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いたたた・・タイ
2016・12/16−100万アクセス突破”皆さま感謝★★★★★★★★★☆

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今回の大貧民旅行で強く印象に残ったのは片道30時間の空の旅で見たアラビア半島(サウジアラビア)からカイロ(エジプト)に至る砂漠の景観であった。
 
最初に見たのは朝5時過ぎ上の地図のエジプト航空ルートの航×空あたりで、
 
 
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まるで波のような砂丘模様だったが・・
 
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次いで川のようなワジ(涸れ川)の跡もくっきりと見えた。
 
 
 
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エジプトではナイル川に沿う緑のオアシス(手前)と不毛のリビア砂漠(上方)、
 
その接点にはピラミッドも見える
 
 
 
 
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ナイル川両岸を埋め尽くす巨大都市首都カイロ(都市圏約1700万人)
とそれを支える広大なナイルデルタ等々・・・
 
 
 
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しかし、何よりも印象的だったのはこのような明らかに人工的に描かれた「黒い水玉模様」であった(※上図エジプト航空ルート×付近)。
 
 
 
 
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ハハーン!これが噂の化石水を利用したサウジの農園だなとピンときた。
 
×     ×     ×
 
化石水とは砂漠の地下深くに眠っている地下水のことで、太古の昔に地中に取り込まれた海水が蓄積して地下帯水層を形成したものである。元来海水のため塩分濃度が高く飲用には適さないが、農業用水としては十分である。
 
その地下水を汲み上げて巨大なスプリンクラーで灌水する農業がセンターピボットと呼ばれる円形灌漑農園で、第二次大戦後アメリカ内陸の乾燥地帯グレートプレーンズ(大平原)で始められたのが最初であるが、1970年代以降砂漠の国サウジアラビアで急速な発展を遂げて一躍脚光を浴びてきた。
 
降雨はゼロに近い砂漠気候の卓越するサウジでは元来遊牧を除く農牧業は極めて不利な状況に置かれてきたが、1970年代後半の石油危機以降の原油価格高騰を背景とした大規模農業開発計画を推進、穀物・牛乳・食肉・鶏卵・野菜に至る食糧自給体制の確立を目指してきた。
 
 
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うち最も目覚ましい発展を遂げたのは化石水を利用した小麦栽培を中心とする穀物農業で、農家に小麦トン当たり約1000ドルという高額の買い取り価格もあって生産量は急増した。
 
その結果、1986年以降穀物自給体制を確立したばかりか小麦輸出国に転じ、92年の小麦生産量は420万トンと国内需要量160万トンの26倍強に達する著しい供給過剰に陥った。
 
しかし、国際価格の67倍もの国内価格では大幅赤字輸出の継続は困難で、サウジ政府は1993年以降小麦買い上げ価格の段階的引き下げを打ち出した。
 
さらに2008年1月、国内での小麦買い上げ量を年間12.5%ずつ減らし、2015年までに100%を海外からの輸入に切り替える小麦栽培放棄政策を打ち出した。
 
イメージ 9この背景には巨額の財政負担とともに大量の地下水汲み上げが深刻な水不足を招いているためで、
 
特に化石水を中心とする希少な水資源の枯渇化が大きな問題となっている。
 
ちなみにサウジは水の供給の80%以上(残りは海水蒸留)を地下水に依存、
 
2000年の水の消費量は141億立方メートルだが、このうち農業用水が80%近くを占めており、農業用水の節減が緊急の課題となっているのである。
 
つまり小麦は石油の余剰金で輸入できるが、貴重な水資源を全面輸入するリスクの方がはるかに問題が大きいのである。
 
 
 
しかし、水の供給が絶たれるとたちどころに緑の円も消滅、機上からも左のように半減あるいは消滅しかかった黒い水玉模様がいくつも見られた。
 
 
★ちと専門的すぎましたナ(反省)

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大貧民旅行最終日、ブダペストは日本人宿は無いかとネット検索すると2軒あり、うち安そうな名前のアンダンテホステルに予約した。
 
バス・トイレ共同だがネットフリーで15E(約1800円)とお手ごろ価格。オーナーはヨシさんという40代の青年(?)、当然お客は日本人若者バックパッカーが中心。
 
宿に着いたのが夕刻7時くらいか、若者が56人で夕食の準備をしている様子。2階のベッド(私一人だった)に荷物を置いていつものようにスーパーでワイン・パン・ベーコン・パプリカなどを買って戻ると
「フォアグラ食べますか?」と声をかけられた。
 
ガチョウの肝臓を肥大させたフォアグラはトリュフ・エスカルゴとともにフランス料理3大珍味の一つであるが、そのフォアグラのほとんどはハンガリー産でハンガリーが世界一のフォアグラ産地と聞いたことがある。しかし、Yさんとの大貧民旅行にフォアグラなんぞもっての外、ン?このバックパッカー連中は只モノじゃないなと見直す。
 
しかし、そうだとすれば私も只では悪いと買ってきたワインを差し出してお相伴、今回は一人だったのでいつもの安物でなくブランド品のエゲルであった。聞けば皆でシェアして夕食するようで、今日は私がひと月前にソーセージを買った大市場でフォアグラを仕入れて来たらしい。
 
 
 
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それにしてもみんなビチビチの若者ばかり、聞けばバイクで世界一周をやっている若者、最初に南アフリカ・ジンバブエからここへ来たという若者、ブダペストのリスト音楽院の学生だという女の子、ブダペスト大学医学生などなど実に様々な元気いっぱいの若者たちがたむろしていた。
 
そして海外というせいなのか皆明るく人懐こく、私のような胡散臭いオッサンにも親しくすり寄ってくるから嬉しい。そうい言えば6年前だったか私の息子もバックパッカーでこの地に来たようで、色々お世話になったと思うと彼らにワインもう一本買ってらっしゃい。
 
 
 
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写真は私が手をかざしているが左手が医学生、背後の女の子がリスト音楽院生、右に立っている男が宿主のヨシさんである。両サイドがアフリカ周りの若者(左)と長期滞在の若者(右)、後ろのおっさんらしい人は日本語教師だそうな。
 
×     ×     ×
 
・と快適な最後の夜を過ごした翌朝9時に宿を出発、早めにエジプト航空の搭乗変更手続きを済まそうと思ったのである。
 
ところが地下鉄の終点クーバーニョからエアポート行バスに乗ろうとしたがバス停が沢山あって分からない。地下鉄で乗り合わせた女性に聞くと親切にバス停まで案内してくれた、でココはすべてエアポート行なんだと思い込み最初に来たバスに乗った。
 
だが、いくら走ってもエアポートらしきところには着く様子は無い・・で心配になって運転手にエアポートと聞くと“NONONONO・・このバスは行かない”!。こりゃ大変だと降りて引き返そうとすると“NONONONO・・コトル○×△□・・・”と降ろしてもくれない。
 
 
 
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この間バスはブダペストからさらにどんどん離れ、前方に馬車が走るなどずいぶん田舎臭くなってきた。運転手は何度聞いてもコトルコトル200E○×△□・・の呪文を唱え、途方に暮れた私は天を仰いで嘆息、言葉(ハンガリー語)が全く分からない。
 
とそれを見ていた女の人「英語分かるか?」にホンの少しと答えて私はノートを差し出した。これが正解だった、彼女はこのバスは202Eのロングバスで引き返せない、コトルで200Eのバスにチェンジすればエアポートへ行けると図示してくれてやっと納得した。
 
てなわけでモタモタモタとエアポートに着いたのは12時半、大慌てでエジプト航空へ行って搭乗日変更手続きに1時間後チェックインが終わったのが2時半,メシ食って出発が3時半という慌ただしいタイムスケジュールとあいなった。
 
最後までドタバタ騒動の続いたわが大貧民旅行であった。
 
ちゃんちゃん・・(了)
 
 
 
★ご愛読感謝・・明日より日本帰国予定也。
 

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 写真はエジプト航空オフィスにあった“砂漠のバラ”
 
6月21日夜23時30分の夜行バスでバニャルカを発ち、早朝4時にベオグラード着、5時始発のバスに乗り換えて8時半ソンボルに到着した。
 
夜は10℃以下の寒波に凍えながら朝を迎えたため、ソンボルでは件のホテルにバタンキュー・・起きたのは午後8時だった。ちょうどYさんも来訪したので大貧民旅行の切り上げを通告、明日エジプト航空へ搭乗日変更連絡を取ることになった。
 
当初予定では71日にブダペストを発ち2日チェンマイに帰る予定であったが、Yさんにはお金が無くこれ以上の滞在は無理と判断、直接的には昨日バニャルカでの8時間放置プレイが決断の契機となったのは確かである。その点はYさんにも十分解っているとみえて異論はなく、私に協力することを約した。
 
22日、エジプト航空の搭乗日変更はネットで可ということで語学に堪能なYさんに頼んだが、普段使い慣れてないためうまくいかず、町のツアー会社に依頼することになった。しかし、外人観光客は年間を通じてゼロに近いツアー会社もあまり要領を得ず、エジプト航空のブダペスト窓口の電話を聞いただけで1時間を要した。
 
だが電話をホテルで借りるのはYさん苦手で、結局私のPC からのSkype電話となった。会話はハンガリー語だったが、Yさんのおかげで搭乗日変更料は70ドル(約5600円)、週2便の一番近い搭乗日は624日(金)ということが決定した。
 
変更チケットは当日ブダペスト空港のエジプト空港オフィスに取りに行くことになったが、そのためにはソンボルを本日で切り上げ明日23日はブダペストに泊まった方がイイとなった。
 
×    ×    ×
 
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22日がソンボル最後の日、Yさんとカナルプールで一杯やり、夜はお姉さんの手料理を頂戴する約束、お姉さんへ何かプレゼントとなった。私はケーキか何かと想定していたが、Yさん甘いものは太るので良くないとイェーガーマイスターというドイツ産リキュール(蒸留ハーブ酒)を所望した。
 
・・おおそうじゃ本日はドナウ川〜バルカン半島の地酒ラキヤの話をしよう。
 
ここいらの地酒といえばワインでほぼ毎日飲んだが、Yさんとの大貧民旅行ゆえ一番安いモンテネグロ産特売ワイン(11ユーロ=120円)専門であり、読者に語る資格はない。
 
でラキヤだが当旅行記では一度Yさんのお姉さん宅を訪ねた折>友達にしか出さないという家伝のリンゴ酒ラキヤ40度・云々として紹介しているあの蒸留果実酒である。
 
バルカン半島ではスモモが最も多いがモモ・アンズ・リンゴ・ナシ・サクランボ・イチジクと果実なら何でもよく、Yさんの話では中でもカリン(マルメロ)は最高級品だという。
 
特に旧ユーゴを中心とするバルカン諸国では食前酒として広く普及し、私が訪問したホテルを含む家庭ではすべてラキアが振る舞われた。
 
アルコール度数は4060度と強烈で最初口に入れたときは吃驚するが、慣れるとクセになる酒で南スラブ民族にとっては懐かしい郷土酒であろう。
 
実はバニャルカのF氏からお土産にとラキヤ1ℓをもらったが、旨いものは待ちきれない性分の私は、離陸までの3日間に空けてしまったほど好きになった。
 
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さてイェーガーマイスターはそんな南スラブ人が好む舶来の高級蒸留ハーブ酒で、アニスや甘草など56種のハーブをブレンド、アルコール度は35度とラキアよりマイルドである。
 
実はこの酒、フランクフルトの空港でタイ産蒸留酒メコンを没収された折、代用品として購入したのだがYさんにはことのほか喜ばれたのを覚えているが、お姉さんまでファンだとは知らなんだ。
 
左写真はネットにあったイェーガーマイスターのCM写真である。
 
ところで高いイェーガーマイスターを買ってYさんのお姉さん宅を目指して自転車に乗ったのだが、道に迷って当日はたどり着けず、最後の晩餐はパー。
 
結局、このイェーガーマイスターは翌朝バス停に見送りに来たYさんにお土産として渡した。
 
 ちゃんちゃん
 
 
★なお真ん中の写真は帰国お土産に購入したハンガリーのトカイワインとハーブ蒸留酒ZWACK
後者はイェーガーマイスターとほぼ同じ酒である。
 
 
 
☆だらだらと長らく連載してきた大貧民旅行記、いよいよ明日・明後日で終了の予定であります。

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5時・・ま〜だ時間がある・もう少しウロチョロするかと町を歩いていると、
 
 
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庭に戦車の置いてあるビルに遭遇、看板を見るとスルプスカ博物館と書いてあった。
 
どうせろくなものは展示して無いだろうがと見ると入口でタバコ吸ってるおっさんが2人、中は誰もいないようだが暇つぶしにと入って見た。
 
 
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すると中にも機関銃など兵器が展示してある・・
 
まったくセルビア人というのは戦争の好きな民族なんだなと思いつつ進むと・・
 
 
 
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ン???なんだこりゃあ・・どこかで見たような女の子の写真だが・
 
胸にダビデの星?ユダヤ人かひょっとしてこの子はアンネ・フランク??
 
 
 
 
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そんなことないよな・・と次の写真!!!
 
強制収容所らしきところで死にかけている否死んでいる子供たち・・
 
 
 
 
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こちらはもっと酷い・・死んだ沢山の子供たちの写真・顔が無いのもある。
 
何故何故・・バニャルカとナチスドイツが何の関係があるんだ??
 
×     ×    ×
 
調べてみるとこの背景にはセルビア人(正教徒)とクロアチア人(カトリック)の根深い対立があった。
 
第一次大戦後成立したユーゴスラビア王国はセルビア人主導国家のためクロアチア人が反発、特にパベリッチ率いる極右政党ウスタシャはセルビア人へのテロを繰り返してきた。
 
1941年にナチスドイツがユーゴスラビア(セルビア)に侵攻するとウスタシャはヒトラー・ムソリーニ(イタリア)と結んでクロアチアの独立を宣言、同時にナチスドイツと連携してボスニア・セルビアへの進撃を開始したのである。
 
以来バニャルカはウスタシャの支配下で大量のセルビア人・ユダヤ人が逮捕収監され、“バルカンのアウシュビッツ”と呼ばれたヤノセバツ強制収容所に送られ虐殺されたのである。
 
博物館の展示写真は当時のモノで、虐殺者はナチスドイツではなく隣接する同族のクロアチア人で、194145年までに虐殺されたセルビア人・ユダヤ人は70100万人に及ぶとされている。
 
 
 
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写真はヤノセバツ収容所で今まさに処刑される収容者。手前は彼ら自身の手で堀削させられた墓穴である。彼らは墓穴の縁に躓かされ、背後から銃殺され、重力に従って墓穴に転落する。クロアチア人の労働力を必要以上に浪費しない“効率の良い”埋葬方法であった。
 
×    ×    ×
 
一方、199195年のユーゴスラビア内戦(クロアチア=ボスニア戦争)では、セルビア人の多いバニャルカは戦場にはならなかったが、ユーゴ人民軍(セルビア軍)の前線司令部が置かれ、戦場から逃亡した4万人のセルビア人難民が流入して人口は増加した。
 
又第二次大戦でのウスタシャ報復から市内にはマニチャ強制収容所が建設され、45006000人のクロアチア人・ムスリム人を収容、正確な数は不明だが虐殺された者も多いとされている。
 
 
 
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戦後バニャルカがボスニア内スルプスカ共和国の首都とされたのもセルビア軍の前線司令部だった関係で、今日ではこのような近代的なスルプスカ共和国政府ビルが威容を誇っている。
 
 
 
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Yさんの友人F氏(後ろの人)は現在スルプスカ政府要人を務めているようで、
写真は8時間後に再開したYさんとFさん一家である。
 
Fさんは大変立派な方であるが、しきりにスルプスカやバニャルカの印象はどうかと問われ、
 
「空白の8時間」が頭から離れぬ私は返答に窮する場面もあった。
 
 
 
ちゃんちゃん
 
 
 

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バニャルカに入る前にもう一度複雑なボスニア=ヘルツェゴビナの国についておさらいしておこう。
 
ボスニア内戦後発足したこの国はムスリム人とクロアチア人の連合政府「ボスニア=ヘルツェゴビナ連邦」(上図黄色の部分)とセルビア人政府の「スルプスカ共和国」(上図水色の部分)の2つの国で構成され、各々独自の大統領・首相・議会を持っている。
 
なお、名目上の中央政府はサラエボにあるが、主要機能は統一軍(NATO加盟)の統括と統一通貨km(キロメートル/1ユーロ≒2km)の発行である。
 
つまりバニャルカはボスニア国内の半分を占めるスルプスカ(セルビア人)共和国の首都であるが、国際的には非公認の知られざる首都と言うことになる。
 
×    ×    ×
 
さてバニャルカであるが、ここには2泊(最初は寅さん列車到着・2日目は雨と午後散歩)したが3日目は2330分発の夜行バスだったので実質的には3日滞在したことになるが・・問題はその3日目であった。
 
Yさんが11時に迎えに来ると言うので昼メシでも行くのかなと荷物をまとめて待っていたが、町の中心センタまで行き「ここで午後8時に会いましょう、それまでアナタ写真撮っててください」と置き去りにされ、あっという間にいなくなってしまった。
 
あっけにとられた私はオイオイ待てよと言う間もなく、太平洋ならぬバニャルカ一人ぽっち。
 
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写真撮っててくださいというものの、実は昨日雨上がりの午後一人でセンタまで散歩、
 
町のシンボルであるセルビア正教会大聖堂(昨日夜景を紹介)や
 
 
 
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公園で路上大チェスに興じる老人たちとか
 
 
 
 
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ウルバス河畔のカステル要塞など3時間も歩き回ってあちこちと撮影、もう撮るところはほとんどないのである。
 
確か彼にも話したはずだが、尤も私が何をしようが一切関心が無いからこそこのような無責任極まりない放置プレイが出来る所以だが・・さて困った。
 
これから何も言葉の通じないこの異国の町で、8時間もいったい何をやって過ごすかが問題である。
 
勿論翌日この件で彼を糾弾、大貧民旅行の切り上げ即帰タイが決定したことは言うまでもないが、彼は当日スルプスカ政府に務める友人の依頼でセルビア語⇔英語翻訳の仕事をしていたらしいが・・、
 
なぜその理由を私に言ってあなたは何をしたいかと聞くのが当然じゃないか、PCは車に詰め込んで無いので町の案内を見ることもブログも何もできない、最初に事情を話してくれたらPCも昼寝も自由にできるホテルに8時まで延長滞在していたはずだと怒り心頭で糾弾した。
 
勿論これは後の祭り当日はホントに困った。
 
どうして8時間もの時間をつぶすか、日本ならサウナで23時間つぶして友だちに電話ならあっという間だが・・一人の食事に2時間も無理だし・・ここいらの連中を見てると一番の暇つぶしはカフェで人の往来見物かなどとあれこれ考えたが問題は一人ってぇのが何ともどうしようもない。 
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○                                    
先ずヤケ酒(ワイン)と食事で1時間、食後の散歩に1時間と歩いていくと映画館を発見、
 
言葉なんかどうでもいい映画は無いかと見ていくとン!これだカンフーパンダ2しかも噂の3D映画である。
 
私はまだ見たことが無い、この際入ってみるかと上映中で途中入館不可。
 
じゃ前のビヤホールでついサッカーTVに夢中になって30分、切符切り兄ちゃんが始まるぞと呼び出しに来た。
 
初めての3Dなるほど立体感があるなとは最初のうちだけ、
 
第一この主人公のパンダ親父の顔がYさんに似てコノヤロー!と
 
可愛いパンダのイメージをぶち壊し!
 
・・とそのうち先程のワインとビールが効いてきて猛烈な睡魔に襲われダウン、寝てしまった。
 
 
 
 
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映画館を出て再び広場、いま何時だろうと大時計を見ると911分???私の時計は310分だが・・この時計止まってる。
 
なんで?と文字盤を見ると<271969>の文字が、つまり19691027911分にこのバニャルカで何か大変な事が起こったようである。
 
時計が止まるー日本だったら先ず地震だが、ここではと後でYさんの友人に聞いてみるとやはり地震だった、1000人くらい犠牲者が出たそうな。
 
そんな大きな地震があったのならネットを検索したら出てるはずだと調べたら・あった。
 
マグニチュード6・4、死者は千人ではなく15人、世界最強(?)の地震国日本から見ると屁のような小地震である。
 
 
 
 
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しかし、負傷者は数千人に及んで町の中心部が壊滅、現在のバニャルカ中心部はその時に再開発されたようである。
 
 
 
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それからは町の野外カフェテラスで当初の予定通り往来の美女観察・・みんなスタイルがいいなあと感心しつつ・・
 
 
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時計を見るがまだ4時、あと4時間もある・・・トホホホ(泣)。
 
 
(この項つづく)

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