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計画
日本に対し、元(現在のモンゴルにあたる当時の王朝国)は文永11年(1274年)に第一次遠征(文永の役)を実行する。元側の撤退で遠征は回避したものの、戦いは日本側の防戦一方であったという。戦後の交渉も使者を殺害するなど強攻策で臨んだ鎌倉幕府は本格的な異国警護に着手し、翌建治2年(1276年)に異国征伐として高麗出兵を計画し、平行して石築地を築造させている。
博多湾進入http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Takezaki_suenaga_ekotoba_bourui.jpg/780px-Takezaki_suenaga_ekotoba_bourui.jpg
東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。
こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。
対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側は既に防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。
この石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛っており、元軍側の浜辺方面には乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物を設置していた。『予章記』によれば、海上から見た博多湾は「危峰の江に臨むが如し」外観であったという。
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八幡愚童訓
元軍の弓矢は鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かう術(すべ)がなかったとしている。
元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれて皆殺された。
元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、肝をとって食べ、また、射殺した軍馬も食べたという。
『八幡愚童訓』は、この時の元軍の様子を「鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛」で、「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」としている。
松浦党の手勢は多くが討ち取られ、原田一類も沢田に追い込まれて全滅し、青屋勢二三百騎もほとんど討ち死にしたという。
肥後の御家人・竹崎季長や天草城主・大矢野種保兄弟、至って形勢は不利となっていた。
また、肥前の御家人・白石通泰の手勢も同様に形勢は不利となっていった。
これほど形勢が不利になると思っていなかった武士たちは妻子眷属を隠しておかなかったために、妻子眷属らが数千人も元軍に捕らえられたという。
2018/7/22(日) 午前 8:44 [ 日本の美しい国と心と環境を護る ]