樹公庵さんの「今月のこの1曲」

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<曲目一覧>
2004.1月 モーツァルト・交響曲第38番
2004.2月 ビゼー・交響曲第1番
2004.3月 ハイドン・交響曲第100番
2004.4月 ベートーヴェン・交響曲第3番
2004.5月 ストラヴィンスキー・春の祭典
2004.6月 ディーリアス・二つの小品
2004.7月 ベートーヴェン・交響曲第5番
2004.8月 ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
2004.9月 ブルックナー・交響曲第7番
2004.10月 シベリウス・ヴァイオリン協奏曲
2004.11月 シューベルト・ピアノ三重奏曲第2番
2004.12月 J.S.バッハ・クリスマス・オラトリオ
2005.1月 モーツァルト・エクスルターテ・ユビラーテ
2005.2月 チャイコフスキー・交響曲第2番
2005.3月 ベートーヴェン・ミサ・ソレムニス
2005.4月 モーツァルト・弦楽四重奏曲第1番
2005.5月 シューベルト・交響曲第8(7)番
2005.6月 メンデルスゾーン・真夏の夜の夢
2005.7月 ヴォーン=ウィリアムズ・ロンドン交響曲
2005.8月 ブリテン・戦争レクイエム
2005.9月 ドビュッシー・ベルガマスク組曲
2006.8月 ホルスト・組曲「惑星」
2007.1月 モーツァルト・ピアノ協奏曲第9番
2007.3月 テレマン・パリ四重奏曲集
2007.4月 J.S.バッハ・フルートソナタ ロ短調
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みなさま

 オーディオの神様、笠幡の水神様が、近時、マーラーの全交響曲をお聴きになり、「すばらしい」とおっしゃっていると、アンチ・マーラー派のはちろべえ師匠が残念そうに述べているのを伺い、マーレリアンの私は嬉しく思っています。
 5月は、そのマーラーの命日のある月なので、どうしようかとも思ったのですが。
 水神様の真摯な思いに打たれて、珍しくはちろべ師匠がマーラーの交響曲の解説などをまとめられたりして、近時、マーラーの交響曲をめぐる話柄が盛んになり、果てはドン・ガラリン卿まで加わってマーラー夫人アルマは美女か悪女かという話にまで及ぶに至りました。
 このやりとりに関わった一部の方々には、続けてマーラーを取り上げますと、少々しつこいと感じられようかと危惧されますので、今回は、マーラーとは別の音楽を取り上げることとした次第です。

 マーラーが亡くなったのは、1911年の5月18日。
 最後の交響曲第9番から未完の第10番には、どこか無調の響きがこだましています。
 マーラーの比較的初期の交響曲第2番ですら、その第1楽章をマーラーのピアノで聴かされ、意見を求められたハンス・フォン・ビューロー(ワーグナーの弟子の名指揮者。妻コジマを寝取られ、のちブラームス派に。指揮者としてのマーラーの力を評価していた)は、「トリスタンとイゾルデが、ハイドンのように聞こえる」と言って、その音楽の新しさに耳を覆ったと伝えられています。
(のちに、その同じ曲を聴いたドビュッシーは、シューベルトのようなロマンティックな=遅れた曲だと評したとか。)
 当時のヴィーンで、現代音楽の扉は、マーラーの周囲にあったシェーンベルクら新ヴィーン楽派のグループによって開かれつつあったのです。


 そのマーラーの死の年1911年から13年にかけて、新ヴィーン楽派とは別のもうひとつの20世紀現代音楽の古典となる革命的な作品が書かれていました。

 その初演は、1913年の5月29日。
 そのとき、初演の会場パリのシャンゼリゼ劇場は、ものすごい喧噪の場となり、音楽史上に残る大スキャンダルとなったのでした。いまから91年前のことです。
ピエール・モントゥーの指揮、ニジンスキーの振り付けでした。
 この有名な初演騒動を引き起こしたのが、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」です。

 日本より緯度の高いヨーロッパでは、5月は夏ではなく、春ということになっているようですが、この曲が5月に初演されたのと関係があるかは不明です。
 曲のイメージとしては、春と言ってもまだ浅い太古のロシアの大地の春というところでしょうか。
 作曲者のストラヴィンスキーは、異教徒による春の祭り、神に捧げられる乙女の生贄の踊りといったイメージを語り残しています。
 もっとも、のちにストラヴィンスキーは、この曲がバレエの舞台を伴って演じられるよりも、演奏会において、音楽のみで聴かれることを好んだと伝えられていますが。

 たしかに、バレエとしてははるかに物語性があって面白そうな「火の鳥」が、純粋に音楽のみで聴くと、意外に退屈なのに対し、ハルサイは、視覚を伴わなくても、音楽それ自体として聴く醍醐味があるように思います。(中間の「ペトルーシュカ」は、バレエとしても、演奏会用音楽としても楽しめますが。)


 ともあれ、この作品は、20世紀初頭の音楽シーンをリードした、ディアギレフ率いるバレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)のために書かれたバレエのための音楽です。(「火の鳥」や「ペトルーシュカ」とともに、ストラヴィンスキーの三大バレエなどと言われる。)
 私は、ドリ−ブやチャイコフスキーなどのバレエ音楽というのがあまり得意ではないのですが、どういうわけか、このロシア・バレエ団ゆかりの20世紀のバレエ音楽は結構聴けるのです。(ファリャの「三角帽子」などもよい。)



 イーゴル・フェオドロヴィチ・ストラヴィンスキーは、1882年生まれ、1971年に没しています。71年といえば、ストラヴィンスキーのことは知らないまでも、すでに私も音楽を聴きだしており、まさにそういう意味では同時代の作曲家といってよいでしょう。


 ずっと以前、高校生頃だったか、芥川也寸志の本を読んでいたら、芥川也寸志がまだ子どもの時分に、蓄音機でストラヴィンスキーのこの曲などを聴いていたといった文章を読んだ記憶があります。
 私は中学生の時からマーラーに夢中になっていた(ませてると、はちろべえ師
は言う)けど、まだ、当時の私は、ストラヴィンスキーは聴いたことがなかった。
 それで、これを読んで、へえーっと驚いたことを覚えています。なんてませたガキだったんだろうと。
 それ以上に驚いたのは、芥川家では、つまり芥川龍之介のお宅では、戦前に、こういう音楽を子どもが普通に聴いていたんだということだったのかもしれません。

 私が、ようやくストラヴィンスキーを聴いたのは、大学生の時でした。
 当時評判になったC.デイヴィス/アムステルダム・コンセルトヘボウの演奏による「春の祭典」をFMで聴いたのでした。

 驚きました、と言っても、とんでもなく奇妙で耳新しい音楽だと思ったわけではありません。
 たしかに新鮮な驚きはありましたが、決して耳障りな音楽ではなく、これは、なかなか面白いじゃないか、いままで食わず嫌いで聴かないできてもったいないことをしたと思ったわけです。
 実際、本で読んでいたような、とんでもなくスキャンダラスなゲンダイ音楽ではなく、面白い音楽というのが、第一印象で、じきに気に入ってしまいました。
 もっとも、作曲されて60数年が経っており、知らず知らず20世紀のさまざまな音楽を耳にしている現代人にとって、これはそれほど耳障りではなくなっているのかもしれません。

 むしろ、後述するように、この曲の中には、日本人の感性にも心地よいような五音音階風な響きも含まれており、西洋古典音楽の音に慣れきったあちらの耳よりはわれらに親しみやすい面もあるのかもしれないなと思います。

 また、ストラヴィンスキーは、若き武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を激賞し、その才能を世界に最初に知らしめた恩人であることも忘れてはならないでしょう。


 とは言え、この曲は、無調どころか複調やポリリズムにまで踏み込んだ不協和音と変拍子の世界。
 古典派の作品はもとより、ロマン派でも、守旧派のメンデルスゾーンやブラームスに馴染んだ耳には、マーラーですらも胡散臭く、耳障りに感ずるようですが、そういう人でも、この「春の祭典」を聴いたら、マーラーを美しいロマン派の残照と聴かせてくれるのではありますまいか。

 ストラヴィンスキー自身は、このバーバリズムともいうべき作品のあと、次第に古典回帰し、新古典主義を標榜する作品を書くようになり、さらに晩年には、長らく対立してきたシェーンベルクの死後、その12音音楽を再評価し、これに基づく音楽を書くなど、作風を何度も転換し、カメレオンと言われたほどなので、時代によってはまったく別人の作品ではと疑わせる音楽を残しています。(新古典主義時代の作品では、弦楽合奏のみのために書かれたバレエ音楽「ミューズを率いるアポロ」という曲がお薦めです。ハルサイとは全く対照的な、これは文字どおりの美しい音楽です。)

 しかし、この「春の祭典」は、それにもかかわらず、今日なお、彼の代表作と目され、のみならず20世紀音楽の傑作と認められているのです。



 「春の祭典」は、第1部「大地の讃仰」と第2部「いけにえ」に分かれます。
 それぞれ、第1部は、「序奏」、「春の兆しと若い娘たちの踊り」、「誘拐遊戯」、「春のロンド」、「競い合う部族の戯れ」、「賢者の行列」、「賢人」、「大地の踊り」の8曲から、第2部は、「序奏」、「若い娘達の神秘な集い」、「選ばれた乙女への讃美」、「祖先の霊の喚起」、「祖先の儀式」、「聖なる舞踊(選ばれた乙女)」の6曲から成っています。

 と言っても、各々の曲は独立したものではなく、第1部、第2部の中ではそれぞれ、基本的には途切れることなく音楽が続きます。

 第1部の「序奏」は、初演時にはたちまち嘲笑を呼んだというファゴットの高音部による不思議な感じのする印象的なメロディで始まります。
 ピッチカ−トのリズムが次曲を用意し、第2曲は、一転して、弦楽器群がスタッカートの強奏で激しいリズムを刻み、いよいよ春の祭典はそのバーバリズムの相貌をあらわにしてきます。ファゴットの足踏みするような主題、ちょっと祭囃子をも思わせる剽げた感じすらするホルンの主題。
 第3曲は、さらに激しさと速度を増して、原始時代の略奪結婚を暗示するという狂おしいような音楽が続きます。
 第4曲「春のロンド」は、フルートのトレモロの上にバス・クラリネットが、やさしげな主題を吹き始めます。これは何だか日本の都節音階にも似た鄙びた感じのするもので、早坂文雄(映画「羅生門」や「雨月物語」の音楽も手がけた作曲家)の「左方の舞と右方の舞」などにも聴かれるような雰囲気が漂います。
 第5曲は、対立する部族を表す二つの旋律が交代し、変奏される。
 第6曲は重々しいチューバが賢者の行進を表し、全休止をはさんで、短い第7曲。
 第8曲は、プレスティッシモの速さで、さまざまな楽器が細かい音符でめまぐるしくが走り回り、一気に第1部を閉じる。

 第2部の「序奏」は、夜の場面へと変わり、ミステリアスな雰囲気を醸し出します。ここでアルト・フルートなどに出る旋律や和声にもなぜか雅楽などに通ずる日本音階的な感じを持つのですが。
 第2曲は、引き続き神秘的なムードが支配しています。
 第3曲「選ばれた乙女への讃美」に入ると、打楽器が不規則なリズムを叩き、金管楽器が断片的な叫びを上げ、激しい音楽へと変わります。
 そのまま第4曲に入りコラール調の主題が出て、祖霊が呼び出される場面となります。
 第5曲は、いったん静かな気怠いようなミステリアスな雰囲気が戻り、イングリッシュ・ホルンの息の長い旋律が現れます。また高まってから、再び静まり、終曲となり、力強いリズムが戻ってくると、高音金管楽器などが金切り声をあげ、打楽器も参加して、激しさを増していきます。最後は、一瞬止まるようになってフルートが駆け上がり、トゥッティで不協和音をぶつけて終わります。


 この曲は、かつてパリ初演の際、大混乱を引き起こし、その折の批評には、「春の祭典の本質的な特徴は、これまでに書かれたことのないような不協和音と耳障りな音楽ということである。...どの音も鋭く、残酷なほどの不協和音を故意に聴かせ、摩擦音や歯ぎしりのような効果を生み出している。」とある。
 しかし、各国での初演においてもさまざまな悪評を被りながらも、やがて再演を重ねる中で、不動の地位を固め、いまや20世紀音楽の古典ともなってしまいました。
 近来はむしろ人気曲の部類に入るのではないでしょうか。

 従って、録音も多くあるようですが、私の手元には、まだそれほど多くは揃っていません。

 まず、大混乱に陥ったパリ、シャンゼリゼ劇場で、慌てず騒がず平然と指揮を続けた初演者であるピエール・モントゥーのパリ音楽院管弦楽団を指揮した1956年頃の名盤。
 ステレオ最初期の録音で、さすがに録音は古さを感じますが、この演奏は、初演時の批評にある「摩擦音のような」従来の音楽と異なるこの曲の当時の前衛さを思い起こさせる響きをいまに伝えているという感じが最もするものです。

 次いで、やはりディアギレフと組み、かつてバレエ・リュッスの座付き指揮者のような存在でもあったエルネスト・アンセルメがスイス・ロマンド管弦楽団を指揮した1957年録音盤。
 アンセルメは、ヨーロッパ時代のストラヴィンスキー作品の初演も数多く手がけ、ストラヴィンスキーのスペシャリストとも目されていただけあって、シャープな演奏をしています。
 録音年からすると意外なほど音も悪くありません。

 1988年のサイモン・ラトル/バーミンガム市交響楽団盤は、まったく危なげなくオーケストラをドライブした見事な演奏です。
 ラトルになると、作曲者と親しく、初演時に同じ空気を吸っていたモントゥーやアンセルメとは異なり、もはやこの曲が前衛的な現代作品ではなく、すでにコンサート・レパートリーに定着した作品になったことを感じさせます。

 ほかに、オトマール・スイトナー/ドレスデン・シュターツカペレによるという珍しいコンビのレパートリー?の盤がありますが、この曲の典型的な、あるいは斬新な演奏とは言いかねるかもしれません。

 ほんとうは、私が最初にこの曲を知ったコリン・デイヴィスとコンセルトヘボウによる76年盤が懐かしいのですが、いま手元にないのが残念です。

 ほかには、イーゴリ・マルケヴィッチ/フィルハーモニア盤が隠れた?名盤と言われているようですが、注文していた同盤の入手が間に合いませんでした。また、ブーレーズのいくつかの録音中、若い頃のフランス国立放送響との録音も探しているのですが、見あたりませんでした。
 シャルル・デュトワ/モントリオール管の盤は、偶々この曲だけが欠けているのですが、同じ指揮者の「火の鳥」や「ペトルーシュカ」から察すると、かなり聴きやすいものではないかと思われます。


 ということで、今回は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を取り上げてみました。
 このたびも、おつきあいいただき、ありがとうございました。


 ではまた。


                 樹公庵 日々     敬白



[補遺]
 隠れた名盤?イーゴリ・マルケヴィッチ/フィルハーモニア盤は、1959年の録音ながら、各楽器の分離もよく、みずみずしい音に驚きます。テンポは比較的速めで、オーケストラの音に独特の色彩感を持っていたマルケヴィッチらしい輝かしい音色と勢いのある演奏でした。
 4月というのは、のんびりしているようでいて、なんやかや結構あわただしくいつの間にか過ぎてしまう月です。
 今年もまた、そんな感じで、気がついたら、月末になっていました。

 実は、4月には取り上げようと思っていた大好きな曲があり、先月の末あたりから、ぼつぼつと聴いていたのですが、なにせ大曲ではあり、おまけに思いの外に、手持ちのCDが増えていて、最後は、かなり締め切りに追い込まれているような気分です。
 結局、とうとう4月も最後の日となってしまいました。今日出勤したのが痛かった。



 で、今回、取り上げるのは、シンフォニア・エロイカ。
 そう、ベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」です。


 なぜ、英雄交響曲が4月のこの1曲で登場するのかと言いますと、これまた、まったく個人的な話で恐縮なのですが、中学に入り、ある恩師のおかげでクラシック音楽に興味を持ち、FMなども聴き始めた私が、クラシックのレコードを初めて買ったのが中一の終わり3月のこと。
 そして、翌4月に、初めて30cmLP盤の本格クラシックのレコードを買った、その曲が、この作品だったのです。

 クラシック初心者の中坊で、周囲にアドバイスしてもらえる環境も持たなかった私は、初めのうちはとにかく、それらしい標題、副題のある曲にしか興味がありませんでした。
 「交響曲第3番変ホ長調」だけだったら、この曲もすぐには買わなかったかもしれない。きっと。
 ところが、「英雄」なんて立派な名前が付いている、しかもジャケットの写真は、パリのエトワール凱旋門とくれば、小学生時代から平家、太平記、三国志と数々の軍記物語やナポレオンを含む東西の英雄伝に夢中になった少年には、これはもうきっとすごい音楽に違いないということで、買ってきたわけです。
 で、解説を読むと、なんと、この曲は、ナポレオンその人に縁があって、彼が皇帝になったのを、ベートーヴェンが怒って献呈の辞を破ったなどと書いてあるではありませんか。

 でも、白状しますと、最初はつまらなかった。
 その前に買った17cmLPがサンサーンスの「動物の謝肉祭」で、非常にわかりやすかったのに、これは英雄交響曲というだけで、具体的な描写もなければ筋立てらしいものがあるわけでもないのですから、当然です。
 まったくちんぷんかんぷん。
 そのくせ、曲が長いというのはあまり気にならなかった。後年マーラー等に惹かれていく下地が既にあったのかもしれませんねえ。

 でも、偉大な音楽というのはやはり力があるのでせう。
 何度も繰り返し(レコードといえば、サンサーンスとこれしかないのですから)聴いているうちに、だんだん良くなってきた。
 これがもう音楽の麻薬症状に冒され始めた証拠だったのかもしれませんが、これ以後、なけなしの小遣いをはたいて、次々に聴いたこともないクラシックのレコードを買っていく嚆矢となったのでした。


 その最初の「英雄」は、サー・エイドリアン・ボールト指揮ロンドン・フィルハーモニーの録音、当時まだ出始めたばかりのLP1枚千円の廉価盤でした。これはなかなか良かったのですが、英国の指揮者に冷淡なわが国の音楽評論のせいか、CD化されたという話を聞きません。輸入盤でも入ってきていないようだし...。
 私を本格クラシックに目覚めさせてくれた演奏なのに。


 でも、それじゃあ、4月に「英雄」たって、ただおまえの個人的思い出だけじゃん、と言われそうですが。たしかにそうです、でも、そもそも今月のこの1曲ってみんなそうなんですよね、と開き直っちゃおうかと思いましたら、ありました、この曲の公開初演は、1805年の4月7日だったのです。(やっぱり4月に縁がありました。)
 ということは、来年で初演後200年を迎えるということなんですね。
 ちなみに私がこの曲を初めて聴いたのは、ちょうどベートーヴェンの生誕200年の記念の年だったのですが。



 前置きが長くなりました。
 さて、エロイカ、英雄交響曲ですが、この曲は、番号どおりベートーヴェンの3つ目の交響曲で、1803年から4年にかけて作曲された曲です。
 が、まだハイドンの在世中、古典派音楽全盛の世に、50分前後の演奏時間を要し、緩徐楽章に葬送行進曲を置くなど、当時としては破天荒な交響曲だったわけです。

 シンフォニーとは、アリアや協奏曲などの花形ジャンルを中心としたコンサートにおける開始と終わりを告げるファンファーレのような存在だった、そこから、少しずつ古典派を代表する楽種へと深化させたハイドン、モーツァルトの例はあったとは言え、こうした少し前の時代のあり方からは想像もつかない隔絶した深みと偉大さを、この曲が交響曲の世界にもたらしたことは確かだと思います。


 この超有名なシンフォニーのナポレオンをめぐるエピソードは、いまさら繰り返しませんが、第1楽章の拡充されたソナタ形式、後期ロマン派のマーラーらを先取りしたような葬送行進曲という異種の音楽を交響曲に持ち込んだこと、などなど、古典期器楽音楽形式の極限を行くような、真の傑作というべきでしょう。


 特に第1楽章アレグロ・コン・ブリオ。これほど充実した大きな展開部は、ベートーヴェンといえども、このあとの作品では書いていないほどです。
 ハイドンが得意とし、ベートーヴェン自身も先行の2曲で採用した緩やかな序奏でもなく、といって直ちに第1主題で始まるのでもない、冒頭に、2つの主和音(1小節に四分音符1個に四分休符2個が続く形で、2小節)をぶつけるように奏して始めるというのも、独創的です。
 ただ、この2つの強奏主和音による開始部、実際はなかなかむつかしいらしく、四分音符なのに「じゃあん、じゃああん」と間延びしては論外ながら、これも決して少なくない。とは言え、四分休符2個分の間を置かず「ジャッジャッ」とせわしなく慌てたようなのも品がないけど、これもまた多い。
 というわけで、なかなかこれぞ英雄の開始と満足させてくれるものは意外に少ないのです。

 この直後の第1主題が、モーツァルト少年時代のジングシュピール(歌芝居)「バスティアンとバスティエンヌ」序曲の主題に似ているというのも今ではすっかり有名な話ですが(たしかに同じような分散和音的な動きですが、受ける感じはまったく異質)、そうしたありふれた和音を並べ替えただけのような主題から、あの壮大な楽章を構築していくというのはやはり驚き、ただ者ではありませんね。

 コーダも、これもしばしば指摘されているとおり第2の展開部というべきものです。
 この最後のほうで、高弦のきらめくような対旋律の刻みに乗ってホルンが第1主題を大きく奏で始め、やがてティンパニも加わって盛り上がっていくところだけは、この曲の価値さがわからなかった最初期の頃から胸を躍らされたものです。


 第2楽章は、アダージョ・アッサイ。葬送行進曲です。
 先にも書いたとおり、こうした類の音楽を交響曲に入れるというのは、ハイドンやそれ以前の人々には想像もつかないことで、古典交響曲の完成形のようにそびえ立つこの作品ですが、その浪漫的な性格を最も色濃く示すものでしょう。
 ロマン的といっても、この曲は、決してナポレオンの生涯や詩的な英雄譚を描いたものではないのは勿論ですが、この楽章こそは、ある意味ロマンティックな「英雄」の名に最もふさわしい音楽だと言えるのではないでしょうか。
 単純な緩徐楽章とは言えない、起伏のあるきわめて変化に富んだ楽章です。
 この楽章はいろいろな感情を込めやすいとも言えますが、この長丁場をだれさせずに、緊張感を保持して演奏しきるのもなかなか至難です。

 第3楽章は、スケルツォ。アレグロ・ヴィヴァーチェ。
 前楽章と一転して快速で、明るくおおらかな、「スケルツォ」らしい楽章です。
 中間部、トリオで、文字どおりホルンのトリオ(三重奏)が聴けるのも、ベートーヴェン流のユーモアか。
 ここは、実演で、うまくいくかいつもハラハラドキドキするところですが、さすがに一流オケのホルン奏者たちにとって、絶好の見せ場、聴かせどころなのでしょうか、なかなか立派に演奏しきるのが難しいこの曲にもかかわらず、概ね、どのCDもここは、ここぞとばかりに聴かせてくれるのはさすがです。

 第4楽章フィナーレは、アレグロ・モルトで始まる変奏曲。
 この主題をベートーヴェンは好み、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」中、ピアノ用の今日エロイカ変奏曲というニックネームで知られる独立した変奏曲などを、この主題で残しています。
 が、変奏曲としての充実、楽想の深み、管弦楽による音色、音響の変化も含め、やはりこのフィナーレが最高だと思います。

 最初は、急速な弦の下降音型で始まるものの、すぐに、低弦のピチカートとなり、弱音主体で進んでいく。
 この主題のバス部分と高音部分とがそれぞれに変奏されるような凝った変奏曲形式で、次第に力を増していくのですが、再びゆったりした弱音主体の変奏が続いたりと変化にも欠きません。
 古典派交響曲の終楽章の定型に似ず、この楽章は、けっこうテンポの遅い部分や弱音部分も長くて、一つの調子では進みません。
 この動と静、強と弱による変奏の対比、変化も聴きどころだと思います。

 そして、最後は、一気に駆け上がり、駆け抜けるような急速なコーダで、この大交響曲の幕を閉じるのですが、繰り返し、主和音をぶつけ、盛り上げていきながらも、のちの第5番のようにしつこく長々とコーダを膨らませずに、最後は終止和音もあまり長く引っ張らずに意外に素っ気なく終わってしまうので、ここを真にベートーヴェンが書いたようにけれんみなく、かつ全曲の雄大さの余韻も残しながら終えるというのが、これまた至難なような気がします。

 なお、この終止は、第5ほどではないにしても、多少なりともジャーンと延ばすのだとばかり思い込んでいたので、ジャン!と短く終わる演奏はいかがなものかなと思って聴いていたのですが、最後に細かく駆け上がってジャッ、ジャッ、ジャアンと締めくくる終わりの4小節部分、スコアを見ると、2/4拍子で、ジャッ、ジャッ、は八分音符で、八分休符と四分休符が続き、最後のジャアンは四分音符で、四分休符が1個付いていて、この休符のほうにフェルマータ記号が付いている。
 とすると、短く終わる方がスコアどおり?。
 でも、聴感上は少し延ばして終わる方がいいんだけど...。ふうむ。

 さすがに楽聖ベートーヴェンの交響曲、しかもこの代表的名曲については、多くの録音が残され、枚挙にいとまがないというのが事実で、ベートーヴェンでは御前橋の師匠には到底及ぶべくもない私ですら、すでに結構な数のCDを買い込んでいました。(そもそもあのはちろべえ師匠の前でベートーヴェンを取り上げるなどというのは、空恐ろしいことですが。おお、こわっ。)
 というわけで、その一つ一つを聴き込み、丁寧に感想を記していっては、恐ろしい突っ込みが入りそうですし、また膨大なメール容量にもなってしまうので、今回は、全体の感想とそれぞれ(と言っても手持ちの全てではなく一部)の印象を挙げさせていただくに止めたいと思います。

 まず、あらかじめ手の内を明かしておきますと、私の目下の手持ちの駒は、おおむね録音の古いほうから、トスカニーニ/NBC響が、1939年放送ライブ録音と1953年のスタジオ?録音の2種。
 フルトヴェングラー/ヴィーン・フィルによるものが1944年のライブと1952年のスタジオ録音、同じ指揮者とベルリン・フィルとの1950年の放送ライブ録音の3種。
 ワルターが、ニューヨーク・フィル(1941年)とコロンビア響(1958年)の2種。(このコロンビア響以下からがステレオ録音。)
 そして、セル/クリ−ヴランド管(1957)とクリュイタンス/ベルリン・フィル(1958年)、クレンペラー/フィルハーモニア管とコンヴィチュニー/ライプチヒ・ゲヴァントハウス管がいずれも1959年。
 60年代に入って、シュミット=イッセルシュテット/ヴィーン・フィル(1965年)。
 70年代では、クーベリック/ベルリン・フィル(1971年)とケンペ/ミュンヘン・フィル(1972年)、ブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレとヨッフム/ロンドン響が1976年の録音。さらにバーンスタイン/ヴィーン・フィル(1978年)も。
 80年代では、ブリュッヘン/18世紀管とチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルが1987年。ノリントン/ロンドン・クラシカル・プレイヤーズも同じ頃らしい。
 90年代には、ガーディナー/オルケストル・レボリュショネル・エ・ロマンティク(1993年)、アーノンクール/ヨーロッパ室内管(1990年)とマーク/パドヴァ管(1994年)。
 21世紀に入って、ラトル/ヴィーン・フィル(2002年)というのが内訳です。

 このほか、未聴のものでは、モントゥー(57年ヴィーン・フィルと62年アムステルダム・コンセルトヘボウ。早くモントゥーの全曲盤が出ないかな)、フリッチャイ/ベルリン・フィル(58年)とハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ(87年)に興味があります。

 先にも述べたとおり、この大作において、冒頭の主和音からほんとに決まったという出だしの演奏はさほど多くなく、第2楽章に美と緊張感を求め、終楽章が爽快でありながら軽すぎず、最後も感銘深く終わるということになると、もはやとてつもなく難しいものだということを告白しておかなくてはなりません。

 誠に僭越の極みながら、あえて言ってしまうと、いまのところの私のお薦めというか、好みは、ワルター/コロンビア響盤、コンヴィチュニー盤、クーベリック盤、バーンスタイン盤、ガーディナー盤でしょうか。
 クリュイタンス盤もこれらに迫るかしら。
 まあ、これは音楽のフォルムというか、音楽の再現における品位とバランスを最重要と考え、極端なデフォルメや恣意性(別の人にとっては最高の個性かもしれませんが)を好まない私の勝手で幼稚な感想に過ぎませんが。
 ほかには、ラトル、マークあたり。
 ヨッフムなんかも良いですね。

 ワルターは、温容で品はあるが、厳しさに欠け、オケも弱いというのが、多くのいわゆる評論家諸氏の「定説」のようですが、なかなかどうして、「エロイカ」でのワルターはそんなステレオタイプの評では理解しきれない魅力があります。たしかに品格の高いことは間違いなし。
 しかも力強さにも不足しないし、先のポイントをかなりの高得点でクリア。録音用オケということで端からオケが弱いと先入観で決めつけてちゃんと聴いていないのでは?と思わせる批評なんか○○食らえです。

 コンヴィチュニー盤は、クリュイタンス盤とともに、録音の古さを忘れさせる意外な良い音にまずびっくり。しかも演奏も、往年のドイツ正統派カペルマイスターらしい小細工のない堂々としたものだと思います。
 まさに英雄らしい英雄。フィナーレも物足りなさを感じさせることはありません。
 クーベリック盤も、同様に、落ち着きがあって、良い意味で適度に堂々としたもので、まさに過不足のない良い演奏です。
 地味と言うより、滋味と言うべきでしょう。
 その最盛期に、手兵バイエルン放響と全集をつくってほしかった。

 バーンスタイン/ヴィーン・フィル盤は、意外なほどオーソドックス(第1楽章では提示部を反復している!)で、他の作曲家の作品や特に最晩年の演奏から連想するバーンスタインの一般的なイメージからすると一聴おとなしすぎるのではと思うほどです。
 しかし、やはり聴き込んでいくと、たっぷりとオケを歌わせ、特に最後のコーダに向かう高揚感は格別で、素晴らしいベートーヴェンだと思います。
 ちょっとあまのじゃく的な選択肢として、近年多い古楽派からは、ガーディナー盤を挙げたいと思います。

 これは、ピリオド楽器オーケストラによる演奏で、先に挙げた伝統的なスタイルの演奏に比べると、かなりハイテンポで、第1楽章提示部を反復しながらも全体演奏時間は短い。(もっとも伝統スタイルでも、トスカニーニや特にセルなどはかなりハイテンポですが。)
 古楽派は全体にせかせかした演奏が多く、これもそうした傾向があります。
ただ、ここまで煽られると、かえってある意味快感で、たたみかけるような推進力すら感じますし、それでいて学究派的古楽派ながら歌わせるところは存分に歌わせるのがガーディナーらしいところです。(その意味では解釈的にはトスカニーニに近いかも。)
 第3楽章トリオのナチュラルホルンの三重奏など美しい。
 むしろ19世紀ロマン的解釈の垢を落として新鮮な颯爽とした古典交響曲としてのこの曲の良さを再認識させてくれます。
 ただし、古楽嫌いの人はやめた方がよいかも。
 冒頭の導入和音は、明らかに四分休符1個分しか間がなく、いくらなんでも急ぎすぎ。(アーノンクールなども同じ。)
 でも、第2楽章を経て、後半の二つの楽章は特に良い。

 クリュイタンス盤も、古い録音ですが、鮮明な音でCD化されています。
 やや整いすぎて、スケール感の点では難もありますが、速いテンポで、ソロのうまいこと。最後のコーダも余裕がありながら一糸乱れずという感じです。
 ヴィーン・フィルなら、もっとこの指揮者に適していたかもしれませんね。


その3を読む
 結局、私は、わざとらしくなく、品位と平衡感覚があり、それでいて、「歌」と「踊り」的な高揚感のある演奏が好きなのですね。
 原始的な音楽は舞踏から始まったという説もあるそうですが、抽象芸術音楽の代表たる交響曲といえども、やっぱり聴いていて上体が踊り出したくなるようでなくては、ね。

 トスカニーニとフルトヴェングラーは、対照的な両巨匠として、ベートーヴェン演奏のそれぞれの規範的なものと言われますが、なにぶんモノラルで、音がよくない。
 フルトヴェングラーの英雄は、古来名盤とされていますが、冒頭和音の縦線が揃わなかったり、いくら精神性を云々されても部分的には?マークも付いてきます。

 クレンペラー盤は、同じく巨匠的雰囲気たっぷりですが、堂々としたベートーヴェンながら、その音楽に忘我の境地とはならずに、常に、どこか醒めたようなところもあるのが、第2次大戦前、壮年期までは現代音楽初演の旗手でもあったクレンペラーらしい面目躍如といったところでしょうか。

 セルは、相変わらず極めて精緻な音楽をつくっていますが、この曲には他の要素もほしい気もします。

 シュミット=イッセルシュテット、ケンペ、ヨッフムという正統ドイツ楽長派の演奏は、いずれもオーソドックスで、しっかりした安定感のあるもの。ドイツ人ではないけれどブロムシュテットもこの系統か。

 田園が良かったので、聴いてみる気になったチェリビダッケは、この曲については期待はずれ。

 アーノンクールは、強い個性と考え抜かれた演奏ということは認めますが、この曲の好みの演奏か、と聞かれると...。

 マーク盤は、冒頭の和音から堂々と落ち着いていて、指揮者の解釈は上記推薦盤に準じるくらいになかなか良いと思うのですが、残念ながらオケの力がマーク晩年の解釈を完全に再現し切れてはいないのかなあと思わせる面があります。とは言え、昨今のメジャーな指揮者とオケに、これだけ真摯なベートーヴェンが聴けるかとなると、貴重です。

 その昨今のメジャー派の中では、出色のラトルの盤はというと、冒頭和音はちょっといけないなあ。そのあとは、例のハイテンポできびきびした若々しいベートーヴェンを聴かせてくれるのだけれど。
 古楽器演奏の成果も十分取り入れて、ヴィーン・フィルをドライブしています。もちろん第1楽章提示部もしっかり反復しながら、ぐんぐんと引っ張っていきます。
 カルロス・クライバーとは同じではないけど、似たような一種スポーティなまでの高揚感は得られることは請け合いです。往年の巨匠タイプとは明らかに違う新しい演奏?
 ヴィーン・フィルの弦に古楽オケ顔負けの斬新?な音を弾かせるというのもすごい。
 それでいながら、フィナーレの最後は、まさに前代巨匠風の堂々とした老舗ヴィーン・フィルらしい堂々とした締めくくりを臆することなくやってのけてしまうのも、やはりラトルは大物ですね。

 最後に、ブリュッヘンは、と思ったら、もう聴き直す時間がありませんでした。


 前のほうの断りにもかかわらず、またまた、冗長で、尻切れになってしまいました。ごめんなさい。
 ここまで読んでくださり、お礼申します。


 ではまた。
 おやすみなさい。


                 樹公庵  日々     敬白



[補遺]
 予想はしてましたが、やっぱり、案の定、はちろべえ師から厳しい感想が来ましたねぇ。
 曰く「しかし彼は画龍点睛を欠いた。彼は肝心な2点を聞いていないのです。ピエール・モントゥ指揮ウイーンフィル盤とフェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリンフィル盤この最高の名演2点を。」と。
 さて、そのモントゥー指揮ヴィーン・フィル盤は、本当にすばらしい。
 アレグロ楽章では速めのきびきびしたテンポで、余計な思い入れは廃し、奇をてらうこともない。まさに「古典」としての均衡の取れた演奏で、ベートーヴェン演奏の一つの模範がここにあります。デッカは、なぜ、モントゥーで、ヴィーン・フィル最初のベートーヴェン全集を完成させなかったのか?非常に疑問です。
 録音も、立体的で、1957年とは思えないほど美しい音で入っています。

 残念ながら、現時点では、フリッチャイ盤は未入手ですが、おそらくはモントゥーとは対照的にゆったりとした遅いテンポの悠然とした演奏と思われますが、いずれ手に入れたいと思います。

 なお、その後、懐かしいボールト盤も、国内でCD化されたようです。輸入盤を探しているのですが。

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