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いたたた・・タイ
2016・12/16−100万アクセス突破”皆さま感謝★★★★★★★★★☆

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イメージ 3■かつては神聖不可侵の生神様であらせられた天皇陛下も新憲法施行で人間象徴天皇となられてはや71年、不敬罪は無論のこと様々なタブーはすっかり取っ払われ、

昨今は眞子さま婚約騒動など皇室スキャンダルがワイドショー化している今日この頃であるが、神国日本も大変わりですナア。

皇室ネタはブロ友ではねえねさんが専門的に詳しく、先日も眞子さまはバリ嫁と同類?という秀逸な記事を書いていたが、

残念ながら“友だち限定記事”で皆さんに紹介できないのが口惜しい次第である。その外コメントしたい記事なのにコメント禁止とか女性ブロガーには色々制約があって中々難しい。

追記-ねえねさんより「友だち限定記事」を解除し公開OKカップを頂きましたのでクリックしてどうぞ。なお、上記記事とは別にケイはケイでも〜皇室雑記という記事もトラバ頂きましたのでコメント欄最後のトラックバックをクリックしてご覧ください。

                ✚

さてオッサン田舎は九州、現住はチェンマイ郊外のジャングル住まいで皇室とは全く無縁であるが、唯一貴重な皇室ネタがあり、それが表題の「竹ノ塚の皇女・松浦薫子」である。

10年前の2008年12月に更新、以来10年間・隠れた注目記事となっているようで、同記事へのアクセス数は毎日必ずあり本日は
10名に及んでいる。

・んでそんな時オッサンはネタ埋めに旧記事の再掲をよくやるが、実はこの記事は2年前にも再掲済みで今回は3度目のとなりますが悪しからず。

なお、中身もタイ王室のガラヤニ王女と比較した同じ内容ですが、若干加筆修正「再々考」として更新した。
 

 
イメージ 2本日(20081115)は国王の姉カラヤニ王女(写真)の葬儀で、タイはロイカトーン祭が終わった昨14日からワイトック(服喪)に入り、テレビのアナウンサーも町行く人も私の部屋に来るメイバーンも皆黒服を着用、勿論学校も酒屋も風俗営業も休業である。

 
時にカラヤニ王女(享年84歳)が逝去したのは今年の12日だったが、国民は即

15日間の服喪が義務付けられ、さらに公務員の服喪期間は100日間に及び、タイ正月(ソンクラン)前日の411日までテレビは黒服だらけであった。

そして葬儀が1115日と1年近くも延びた理由は、王宮前広場に建設された壮大なカラヤニ王妃専用の火葬場(省略)の完成を待っていたというから驚きだ。

 
以来今日までタイ中の町の至る所にカラヤニ王女の60年前の若い顔の大写真が飾られ、14日から19日まで新聞は若い美人のカラヤニ王女一色である。

当然、テレビはすべて静止画像かと紛う王族と坊主と軍人とお偉いさんばかり並んだ葬儀放送が流され、市中では55000バーツに至る記念切手や写真集・カレンダーなどが発売されている。


ところでカラヤニ王女って国中が大騒ぎするほどの何かをしたの?と疑問を持ち調べてみると、国王の三姉弟の長女ということ以外は何の地位も無く、ロンドンで生まれ、帰国後は慈善運動をやる傍ら一般人と2度結婚し、娘が一人いるといった程度である??。
 
男系重用の日本だったらたとえ天皇家の子女でも他家(民間)に降稼すれば皇族から除外され、国葬・国民皆服喪なんてとんでもない話なのである。


×      ×      ×


カラヤニ王女と対比して私が思い出すのは「悲劇の竹ノ塚の皇女」の惨憺たる葬儀である。

 
イメージ 1■私は来タイ前東京は足立区竹ノ塚の住人であったが、ある時私がよく行っていた場末の一杯飲み屋の女将が・・

「竹ノ塚のアパートに住んでいた皇族が亡くなったとTVで言ってたけどオッサン知ってる?」に驚愕したのを覚えている。


■聞けば6畳一間のボロアパートで暮らしているその婆さん、鰻が大好物で毎月一回だけ近くの鰻屋に出現するそうだが・・、


おしとやかでお上品な仕草はまさに掃き溜めの鶴、高貴な生まれであることが直ぐにわかったとは女将から聞いた話・・。
 
私はまさかこんな東京の片隅の場末の町に盗賊ならぬ皇族なんぞが住むわけがない、と半信半疑で聞き流していたが・・・

調べてみると本当のことだと判明、噂の皇族は昭和皇后の姉というから昭和天皇の義姉にあたる松浦薫子(写真)という高貴なるお方であった。

1907
年に旧平戸・松浦藩主松浦子爵の次女として誕生、1925年に女子学習院を卒業後、28年に久邇公爵と結婚、渋谷区宮益坂の1万坪の豪邸に住み,多くの使用人に傅かれていたという。

 
1935年に同公爵が急逝後、子が無かったため離婚したが、慰謝料として時価数億円の満鉄株券を贈られたそうである。
しかし、日本の敗戦と同時に株券は紙くずと化し、さらに1947年の新憲法公布に伴って華族としての待遇も剥奪された。
 

その後米軍ゴルフ場に勤務、1956年(48歳)に岩手県の代議士山本猛夫と再婚したが、山本は薫子の高貴な家柄のみが目的で夫婦関係は無く、夫の浮気に悩まされる中で58年に創価学会へ入信、66年に自ら申し出て離婚した。

イメージ 4その後は家政婦や病院付添い婦として生計を立ててきたが、65歳で身体を壊して以来生活保護を受給、晩年は足立区竹ノ塚の家賃3万円の木造アパート(右写真)で暮らしていた。


19891月昭和天皇崩御の報を聞き皇居で記帳した3週間後に逝去、享年82歳だった。
 
自らは凋落しながらも自尊心を守り続け、「たくさんの方に親切にしていただいて幸せ」が口癖で、いつも他人への感謝の心を失わなかったそうである。

しかし、葬儀の参列者はわずか20余名で皇族は無論のこと親族も不参、出席者の大半は創価学会信者だったが、女子学習院時代のクラスメート3人の老婆の姿もあったという。

薫子は凋落後も学習院同窓会には無理して参加していたらしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん

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●先日「世界3大美女ートロイのヘレン」を再掲した際、中国の楊貴妃・西施とともに小野小町を紹介するリンクを貼っておいたが、何故かわが日本代表である小野小町が一番不人気であった。
小野小町は世界的美女の重要案件である「傾国の美女」的な大物美人に比べると小物過ぎる点は否めないが、彼女の外伝(生々流転波乱万丈の人生)は十分に読者の目を惹くに足る価値があると判断、敢えて旧記事をリメイクして再掲しようと思った次第である。

イメージ 2■さて小野小町―まず生年であるが生没年不詳とするのもあるが、Wikipediaでは809年出生、 901年没と明記され、何と平安初期の大昔に92歳の長寿を全うしたことになる。要すればかの楊貴妃より100年後の人物ということになる。

出生地だが父は出羽郡司とされ、現在の秋田県湯沢市小野が主流説で所謂秋田美人の元祖説もあるが確証はなく、福島県小野町や福井県越前市、茨城県新治村、京都市山科区など諸説がある。

特に京都山科は小野氏由縁の地で.同地の随心院には卒塔婆小町像や文塚など史跡が残り、右写真のように毎年11月末祝祭日にミス小野小町コンテストも実施されている。さて小野小町は秋田美人か京美人か、どうだっていいことですが・皆様は如何思われます?




イメージ 1
■さて問題の美貌であるが、古来稀代の美女を指す「衣通姫(そとおりひめ)」の評判が高く、すなわち美しさが衣を通して輝いているという意味である。

又、彼女の名を高めたのは和歌の才で、百人一首にある花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に で知られる古今集六歌仙および三十六歌仙の一人として有名である。

イメージ 5つまり才色兼備の女流歌人ゆえさぞやよき殿御のと思われるが、仁明天皇の更衣つまり天皇の着替えを手伝ったりする女官で、位で言うと皇后・妃・夫人・嬪・女御より下位という極めて低い身分なのである。

楊貴妃は稀代の美女というだけで皇帝の寵愛を一身に受けて大出世したのに、才色兼備の小野小町が何故?。

精力絶倫の玄宗皇帝とは違って日本の天皇は女色などとは無縁の枯山水(インポ)だったのか??。証明する資料は一切無いから想像するしかないが、おそらく当たらずとも遠からずであろう。

さて小野小町の歌はほとんどが柔軟艶麗な恋の歌だが、そのお相手として伝説的な話に「深草の少将の百日通い」がある。これは小町に懸想した少将が、私の元へ百日間通い続けたら契りを結びましょうの言葉を実行、だが九十九夜目の大雪の日、雪に埋まり凍死したという哀しいお話である。

満願成就を目前にした非業の死は少将への同情の声とは逆に小野小町は一斉非難を浴び、爾来後世を通して様々な憶測や悪意のある伝説をもたらすに至った。

その一つに裁縫に使う「小町針」伝説がある。これは少将をはじめ言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝承に基づき、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来るもので、全く荒唐無稽なひどい話である。

イメージ 3■次いではかの能楽師観阿弥の作による「卒塔婆小町」(写真は卒塔婆小町の能面)がある。

あるとき乞食の老女が卒塔婆に腰掛けているのを、高野山の僧が見咎め、説教を始めるが、逆に法論でやり込められる。
驚いた僧が彼女の名を聞けば、かつては才色兼備を謳われた小野小町の成れの果てだという。

彼女は自らの来し方を語り始めるが、彼女に憧れて通いつめながらついに願いを果たせなかった深草の少将の霊にとりつかれ、苦しめられるというお話である。





イメージ 4

■最後は小野小町の辞世の歌とも言われる
我死なば焼くな埋むな野に捨てて痩せたる犬の腹をば肥やせに因んで、鎌倉時代に描かれた「九相図(くそうず)絵巻」(別名・小野小町九相図―写真)がある。
これは生前は「衣通姫」として美貌を謳歌してきた小野小町が、死後野晒しにされて犬畜生に喰い荒らされ、蛆虫が湧き、腐敗して白骨と化すまでの九つの姿を描いた絵巻である。



以上が小野小町外伝であるが、考えてみれば彼女ほど皆に寄って集って貶められ、かつ蔑まれた女性がいただろうか?。

後世に残る百人一首の花の色は移りにけりな…“も美人の老醜を暗示する歌であり、誰が推奨したか分からぬが「世界3大美女」の一人として小野小町を挙げたのも、小町九相図を連想させる悪意を感じるのは私だけの穿った見方だろうか。




















ちゃんちゃん

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●バイクなしの引き篭もり生活には慣れそうにもないが、外出無しだとカメラも不要となれば日常ネタに事欠いて、昨日のような政治色記事をアップすると待ってましたとばかり欲求不満のシッタカオッサンが登場して不快千万、コメント制限を余儀なくされるなどの事態に直面した。

・・でこれからは以前書いた記事を見直した再掲記事を中心にやっていくかと、先ずは6年前不評だった「最後のTV観賞=世界遺産ベナン」を「奴隷海岸の世界遺産」と改題して発表しようと考えた。

しかし、ベナンを奴隷海岸と変えたところでマイナーさは変わらんなと躊躇しつつ本日のブログ解析を見るとアクセスランク3位に末の松山」波越さじとは・・浮上していた。

これはかの東日本大震災の1ヵ月後に書いた震災ネタでもあるが百人一首の「末の松山」が題材で、先日書いた「ちはやふる」も好評だったのを思い出し、急遽差し替えることにした。

なお「奴隷海岸の世界遺産」は又別の折に再掲する予定です。




先日、考える豚さんのブログで東日本大震災への弔問謡曲「三陸」の記事があったが、そこに私が下手な短歌をコメしたところ、 
「あはれさは松に塩ふくふるさとへ きみも越さなむ末の松山」との歌が返ってきた。
 
今次津波で壊滅した陸前高田の白砂青松の美浜と決して津波が越えないとされる歌枕“末の松山”を合わせて詠んだ歌で、文意は「君も下らぬ歌など作る暇があったら三陸へボランティアでも出かけたらどうだねであろう。
 
イメージ 2

イメージ 1■ところで歌枕の“末の松山”だが、聞いた覚えはあるがどこにあるのだろうと興味を覚えちょっと調べてみた。

で“末の松山”の場所は、宮城県多賀城市八幡町を見下ろす標高10mほどの小高い丘(上図)にあって、

宝国寺墓地内にある2本の老松(写真)がシンボルとなっている。
 
ちなみに多賀城市は奈良時代の724年陸奥国の国府多賀城が置かれた古代東北の中心地で、砂押川河口に位置する八幡は多賀城の門戸を成す港町として平安時代を通じて都人が往来殷賑を呈してきた。

さて“末の松山”だが、百人一首に収められている2つの歌の歌枕として知られる。
 
一つは905年編纂の古今集・東歌の
「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ」で、私が万が一浮気するようなことがあったとしら“末の松山”を波が越えるでしょう・・それはあり得ないことだけど。
 
もう一つは951清原元輔
「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山波こさじとは」で、“末の松山”を波が越えることがないのと同じやうに、私たちが心変りすることは絶対ないと涙して約束したよねと歌っている。
 
いずれも『末の松山』は、どんな津波をも越えることの出来ない、つまりありえないこと永久不変の象徴として、男女間の永遠の恋の理想とされてきたのである。

しかし、この歌はあんなに誓った仲なのに浮気してしまった貴女はいったいナンなのよが真相で、「末の松山」は古来より浮気の隠語ともなってきたようである。
 
 
では実際に“末の松山”でそのような出来事があったのかというと、今から千年以上も昔の869年(貞観11年)多賀城で溺死者千人を超える貞観大津波が襲来したようである。しかし、小高い丘上の“末の松山”だけは波が越えなかったとの貞観津波の噂が都人の耳にも聴こえ、それが歌枕の故事となったとされている。
 
ちなみに貞観津波より大きいとされる今回の東日本大震災では多賀城近辺には8mを超える大津波が押し寄せたが、孤立した小丘である比高10mの“末の松山”への津波は左右に流れ、簡単に別れる男女の仲とは異なって<末の松山波越さじ>の面目は今回も又保たれたそうである。

 
■ところで“末の松山”の山麓南方100mには“沖の石”と呼ばれるもう一つの歌枕(地図参照)があり、百人一首にも二条院讃岐の歌「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」
1183年千載集)が載っている。
 
イメージ 3即ち、私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ、他人は知らないだろうが(涙に濡れて)乾く間もない・と歌っている。
 
つまり“沖の石”は決して波が来ない”末の松山”とは対照的に引き潮で波底にある石だったが、江戸時代以降は陸化された池の石として伊達藩によって保護(上写真)され、「守人」が置かれてきたそうである。
 
しかし、低地にある“沖の石”は今次津波ではタイヤやコンテナなどの津波瓦礫やヘドロで埋没してしまったそうで、貴人の愛した憧憬の地はなんとも無残な姿をさらしているらしい。


●なお引用したmasahitoさんから以下のようなコメントを頂いた。
迷えるオッサン殿、とてもためになる記事でした。これで末の松山について理解した人も多いことでしょう。ただ私がコメントに書き込んだ歌はそのような意ではありませんでした。塚本邦雄の歌に「貧しさは笹に花咲くふるさとへきみも越路の夜のそよ風」というのが念頭にあってそのリズムを借りて作ったものです。末の松山が波をかぶったんだって、松にも塩水がかかってあはれだな、その末の松山を越えて津波以上に自分たちも人々を助けに東北に入っていくべきなんだろうな。そんなつもりでした。オッサン殿を侮ったようなつもりはまったくないのですがそう受け取られたことについてはたいへんに失礼いたしました。ありがとうございます。 削除

2011/4/14(木) 午後 8:55





























ちゃんちゃん























 
 

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イメージ 1「奥の細道」では「象潟や雨に西施が合歓の花」と並んでもう一句、以前から気になっている句があった。
芭蕉が湯殿山(山形県)を訪ねたときの句「語られぬ 湯殿に濡らす 袂(たもと)かな」である
湯殿山(標高1500出羽三山の奥の院として羽黒山414)・月山1984)で修行した僧が最後に行きつく修行の場であるが、
古来より御神体はマル秘とされ見た者は「語る無かれ」 見てない者は「聞く無かれ」の禁忌(タブー)の戒律が厳守されてきた
したがって芭蕉の句もその禁忌を踏んでおり「語られぬ湯殿に濡らす袂かな 」 の意は・<湯殿山の神秘は他人に語ることができないが、それは感涙のあまり袂をぬらしてしまうほど有難いモノである>と解されてきた
 
かし、芭蕉が神秘にふれて感涙したというが、「湯殿に濡らす袂の表現一つを取って見てもなんとなく艶かしい色香を感じるのは色惚けオッサンの妄想ゆえだろうか
 
ひょっとしてこの句にはもう一つ別の真意が隠されているのではないだろうか、ちなみに上の絵はこの句から受けるオッサンのイメージ画像であるが果たして・・。
 
 
イメージ 2その秘密をとく鍵は当然ながら御神体そのものを紹介しなくてはならないが、語るも駄目聞くも駄目とあらば手のうちようが無いではないか。
 
実は私は今から一昔12年前に湯殿山に行ったことがあるが、右のような立て札が随所にあって写真撮影は禁止、カメラは入口で預けなくてはいけなかったのである。
 
 
 
イメージ 3
 
で当時の様子を再現すると、この粗末な掘立小屋が御神体すなわち湯殿山神社本宮への入口であるが・・。
 
小屋では先ず素足になって御払いを受け、お守りと小さな紙のヒト形を受け取り、我が身の穢れをヒト形に移し、最後に息を吹きかけ、足元を流れる渓流に流してやるのです湯殿山参詣パンフレット丸写し
 
なお、背後に白い幽霊のようなものが並んでいますが、アレは神道に沿って置かれている御幣で御神体までずっと続いています
 
 さて撮影禁止の御神体であるが、なんせ当世は芭蕉の昔にあらずなんでもありのネット時代、禁忌なんて関係ないとピーピングトムやデバガメ夫人など多くの盗○投稿者がいるはずと検索すればありました
 
 
 
イメージ 4
 
れが数ある盗○画像の中から私が選んだ一枚、いかにも盗○感覚溢れる画像でしょう。(盗○の語句はネット使用禁止・○→撮・・この件で2時間浪費!)
 
すなわち湯殿山の御神体は中央の赤褐色の巨岩で、しかも熱湯(温泉)が噴出しているため岩は年中温かく濡れています

なお、この御神体は温泉含有の鉄分が長い年月を経て凝結して形成されたもので、地学ではトラバーチン(熱噴泉塔)と呼ばれています。

  
でもようく見てください(ホントは見てはいけないのですが・・)
 
手前の巨岩は見るからに猛々しい男根、そして奥には穴の開いたホト女陰から溢れる淫水温泉・・つまり湯殿山の御神体は男女の交合(まぐわい)を表し、湯殿の名もソレを暗示しているのです。
 
さて芭蕉の句語られぬ湯殿に濡らす袂かなの本意はもうお分かりですね
 
そうです芭蕉は、御神体そのものの真意である男女の交合(まぐわい)を詠み込んでいたのです
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん

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●昨日、90翁紫蘭さんのブログ←clickにネム(合歓)の花の由来を紹介した記事があり、その中に芭蕉の「象潟や雨に西施が合歓の花」の句が添えられていた。
 
この芭蕉の句については5年前に記事にしたことがあるが、紫蘭翁説に従うと当時の私の解釈よりはるかに趣があり、5年ぶりに再考してみることにした。
 


 
イメージ 3
 
★松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むがごとし…
        「象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花」
 
芭蕉「奥の細道」のこの句を知ったのは高校一年くらいだったろうか、以来芭蕉の句では諳んじていえる一番好きな句となってきた。
 
理由は2つある1つは絶世の美女とされる西施への憧憬、二つ目は今は消滅しているが、芭蕉のいた当時東北の日本海岸に存在、太平洋岸の松島と並び称される幻の名勝地「象潟」への好奇心であった。
 
当時の象潟は秋田・山形県境にそびえる日本海の名峰鳥海山(2236m)の北西山麓に位置する潟湖(ラグーン)で、縦横4キロの浅い入り江に多くの小島を浮かべる風光明媚な景勝地として古来より知られ、芭蕉以外にも西行や能因法師、一茶など多くの文人墨客が往来、歌碑を残している。
 
処で象潟(キサガタ)とは異名だが、潟湖で獲れる蚶(キサ)貝、すなわち赤貝の古名に由来しており、当地にある最古の蚶満寺(かんまんじ853年創建)に蚶の名称が残されている。
 
つまり象潟は平安時代の850年に鳥海山の大噴火に伴う大地震で陸地が陥没して形成された潟湖で、潟上に浮かぶ小島は鳥海山噴火泥流に伴う流れ山で、その結果「八十八潟・九十九島」が出来たとされている。
 
ちなみに象潟のような火山地形は火山国日本では珍しくはなく、1640年の北海道駒ヶ岳噴火と大沼公園(湖沼群島)、1792年の雲仙岳噴火と島原湾九十九島、1888年の磐梯山噴火と裏磐梯湖沼群などが知られる。
 
 
 
イメージ 1
 
ところで芭蕉は象潟を見て中国の西湖(写真)に擬え、すなわち西施の入水した悲運を偲び、笑うが如き男性的な松島と対比して象潟を憾(うら)むすなわち悲しむ女性の象徴として詠んだのである。
 
「象潟や雨に西施がねぶの花」、象潟は水に西施が眠っているように美しい、実にいい詩である・・と解釈したのが5年前であったが、夜になるとぴたりと葉を閉じて眠るようなネムの花の習性に準じた素直な解釈であった。
 
かし、実際は眠る花ではなく「合歓」 の花である。すなわち「合歓」とは中国では夫婦和合すなわちまぐわい(交合)=sexを意味し、別名は「夜合樹」とも呼ばれるらしい。
 
天下の芭蕉がこの中国の字句を知らない訳は無く、わざわざ西施を持ち出してきたのも「合歓」との対語であり、すなわちこの句は「雨の象潟はまるで西施が交合っているように美しい」ではないだろうか。
 
さすが芭蕉、波間に妖艶な西施の溜め息が聞こえて来るようだ
 
       
 
   ×   ×   ×
 
 
イメージ 2
 
さて芭蕉が訪れたのは
1689年(元禄2年)であったが、それから115年後の1804年(文化元年)64日鳥海山が再び大噴火とともにマグニチュード7・1の大地震が発生した。
 
ところが前回の陥没とは違って今度は海底が2・4m、潟底も35mも隆起して象潟の入り江は干上がり、現在は上写真のようにかつての潟底は水田と化し、島状の小山が点在する「陸の松島」に変貌したのである。
 
 
イメージ 4
 
現代の象潟の様子がもっと分かりやすい写真があったので追加しました、黄色は秋の田圃、水(潟湖)が無くなっても名勝地ですね。
 
ところで中国の西湖も古代は銭塘江(杭州湾)と結ばれた象潟同様の潟湖であった、西湖のハマグリに象潟のアカガイどちらも妖艶な絶世の美女西施をなんとなく連想させていとおかしである。
 
なお、西施については5年前に書いた「象潟や雨に西施が合歓の花」の前編「中国四大美人の一」←clickを参照されたし。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん

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