労働相談奮闘記

労働者の悲痛な叫びを伝えたくて、そして解決に役立てて頂く為に

近・現代史講座で勉強したこと

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引き続き、わが町の9条の会での石山氏の講演の内容を報告することにします。

【日米両政府の思惑の犠牲になった沖縄】
太平洋戦争の最後の段階で、当初、日本政府はアメリカが台湾を狙うものと思っていたが、実際には台湾をスキップし、55万人もの兵力を投入して沖縄攻略作戦を開始しました。アメリカにとって沖縄は、戦後のアジア戦略上最も重要な地理的な位置にあったわけです。

沖縄を中心にして500キロ1000キロ1500キロなどの円を描くと分ることですが、アジアの重要な都市がその円の中に入ります。沖縄は、アジアの中心に位置しています。アメリカが如何に沖縄を重要視していたかは、現在でも日本国内にある米軍基地の実に75%が沖縄にあることをもっても分ることです。米軍は、なんとしても沖縄を手に入れたかったということです。

一方、日本政府は、本土決戦に備えて、皇居を長野県の松代に移すため工事を進めていましたが、守備体制を構築するために時間稼ぎを必要としていました。日本政府の沖縄戦の戦略は、天皇制を守るための時間稼ぎ、持久戦だったのです。

沖縄は、そういった日米両政府の思惑の犠牲になって全県民の4分の1にあたる15万人もの犠牲者を出すことになりました。

【慶良間諸島の例】
慶良間諸島には、座間味島や渡嘉敷島がありますが、激しい戦闘が行われたところです。昭和19年9月、日本軍はここに配備されました。配備の目的は、海上特攻隊の基地をつくることでした。多くの島からなる慶良間諸島は、洞穴や小船が隠れる場所が沢山あります。住民を動員して土木工事をしたわけです。

住民は、どこに特攻隊の舟が隠してあるか知っています。軍は、住民がアメリカ軍の捕虜になることを禁止しました。投降することは勿論、間違って捕まっても罪になります。住民が捕まれば、軍隊の隠れている場所がばれてしまうと考えたからです。

3月になって、手榴弾が2発ずつ配られました。1発は敵に投げつけ、1発は自爆のためでした。

慶良間諸島では、軍の教育は徹底していました。婦女子は、強姦され殺され、男は股裂きにされると教育されました。米軍が迫り逃げられないと知ったとき、妻や子どもを愛する人の手で殺したほうが良いと思わされていました。自決と言っても、子どもは自分では死ねません。

【石山氏が聴いた体験談】
石山氏は、9月の沖縄県民大会実行委員のN氏の話を聞く機会があったそうです。N氏は、沖縄自民党の要職にある方です。N氏は、自分の体験を次のように語ったそうです。

N氏は、当時8才ぐらいの子どもでした。家族でやんばるの壕に隠れていたそうです。N氏には、弟がいました。弟は、0才のあかちゃんです。当然泣きます。軍が来て、泣くと米軍に分ってしまうからと、毒入りのおにぎりを渡され殺すように言われました。

家族で話し合った結果、死ぬときは皆一緒に死のうということになり、壕を出て家族で、さまよったそうです。しかし、弟が1才になった誕生日に栄養失調で死んでしまったということでした。

【自分の家族を殺したと言えますか】
こう言う体験が、沖縄のいたるところで起きました。自分の妻を子どもを殺したと言う体験は、語れるものではありません。多くの人は、戦後、自分を責め続け、ただ黙っていました。これは、語れるものではありません。それを良いことにして、右翼的潮流の人たちは、集団自決を天皇陛下のために自ら命を絶った美談として記録してきました。

【隊長が直接命令してないから軍の命令ではない?】
2005年、大江健三郎・岩波書店を被告とするいわゆる集団自決裁判が提訴されました。ここで、原告の1人である梅沢(当時、座間味島の日本軍指揮官)さんという人が、「命令は発してない」と証言したことから、集団自決について文科省の検定意見がつくことになりました。

この裁判自体、原告側支援団体の顧問には、藤岡信勝、上杉千年など「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが名を連ねているし、また協力団体には、自由主義史観研究会、昭和史研究所、靖国応援団、関西自由主義史観研究会、新しい歴史教科書をつくる会大阪などが名を連ねているなど、胡散臭いものを感じます。

いずれにしても、訴訟の片方の主張を取り上げて検定意見を付けるなど不当といわざるを得ません。石山氏は、多分、隊長が住民に直接命令することはないでしょうと説明されました。通常は、役場をとおして命令されたはずです。隊長が、直接住民に命令したかどうかという問題は本質的な問題ではありません。

【沖縄はアメリカの直接統治に】
話は、戦後になりますが、戦争に負けた後、沖縄の住民は1人残らず鉄条網に囲まれた収容所に入れられました。米軍は、住民の居なくなった沖縄に好き放題の基地を造った分けです。そして、1945年の10月になって、住民は自宅に帰ることを許されましたが、自宅は基地の中になっていて、帰る場所が無い住民も多数居ました。

そして、日本本土は、日本の政府がそのまま残りましたので米軍の間接統治でしたが、沖縄は米軍の直接統治でした。

【天皇メッセージによる米軍支配の長期化】
1947年いわゆる天皇メッセージがアメリカへ送られました。そてには、「今後、25年または50年、沖縄はアメリカ軍が直接統治して欲しい」と書かれていました。これによって、天皇は、自分の立場を守ることができたといえます。そして、アメリカは、その直接統治の長期化を正当化できました。天皇が、このメッセージを送った理由について、天皇は日本の共産化を恐れていたからと言われています。

1947年には、新憲法ができましたが、沖縄には適用されませんでした。1952年のサンフランシスコ条約で日本は独立しましたが、このときも沖縄は、国連による信託統治が決まるまでという名目でアメリカの直接統治が続くことになりました。

1972年、ちょうど天皇メッセージから25年目に沖縄は本土に復帰したわけです。

【県民ぐるみの闘い】
このように沖縄は、本土に比べ、悲惨な体験をし、余りにも悲惨であったので、それが、若い世代にも引き継がれています。そして、いざというときには、県民ぐるみで日本政府と闘ってきまいた。主なものは次の通りです。
• 72年復帰時の闘争・・・・本土並み復帰の要求。
• 82年軍の住民虐殺に検定意見がついたことへの反発・・県議会代表団が上京し、撤回させた。
• 95年の少女暴行事件・・85000人の集会
• 07年9月集団自決への検定意見に反発・・11万5千人の集会

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