ここから本文です
いたたた・・タイ
2016・12/16−100万アクセス突破”皆さま感謝★★★★★★★★★☆

書庫タイの地歴

記事検索
検索

全9ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

[ 次のページ ]


ラーマ56世によって確立されたタイの絶対王政は、ラーマ7世(192535年)以降民主化を求める官僚や軍部の不満が次第に拡大,1932年には人民党と軍部によるクーデターが勃発して立憲革命へと発展、ここにタイの絶対王政は崩壊して立憲君主国へ移行したのである。
 
イメージ 1■その中心人物となったのは軍部を束ねたピブン(ピブンソンクラーム)元帥(写真)で、これが今日まで頻発するタイ軍事クーデター政権の元祖でもあった。
 
1938年の首相就任後は国名をそれまでの通称名シャム(サヤーム)から民族名のタイへと変更する一方で、ラーマ6世の推進した華人同化政策をさらに強めて華字の使用制限やタイ人への帰化を促進させた。

ちなみにピブンは林姓の潮州系華人出身で、本名(愛称)は生まれつき耳の形が変だったのでプレーク(可笑しな)と呼ばれ、ピブンソンクラームは仕官後の官職名である。

 
一方、ピブンのタイ狡猾豹変外交の神髄が見られたのが第二次大戦での対応で、当初は中立を宣言して19406月にはフランス・日本と相互不可侵条約を締結した。 

しかし、同年フランスがナチスドイツに占領されたのを見ると  19409月に対仏(仏領インドシナ)国境紛争を誘発,翌1941年日本に仲介(東京条約)を依頼して現カンボジアのバッタンバン・シェムリアプ両州(アンコールワット所在地)及びラオスのチャンパ―サック県(メコン川東岸地区)を自国領に併合したのである(※なお、戦後即返還)。

 
イメージ 4194112月日本の真珠湾攻撃(写真)で太平洋戦争が勃発すると、当初タイは日米両にらみ(戦局の様子見)であったが・・、

日本軍がマレー半島作戦で優勢に立ったのを見て日タイ軍事同盟(日泰攻守同盟条)を締結、翌421月には米英に宣戦布告して枢軸国の一員となった。

この結果タイは事実上日本軍の占領下に置かれた訳で、19422月のシンガポール陥落でマレー作戦が終了すると、日本軍の矛先はミャンマー・インドへと向けられ、タイは日本軍が壊滅した件のインパール作戦の前線基地となったのである。




イメージ 2
泰緬鉄道クウェー川鉄橋(戦場にかける橋)-朝太郎さん撮影

■そのためタイはタイ米の日本供出や軍費調達、ミャンマーと結ぶ泰緬鉄道(写真)の建設など日本の戦争遂行への加担が経済を圧迫する中、19426月アメリカでの抗日組織「自由タイ」の結成に対してピブンは日本に隠して黙認してきた。
 
そして1943年2月ガダルカナル島の玉砕を機に日本の戦局が一転すると「自由タイ」メンバーを外相に加え、同年7月東条英機がマレーシア旧パタニ領3州とミャンマーの旧ランナー領シャン州のタイ割譲をエサに大東亜共栄圏への参加を要請したがピブンは拒否、首相を「自由タイ」のプリーディに譲って辞任した。
 
そして19458月日本が連合国に無条件降伏するとプリーディは「タイの宣戦布告は無効であった」と宣言した外、連合国の顔色を窺って同年10戦争犯罪人法を制定してピブンを投獄した。しかし、連合国側が何の反応も無いのを見ると、翌年4月最高裁は戦争犯罪人法の無効を決定、ピブンは無罪放免となった。

すなわちタイは実に巧妙かつ狡猾な政治手腕により、東南アジアで唯一の独立を維持したことと同様に第二次大戦でも臨機豹変、タイは連合国による敗戦国(日本の同盟国)としての裁きを免れたのである。

 
★ところで日本の侵略戦争を美化した王族出身の元首相ククリット(写真)の次の言葉は日本の右翼的愛国ブロガーに感激と感涙を与え、タイを始め多くの海外愛国ブログに引用されているが・・

イメージ 3「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。
128日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に815日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない

狡猾で臨機応変・当意即妙のタイ人は口先三寸、トンカチ頭の日本右翼をホメ殺すなど屁の河童で、実は1972年の反日デモを鎮静化するために学生向けに使った言葉だが効果は無く、むしろ日本人愛国者への伝説的「泣かせ文句」となったようである。 


なお、その後のピブン元帥であるが、19471月再び軍事クーデターを起こして政権へ返り咲き、以来579月のクーデターで失脚するまで8次にわたる内閣を組閣、戦前の38年以来約20年間タイ政界に君臨してきた「永年宰相」の異名で呼ばれてきた。
 
クーデター後は東京で亡命生活を送っていたが、後にインドのブッダガヤで出家、還俗後、神奈川県相模原市で一生を終えた。享年77歳であった。































ちゃんちゃん

この記事に

開くトラックバック(1)

 
    ■タイは南北に細長い国で最北端のメーサイから最南端のマレー半島深南部3県までの直線距離は約イメージ 11,700kmとほぼ日本列島の長さに匹するほどである


    したがって熱帯国ながら南北の気候較差は大きく、常夏のプーケットは年中泳げる世界有数の海浜リゾートだが、冬のあるチェンマイは東南アジア屈指のクールリゾート観光地となっている。


     したがって住んでいる人も歴史も文化も南北では大きな相違があり、今回は南部マレー半島のイスラム系住民と華人の様子を見てみよう。



タイは国王親政下の仏教国で、人口の9割強をタイ人(人口の15%の中国系華人の大半はタイ人と同化)が占めているが、北部にはコンプーカオ(山岳民族)、南部にはマレー系ムスリム(イスラム教徒)などの少数異民族も居住している。

イメージ 2

■うちイスラム教徒は人口のわずか35(240万人)であるが、その80%が深南部3県(パタニ・ヤラー・ナラティワート)を中心とするマレーシア国境地帯に居住している。すなわちタイ深南部は仏教徒タイ人とは宗教も言語も異なり、マレーシア・インドネシアと一体をなすマレー=イスラム文化圏に属している。

マレー半島中部東岸を占めるこの地は、13世紀の南北古タイ王朝(スコタイ朝/ランナー朝)成立時はマレー人のヒンドゥー教国ランスカヤ王国があったが、14世紀以降イスラム化して現パタニ市を中心とする6つのイスラム首長国からなるパタニ王国(首長国連邦国家)が成立した。

パタニ王国はほぼ同時期成立のタイ=アユタヤ朝の隆盛に伴ってその朝貢国(保護国)となったが、特に16世紀以降はイスラム同系のマラッカ王国(西海岸)の滅亡もあってマレー半島中継貿易の中心として発展、中華街や日本人町も形成された外、ポルトガル人やオランダ人・イギリス人商館も並ぶアジア有数の国際貿易港として繁栄していた。

一方、パタニ王国の宗主国タイ(アユタヤ朝)との関係は、17 世紀の山田長政の侵攻以降次第に悪化し、1767年のミャンマー軍侵攻でアユタヤ朝が滅亡すると完全にタイから自立した。

しかし、現タイ王国(チャクリ朝)を興したラーマ1世は18世紀末にパタニ王国を征服、マレー人4000人が奴隷化されてバンコクへ送られ、以来パタニ王国は小国に分割して統治され弱体化したが、その後もイスラム首長(スルタン)制は存続していた。




■チャクリ朝の侵攻とともに16世紀以降中国華南地方から華僑を中心とする華人移住者が急増して勢力を拡大、特にパタニ北部のソンクラー国では1777年に福建省出身の呉譲を国王とする華人王国が出現するに至った。

イメージ 3また、華人は商業民華僑のほかマレー半島の錫鉱採掘の下層民苦力(クーリー)労働者の流入も多いことが特記される。

錫鉱開発はタイではプーケット島が中心で、頬から口に刃物を刺して行進する奇祭キンゼー(斎食)写真↑<通称ベジタリアンフェスチバル>は中国福建省の伝統行事に由来する。このお姉ちゃんはたぶん苦力(クーリー)の子孫でしょうなあ。

一方、ラーマ5世(チュラロンコン大王)のチャクリ改革に伴って、1902年パタニ王国の伝統的イスラム首長制は廃止され、スルタンに代ってタイ政府派遣の知事が任命されてパタニ王国はタイに合併・吸収されるに至った。

また、同時に19世紀末マレー半島に進出したイギリスとタイ政府の国境画定交渉が実施され、1909年パタニ王国は北部(現深南部3県+ソンクラ・サトゥーン)をタイ領、南部(クタ・クランタン・トレンガヌ)をイギリス領(現マレーシア3州)として南北に分割占領され、完全に消滅するに至ったのである。

なお、マレーシア側の3州(ケダ・コタバル・トレンガヌ)ではその後もイスラム首長制が現在まで存続している。ちなみにマレーシアはUAE(アラブ首長国連邦)と似たイスラム首長国連邦、即ち9つの首長国と2つの特別州からなる連邦国家で、その元祖が最初のマレー人イスラム国家パタニ王国なのである。

+


他方、タイ編入後の旧パタニ=イスラム王国は、深南部3県(パタニ・ヤラー・ナラティワート)とソンクラ県および西海岸のサトゥーン県の5県に分割された。


うち、ソンクラ県は18世紀の華人王国成立以来マレー系イスラム教徒は20%と少数化、交通の要衝をなすハジャイ(ハートヤイ)は「小バンコク」の異名を持つタイ南部経済の中心都市として発展している。また、西海岸のサトゥーン県は住民の68%がイスラム系であるが、タイ王国と緊密だったマレーシアのケダ王国の一部だった関係でタイ人との融合が進み住民のほとんどがタイ語を使用している。



■したがってタイ政府統治への反発が根強いのは深南部3県で、今日でも住民の8割がマレー語系イスラム教徒で占められている。
特に国王=仏教徒と規定した1947年憲法施行後はタイ語が義務化されたが、深南部ではタイ政府の学校を拒否、ポンドックと呼ばれるイスラム寄宿学校でのマレー語イスラム教育を実施してきた。

しかし、1961年以降ポンドックの私立学校としての登録制を強化、以来タイ語・マレー語の2言語教育を推進してきた。これに対し深南部住民は強く反発、68年にはパタニ王国再興(分離独立)を目指すPULO(パタニ統一解放戦線)が結成され、以来今日に至るまでイスラム原理主義の影響を受けた反政府活動が活発化してきた。

一方、タイ政府は1980年代以降南部の経済開発を重点的に推進、「小バンコク」ハジャイの繁栄やプーケット島・サムイ島・ピピ島などのリゾート観光産業が発展してきたが、結果的には外来の華人・タイ人と先住のイスラム系住民との経済格差を一層拡大させることになった。


イメージ 4さらに2001年のタクシン華人政権成立後はPULOを「タイのアルカイダ」と呼称するなど、その強権的体質が深南部住民を刺激して事態はさらに悪化の一途を辿ってきた。

特に2004年4月にはパタニ市のマスジト=モスクで死者32人を出す大規模なテロ勃発後はタイ国軍が本格介入してエスカレート、今年2016812日にも死者4人重軽傷34人を出すテロが発生、今日まで5000人を超す犠牲者を輩出している。

なお、PULOは旧5首長国を5つ星にした独自のパタニ国旗を制定(右写真)、タイ政府に対し深南部5県のマレー語の公用語化などを掲げた自治権を要求しているが、タイ政府は一切を拒否して解決の見通しは全く不透明な状況に置かれている。
























ちゃんちゃん

この記事に

開くトラックバック(1)

「東南アジア唯一の独立保持国タイ」は4年前の2012年2月に更新、今見直しても特段に付加する内容は無いが、タイ史を語る上では不可欠のもので「再考」では無く「再掲」で更新しようかと 思った。しかし、いざ再掲となると地図の手直しから始まって結局内容にも追記事項が出現、結局「再掲」では無く「再考」でいくことにした。

しかし何度も愚痴ってきたが「歴史ドン引き現象」は一段と進行したようで前回の「ラーマ6世」に至ってはアクセスは2日連続300を大きく割り込み、当然コメントもパラリンピック本番並みと低迷、今回は画像無しで地図2枚のみとあらばさらなるドン引きも予想される。

そんな 中で先日から全てWordに移し替え保存読み返している」との有り難いコメントがあったが、そんな読者も少なくは無いと思うが私は不知、記事OKならばせめてナイスボタンを押して足跡を残して頂ければ、励みになりますのでどうぞ宜しく。

 
イメージ 1

近世以降のヨーロッパ列強の世界進出により非ヨーロッパ世界のほとんどが植民地に編入されたが、無論東南アジアも例外では無く・・上図のようにタイを除くすべてがイギリス(ミャンマー・マレーシア・シンガポール・ブルネイ)・フランス(ベトナム・ラオス・カンボジア)・オランダ(インドネシア)・ポルトガル(東チモール)・スペイン/アメリカ(フィリピン)の植民地に塗り分けられたのである。
 
しかし、何故タイ一国のみが独立を維持し植民化されなかったのか、今回はそれについて見てみよう。
 
×    ×    


 
1769年トンブリ朝成立後のタイはタークシン王の対外遠征により東はラオス・カンボジア、北はミャンマー東部のシャン州、南はパタニ・イスラム王国に至る史上最大の版図トンブリ朝の領域参照)を有していた。
 
したがって1782年の現チャクリ朝成立以後のタイはこの広大な領域を支配する中央集権体制の確立が最大の課題であったが、其処へ出現したのがヨーロッパ最強のイギリス・フランス両大国であった。
 
タイがヨーロッパ列強の脅威を最初に認識したのは、1826年に長年の仇敵であった隣国ミャンマーがイギリスに敗北(第一次英緬戦争)したことで、同年タイは即刻イギリスと友好通商条約を結んで開国、1833年にアメリカと同様の条約を結んだ。
 
次いで大きな衝撃を受けたのは1840年のアヘン戦争で、朝貢国であった中国(清)がイギリスに敗北したことで、以来ラーマ5世を中心とする近代化改革(チャクリ改革)を推進したのである。
 
すなわち日本の明治維新に匹敵するこの改革は、討幕運動による明治維新の構造改革とは異って上から目線の王様改革であるが、東南アジアではタイ一国のみで列強による植民地支配から免れる大きな原動力となったとされている。
 
イメージ 2■一方、19世紀以降ベトナムに進出したフランスは、1867年にタイの朝貢国(保護国)であったカンボジアに侵攻、1888年には同族の兄弟国ラオスにも侵攻して両国を保護国化した。
 
その結果、1893年に泰仏戦争が勃発したがタイは大敗してカンボジア・ラオスを奪われ、両国は先にフランス領となった隣接するベトナムに併合され、ここにフランス領インドシナ植民地が成立したのである。

ところでタイ東北部のイサーンは「再考⑧ラオス王国とイサーンⅡ」で既述のように、1777年にトンブリ朝に併合されるまではラオス領であったが、泰仏戦争後タイの伝統的領有権が認められてメコン川以西のイサーンはタイ領土に編入されたのである。
 
その後タイは図のように、1904年にメコン川以西の北部ルアンパバーン対岸と同南部、1907年には世界遺産アンコールワットとブレアビヒア遺跡を含むカンボジア西部がフランスに割譲させられている。

 ×    ×

一方、イギリスは東南アジアでは東西海上交通の要衝マラッカ海峡の出入口シンガポール島とペナン島を中心に現マレーシアを植民化したが、インドシナ半島への進出は遅れた。

しかし、1852年と1885年に英領インド経由でミャンマーに侵入して英緬戦争を起こし、旧ランナー朝貢国であった北部チェントン(現シャン州)をミャンマー領に編入した外、1909年には南部の保護国パタニ・イスラム王国をマレーシアと分割編入している。
 
 さらに1890年代に入るとインドシナ半島から中国の雲南へ至るルートをめぐってミャンマールートのイギリスとベトナム・ラオスルートのフランスが衝突する英仏雲南問題が発生した。
 
植民地をめぐる英仏両国の対立衝突は17世紀以来何度も繰り返されてきたが、険しい雲南ルートのコスト高やマラリア問題から断念、1896年英仏両国はタイとメコン上流域(雲南)に関する戦争を回避する共同宣言に合意した。
 
その結果副次的産物として、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められ、タイは独立が英仏両国によって保障される「漁夫の利」を得るという幸運が舞い込んできたのである。
 
しかし、ラーマ5世の統治した42年間(18671910年)にタイの領土は地図のように30万km2(日本の80%強に相当)も失われるなど、その代償は極めて大きく、いわば国土を切り売りして辛うじて独立を維持してきたという見方もできる。

































 
ちゃんちゃん

この記事に

開くトラックバック(1)



イメージ 1
イメージ 2

■チャクリ―改革の仕上げは次のラーマ6世18811925年)が担当した。
 
イメージ 5ラーマ6世はタイ王朝史上初の海外留学(イギリス)をした国王であるが、即位後は愛国精神に富み現国旗三色旗(左・上は旧白象旗)の制定や現仏暦の採用、姓氏法や義務教育法の制定など多くの重要な改革をやってきた。

仏暦は釈迦入滅(紀元前543年)を元年(西暦に543年をプラス)とする暦で、ラオス・カンボジアも採用しているが、ミャンマー・スリランカは釈迦入滅年を544年としている。
 
特記されるのは国民に姓(名字)を付与した姓氏法であるが、これはチャクリ―王家が伝統的に華人姓「鄭」を自称して華人優遇策を取ってきたことに反発したもので、華人のタイ同化政策を推進、同時に姓氏法を制定して華人を含む全タイ人に姓氏記名を義務付けたのである。
 
ところでチャクリ―王家が鄭姓を継承してきたのはチャクリ―朝の土台となったトンブリ朝の華人国王タークシン王が中国名鄭昭を名乗っていたため、朝貢国中国への配慮から政変(タークシン王処刑)を隠蔽するためであった。

一方、ラーマ6世は華僑を「東洋のユダヤ人」として批判したとされるが、潮州系華人と縁戚にある当人の自己批判はおかしく、実際はライバルであった客家(はっか)華僑を「中国のユダヤ人」として批判したのが曲解されたようである。

ちなみに客家人は故国中国では少数派であるが強い団結力と独立進取の精神に富み、辛亥革命を起した孫文、太平天国の乱の洪秀全、中国改革開放の小平、台湾総統の李登輝、シンガポール建国の父リークワンユー(李光耀)など多くの傑物を輩出してきた。

いずれにしろラーマ6世の華人同化政策により漢字名のみの華人は一掃されタイ文字華人が誕生したが、結果的に華人はタイ社会に同化埋没され、インドネシアなどのような華人排斥運動が起こらない要因ともなったのである。

イメージ 3■しかし、潮州系VS客家系の華人同士の対立はその後も根強く残存、特に2000年以降客家出身のタクシン政権誕生後はその対立がバンコクVS旧ランナー(チェンマイ=イサーン)連合へと拡大している。

2006年の軍事クーデター後タクシンは追放されたが、その後は実妹のインラック政権が誕生&再クーデター勃発等々なお予断を許さない状況が今日も続いている。

×

■又もう一つ特記されるのは父王の王妃160人に象徴される一夫多妻制の廃止であるが、これはラーマ6世が同性愛者であったことと関係しているらしい。そのため王は王位継承にも無関心で、結婚したのは死去前年の1924年で死去2日前に女児が誕生している。

どうやらラーマ6世は今日タイ全土を席巻しているオ〇マ(ガイメージ 4トゥーイ)の元祖でもあったようである。右写真はバンコクの「ミス・オカマ・クイーン2009」で優勝したはるな愛(当時37歳)ちゃん。
 
しかし、ラーマ6世は浪費家で放漫財政を続け、特にボーイスカウトを真似た私兵団スアパーなどに巨費を投じて国家財政は破たん寸前に陥り、これが1932年のタイ立憲革命を招く要因となったとされている。
 




























ちゃんちゃん

この記事に

開くトラックバック(1)

 
イメージ 1■先般、5回にわたってラーマ5世(チュラロンコン大王)の著作「ゴ族の森」を紹介したが、C大王はタイ王国を近代国家にした「タイ近代化の父」として知られ、

建国の父ラームカムヘン大王(スコタイ朝)、救国の軍神ナレースワン大王(アユタヤ朝)と並ぶタイ三大王の一人として尊敬を集め、又160人超の王妃を持つ「絶倫王」としても人気を博してきた。
 
今回はタイを近代国家にしたチャクリ改革の中で、「奴隷解放」を中心にチュラロンコン大王の偉業を検証してみたい。
 
チャクリ朝草創期のこの時代はラーマ5世の160人に象徴されるように、王一人が何十人もの正妻を持ち何十人もの子供を持つのが普通であったが、結果として王族の数は多くなり、権力が分散されるのは必然であった。
 
そのため王権は弱く、中央では王族との婚姻で大きな力を付けたブンナーク家が摂政として実権を掌握、地方では北のランナー朝(チェンマイ王国)や南のパタニ王国などの地方王国の外、チャオムアンと呼ばれる地方豪族が地方を支配してきた。

ところでバンコク(チャクリ)朝の王族は既述のように中国系華人が実権を握っていたが、ブンナーク家は1603年の日本人傭兵団反乱の鎮圧により出世したアラブ系という、華人とは遭い入れぬ異民族グループであった。 

ちなみにラーマ5世の即位(1868年)はブンナーク家が管轄、実権は若年(15歳)の王を補佐するウィチャイチャーン副王にあり、1873年ラーマ5世の副王批判時には副王によるクーデター未遂事件が勃発した。
 
そのため中央(国王)集権国家の建設が近代化の最大の課題であったが、1882年のブンナーク家当主の死去、1885年のウィチャイチャーン副王の死去を契機に本格的改革が着手され、その最初にやったのが1886年の奴隷解放令で、かのリンカーンの4年後であった。
 
既述のようにタイの戦争は伝統的に奴隷獲得が大きな目的の一つであったが、当時はタートと呼ばれる売買できる契約奴隷がブンナーク家などの王侯貴族の財産となってきたほか、地方ではプライと呼ばれる入れ墨籍の労役制がありチャオムアンの管理下に置かれてきた。
 
ラーマ5世の改革はこれらタートやプライを人道的理由によって解放し平民としたことであるが、最も大きな打撃を受けたのはブンナーク家などの王侯貴族やチャオムアンなどの地方豪族で、後述する官僚制の導入も加わって彼らの支配力は完全に喪失したのである。
 
一方、ラーマ5世の奴隷解放は「野蛮な国」タイのイメージを払しょくして欧米での評価を上げ、後のスムーズな不平等条約改正を助ける一要因ともなってきた。
 
イメージ 3イメージ 2しかし、欧米ではタイの奴隷解放の背景には1870年にラーマ4世のお雇い教師になった英国未亡人アンナが、

少年時代のチュラロンコン皇太子(ラーマ5世)に「アンクルトムの小屋」を読ませ、奴隷解放を促したという創作小説「アンナと王様」による俗説が信じられてきた。 
 
ちなみに「アンナと王様」は1956年にアメリカのミュージカル映画「王様と私」が製作されて大ヒット、王様(ラーマ4世)役のユル・ブリンナーはアカデミー主演男優賞を受賞している。 

又、1999年には香港のチョウ=ユンファ、ジョディ=フォスターとのコンビで原作に忠実な映画「アンナと王様」(左画像)としてリメイクされている。
 
なお、タイでは王様を題材にした映画・演劇・小説は不敬罪の対象とされ、「王様と私」・「アンナと王様」ともタイでの出版・ 上演・上映は一切禁止されてきた。 

ところで「王様と私」の主題曲は、1996年に日本アカデミー賞を総なめにした日本映画Shall weダンス」の原曲として知られるが、タイに来てその話題をしても全くの無反応、つまりタイ人なら誰でも知ってると思っていた「王様と私」は誰も観たことが無い発禁映画なのであった。
 
すなわちラーマ5世(チュラロンコン大王)のチャクリ改革による近代改革とは、非華人系王侯貴族や地方豪族を排して潮州系華人王族を中心とする中央集権絶対王政国家の建設を推進してきたのである。
 
その結果、1909年には北のランナー朝(チェンマイ王国)と南のパタニ王国も併合され、官僚制の導入とともに地方行政は上位下達のチャンワット(県)・ムアン(市)・アンプ―(郡)・タンボン(町)・ムーバーン(村)が置かれる現行地方行政支配体制が確立されたのである。
 
又地方反乱鎮圧のため陸軍を中心とする国軍の近代化も重要で、国軍は日本の皇軍同様に王軍(王様の軍隊)として統帥権が独立、これが後のクーデターの頻発と相次ぐ軍事政権台頭の元凶ともなってきたことも特記しておかねばならない。

































ちゃんちゃん





この記事に

開くトラックバック(2)

全9ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事