出されたものは、断りにくいが、自己防衛のためである。
(そんなことを言いながら、今朝も一杯食べてしまった…。)

このまま年末年始を迎えるのは、自滅行為になるので、
心を鬼にして、ラーメンを断たねばならない。
30を過ぎてからの脂肪ほど、厄介なものはないのだ。

この苦しみは、経験したものにしか解らない。
先週だけで僕は40杯近くラーメンを食べている。
これは異常である。

モチベーション ケータイ投稿記事

バカにすんなっ!

そう思ってしまう。

僕はニンジン作戦が大嫌いなのだ!
昔っから。

何か良いことをすると、ご褒美がもらえる。
何かお手伝いすると、おだちんがもらえる。

そうした関係性の中で育つと、ついには費用対効果で思考する人間になる。

彼らは、費用対効果を最大化することが、人生を豊かにすると信じて疑わない。
彼らは、他人も当然、そのように生きていると信じて疑わない。

だから、馬車乗りはニンジンをぶら下げるし、
馬車馬はニンジンを欲する。

バカにすんなっ!

心底、そう思う。

本来、良い行いをすることと、お小遣には何も関係がない。
同じように、労働と報酬も、実は何も関係がない。

僕は労働に対する価値を欲してるわけじゃない。
僕は労働それ自体の価値を欲しているのだ。
労働それ自体の価値を高めたい。
そう思っている。

それだけが、僕のモチベーションになる。
ニンジンが欲しいわけじゃない。

武士は喰わねど、高楊枝。
つまるところ、それしかない。

雨降りの日暮里にて。 ケータイ投稿記事

冷たい雨が降っている。
日暮里のドトールで次の取材まで、しばし休憩。

今年もまた、この国の自殺者が3万人を超えた。
11年連続らしい。
毎年、この時期に発表される報道に、僕はドギマギしてしまう。
多いとか、少ないとか、
相対的なことはともかく、
毎日およそ82人の人達が、自らの命を絶つ事実に困惑してしまうのだ。
いや、自殺ということに対して、困惑しているのかも知れない。
捉えどころがない、考えることができない。
この事実の前に、僕はいつも思考停止に陥ってしまう。

この世界を生き延びるのは、本当に難しい。

ちょいとコマル。 ケータイ投稿記事

ラーメン屋取材。
この季節、ラーメン取材が多い。

僕はラーメンが好きではない。
だから、ちょいとコマル。

幼少のころは、ラーメンが好きだった(と思う)。
食べていたのは醤油ラーメンだった。
札幌生まれだから、味噌ラーメンだと思いきや、
味噌ラーメンには唐辛子が入っていて、少し辛いので、
子供には不向きだったのだ。
札幌の味噌ラーメンは大人の食べ物だった。

父は味噌ラーメン大盛り。
母は醤油ラーメン。
僕は母から小さなドンブリに取り分けてもらう。
チャーシューはもちろん、僕のものだ。
メンマはいらない。

たぶん(いつからかは解らないが)、小学生高学年くらいになると、
味噌ラーメンを食べられるようになる。
それからは、ラーメンと言えば、
味噌ラーメン。

札幌だったからだろうか。
他に選択肢はなかった。
豚骨なんてなかったし、
家系なんて知らなかったし(今でもよく解らない)、
つけめんなんて、言葉すらなかった(めんつゆはあったけど)。

東京の現在のラーメンは多様化が進んでいる。
それはそれは、凄い数のラーメン屋が、しのぎを削っている。
僕はメディアの人間ながら、ただただその多種多様さに、呆然とするしかない。
その中から、自分の好きなラーメンを選択するのは、
僕には不可能のように思われる。

ラーメンに限ったことではない。
時代は、何でも多様化していく。
ファッションも、音楽も、趣味も、僕らを取り巻く環境なにもかも、
選択肢は多様化するばかりだ。
僕らはその中から自分好みを選択することで、自分らしさを、自由に内外に示すことができる。
多様化の恩恵。

でも、選択するには自分好みをしらなければならない。
だからこそ、こぞって自分探しの旅に出る。
そして、誰もが迷子になる。
ウツになったり、負け犬になったり、勝ち組になったりしてしまう。

選択肢の多様化は、本当に人生を豊かにするのだろうか?

僕は味噌ラーメンだけでいいと思う。
味噌ラーメンが好きがどうかは問題ではない。
味噌ラーメン以外に、当時の僕には選択肢はなかったし、
他の選択肢を知る必要もなかったからだ。
僕は味噌ラーメンで充分に満足していた。

僕らはいろんな局面で、絶えず選択することを迫られてきた。
進学や就職、ファッションや趣味、恋愛や結婚にいたるまで、
自分にあったものを見つけだし、選択をしなければならなかった。
適職。あなたにぴったり!
そう、運命の人がいるはず!!
エトセトラ。

そう迫られるたびに、僕らはこう問わねばならない。
「僕は何がしたいんだろう?」
「本当の僕は何を望んでいるのだろう?」

あっちゅう間に、迷子。
館内放送で呼び出しても、
来てくれるのは怪しい方たちばかり。


こんなことを言うと、
「それじぁ、貴様は配給制のほうがいいのか!」、
「お前は、その多様化の恩恵を授かりながら、何を寝言言ってやがる!」とか、
怒られちゃうんだけど。

ヤレヤレ。
バカはコマル。

時代は選択肢を多様化していく。
それは現在の時勢だから、善いも悪いもなく、賛成だの反対だの知ったことじゃなく。
そうなっていく。
誰も止められない。

なので、配給なんて言っても意味がない。
そして、僕はその恩恵を受けている。
もろに。

だからこそ、僕は多様化するものについて考えなければならない。
この時代に生きてんだから。

僕はその恩恵を受けていながら、
もう一度、
問わねばならない。

多様化した選択肢を前に、
選択を留保するという選択肢はないのか?と。

極論を言えば、
死ぬその直前に、自分の人生を振り返り、
「あぁ、僕は何も選択出来なかったなぁ。」と、
それはアリか、ナシか。

おそらく、選択を絶えず迫られてきた僕らは、
そんな人生を認めるわけにはいかない。
いや、認めることが出来ない。
そんなの想像も出来ないんじゃないだろうか?
ここに、僕らの壁がある。

選択を留保するという選択肢もアリだ。
そんな軸をいつも持っていることが、その壁を越えるには必要ではないだろうか?
多様化した選択肢の前で、生き延びるには必要なベクトルではないだろうか?

たくさん選択肢があるのに、
なんだか窮屈に感じてしまうのは、
絶えず選択し続けなければならないという、
そんな観念にとらわれているからじゃないだろうか?

何だか、ラーメンからとんでもない話になってきた。

とりあえず、僕の好きなラーメンは、
どこを探してもない。
だから、ちょいとコマル。

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