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いたたた・・タイ
2016・12/16−100万アクセス突破”皆さま感謝★★★★★★★★★☆

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■上写真を見てオヤ!「今日はいつものアササン」かと思った人も多いだろうが・然にあらず、少し深刻な話である。

先日ブロ友ぼそっとさんのブログでお母さんから虐待されてきたぼそっとさんがその捌け口を9歳下の弟に向けて虐待してきたことを告白していた。

それを読んでふと4つ下の妹を思い出し「妹は思春期の頃に受けた私からの虐待を共に70歳過ぎた未だに非難されています・・おそらく死んでも許してはくれないでしょう。」とコメントした。

この件に関してというより妹については、これまで一度も書いたことは無いが、そう先の長くはない身ゆえ反省を込め、ひと言記しておこうかと思った次第である。

私は3人兄弟の長男で2つ毎下に弟・妹がいるが、特に妹は美人で、高校時代は掛け値なしに学校一の美人であった(写真があるとイイのだが手元には一枚もない)。

当時私は大学生で美人の妹は自慢のタネだったが、シャイな私はそんな素振りは露にも見せず、あろうことか妹に悪戯(具体的中身は存命中ゆえ伏すが・)をして困らせた。

これがコメントに書いた「虐待」であるが、虐待という表現は虐めるという悪意があるが、私には全く悪意はなくあくまで悪戯で…妹に咎められて反省すぐに止めたのを覚えている。


ンで・・綾小路公磨風に言えばあれから40年(実際は半世紀以上経過)・3人兄弟妹も各々結婚そして子供=孫も出来(否妹の子供は未婚だが・・)特別な問題はなく、互いに不干渉で別々に大過なく暮らしてきた。

・・と書いてきたが、私たち男兄弟二人は高校卒業後東京の大学に進学、その後結婚して各々自立した家庭を持ったが、

美大進学を志望していた妹だけは果たせず実家に残って両親と暮らし、それをいいことに兄弟は両親を妹に任せてともに死ぬまで面倒を見させてきたのである。

実家に残った妹は父のアトリエで絵を描いてきたが、進学をさせなかった父とは折り合いが悪く、妹の結婚にも不仲の書道家の息子ゆえ反対してきた。

ちなみに妹が結婚したのは父の死の半年後で、件の書道家の息子と結婚したが、わたしたち兄弟は呼ばれず・・それをいいことに私も弟も不参のみならず何の祝いもあげなかったが、今思えば妹の無念さは如何ばかりであったろう。




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■妹の進学挫折やその後の不運については家族の酒席で散々愚痴を聞いてきたが、34年前だったか妹から突然思春期に受けた私からの「虐待」について非難され、なんで半世紀も前のことを今更と沈黙するばかりの私であったが・・・。

今よく考えてみれば「虐待」の中身と私が考えた“昔の悪戯”は思考力を欠くオッサンへの可視化を狙った極端な一例で、

この半世紀にわたって妹が受けてきた積もり積もった挫折と怨念の重石、それこそが「虐待」の本質だったのでは・・?



ところで上の怖い怪猫の彫像は妹の作品であるが、私を見つめる猫の顔が妹の気持ちを見事に代弁しているようである。


怖い!!!































ちゃんちゃん

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イメージ 12017年もあとわずか・・今年一番大きな出来事はやはり111日の母の逝去だろう。

大正6年(1917年)420生まれだからあと三月ちょっとで満100歳、数えなら享年「百寿」の大往生であった。

母の郷里は福岡県築城郡寒田(サワダ)村(現築上町)、周防灘(瀬戸内海)に注ぐ城井川最上流にある山奥の村であった。

なお、この村のことは7年前に「母の郷里と寒田ばなし」という記事を2にわたって更新したことがある。
 
父の郷里は私の生まれ故郷現行橋市道場寺の隣村徳永だったようだが疎遠で、子供の頃はもっぱら母の郷里寒田に行っていた。

イメージ 2母は3人兄妹の2番目(長女)で長兄はミャンマーのインパール作戦で戦死、妹は大蔵官僚に嫁いだが、父と母の馴れ初めは日赤病院の看護婦だった母が満州から寒田村に帰国後、「寒田美人」の評判を聞いた父が尋ねたのが切欠ではないか?

詳細は不知だが、当時の父は村では異形の絵を描くモボ(遊び人)だったが、祖父のコネで地元高校の美術教師になったばかりの30歳(昭和17年)で、満州帰りの母(23歳)も田舎人とは異なる父に魅かれて結婚したのであろう。

そして翌年私、次いで2年ごとに弟・妹が生まれて結婚生活がスタートしたが、子供はまあまあ順調だったものの酒飲みで我儘な父の放蕩にはずいぶん悩まされたようで、父に打たれて泣いている母の姿をよく記憶している。

しかし母はいつまでも根に持つ後ろ向きタイプではなく、どちらかというと楽天的ですぐに回復する前向き人間だったようである。

父が66歳で急逝した1978年以降は妹と喧嘩しつつもまさに第二の人生を謳歌して40年、100歳で大往生するまではまさに悠々自適、好きな手芸と俳句をひねり、ひ孫10人にも慕われ、こんな幸せな人生を味わえる人はこの先そんなに沢山はいないだろうナ。


母と最期に話したのは2年前「呵々大笑!母健在也」だが・・・、

その私が「父ちゃんはもう地獄へ行って40年にもなるけど毎日鳥に突かれて大変じゃろうねえ、 シデエ(母の名前の略)お前もハヨこんかと夢に出てこんかね。
「否、母ー父ちゃんが出てきたことは一遍も無い、そやけど鳥は1000羽くらい撃ったろうからずっと突かれちょるやろねえ・・でも私父ちゃんに呼ばれても地獄には行かんよ」
私ーそうよねえ父ちゃんは地獄で40年暮らしとるが、考えてみれば母ちゃんはこの40年間極楽生活じゃもんネエ・・特に特養に入ったココ45年は寝ているだけで上げ膳据え膳お風呂にトイレ何から何までひとまかせ・」

・・などと呵々大笑したことがついこの間のように思い出される。





























ちゃんちゃん

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記事の内容が難しくてよくわかりませんこれは本日、当ブログの一番古い読者TMさんから指摘されたコメントである。

言われてみれば昨今の記事はややこしい屁理屈が多すぎるような気もしないではない・・私も来年は「ジジイの真打」=後期高齢者ゆえ、頑迷度が一層進行したのではと考える今日この頃である。

そんな中チェンマイ暮らしは13年、先ほどバイク運転の折思ったがもし日本だと私は寝たきり老人か養老院がイイトコだろうなあ・・

・・と3年前から白内障・糖尿・脳梗塞で今もフラフラ歩行と同時に毎日バイク・水泳そして2日に一度の○○○ナンゾとんでもない話・・まさにチェンマイさまさまであるが、同時に目には定かで無いがお迎えの支度も確実に進行中である。


イメージ 1身辺では91日弟(72歳)の嫁が癌で他界・享年67歳と若く、美人薄命を絵に描いたような福岡一の博多美人で、弟の数少ない自慢の一つだった。

博多駅のデパートの宣伝部に就職した弟が店内一の美人を見初めて結婚したもので、当時はデパート中の男どもの羨望の的だったようであるが・・

★アレっ!私は結婚式行ってない(当然葬式にも・)・ナなんとも不義理な「総領の甚六」でありますナ・・合掌。


しかし私と違って美人を嫁にもらった弟はどうにも頭が上がらず、実家では嫁さんの悪愚痴ばかり言っていた反面、その実は典型的な嫁ァ天下で給料は全額渡し、退職金も年金も同様でつまり死ぬまで管理下におかれていたようである。

葬式後テル・解放されたのなら一人で大きな家に住むよりいっそチェンマイでも来んかと言ったが、無理なようだ。

聞けば嫁さんが退職金のほとんどを注ぎ込んで家をリフォームしたので貯金が無く、当座の渡航費用や支度金の捻出が困難とのことであった。

で当面は広い家で犬と一緒の独身生活を余儀なくされるようであるが、20年間自炊生活をしてきた私と違って嫁食依存だっただけに自活の道はなかなか大変そうである。


以上行き当りバッタリに書いて来たら弟の話になっちゃったが・美人の奥さん誰に似てるかと娘にテルしたところ「稲森いずみ」に似てると言うので画像を検索したのが上の写真だが・・そういえば雰囲気は似ている感だが とにかく美人でしたなあ☆

















ちゃんちゃん
 

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前回の「奥様ただいま外遊中」は久方ぶりに入りがよく、調べると昨年10月21日以来7ヶ月ぶりにアクセス350を超えていた。

昨年の「タイ史再考」や前々回の「メーデーと新嘗祭」のように調べて書く記事よりも奥様やPあるいは交遊録など人物記事の方が入りはイイようだが・・本日はそのどれでもないストック写真記事だが・・・先はどうなるかわからない。



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■つまり・・特に書くことが無いのである。         ・・で上写真は昨日ベッドから撮った私の部屋の写真である。

左手に黒いPCのある机、右はポットや本やコーヒーなどがゴチャゴチャ置かれた2つの机が並び、右奥は洋服ダンス。

手前のちゃぶ台との間に硬い板張り椅子がありますが、椅子の左右に掛けてあるフクロウ人形を模した2つの布袋がお爺さんの部屋とは思えないほど可愛イイでしょう。

実はこの布袋を見せたいために写真を撮ったのですが・・これは3月末よく特売セールをやっているチェンマイ駅近くの北部産業会館で買ったもので、一枚が80バーツ(240円)で一回り大きいのが100バーツ(300円)。

同じ場所で買ったサンダル入れに購入したのですが、Pが見て可愛いから日本土産にしたらと言われ大小4枚を購入した。


イメージ 2■しかし、チェンマイ土産で何を持ち帰っても喜ばれた事は無いのを思い出した。

ちなみに1月の母の葬儀では私の好物である巨大パパイヤ(写真)を当局には内緒に苦心して持ち帰ったが、

孫(孫Kは不在)を含めて気持ち悪いと誰も食べるものはなく、見本に私が喰って見せても食べたのはチェンマイに来た事のある弟が少し齧っただけ・・あんながっかりした事はなかった。

で今回のフクロウ袋も郷里への法事に持参、それを欲しいと言えばあげようと見せびらかしたのだが、奥様も妹もナンの反応もなくパパイヤの二の舞は御免だと黙殺、一枚だけ反応のあった東京の友人に上げたが残り3枚はタイに持ち帰り、今は重要書類入れと買い物籠及び薬入れに重宝している。

考えてみればチェンマイ土産で喜ばれたのは孫Kの注文に応じた竹虫のから揚げだけだったかなあ・・。


■これだけじゃあナンなのでもう一つ。


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■右の2体の仏像は「聖観音」と呼び、亡父が彫ったものだが、1月の母の葬儀に妹が形見分けとして皆に贈呈したようだ。

父は郷里の高校の美術教師で油彩画が専門だったが、休暇は全て趣味の狩猟や漁労に費やしてきた遊び人で、特にキジ・コジュケイ・鴨を中心とする狩猟(左写真)は最大の楽しみで、猟期の冬はほぼ毎日鳥殺しに出かけていた。

又酒好きで自宅の床下でどぶろくやワインを密造、獲物が獲れた日や春の花見には大勢の同僚・友人を引き連れ、飲めや歌えや踊れや騒げの大宴会をやっていた.

だが暴飲暴食のわがまま生活が祟ったのか、50代後半に胃癌を患い手術で一旦回復したが、しかし酒は止められないまま退職後23年で癌が再発、最期は肝硬変を併発して手遅れとなった。


イメージ 5そんな中・2度目の胃癌手術後に始めたのが聖観音像の彫刻である。
 
つまり術後激痩せして体力が消耗、猟へ行くことも困難となったのを機に猟銃と銃所持許可証を警察に返上、

是までの鳥獣殺生兼饗食供養にと仏心が生じて聖観音の木彫を始めたのである。
 
父はやり始めたら一途な凝り性タイプで、銘木店で楠の大木やイチイの木を購入、以来千体仏成就を目標に毎日根を詰めて彫り続けてきた。ー私も一度白檀の銘木をプレゼントした事がある。
 
結果的には千体仏は成らず、700体あたりで他界したが、この間約5年だから1年に140体のハイペースであった。

■上の写真はA新聞の地方版掲載のために背広姿で彫っている父であるが、なんとも珍妙な写真ではある。


そんな父を見て近所の俳句好きのM婆さんが詠んだ句が忘れられない。

いわく「銃持つ手仏刻むや花吹雪」である。

長年鳥獣を殺生してきた銃を捨て、今は仏を刻んでいるが、外では桜の花が吹雪のように乱れ散っている。
 
花吹雪とはどんな意味なんでしょう、母は俳句は季語を入れなきゃならないから入れただけで特別な意味は無いというが
 
桜花はもうとっくに散ってしまった、今頃やっても手遅れ、無駄なことをやるなのたとえだろうか。
 
父の享年66歳に並んだ今、私はもう少し無駄でしょうもないことをやってみようと思っている・・・と書いたのは8年前の私の誕生日だったが、早いもので来週には74歳になる。




























ちゃんちゃん

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前夜YouTubeで伊丹十三の「お葬式」を見て寝たのだが、なんとなく寝つかれず5時起床,ブログコメチェックすると「母さんが亡くなった。4時20分頃・・KOボーイ」のコメントに遭遇!

KOボーイには心当たり無いが、母亡と「お葬式」の残像とからピンと来て弟へ電話するとピンポン・・本夕6時通夜で明日1211時葬式とのことだった。(ちなみにKOボーイとは後で私の姓Kと弟の名前Oの略だと判明した) 


ちと早いナァ!・今日はビザ更新日だが・・でも通夜は間に合わないにしても葬儀には大丈夫だろうと思い、午前中はビザ更新手続きとチケットの依頼連絡で潰し、昼ツアー会社へ行くと明日920分福岡空港着の便しかなく、しかも当日券ゆえ通常の4倍の往復12万円しかないとのこと。

仕方なく購入するが空港から自宅葬儀場までは最短でも2時間、仮に飛行機が遅れれば葬儀には完全に間に合わない。私は長男だがそうなりゃ喪主はKOボーイが代行するだろうし火葬には間に合うだろう・・面倒な挨拶抜きならそれもいいかと計算、逆に気が楽になった。

で、チェンマイ発は深夜0時となったが、その間「空港へ弟の息子が出迎え高速経由だと間に合うかも」と娘よりテル・・どうやらKOボーイ(弟)も喪主は避けたい様子か(?)。

飛行機は大韓航空、乗客の大半は韓国人とファランで日本人がパラパラ・・前回の「世界一美顔」で整形大国韓国の話題があって注意して観たが、大半が整形とは無縁の小太りオモニ(おばさん)ばかりであった。

さて福岡空港到着は定時の9;20ぴったり、確か15年前に会った弟の息子(35歳) が車で出迎え、以前には無かった東九州自動車道開通とかで葬儀開始ゼロ分に到着、大慌てで奥様の持参した喪服に着替えて杖を頼りに喪主席に座った。

と同時に葬儀開始、坊さんのお経の間、司会がきて喪主挨拶の依頼・・「お葬式」では奥様の父親の葬儀の挨拶を嫌々頼まれた山崎努が挨拶までの葛藤の間セクスを迫る愛人の出現その他てんやわんやの出来事が終わってさて挨拶の直前で葬儀者の奥様(義母)が代行する話だが、私の場合はその逆の直前に間に合ったわけで頭は混乱。


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■祭壇を見れば私よりも若い60代のお袋の写真が微笑んで私を見つめ、傍には「春空静桜永寿大姉」との戒名札が立っていた。

「春空」とは母の誕生日4月20日の春の空で、「静桜」とは母の名前静枝と、桜はわが家のシンボル庭の八重桜で遺影の背景に或るピンクの花、「永寿大姉」は母の長寿を讃える称号で、大変素晴らしい戒名である。

しかしながら御坊の先ほどのお言葉で98歳と聞いて吃驚、私は享年100歳つまり満99歳とばかり思っていたが1つ鯖を読んでいたようである・・・、したがって「百寿」では無く「白寿」であるが、目出度いことには大差なし、母は何一つ思い残すことは無いと確信している」と話した後、

しかしながら私は母晩年の10数年間は一切を妹一人に任せ、タイに移住して放蕩三昧、その天罰か当たったのか昨年は脳卒中を患い、今もこのようにふらつく脚を引きずりながら葬儀に駆けつけた有様、面目次第も御座いません・・などという散々たる挨拶となった次第である。

終わって隣家の幼なじみのFちゃんと一杯、「Tちゃんあんた役者やのう」と言われた・・・私の挨拶ではなく挨拶の時に杖を離してちゃんと立ってしゃべっていたからなんだそうである。


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■とにかく疲れて本日は10時間以上寝たようだ。

写真は50年振りに見た冬の郷里のわが家、子供の頃には背の高さしかなかった棕櫚の木が成長、近所から「3本椰子の家」と呼ばれているそうである。





























ちゃんちゃん

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