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現在の明仁天皇陛下は2019年4月30日で退位されて、諡号が平成天皇となられ、天皇家としては第125代の天皇となられます。世界でも、国の王として125代も続いている国は日本だけですね。初代神武天皇は、『古事記』や『日本書紀』によると辛酉年1月1日に橿原宮で即位してとなっています。明治時代の学者、那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、推古天皇9年(601年)から遡って1,260年前、紀元前660年と唱え、戦前までの政府は、神武天皇即位紀元の元年と制定し、皇紀を採用した。現在の西暦2018年は皇紀2678
神武天皇からの天皇家は、父系家族制で紀元前660年から永遠と続いていたのでしょうか。丁度その頃、日本の佐賀県の唐津地方・吉野ヶ里丘陵や福岡県の博多・早良地域に水田式稲作が中国から入って来た時代。その稲作集落の家族制度は、集落で田んぼを所有している主は、働き手として男性を必要とし、その男性を確保するために、娘の婚姻を望んだ。招婿婚ですね。現在では一夫一婦制ですが、その当時は多夫多婦制のようなところがあって、「ヨバヒ」ですね。夜になると働き手として男性が田んぼを所有している主の娘のところに侵入して、セックスをし、女が許せばその場で結婚が成立。娘が拒否し、また違う男性と交わる。そして、生まれた子は、娘が認めた男性を父とした。場合によれば、田んぼを所有している主が田んぼの跡継ぎと定める場合もあったらしい。女系社会だったのです。そんな母系家族制の時代に天皇家は父系家族制であるわけがありませんね。招婿婚は、早くても古墳時代まで続きます。平安時代の紫式部の『源氏物語』でもそんなシーンがあるように、藤原氏が摂政を行うためにミカドに娘を差し出し、政権を維持したのも招婿婚のなごりだと思います。
古墳時代までは祭政一致が行われ、政治を行うことを「まつりごと」と言った。元々は「祭り」から、「政」となった。「祭り」は女性が巫女として祈祷することですから、女系社会では集落の運営において、女性が巫女になって決めていた。『日本書紀』巻第五崇神天皇紀によると、「国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占うと、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという」とあり、
邪馬台国の卑弥呼が巫女として「まつりごと」をしていたように、推古天皇の時代に母方の蘇我氏が実権をもっていたように、ヤマト王権も母系家族制が残っていたのではないでしょうか。神武天皇から崇神天皇の間の天皇が欠史八代と言われ、『古事記』や『日本書紀』でも、豪族の娘が妃で皇子が生まれ、豪族の祖にあたるとかだけ書かれ、何をしたとかが書かれていない。欠史八代と言われてもしかたがないですね。崇神天皇以前、或いは仁徳天皇までもそうかと思いますが、この時代は母系家族制だったと。そして、神武天皇以来、天皇家が父系家族制ではなく、継体天皇までは政権交代が頻繁にあったのではないでしょうか。
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古代史ファイル
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日本国の前身であるヒッタイト(ヒムカイ)帝国では男系主義がとられており現在の皇室もその流れをくむとおもわれる。
斎王制度を見ればわかるようにあくまでも男系一族から選ぶことに例外はない。
孔子も日本人の血統主義を羨ましがっている。これは、男系主義が中国以上に徹底されていた証拠である。
大和時代と弥生時代に本質的な違いはないのである。
縄文と弥生の断絶性が以前は確認されていないためおかしな弥生史になってしまったのである。
弥生人は西アジア系民族なのである。(人種は混血)
2019/1/13(日) 午前 2:33 [ 弥生人はアーリア人 ]