その日は、いつもより体調が悪く、悪い分だけ、早めに車を走らせた。
“ジョウさん”のお宅に着いたのは、だから、介助開始時刻の10分前のこと。
“ジョウさん”とは、僕が「家事援助」を担当する、御年74の男性の利用者さんで、
精神に障がいを持ち、彼に対する僕の役割は、
ジョウさんの家事や掃除のやり方を、上手くサポートすること。
車一台がギリギリ止められるジョウさん宅の駐車場に車を停め、
降りた直後に、家の中から、罵声に近い険しい言葉が、
家の外へ漏れ聞こえるほどに轟いていた。
声の主は、御年90を超え、ジョウさんと二人暮らしをされている彼のお母様だった。
「そんな恰好で、どこかへ出かけるつもりか!ズボンの裾を引きずって!
ちゃんとした着こなしをしてたら、みんなによしよししてもらえるけど、
そんなだらしない恰好をしているから、いつまでもみんなに注意されるんよ!」
それから先の言葉は、全て「沖縄言葉」で語られていたので、
僕には意味が分からなかった。
生粋の沖縄生まれの人たちは、身内だけの時や、本気になった際などに、
自らのアイデンティティーを支えるほどになじみ深い“自分たちの言葉”が、
時に意図せず、口を突くのだろう。
気まずい心と重たい身体を引き摺りながら、玄関を開け、
努めて明るい声で、「おはようございます」と、二人の母子へ声を掛けると、
深々と頭を下げたお母様の口から、罵声の代わりに、
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」と、
いつもの優しい言葉が返って来た。
そして、表向きは“庭の手入れ”のために、お母様は、そそくさと家の外へ去って行かれる。
けれども、それは、「ヘルパーのやり方に干渉しないためのお母様の配慮」であることを、
僕は知っている。
介助の終わり頃を見計らうようにテーブルに付き、和菓子や季節に合わせた温冷のお茶などを
僕に勧めてくださり、そのお母様の一連の動作が、全くさりげないものであることも。
ジョウさんはといえば、片言しかしゃべれないながらも、
ズボンの裾を引きずりながら僕の方へ歩み寄り、
「新聞あるよ」と、同じセリフを、何度も何度も繰り返す。
以前、ジョウさんのお宅の物置部屋に古新聞の束があるのを見つけた僕が、
「いつも部屋中が尿だまりで、処置に困っている利用者さんがいまして。
よろしければ、少し古新聞を分けて頂けないでしょうか?」と、
お母様にお願いした事を聞きつけて以来、
「新聞あるよ」は、ジョウさんの、僕への挨拶代わりになった。
ジョウさんは、複雑な作業が苦手だ。
例えば、「床を拭く」という単一の行為はできるのだけど、「床を、隈なく効率的に拭く」
ことができない。
掃除機も、漫然と動かすことはできても、組み立てや分解は不可能だ。
つまり、「全体を視野に入れ、頭の中で作業の順序を組み立てて実践する」ことができない。
だから僕は、「焦って雑にするよりも、時間を掛けて丁寧にする」ことを、
お母様ほどには厳しくない調子で、それとなく彼に言い含める。
だから、たまに、ジョウさんが掃除機の柄の部分を上手く外せた時など、
たったそれだけのことに、僕の心は小躍りする。
かつての公務員時代、会計課に配属された時、札束を高速で数える先輩たちの
華麗な指さばきには、全く心躍らなかったけど。
いつだったか、74年間、一度も働いたことのないジョウさんが、
台湾へ旅行した際の記念写真を見せてくれたことがある。
写真の中のジョウさんは、どのシーンでも、ニコリともしていないけれど、
人から「よしよし」してもらえそうなほど、身だしなみは、とてもキレイだった。
その日の帰り際、狭い駐車場の傍らに設えられた小さな庭をふと見遣ると、
お母様の心を映しているように美しく整えられた庭の片隅に、
野イチゴのような赤色をした実が成っていた。
少し握れば潰れるほどに、儚い小さな粒粒だった。
実の色合いは、陽射しのゆくえに左右され、時に濃く、時に淡く、
時の移ろいを、営々と自らに刻んでいた。
その実の色の不確かな移ろいは、
“ため”を思うがゆえの、見捨てない我が子への母の厳しさと、
「新聞あるよ」程度のごく限られた世界に住む人の、精一杯の人への優しさを、
かわるがわるに孕みつつ、定めの中で、定まることなく、もだえているように見えた。
風が止み、雲の流れが静止した刹那、
彼らは、本来の“見通す力”を取り戻したのだろうか?
老練に熟したことを示す朱色を露わにした”彼ら”実の粒たちは、74年の二人の刻を、
すなわち、二人の母子が、人知れずこらえ続けて来た数知れぬ屈辱や辛酸の刻と、
苦と苦の谷間に、ほんの一瞬、せせらいだ幸せの刻を、
一日も休むことなく見届けながら、触れれば、コロンと鳴りそうだった。