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いたたた・・タイ
2016・12/16−100万アクセス突破”皆さま感謝★★★★★★★★★☆

書庫むかしの話

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前回の「キリマンジャロの雪・今昔」は全2日をかけて仕上げた自信作であったが、読者の反応は鈍くアクセスもイマイチであった。

そんな中例に挙げたハリウッド映画「キリマンジャロの雪」の出演者グレゴリーペック・エヴァガードナー・スーザンヘイワードの名前を見て3人とも顔かたちがすべて記憶に残っていることに自分でも驚いた。

彼らは1950年代の映画スターだから私の小学校時代に相当するが、当時私の村(福岡県京都郡仲津村)には映画館など無く、映画は年に1・2度小学校の体育館に巡回してくる教育映画か、農閑期の秋の田畑にスクリーンを張って上映する有料映画くらいのモノで、もちろんテレビなど皆無の時代である。

イメージ 2いま印象に残っている映画は小学校体育館で見た初の部分カラー映画「オズの魔法使い」と田んぼの裏から盗み見した「旗本退屈男」(写真)の2つが印象深い。

したがってハリウッドスターなんぞお呼びじゃなく、私が初めて洋画を見たのは町(行橋市)の高校に入って以降授業を抜け出して行った映画館で観た「マンモスの逆襲」だが、巨象が暴れた以外記憶にない。


では何故ハリウッドスターを記憶しているかと言うと今思えばだが、やはりマッカーサー率いる米進駐軍GHQ(日本占領軍)によるS(スクリーン・スポーツ・セックス)政策による日本人洗脳白痴化作戦が大成功を収めた結果ではなかろうか

なんせちょいと前までの日本人は一億総自爆テロも辞さない狂気の集団自決民族で、今日のイスラム過激派テロのモデルとなったことは周知のことである。

GHQはこれを変えるために軍隊の廃止と民主憲法を制定したが、同時に一種のガス抜き政策として3S解放作戦が不可欠のものだったのである。


イメージ 1で話は飛躍したが私とハリウッドスター名暗記の件に戻ると、当時唯一最大の情報源だった新聞の映画案内広告の影響が大きいと思われる。

映画広告はプロ野球結果とともに子供にも興味ある話題で、ハイヌーン(真昼の決闘)の広告を見ながらゲーリークーパーてなんてカッコいいんだろうと思い、同時に共演のグレイスケリーもチェックしていたW

そしてシェーン!カムバックのアランラッドやヘンリーフォンダ・ジェームズスチュアート・カークダグラス・グレゴリーペック・バートランカスターなどの名前を覚えて行った訳で、個人的には未だスクリーンでは見たことが無いがゲーリークーパーが一番の二枚目(イケメン)スターだと思っていた。

ちなみに当時の女優はセックスシンボルだったマリリンモンローが有名だが、子供には単なるデブのオバサンで色香は無論理解できず、同様に日本のスターも長谷川一夫・市川右太衛門などの二枚目男優が中心で女優は記憶の外だったような。

ンで女優の名前に関心を持つようになったのは、色気付いてきた中学2年以降だったかなあw。



以上幼年時代に3S政策によって洗脳されていたオッサンの追憶の一端であるが、いずれにせよ3S政策こそが今日のエロオヤジ・ヒヒジジイ的日本人形成の原点となったともいえるだろうナ・・

ンで・・・ナニか?





















ちゃんちゃん

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イメージ 1■私は30歳から30年間東京都高校の教師をやっていたが、その間並行して国土地理協会発行の「世界とその国々」という加除式の地理資料誌を執筆していた。

以前は私の大学同窓の堂前亮平君(写真)がやっていたのだが、彼が沖縄国際大学教授に赴任するにあたって「世界とその国々」の執筆を私に委託したものである。

以来30年植民地を含む世界全ての国と地域の自然・歴史・文化・産業経済・交通等について加除式で更新、ほぼ56年で世界を一周した計算だから30年で世界を56回廻ったことになるだろう。

変動の大きい産業経済交通統計は毎月出版社から送付され資料分析も大変だったが、半分はこのブログ同様趣味みたいなもので、ブログと違って原稿料収入はありがたく飲み代のほとんどを賄ってくれていた。

本は広辞苑を2倍にしたような分厚い二冊本で買えば値段も一冊1〜2万円と高いため個人向けではなく、主に学校や公共図書館が納付先で、毎月送られてくる加除式冊子(千円くらいか?)を司書さんが入れ替えていたようである。

執筆をやめたのは出版社が発行を停止したからで、継続発行の要望は少なからずあったようだが何よりも加除式入れ替え冊子形式が時代に合わなかったことが一番の理由であろう。

定年と同時にやめたがもし今も発行していたら私はチェンマイにはいないだろうから・・今思えば最適な時期にやめたと思っている。

イメージ 2■その本は勿論執筆者の私にも送付され、読み直してみようとタイに持参する予定であったが、タイに来たその年の暮れに私の衣服とともに全ての本類(百科事典・辞書を含む)をわが奥様が断捨離してしまったのである。

何で今日はこんな話を?と言うと昔「世界とその国々」時代に書いたエピソードを思い出し・もう先が短くなった今「好奇地理博物誌」との書庫を開設、再考してみようかと思い立ったのである。

「世界とその国々」の本はまだ図書館に行けば置いてあるはずだがと思いネット検索してみるとマイミーレーオ(どこにも無い)・・考えてみれば14年前に廃刊となった本だもんな。

しゃあない・あれは写真だけでも載せようかと思ったが、代わりに「断捨離夫人」の描いた私の顔(画像)を紹介しましょう。‘なお、この 絵については喧騒と奥様の絵をご覧ください。

てな訳で次回から新連載「好奇地理博物誌」を始める予定でやんす・・乞うご期待。






























ちゃんちゃん
 
 

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イメージ 1昨年のいつだったか・・ブログで昔私が油絵を描いていたことに関して元ブロ友から、「何で止めたのだもったいない今からでも遅くはない描いたらどうだ」の催促があった。
 
それに対して「絵を止めたのは私に才能がなかったからだ、才能があったら今も続けている・・時にいま続いているのはこのブログだが、ひょっとしてブログを書く才能はあるかも知れん」と答えた。
 
しかし、元ブロ友は「絵は描く価値があるが、ブログなんて“屁の突っ張りにもならん”ものを書いて何になる」と現下に否定され、そこまで言うこたァ無いだろうと以来気持ちが彼から離れていったことを覚えている。
 
“屁の突っ張りはいらんですよ”とは昔漫画キン肉マンでも流行った言葉だが、屁で倒れてしまうほどの役にも立たない突っ張り(つっかい棒)という意味で、何の役にも立たない徒労の喩えである。
 
 
ところで“屁の突っ張りにもならん”という言葉は、その昔私の父からも言われたことを記憶している。
 
私は昔から役にも立たないことをすることに熱中する癖があり、小学校高学年の頃は架空のプロ野球スコアボードを付けるのに熱中、ノートに実在の選手を記入して架空ゲームを展開するというアホな事を勉強のふりをして隠れてやっていた。
 
つまり、父の“屁の突っ張りにもならん事をやるもんじゃない“との言葉は、その架空ゲームが見つかった時に言われたのが最初で、まさに返す言葉が無かった。
 
しかし、無駄だと分かっていることをやる喜びと言っては変だが、有益なことばかりやってたんじゃあ人間の器が小さくなるなどと嘯きつつ、その後も大相撲やテニスその他から県別国別対抗戦まで拡大してシコシコとやっていた。
 
 
次に言われたのは大学卒業後就職もせずに油絵を描いていた頃、“屁の突っ張りにもならんことは止めて定職についたらどうだ”と言われた。
 
これも私の父が案じて上京、私のロクでもない暮らしを見て思わず出た言葉のようだが、絵描きの父が絵を描いている息子にいう言葉としてはやや矛盾するので、或いは別の人だったかも知れない。
 
しかし、言われてハッとして止めたかというとそうではなく、先の架空ゲーム同様その後もだらだらと続き、絵をやめて定職に就いたのはそれから5・6年経った30歳の頃であった。
 
 
つまり“屁の突っ張りにもならん”ことはこのブログで3回目だが、1度目の架空ゲーム、2度目の油絵は疾うに止め、3度目のブログはもう7年続いている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん
 

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過日トマトさんのブログで、<たぶん誰も知らない歌>として「出べその歌」というのを紹介していた。
 
歌の内容は「ある国に馬鹿な王様がいて自分が馬鹿なのはヘソがあるせいだとヘソに文句を言ったところヘソは怒って飛び出した」つまり出ベソになったという奇妙奇天烈な歌である。
 
全く聞いたことがない歌でもちろんネットで調べても不明で、心当たりがあるという読者も皆無であった。
 
で私はそれはトマトさんのお母さんが作った歌じゃないかと思ったが、「母は自分で歌を作れるような人ではありません」とトマトさんは否定した。
 
しかし、そんなに難しい内容でなし、メロディ(節)もごく単純なものとすれば、100%トマトさんのお母さんが作った替え歌じゃないかと確信した。
 
というのは私もその昔歌ではないが、似たような作り話を二人の子供たちに寝物語として聴かせた記憶があったからである。
 
 
 
 
イメージ 1
 
お話はいつもその場で思いついた出鱈目なモノゆえ内容はほとんど覚えていないが、題名だけは「バババババアちゃんの大冒険」と記憶している。
 
これは子供たちがお話しをせがむ際「バババババァちゃん」の続きを話してくれと耳タコになっていたからである。
 
しかしホンのおさわりでもいいから再現できないだろうか、ふとトマトさんが出ベソの歌を記憶していたのを思いだし、娘に聴いてみたら記憶にある一節でも思い出すかなと☎したが、いまスーパーで買い物中であった。
 
もっとも聴いたところで大した話が出てくる訳もないが、おそらくバババババァちゃんがヘソで茶を沸かしたとか、目からウロコでなくウンコが落ちたとか荒唐無稽な屁のような話ばかりで、日本昔話にあるような含蓄のある内容のものは皆無であった。
 
しかし子供たちはデタラメの度合いが強いほど喜んだようで、ゲラゲラ笑ってスクスク育ち、今また子供に似たようなお話しを聞かせているようである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん

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昔むかしに描いた絵

昨日やっと娘と孫3人が帰阪、台風一過である。
 
少し余裕が出て物置部屋に入って見ると昔私が描いた絵が出て来たので順不同で紹介することにした。
 
サインを見ると1970年代に描いた小品が中心で、今から3540年前のモノである。
 
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       「夜の材木運河」M6
 
 当時私は墨田区立花町の木造4畳半のアパートに住んでいた関係で、どんよりと澱んだ下町の運河風景を好んで描いていた。
 
 
上の二枚の絵は墨田区()と江東区()の境界をなす北十間川で、隅田川と旧中川を東西に結ぶ運河であるが、当時下町の運河は軒並みびっしりと材木筏が浮かんでいた。
 
なお運河の右手に見える黒い建物が奥さまの通っていた旧K商高校で、私は同校の講師として美術部を指導したことが腐れ縁となった切欠である。
 
ちなみにK商は当時下町では唯一のセーラー服高校で、舟木一夫の「高校三年生」のモデルとなった高校として有名だった。
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
 
「冬駆ける日」F10
 
これも下町、亀戸は明治通り、小名木川(運河)にかかる五の橋付近。
 
寒い冬の日、子供たちが少し小高くなっている五の橋を駆けていた、左手の車は都バスである。
 
  
 
 
 
イメージ 7
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
          「町並み」F4
 
私の住んでいる町をピカソ風に書いたモノである()                           
                                                                           「洗濯物のある風景」F6
 
 
空に舞う洗濯物とピエロのような赤ん坊、意味不明な未完の作品だが、
 
私の住む町で目立ったのは洗濯物でしばしば似たような絵を描いた記憶がある。
 
 
 
 
イメージ 4
 
「場末のキャバレー」20F
 
当時の私は時間講師だけの給料では食えず、キャバレーのボーイや屑やお払いなど色んなアルバイトをやっていたが、その時の印象を描いたモノ。
 
衝立の傍でカクテル盆を抱えているのが私で、架空の窓から覗く子供は幼い私のイメージである。
 
 
 
 
 
 
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「すすき河原」M4
 
これは水彩画で、確か和泉多摩川にスケッチに行ったときのモノ、冬の日寒かったことを覚えている。
 
 
以上昔の絵のほんの一部でやんした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん

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