樹公庵さんの「今月のこの1曲」

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<曲目一覧>
2004.1月 モーツァルト・交響曲第38番
2004.2月 ビゼー・交響曲第1番
2004.3月 ハイドン・交響曲第100番
2004.4月 ベートーヴェン・交響曲第3番
2004.5月 ストラヴィンスキー・春の祭典
2004.6月 ディーリアス・二つの小品
2004.7月 ベートーヴェン・交響曲第5番
2004.8月 ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
2004.9月 ブルックナー・交響曲第7番
2004.10月 シベリウス・ヴァイオリン協奏曲
2004.11月 シューベルト・ピアノ三重奏曲第2番
2004.12月 J.S.バッハ・クリスマス・オラトリオ
2005.1月 モーツァルト・エクスルターテ・ユビラーテ
2005.2月 チャイコフスキー・交響曲第2番
2005.3月 ベートーヴェン・ミサ・ソレムニス
2005.4月 モーツァルト・弦楽四重奏曲第1番
2005.5月 シューベルト・交響曲第8(7)番
2005.6月 メンデルスゾーン・真夏の夜の夢
2005.7月 ヴォーン=ウィリアムズ・ロンドン交響曲
2005.8月 ブリテン・戦争レクイエム
2005.9月 ドビュッシー・ベルガマスク組曲
2006.8月 ホルスト・組曲「惑星」
2007.1月 モーツァルト・ピアノ協奏曲第9番
2007.3月 テレマン・パリ四重奏曲集
2007.4月 J.S.バッハ・フルートソナタ ロ短調
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 ヘルムート・リリンク/シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム、ゲッヒンゲ・カントライの1984年録音SONY盤は、まじめな宗教音楽らしい演奏ですが、この曲としてはややおとなしすぎるかなという気もします。もっともそれはトランペットや太鼓(ティンパニ)が活躍する第1部や第6部などに特に言えることで、牧歌的な第2部などではむしろ叙情的な暖かみを感じさせます。
 こちらも、独唱者には、オジェー、ハマリ、シュライヤーなどリヒター盤に劣らぬ顔ぶれが並んでいます。

 しかし、リリンク盤としては、むしろ私は、本来の演奏日に合わせて1999年12月25日から2000年1月6日にかけて、ライブで録音されたヘンスラー原盤の新バッハ全集盤をとりたいと思います。
 独唱者は、スタジオ盤ほど有名どころが名を連ねているわけではありませんが、ライブらしく演奏に活気があり、こちらのほうが器楽の響きにも華やぎがあるように思います。
 以上2種のリリンク盤は、ともにデジタル録音です。


 1987年、やはりデジタル録音のジョン・エリオット・ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団の盤は、手持ちの中では現在唯一のオリジナル楽器、歌唱法による演奏です。
 これは、私がこの曲を好きになり、バッハの宗教声楽曲全体を見直すきっかけとなったCDで、第1部の冒頭から、踊り出したくなるような舞曲的リズムに満たされた躍動的な演奏です。
 これならでは、バッハの時代、宗教音楽もまた、民衆にとっては一種の娯楽であり、音楽として楽しんだということがよくわかり生き生きと伝わってくる演奏だと思います。また、ナチュラルトランペットの輝かしい響きやフラウトトラヴェルトなどオリジナル木管楽器の音色の優しいことも、この曲にふさわしく感じます。


ルネ・ヤーコブスの新しい録音もあるようですが、未聴です。
私としては、ヘレヴェッヘの録音を期待しているのですが。それと、コルボの演奏もあったら聴いてみたいものです。

ともあれ、270年目のクリスマス・オラトリオ、この時期にお薦めです。


 今回もおつきあいいただき、ありがとうございました。
 ではまた。


                             恐々謹言

                    樹公庵  日々

みなさま

 今年は夏から秋にかけて、猛暑や災害で落ち着きませんでしたが、11月に入ってからは、ようやく比較的おだやかな秋らしい日が続きました。
 この10月から11月にかけての時期は、私の最も好きな季節なのですが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。


 さて、先月のこの1曲をお送りした折、音楽にも文学にも造詣の深いある大先輩から、私と逆にシンフォニーは苦手で、むしろ室内楽やソロが好ましく感じられるとのメールをいただきました。
 この方は、自らギターをたしなまれ、ロック、カントリーからバッハまで幅広くものされるのですが(音騒会関係の皆さまにはおわかりですね)、小さい編成のほうがそれぞれの楽器の音がよくわかって楽しめるのだとおっしゃるのです。
 こういう人はこわい。私のように書物の知識や何となく全体的な気分で音楽を聴いているわけでなく、きちんと鳴っている音楽を聞き分けているのですから。

 で、今回は、リクエスト?にお応えして、その室内楽曲から、今月の1曲をお届けすることにしたいと思ったのですが、なにぶんシンフォニーほどには日頃の蓄積がなく、と言って十分に聴き込んでいない生半可なものを取り上げようものなら、すぐに馬脚を現してしまいそうですし...。


室内楽の歴史と本質
 ところで、みなさんは、室内楽と言ったときに、どういう音楽を思い起こされるでしょうか。

 もともと、西洋音楽は、教会音楽として始まり、そこでは声楽のみが音楽の名に値するものでした。これは神のための音楽です。その後、バロック時代になると、宮廷に劇場がつくられ、オペラが発達してきます。これは人(といってもまだ限られた身分のもののためですが)が見、聴いて楽しむための音楽です。
 これに対して、宮廷の一室で王侯や貴族、それに仕える音楽家による、自分たちが演奏して楽しむための音楽として登場してきたのが、ムジカ・ダ・カメラ(室内の音楽)だったと言われています。

 これが、古典派時代になると、少しずつ形式が整えられ、特にハイドン、モーツァルトにおいて、次第に洗練を加えられ、弦楽四重奏曲に代表されるソナタ型式の室内楽が確立されます。こうしたヴィーン古典派の後期の室内楽は、内容的には、すでに素人が楽しむばかりでなく知的な精神の愉悦とでも言いたくなる高度な音楽性を持ってきます。
 それを支えたのは音楽性豊かな貴族階級を中心とした人々だったかもしれませんが、ベートーヴェンの四重奏曲では、もはや、当時現れた、より専門的な訓練を受けたプロのカルテットが演奏すべきものになっていくのです。

 一方、19世紀にはそれまで音楽のパトロンの地位にあった貴族階級に代わって、ブルジョワ市民階級が台頭してきます。
 そして、そうした富裕な市民層を中心に、サロンが形成され、そうした場所での音楽の中心に、室内楽のニーズが移ってきます。もちろん、室内楽は、市民層の家庭の音楽としての需要の面もあったことでしょう。
 そこでは、古典期の形式や対位法などのいくぶん高度な楽しみ方よりも、旋律や音色の流麗さが好まれるようになります。いきおい弦楽四重奏曲などより、ピアノを中心にした室内楽が盛んになってきます。

 近現代になると、また室内楽はその性格を変え、どちらかというと、孤独な芸術家が、親しい演奏家たちとの協働を前提に、いわば本音を語るというか、その作曲家の一番精神の奥深いところをかいま見させるような、そんな性格を持つようになる気がします。


 いずれにしても、本質的には、親密な空間で、同質な人々によって演奏され、聴かれるというのが、室内楽なのかもしれません。

 今日では、室内楽も、大きなコンサートホールで、多数の聴衆を前に演奏されるのが普通になっていますが、高名なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインも、こう言っています。
「室内楽とはどこの国の言葉に置き換えられても明らかなとおり、くつろいだ雰囲気の中で聴かれるべきものである。(中略)私は現代のコンサートホールで、たとえ最高の奏者のアンサンブルであっても、満足のいく音響条件にめぐり会ったことがない。(中略)そんなピアノ曲も、同様の特質を持つ室内楽曲も、家庭的なぬくもりのある部屋で、最新の技術で作成されたレコードで再生されれば、たちまちにして聴き手の耳をとらえるだろう。私が心から愛しているのに、決して聴衆の前で弾かない作品があるのは、こうした理由からなのだ。しかし私的な場で演奏するとなれば話は別である。」と。


私の好きな室内楽
 古典派時代からのこの分野の代表楽種と言えば、弦楽四重奏曲があります。これは、ハイドンからショスタコーヴィチなど現代の作曲家に至るまで、多くの傑作があり、私も好きなジャンルです。
 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ドビュッシー、ラヴェル、ショスタコーヴィチらの四重奏曲はよく聴きます。特に、与野に芸術劇場ができて、アルバン・ベルク四重奏団がたびたびやって来るようになってからは、実演でもずいぶんと聴きました。

 弦楽の室内楽では、五重奏曲くらいまでが一般的で、中にはメンデルスゾーンのように八重奏曲などというのもありますが、基本はやはり四重奏。ただ弦楽五重奏曲には、モーツァルトのすばらしい作品があります。
 これらは、同族の弦楽器のみによる落ち着きの中にもいかにも多声的な線がつくる美があるように思います。

 これに対して、ピアノ=クラヴィーアが加わるものは、華やかな感じがします。こちらは、特にピアノの発達を映して、ベートーヴェンから後、ロマン派時代には室内楽の主流になってくる感があります。
 この中には、ヴァイオリン・ソナタやチェロ・ソナタといった二重奏から、五重奏曲くらいまでが多いようですが、弦の場合と異なり、基本型はむしろ四重奏より三重奏ではという感じがします。
 これは、ピアノが両手で演奏でき、音域も広く、これ1台で2声以上の音楽ができることが大きいのかもしれません。(ロマン派から近代に近づくにつれ、五重奏などの編成の大きなものに主流が移る感じはしますが。)

 ところが、実は、私はこのピアノ三重奏曲というのが従来どちらかというとあまり得意ではなかったのです。
 実際、このピアノを中心にしたトリオというのは、音量の面からも音質の面からも必ずしもバランスがよいとは言えないような気がしていました。
 ピアニスト、ヴァイオリニストとチェリストが、実力も音楽性も均衡のとれた三人が揃うというのも難しいのではないでしょうか。
 それで、なかなかしっくりと落ち着いた感じで聴くことが難しいジャンルなのだと思います。

 というわけで、私にとっての室内楽は、どちらかというと、弦楽四重奏を中心とした曲種が主流なのですが、にもかかわらず、今回、室内楽を取り上げようと思ったときに、聴き慣れた弦楽四重奏曲ではなく、むしろ、ピアノの入った室内楽、それもそのトリオの中からこの時期にふさわしい1曲が念頭に浮かびました。

 それは、何か。
 みなさんは、ピアノ三重奏曲の名作として、どんな曲を想起されますか。

 たとえば、このジャンルでは、ベートーヴェンの作品群が古典とされます。その第7番「大公」は、この分野の最高傑作とされています。たしかに堂々とした大作ですが、正直、私は、いつも最初から最後まで集中して聴き通すことができているとは言いがたい有様です。
 私の好きなモーツァルトも、クラヴィーア・トリオを少なからず残していますが、彼の室内楽分野での最高傑作はその中にはないように思われます。
 むしろ、この曲種は、ロマン派から近代のほうが個性的な名曲が多いような気がします。
(しかし、ここでまた、ラヴェルだ、ショスタコーヴィチだというのでは、もう一人の御大がいい顔をしないような気がするし、シューマンやブラームスではややしんどい感じ。)

 というわけで、ここでは、シューベルトに登場を願うことにしましょう。
 種を明かせば、実は私にとって、最も好もしいピアノ三重奏曲として、真っ先に念頭にあがったのは、このシューベルトだったのです。


シューベルトのピアノ三重奏曲
 シューベルトの室内楽では、何といっても「鱒」の名で知られるピアノ五重奏曲が一番ポピュラーでしょう。しかし、室内楽曲としての完成度では、「鱒」はシューベルトを代表する最高傑作とは言いがたい気がします。
 むしろ、もっと晩年(と言っても、わずか31年の生涯ですが)の作品をとるべきでしょう。この点、後期の弦楽四重奏曲と唯一の弦楽五重奏曲は傑作です。が、これだけではありません。
 その短い人生の終わり近くになって、シューベルトは、ピアノ三重奏曲の名曲を続けざまに作曲したのです。

 シューベルトには、4曲のピアノ三重奏曲がありますが、うち1曲は1つのソナタ楽章のみの習作的な作品、もう一つも「ノットゥルノ」と呼ばれる、後述の第1番の代替緩徐楽章だったのではないかとも言われる一楽章作品です。
 これに対し、残る2曲が、それぞれ第1番、第2番と呼ばれる、4つの楽章から成る完成した大作で、その早すぎる死の約1年前頃に時期を接して作曲されています。

 第1番は変ロ長調作品99(D.898)で、第2番が変ホ長調作品100(D.929)です。
 作品番号がついているように、こうした大曲としては珍しく、シューベルトの生前に楽譜が出版された作品で、シューベルトにとっても自信作であったようです。
 作品番号100というのも、自らの創作の節目を意識した数字ではなかったかと想像させるものがあります。
 このどちらも、とても美しい名曲だと思いますが、今月の1曲は、このうち、1827年の11月に作曲の筆が進められ、翌年、作曲者が死去する11月になってようやく出版されたとされる第2番を取り上げたいと思います。


ピアノ三重奏曲第2番変ホ長調作品100
 シューベルトのピアノ三重奏曲第2番変ホ長調は、残された自筆の楽譜から、1827年の11月に作曲に着手されたことがわかっています。(ただし完成時期は、その月の内か、年内か、翌年の初めか諸説あり、不詳。)
 そして、1827年の12月と翌1月に彼の三重奏曲演奏の記録があり、このいずれかがこの曲の初演か、又は第1番だったのか、やはり諸説あるのですが、確実な記録として、1828年3月26日、シューベルトの生前唯一の自作による公開演奏会で演奏されたことがわかっています。

★★★その2へは[前の記事へ]をクリック下さい。

 シューベルト自身が、この作品に興味を示していた出版社に手紙で、そこでの成功を伝えているからで、シューベルト自身、この曲には相当の自信を持っていたようです。
 彼は、この曲の出版(ライプチヒの出版社で、オーストリア国外で出版された最初の作品)を心待ちにしていたそうですが、ライプチヒでは1828年11月初めには出版されたものの、結局ヴィーンでは遅れ、その出版を見ることなく、11月19日にシューベルトはこの世を去ってしまったのです。


 この曲は、第1番と同じく、4つの楽章からできています。
 主調は変ホ長調で、本来は明るく力強いのですが、聴いての印象は、短調が交錯し、メランコリックな雰囲気もかなり濃く持っています。
 シューベルトらしい重すぎず軽すぎないさらっとしたロマンティシズムに溢れた作品で、ピアノと高低2つの弦楽器が互いに支え合い、役割を交換しながら美しい旋律を歌い交わします。
 歌と器楽の融合とでも言うべき、美しい旋律と和声に彩られ、シューベルトのピアノ曲や歌曲を好まれる方なら、きっと気に入ると思います。


第1楽章は、アレグロ、ソナタ形式ですが、顕著な主題が4つもあります。
冒頭3つの楽器がユニゾンで力強く弾き出し、休符で区切りながら積み重ね
ていくような第1主題。スタッカートの同音反復的な第2主題はまずピアノ
で示されます。第3主題はチェロとヴァイオリンが対位的に唱和するように
歌われます。そして、小結尾(コデッタ)主題は、まずヴァイオリンがピア
ニッシモで奏しはじめ、後半はシンコペートされた、とりわけ美しい旋律で
す。
この小結尾主題は、私には、シューベルトの歌曲「アヴェ・マリア」の旋律
にとてもよく似ている感じがします。私はこれを聴きたくて、この曲を好ん
で聴くようになったと言ってもよいでしょう。
展開部では、専らこの小結尾主題ばかりが扱われ、玉を転がすようなピアニ
スティックな部分とヴァイオリン、チェロのえもいわれぬ優美な音色によっ
て繰り返されるのですが、決して単調ではなく、メランコリーな、それでい
て誠に至福な音楽が奏でられていくのです。


第2楽章は、ハ短調、アンダンテ・コン・モート。
ソナタでもロンドでもなく、並列的に4つの楽想がABCDABCDと繰り
返される(若干の発展はあるけれど)ものです。
初めAがさみしげに始まり、B、C、Dの楽想へと移るに従い、力強く劇的
な雰囲気になっていくのですが、最後は、またAが回想されて終わります。
何といっても重要なのは、このA楽想で、これは、シューベルトがあるサロ
ン・コンサートで聴いたスウェーデンの歌の旋律に拠っていると伝えられて
いますが、そのムードは、まさに歌曲集「冬の旅」の世界だという感じが強
くします。(「冬の旅」は、この曲の少し前に完成されています。)
冬の旅の主人公の孤独な歩みを思い起こさせる、しかし美しい主題です。


第3楽章は、スケルツァンド、アレグロ・モデラート。
先行する楽章と比べるとなにやら軽いような感じもする素朴なスケルツォで
すが、和声的にはシューベルトらしい新しさがあるとも言われます。
トリオ(ここでは中間部としての意味)は、さらにリズミックで、各楽器の
明るい響きが豊かですが、この中で、二度、影が差すように全休止で流れが
中断されたようになるところが印象的です。


第4楽章も、アレグロ・モデラート。
ソナタ形式とも単純に言い切れない複雑で、長大なフィナーレです。
ピアノによる跳ねるような主題で始まり、繰り返されるうちに少し陰翳がさ
しかけ、ヴァイオリンの短調の主題となります。再び明るくなって新しい主
題が出るも、また短調主題に戻ったあと、一転力強い下降音型の主題が出て、
短調で繰り返されます。そして、小結尾的に、第2楽章冒頭の冬の旅ふうの
主題が引用されます。さすがに終楽章では最初に奏でられたときほど孤独の
色は濃くありませんが、楽章を超えてこの主題が現れるのには、よほどこの
旋律がシューベルトの心をとらえたのでしょうか。
全体も、明るい部分と暗い部分が頻繁に交錯する変化に富んだもので、展開
部に当たる部分もいつの間にかという感じで、ソナタの定式どおりにどれが
提示部、どれが第1主題、第2主題と決めがたい感じがします。
最後に、例の第2楽章の主題が現れたあと、さあっと雲が晴れるように明る
い主調に変わって、輝かしく曲を結ぶ。

中期のベートーヴェン流の単純、劇的な暗から明へとはもちろん、モーツァ
ルトの長調の中に哀しみが短調の中に明るさが内包されているというのとも
異なる、シューベルト独自の調感覚がうかがわれます。



この曲のCDから
シューマンが、盟友メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲を讃えた一文に、ベ
ートーヴェンの変ロ長調やニ長調、シューベルトの変ホ長調が、その時代に
おける傑作であったように、メンデルスゾーンの曲が自分たちの時代の傑作
だと述べるくだりがあります。
このように、この曲は、シューベルト晩年の傑作であり、ロマン派時代のピ
アノ三重奏曲の名曲として、昔から知られた作品なのですが、いま、レコー
ド店に行くと、他の有名曲と比べて、さほど、たくさんの音盤が目につくと
いうほどではありません。
実際には、少なからぬ録音が存在するのでしょうが、現役盤は少ないという
ことなのでしょうか。

あるいは、かつて、古いアカデミズム的な立場から、シューベルトの多楽章
ソナタ楽曲は、ベートーヴェン的な意味での構築性、主題労作等の面が弱い
とされ、動機を展開させるのではなくその歌謡的な旋律を微妙に転調移調さ
せながら変化させ、独特の和声感で曲を作っていくあり方が理解されず、不
当に低く評価されていた時代の名残で録音そのものが少ないのでしょうか。


そんな中で、今回は、私の手元に置き、愛聴している2枚のCDを紹介した
いと思います。

まず、1枚目は、アルトゥール・ルービンシュタインがピアノを弾き、ヘ
ンリク・シェリングのヴァイオリン、ピエール・フルニエのチェロという
豪華な組み合わせで、1974年に録音された演奏です。
それぞれの楽器の大家による、まさに三重奏曲の王道のような録音といえる
でしょう。
(大昔には、ハイフェッツやフォイアマンとともに、シューベルトの1番の
録音も残しているようですが、ルービンシュタインはハイフェッツとはウマ
が合わず、その後共演を拒否するようになってしまったらしい。)
ベートーヴェンの「大公」やチャイコフスキーの長い名前の付いた曲などの
外面的な効果も大きい作品では、よくこうした、アンサンブルの練れより一
期一会的な大家の組み合わせでの録音があるのですが、シューベルトのトリ
オではどちらかというと珍しいのではないでしょうか。

もちろん、ここでの3人は、ソリストとしての実力、実績だけでなく、トリ
オのアンサンブルとしての演奏も見事で、決してこの種の組み合わせにあり
がちな顔見世的なものには終わっていないところが見事です。
しかも、それぞれのパートの音色、音楽性の豊かなことはさすがです。
アナログ録音ですが、音質も十分です。
近年のシューベルト演奏から見ると、やや肉厚な豊満な演奏といえるかもし
れませんが、特に歌心を重視した3巨匠だけに、歌謡性溢れるこの曲のそう
した魅力をたっぷりと味わせてくれます。

もう1枚は、常設の三重奏団として、長い経歴を誇るボザール・トリオに
よるものです。1984年のデジタル録音。
このアンサンブルは、1955年にアメリカで結成されましたが、メンバー
の交代もあって、創設当初からのメンバーは、ピアノのメナヘム・プレスラ
ーのみとなりました。(プレスラーは、今年81歳になったそうですが、い
まも矍鑠としてすばらしい演奏を聴かせてくれているとのことです。ちなみ
に仏語でボザールとは男の意だそうなので、三人の男といった感じになるの
かしら。http://berlinnikki.jugem.cc/?day=20041116

こちらは、前者より小ぶりで巨匠的な華やかさには不足するかもしれません
が、常にトリオとして活動しているだけあって、より均質でバランスのとれ
たアンサンブルという感じがします。
手元のCDの解説冊子によると、ヴァイオリンは「ブロドスキー」、チェロ
は「パガニーニ」という名の、ともにストラディバリウスの名器を使用して
いるということです。

★★★その3へは[前の記事へ]をクリック下さい。

現代的で明快な解釈で、かつ歌わせるところは十分に歌っています。大げさ
な身振りとは無縁の、とても親密で暖かい雰囲気の演奏で、シューベルトの
音楽の優しさが伝わってくるような気がします。


このほかにも、コラールやデュメイらフランス勢の録音やミラノ・トリオと
いったイタリア勢の演奏などもあるようですが、未聴なので、今宵はここま
でということにいたします。



先日、久しぶりに上州の小さな山というより郊外の丘のようなところを軽く
歩いてきました。紅葉には少々遅かったのですが、晴れた秋の青空に黄色や
紅に色づいた樹々の葉がよく映えていました。
この季節、秋の澄んだ空のようなシューベルトの楽の音に親しんでいただけ
ましたら、幸甚です。



今回もおつきあいいただき、ありがとうございました。
ではまた。


                             恐々謹言

                    樹公庵  日々

 今年は猛暑が続いた上に、次から次と台風が上陸、度重なる被害をもたらしたのに、そのうちに浅間も噴火し、とうとう今度は新潟で大きな地震が起きてしまいました。
 県北のわが家も大きく揺さぶられましたが、幸い積んでおいた本が崩れたくらいで済みました。
 被災地の方々には心からお見舞いを申し上げたいと思います。



 さて、そんなときに、脳天気に素人音楽談義を書き散らすのは少々気が引けますが、月例ということでお許しをいただきたいと存じます。


 これまでの「今月のこの1曲」を振り返りますと、とにかく交響曲を取り上げた回が多いことに気づかされます。
 結局、私の最も好きなジャンルは交響曲だということをはしなくもどころか、正直雄弁に示しているわけですが、この、交響曲の創作にすぐれ、多くの実績を残した作曲家のことをしばしばシンフォニストなどと呼んだりします。

 あくまで一般論ですが、シンフォニストには、ドイツ・オーストリア系の作曲家が多い。
 交響曲の父ハイドンに始まり、モーツァルトはこの分野でも成果を残していますし、ベートーヴェンこそは19世紀近代的な意味におけるシンフォニストの最初の存在といえるでしょう。
 シューベルトはロマン派交響曲の創始者であり、ブルックナー、マーラーでは、まさに交響曲がその創作の中心となっています。
 ブラームスもドイツ人らしく交響曲には特別の思い入れがあったと推測されますが、惜しむらくは数が少ない。その本質はシンフォニストより室内楽にあるのでは?とも思うのですが。でも、どっかの師匠が怖いし、まぁシンフォニストに入れておいてもいいかな。
 もっとも、シンフォニーに大きな価値を見出すのは、19世紀独墺的発想で、実際は劇場や器楽奏者から注文や報酬の出たり、日常の娯楽になるオペラや協奏曲、舞曲などと異なり、交響曲なんてのは、演奏には金や手間がかかるけど全く儲からない代物(それを好んで聴く人間もお金に縁がないのかも)で、イタリアやフランスなどラテン系の作曲家にはあまり人気がないないようです。
 ところが、この独墺系でも、交響曲を極限まで拡げたマーラーを最後の光芒として、交響曲分野での大家は急にいなくなってしまうのですね。
 代わって、19世紀後半から20世紀に入って行くに従い、ドイツ圏の周縁諸国において(特にスラヴ圏を中心に)、いわば遅れてきたロマン主義というか民族、国民主義的な文脈で交響曲が多く書かれるようになっていきます。

 こうした一人に、フィンランドのヤン・シベリウス(1865−1957)がいます。


シベリウスはお好き?
 イギリスの音楽学者だか評論家だったか忘れましたが、セシル・グレイとかいう人が、このシベリウスを、ベートーヴェン以後の最大のシンフォニストと評したそうです。が、私には実は今一つぴんと来ないのです。
 もっとも従来どういう訳か、シベリウスという人は、北欧圏を除けばイギリスにおいてのみ、やたら評価が高いというか、人気があるようですが、ドイツやフランスではどうなんでしょう。同じ英国の評者でももう少し冷静なネヴィル・カーダスも言っているように、イタリアでシベリウスが人気があるというのはどうも想像しにくいですよね。
 わが日本ではどうなのかしら。少なくともチャイコフスキーの交響曲より愛好されているとも思えないのですが...。

 私も、シベリウスが一人の個性的なシンフォニストだということを認めるのにやぶさかではありませんが、そして実際、世評名高いバルビローリやベルグルンド盤を含め、交響曲全集も4種ほど持っていますが、かほど交響曲好きな私には珍しく、なかなか熱中するという感じにならないのです。
 それでも第7番、次いで第6番はわりと好きですが(ポピュラーなのはむしろ第2番や第5番なのだろうけど)。
 なぜなんだろう?
 1907年11月、ヘルシンキで、マーラーとシベリウスによる、二人の作曲家の交響曲観の対照として挙げられる音楽史上有名な会談が持たれます。
 このとき、シベリウスが、交響曲においては余分なものを刈り込み凝縮する方向を主張したのに対し、マーラーは、かの有名な「いや、交響曲は一つの世界のようなものでなければ。すべてを包摂するものでなければならない。」という言葉を述べたと伝えられています。
 再びカーダスに登場願いましょう。こう言っています。
 「結局、圧縮した交響曲なるものは言葉の矛盾ではないか。交響曲様式の真の 精髄は、次第にひろがっていくこと。省略によるのではなく綜合によって獲得 される統一ではないか?断食ではなくて収穫ではないか?」と。


 とにかく、シベリウスという人は、不思議な作曲家です。
 シベリウスは、1965年生まれですから、マーラーやドビュッシーより少し後輩、R.シュトラウスの1歳下というところですが、彼らよりもはるかに長生きで、1957年没と、20世紀同時代の作曲家といってもよいくらいです。
 しかし、その音楽は、調性の枠を踏み越えることはなく、そういう意味では聴きやすいのですが、どうも20世紀音楽というのには躊躇する感じがあります。
というのも、生涯の最後の30年近い間、まったく作曲の筆を折ってしまい、死ぬまで沈黙を守り続けてしまったのです。
 才能が枯渇してしまったのか、国からの年金で十分暮らせるようになったので作曲の必要を感じなくなった?のか、その理由は謎とされています。


 というわけで、今回は、シベリウスを取り上げようと思うのですが、以上のような理由で、今月の1曲は交響曲ではありません。
 となると、シベリウスのもう一つの重要ジャンルとしては、交響詩などの管弦楽曲が有名です。(「フィンランディア」なんかですね。)
 この分野でも、「トゥオネラの白鳥」とか「タピオラ」といった傑作もありますが、この交響詩というのがまた、音楽を聴いて特定の情景や物語の展開を想起することの不得手な私にはもう一つ親しめきれない分野なのです。

 では、シベリウスで取り上げるべき曲がないではないかと言われそうですが、実は、私がシベリウス作品の中で一番好きなのは、一部の専門家がベートーヴェン以来だなどと持ち上げる交響曲ではなくて、ただ一曲しかないコンチェルトなのです。
 すなわち、ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47が、今回のこの1曲です。


シベリウスのヴァイオリン協奏曲
 さて、いささか前置きが長くなりました。

 シベリウスは、若い頃ヴァイオリニストを志したこともあり、そのためか彼の唯一の協奏曲はこの楽器に捧げられています。
 このヴァイオリン協奏曲は、20世紀に入ったばかりの1903年にまず作曲されました。
 しかし、その翌年に初演されたこの初稿は作曲者本人にはできあがりが不満で、1905年に大幅に改訂されています。これが現在、一般に演奏されている現行版です。
 こちらは同年の10月19日に初演されています。(従って、今月は初演から99年目というわけです。)

 すでに述べたように、シベリウスの音楽は20世紀に書かれたものとしては、とても聴きやすい(音楽語法の相性は別として)ものです。
 このヴァイオリン協奏曲も、かなり斬新な感じは与えつつも、音楽としてはきれいで、耳に不快なところなどはありません。


 曲は、オーソドックスに3楽章構成で書かれていますが、通常いわゆる協奏曲型のソナタ形式が多い第1楽章が、一筋縄でいかないというのが、20世紀の協奏曲たる所以でしょうか。
 この曲は、シベリウスの親しみやすい第2番の交響曲と作風の転換点となる第3交響曲との間にはさまれた時期に作曲されており、シベリウスという作曲家が、作曲家としての晩年?、後期の独特の個性に到達するに先立ち、中期の作風が晦渋さを色濃くする前の最も美しい曲の一つではないかと思っています。


 その第1楽章は、ソナタ・フォームを基本ベースとして残しつつ、通常なら展開部が来るべき楽章中央部に長いカデンツァが置かれ、再現部も再現というよりは、どの主題もかなり変容されているという変則的な形を示し、非常に幻想曲的な相貌を持っています。

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