松山市を流れる重信川と石手川の合流点を出会いといい、そこにある橋を
出会い橋というのです。市民に親しまれています。
しばらく訪ねていないので。ぶらりと出かけました。
重信川の鉄橋を渡る手前の駅を蒲田駅といいます。住宅街が増えたので
比較的新しく出来た駅です。ここで下車して、出会い橋に向かいます。
一つは正岡子規が東京へ留学中に松山の名所を選んで、思い出しながら
つくった句の一つです。
明治25年、松山にいた河東碧梧桐宛に手紙で送られてきました。
その時は下の句が、流れけりとなっていましたが、推敲の末
上りけりに変わりました。
もう一つは水原秋桜子の句で
樗(おうち)さけり古郷波郷の邑(むら)かすむ
(3)
「おうち」はセンダンの古名です。
昭和27年5月来松の時、馬酔木派同人五十崎古郷の生地(余土村)と
石田波郷の生地(西垣生村)展望して詠んだ句です。昭和戌辰63年5月建之です。
?H3> 広場が無くなっていました
(4)
この北詰には、ちょっとした広場があって、
食事が出来る店と正岡子規と水原秋桜子の句碑があったのです。
店の代わりに出会荘というビルが建っていました。門と塀で区切られているので、二つの句碑も、少し移動したようです。
「札の辻から一里十四丁」の石碑は句碑の側にありました。
出会い大橋は昭和52年に完成したのですが、工事のため、句碑は
河川敷内になるので、協議の末、現在地に移したということです。
が、再度の移転があったということになります。
ビルのそばにある小さな広場には、貯水用に使ったのでしょうか
大きい鉄の羽釜とか、白い象の模型とかが置いてありました。
昔、街道筋にあった「右松山道、左汽車場道」の道しるべも
放置されたように、置いてありました。
出会荘なるものがどんな施設なのか、聞き回ったのですが、
個人の持ち物ではということまでで。後は不明です。
二つの川が合流した所明治44年、木橋が架かるまでは
渡し船で行き来をしていたのです。子規は渡し舟でこの句をつくりました。
木の橋に次いで昭和13年には大橋が架設され、さらに現在の橋になったのです。
伊予鉄道の電車は、東がわにある古い橋を渡ります。
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>出会橋
松山に住んでいたときも知りませんでした。
宇和島に帰省するときに汽車で通っておりましたのに・・
懐かしく拝見いたしました。
2008/6/15(日) 午前 7:28
>梅足さん。
ご無沙汰しております。
宇和島のご出身ですか?。私も若いころ赴任していました。薬研堀に下宿していたのですが、このところサッパリ出かけません。
2008/6/15(日) 午前 10:30
松山の景色ですね…(*^_^*)
今月末に また松山市に遊びに行きます!
多分 『 風穴 』 には 天候が崩れなければ 連れて行って貰う予定です。
叔母にも この橋のこと 聞いてみよ!
楽しみです♪
2008/6/17(火) 午後 11:59 [ hassaku ]
>さくままサン。
皿ケ峯の風穴ですか。天候が良ければ楽しいでしょうね。ゆっくりしてください。
2008/6/18(水) 午前 7:11
はじめまして。
私も35年ほど前に住んでいましたが、全然知りませんでした。次回、愛媛に帰省した時は訪れてみたい。
ところで、駅名ですが、鎌田駅ではないですか?
最近出来たとありましたが、何年くらいでしょうか?
2018/12/3(月) 午後 11:04 [ exc***** ]
まだ若かりし頃、余戸南に住んでいた友達と漱石や芥川について語り合った懐かしい思い出があります。
暖かくなって五月の頃訪れてみたいです。
2019/2/1(金) 午後 3:08 [ exc***** ]