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贅沢な!と思われるかも知れないが、風太郎の唯一の贅沢である。50年せっせと働いた後、1年間節約をしての年に1度の贅沢である。お許し頂きたい。年齢から考えてあと何年出来るだろうか?息子とのコミュニケーションの場でもある。 しかし、八丈と言うところは有視界飛行の為に欠航することがしばしばである。覚悟はしていた。電光掲示板の表示は「天候調査中」だった。 出発時刻の50分前になって欠航が決まった。八丈は1日3便である。次の11時25分の便に変更の手続きを取って待つことにした。 待つのは苦ではない。本を読んでいれば良いからである。空港で買った「アインシュタインの世界」(三品隆司氏編集)という本を開いて読み始めた。そんなわけでカンパチ釣りがアインシュタイン研究に変わってしまった。この日は、結局3便とも飛ばなかった。八丈島でのカンパチ釣りはあきらめることになってしまったが、読書はすすんだ。 お世話になる予定であった八丈の船宿のHP→http://www.papasinn.com/index.php?d=20100614 スピノザの神この時期の八丈島のカンパチは実に美味である。しかし、このシーズン八丈島は近寄り難い海となってしまう。飛行機が飛ばないことが実に多い。飛行機が飛んでも海が時化れば餌にするアカイカが釣れない。飛行機が飛んで、餌にする生きたアカイカを前の晩に漁師が準備し、カンパチの釣り船が出てくれれば釣ることができる。それも10キロ超のカンパチがあたりまえのように。しかし、今年のカンパチは我々を遠ざけた。スピノザの神の仕業だろうか。ここからは空港で読んだアインシュタインの話になる。あるとき、アインシュタインはユダヤ教の学者から「あなたは神を信じるか?」と聞かれ次のように答えた。「私はスピノザの神を信じます。それは、存在するものの合法則的な調和のみに自己を顕現する神であり、人間の運命や行為にかかずらう神は信じません。」と。 スピノザ→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6 スピノザはポルトガル系ユダヤ商人の家に生まれユダヤ教育を受けた17世紀のオランダの哲学者である。ユダヤ教会からは無神論者のレッテルを貼られ追放された。アインシュタインはこのスピノザを深く敬愛していたと言われる。
“人間の運命や行為にかかずらう神は信じません。”とは、なるほど名言である。スピノザは自然=神と考えた哲学者である。アインシュタインは自然の中に内在する神の設計図を物理学の言葉で描き出そうと試みた物理学者である。自然を神そのものと見ていたのかもしれない。 自然そのものが神であるなら、滑走路を隠して着陸できないようにしたのは大気の神であり、その為に翻弄された私も、釣られなかったカンパチも神の一部を構成している。 自らを神の一部と称するなどおこがましいと言われそうだが、これは神をどのように定義するかの問題である。偉大なる力を持つものを神とするなら、我々の棲むこの自然を神として考えても不思議はない。そして、私もまた自然=神の一部分である。 富国強兵政策下で生まれたアインシュタインアインシュタインは、1879年3月14日、ドイツ系のユダヤ人として生まれました。それまでのドイツは40余りの主権国家が覇権を争う地域だった。アインシュタインが生まれる数年前の1871年、覇権争いに終止符が打たれドイツ帝国が成立している。アインシュタインが生まれたのは、そのドイツの宰相ビスマルクが富国強兵政策を推進していた時期だった。 威圧的なもの権力的なものを嫌ったアインシュタイン当時のドイツの学校制度は小学校が4年生で、その後に8年生のギムナジウムがあった。ギムナジウムでは軍隊的で厳格な教育がなされていた。アインシュタインは、このような教育に対しては強い嫌悪感を持ち、教師と喧嘩をして退学している。後に、アインシュタインは教育について「私の考えでは、何が悪いと言って、学校が主として恐怖、権力、つくりだされた権威によって運営されるほど悪いことは無い。そのようなやり方は生徒の健康な感情、誠実さ、自信をこわしてしまう。そのようにして卑屈な臣民がつくりだされる。」と述べています。 このアインシュタインの言葉を読んで、現在の、どこかの国の首都の教育委員会の考え方を批判しているかのように思えたが如何でしょうか。 アインシュタインは、スイスの学校に移り自由な雰囲気の中で学生生活を送り、スイス国籍も取得し、ドイツ国籍から離脱している。 日本にやってきたアインシュタイン1922年11月17日アインシュタインは、日本の出版社の招待で日本にやってきた。彼は既に一般相対性理論を完成し、皆既日食時に恒星の光が太陽の重力で曲げられることが確認できるとの予言が的中したことで超有名な世界的な科学者となっていた。当時の日本は、いわゆる大正デモクラシーの高揚期であった。「都市の人々を中心に思想、文化、科学に至るまで自由で幅広い知識を求める階層が形成され、新たな外国文化の輸入にも積極的」だった。 一方、政治の方では1910年には韓国が日本に併合され軍靴の足音が次第に大きくなってきてもいた。しかし、1931年の満州事変に始まり、日本の敗戦に終わる15年戦争には、少しの間が有り、戦争と戦争のインターバルでもあったのだ。 アインシュタインは、43日間の日本滞在期間中に日本各地で大歓迎を受けアインシュタインブームが巻き起こったと言われる。また、彼自身43日間の日本での体験は「胸の奥深くに刻み込まれ、終生変わらぬ親近感を持ち続けた」という。 「そのように日本を愛したアインシュタインが、意図せぬとは言え数十年後の、広島や長崎をみまう悲劇の端緒となったことは、歴史のおおいなる皮肉と言うほかない。 苦悩した平和主義者アインシュタインがアメリカ政府に原爆の開発を進言したことは良く知られている。この本では、アインシュタインについて「19世紀後半のドイツに生まれたアインシュタインは、幼いころから周囲の軍国主義的な雰囲気に馴染むことができない子供でした。こうした重苦しい体験は、少年アインシュタインの心に、権力や暴力への本能的な反感を芽生えさせることになったと考えられます。名声を得た後、アインシュタインはさまざまな機会に平和主義者としての自分の立場を表明し続けました。」と述べています。更に、・・・・・・・『戦争の原因のいかんにかかわらず、直接にも間接にも戦争に協力することを無条件に拒否する』という1929年の発言は、平和主義者アインシュタインの信念を伝える言葉といっていいでしょう。」と書いている。 アインシュタインの特殊相対性理論によって導き出された公式、E(エネルギー)=m(質量)C2(光の速度の二乗)が原水爆開発への道を切り開き、核開発が始まった。 「1933年、ナチスがドイツの政権を握ると、ベルギーに滞在していたアインシュタインは、突然、それまでの平和主義を放棄して兵役を認める決意を明らかにします。『私がベルギー人であれば、私は現在の情勢下では軍務を拒否しません。むしろ、ヨーロッパ文明の救済に奉仕するのだと感じて喜んで軍務に就くでしょう。』これは、アインシュタインがナチスという巨悪に対抗するために、苦悩の末に選択した道でした。」 原爆開発進言への後悔「ナチスが、原爆を持つのではないかという新たな脅威がせまった1939年、アインシュタインは、ナチス打倒の為にアメリカに原爆開発を進言すると言う、ベルギーの時と同様の選択をします。やがて、ドイツに原爆をつくる能力が無かったことを知ったアインシュタインは、この選択を後悔しました。さらに、そのころにはアメリカが前面に出し始めた大国主義に嫌悪感をすら持つようになっていました。原爆開発はそのまま続行され、やがて、それはドイツではなく、日本の広島と長崎に上空から投下されます。」「以後、アインシュタインは、あらゆる機会を利用して核兵器の全面廃止を訴え続けるとともに、どんな圧力にも屈せず、大国主義政策のもとで虐げられている人々の味方となって発言を続けました。」 1955年7月7日イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとアインシュタインをはじめとする11名の著名な学者の署名で核戦争と核兵器実験反対を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。今では、世界的な潮流となりつつある核兵器の無い世界への道の一里塚であった。この宣言には日本の湯川秀樹博士も署名している。 核密約の存在が明らかになってもアメリカ政府に密約破棄を通告しない民主党政権とは何なんでしょうか。北朝鮮の問題もあるので抑止力が必要と信じる向きも多いと思うが、アメリカはオバマ政権下でも先制攻撃を旗印にしており、抑止力ではなく侵略力と見るべきでしょう。 北朝鮮は、すでに通常の弾道ロケットを200発ほど日本の基地や原子力発電所に照準を合わせているといわれており、北朝鮮を叩けても原子力発電所でも攻撃されるなら大変なことになる。紛争は話し合いでの解決しかないのである。 北朝鮮は、日米の軍国主義者者や財界にとって有り難い存在ではあるまいか。あのような国があってこそ、儲けの手段である軍備の増強ができるからである。何兆円もかかる役に立たない空中迎撃システム開発に金をかける口実ができるからである。北朝鮮も、その辺の事情を十分に計算したうえで瀬戸際政策を演じているよう見えるが如何でしょうか。 その結果は、増税と社会保障の削減である。
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