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さて、今日は幸せについてのお話です。
幸せって本当に多様で、その概念自体、非常につかみにくいですよね。
そんな幸せを題材に、ここ数日いろいろ考えてできた文章です。
たいした結論ではないですが、多少は自分なりの意見がまとまったかという感じです。
それでは、ご覧ください。
幸せとはいったい何であろうか。国籍を問わずほとんどの人々は幸せを実感したことがあるし、幸せであることがどういう状態であるのかは理解していると思うが、いざ幸せという概念を問い直すと、それは極めて多様なものであることが判る。歴史的背景や、宗教的(文化的)背景によって、幸せの定義は変わってくるであろう。
例えば先進諸国に暮らす経営者であれば、企業の業績が安定し業界内でのシェアを伸ばす事に幸せを感じるだろうし、昨今話題になっている環境保護団体に所属するメンバーであれば、環境問題の解決への一歩が実現した時に幸せを感じることができるであろう。また、近隣諸国の戦争に翻弄され続けた発展途上国に暮らす人々であれば、平和が訪れ、国民が安心して暮らせるようになれば幸せを感じるだろうし、宗教的束縛の厳しい国では、男女差別がなくなることにより幸せを感じる人もあるかもしれない。このように俯瞰すれば、幸せとは国、宗教、時代により全く別のものになりうるものなのだ。
さて、ここで一見極めて多様に見える幸せにも、なんらかの共通点があるとの仮説を立ててみたい。
ここではその共通点を、幸せの普遍性と題し、幸せの定義づけを試みてみたい。僕なりの結論を先に言おう。逆説的ではあるが、幸せとは「個人単体の中だけに存在し、同時に他人と共有する事のできる唯一のもの」ではないだろうか。一見利己的に見える願望も実は他者の幸せと密接に関連している。例えば富やモノ等を得る事に至上の幸せを感じる人がいたとしよう。彼(女)は何故富(モノ)を得たいのであろうか。それはすべての財を自分で使い込むために富を求めるのではなく、ほとんどの場合自分の子供、両親、配偶者等、自分の周りの他者に不自由させたくない(幸せになってほしい)から富を求めるであろう。環境改善を求める願望は言うまでもなく次世代の人々の幸せと共有できるし、平和の訪れを求める幸せも、他者と共有のできる幸せである。
つまりどんな幸せであれ、他者の幸せと共有できる部分が、程度の差こそあれ必ず残されているのである。
20世紀、21世紀と、我々は利便性・快適性を追及し、それが大衆の願望のうねりとなって未曾有の消費文明を作り出した。そして今日、世界は環境問題や貧富差拡大に代表される、消費文明が孕む巨大な矛盾に我々は直面している。日本国内においても、豊かな社会が引き起こした、フリーター問題や貧富差の拡大等様々な問題を抱えており、決して先行きが明るいとは思えない。しかしながら、自由市場経済の下発展してきた社会に暮らす僕達も、まだ他者の幸せを願うことが出来、また同時に自分の幸せを他者と共有することが出来る。僕たちは他者の幸せを自らの夢として内に抱くことが出来る。自己と他者の幸せを共有できるという紛れもないこの事実こそが、先行きが必ずしも暗いものではないということを示唆しているのではないだろうか。
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