日本海

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

五島列島

五島列島


五島列島の位置


  五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島[1][2]。全島が長崎県に属し、人口は約7万人となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。
 島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、いまも漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。

 「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶことが多い。


地理

  五島列島は長崎県に属し、九州西端の長崎県本土の西に位置し、北東側から中通島若松島奈留島久賀島福江島の五つの大きな島などからなる。国際水路機関による定義では、最も南西の福江島西端が日本海東シナ海の境界とされている[3]。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである[4]

  長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って溺れ谷となった複雑なリアス式海岸線をもつ地形である。

  五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では下五島が五島市、上五島が南松浦郡新上五島町に属する。「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。また、中通島の北にある宇久島小値賀島などの島々も、行政区域としては佐世保市北松浦郡小値賀町に属するもののフェリー貨物船航路や警察の管轄区域など上五島と共通することも多いため、五島列島の一部とみなされることが多い。

五島列島を構成する島

五島列島の島々。太字は有人島。配色は市町に対応する。
黄:佐世保市、緑:小値賀町、青:新上五島町、桃:五島市、オレンジ:西海市
それぞれの島の面積・人口は、2005年(平成17年)10月1日現在である[5]。なお、佐世保市(旧北松浦郡宇久町)・北松浦郡小値賀町の範囲についても記述する[6]

佐世保市

  • 宇久島 - 面積:24.92km² 人口:3,216人
  • 寺島 - 面積:1.27km² 人口:23人

北松浦郡小値賀町

  • 小値賀島 - 面積:12.22km² 人口:2,758人
  • 黒島 - 面積:0.24km² 人口:82人
  • 小黒島 - 面積:●km² (無人島)
  • 大島 - 面積:0.71km² 人口:93人
  • 斑島 - 面積:1.57km² 人口:272人
  • 納島 - 面積:0.65km² 人口:31人
  • 六島 - 面積:0.69km² 人口:31人
  • 野崎島 - 面積:7.10km² 人口:1人

南松浦郡新上五島町

  • 中通島 - 面積:168.34km² 人口:22,834人
  • 頭ヶ島 - 面積:1.88km² 人口:19人
  • 折島 - 面積:0.32km² (無人島)
  • 桐ノ小島 - 面積:0.04km² 人口:8人
  • 若松島 - 面積:30.99km² 人口:1,935人
  • 漁生浦島 - 面積:0.65km² 人口:30人
  • 有福島 - 面積:2.97km² 人口:161人
  • 日島 - 面積:1.39km² 人口:52人

五島市

歴史

上古時代から平安時代まで

  五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代にすでに人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。
  日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は最近でも中国ベトナムからの難民を乗せた船が何度も流れ着き、また台風の時は中国漁船の避難場所にもなっており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。肥前国風土記にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。
 このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。

 古事記国産みにおいて、イザナギイザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。
 古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残とされる。

 『日本書紀』天武天皇4年夏4月18日(675年5月17日)の条に「三位麻続王に罪があって因幡に流罪とした際、その子らを伊豆大島とともに「血鹿嶋」に流した」とある。
 「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
 740年天平12)に大宰少弐藤原広嗣が乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の宇久島)で逮捕され、断首されている。876年(貞観18)には、それぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。


中世以降から五島藩の成立まで

 その後中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、中世に至ると松浦水軍の松浦党に属した宇久氏鎌倉時代以降に勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。
また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。このように、中世以降の歴史においてもは大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。
その後、豊臣秀吉が九州を征服すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。

朝鮮出兵における五島勢

ここでは、豊臣秀吉朝鮮出兵における、肥前国五島藩(福江藩、現長崎県五島列島)の動きについて述べる。

朝鮮出兵の下準備

  天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉九州を平定した(九州征伐)。その際、宇久純玄(第20代当主)は、1万5,530石の本領を安著された。
  天正17年(1589年)、秀吉は奥州伊達政宗を降し、翌年北条氏直小田原に囲み滅ぼし(小田原征伐)、徳川家康関東に移封し天下統一をなした。
 国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。まず、朝鮮入貢を命じ、開かなければ討つ、と脅し対馬宗義調に折衝させ、同様にルソン高山国台湾)にも使者を出した。

 天正19年(1591年)、秀吉は配下武将に出兵軍役を命じ、甥の内大臣豊臣秀次関白を譲って自らは太閤となり、肥前名護屋に城を築きそこに入った。9月、平戸城松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、日野江城有馬晴信大村城大村喜前、五島城主五島純玄であった。宇久純玄はこの年、姓を五島に改めている。

 小西行長と、宗義調の子・義智は、対朝鮮平和的計画進行を秀吉に献策し許されると話し合いで解決しようと朝鮮に渡ったが成果が無かった。秀吉はその間に加藤清正らの九州の諸将を壱岐と対馬に待機させ、文禄元年(1592年)3月13日、予定通り、一番隊小西行長、宗義智ら1万8,700人を渡海させて朝鮮半島に上陸させた。

 続いて加藤清正の二番隊、黒田長政の三番隊というように九番隊まで総勢15万8,000人と九鬼嘉隆らの船奉行9,200人(後に水軍編成へ順次移行)を組織した。肥前の名護屋城には徳川家康前田利家上杉景勝伊達政宗ら兵十余万の予備軍団を待機させた。五島領主の五島純玄は、一番隊小西行長に属し、軍役担当に従って兵700を出陣させ、五島八郎兵衛盛長を城代留守役に命じた。

五島勢が属する一番隊の編成
総計 18,700人

文禄の役での五島勢

 文禄元年(1592年)4月12日、朝鮮に進撃した五島勢は10月3日一番隊の先鋒となって奮戦し、釜山鎮城を即日攻略した。翌日には慶尚道東菜城を落とし、17日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃して慶尚道、忠清道、京畿道の諸城は戦わずして攻略した。秀吉侵攻軍はわずか19日で朝鮮の首都漢城を落とした。首都漢城占領に先立ち朝鮮国王は首都を捨てて逃亡し、民衆は暴徒化し景福宮奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院などに放火し消失させた。

 朝鮮水軍の李舜臣が釜山西方に展開中の日本船を攻撃し、数千の日本陸軍と水軍が対応の為に拘束された。また、釜山から漢城までの輸送路がゲリラ攻撃されると内陸部では兵糧備蓄の不安が起きた。7月には朝鮮の救援要請に答えた明の遼東副総兵・祖承訓北京の命令を待たず援軍を発した。祖承訓は朝鮮の義州から南下をはかり平壌城を攻めるが小西行長らに撃退された。

 文禄2年(1593年)正月、明は李如松を総兵官として4万3000の兵をもって、平壌の小西行長を包囲した。この戦いの際、一番隊の戦死者1600名で、五島勢でも太田弾正、江十郎、青方新八らが討ち死にした。行長は撤退を強いられ、漢城まで後退した。

 漢城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情が紛糾を極めた。そんな中勢いに乗った李如松が南下して漢城に迫った。隆景は宇喜多秀家立花宗茂吉川広家らとともに李如松を碧蹄館に迎え撃ち破った(碧蹄館の戦い)。この際、五島純玄も出陣していた。

 しかし兵糧不足に陥った日本軍は漢城を撤退し、釜山方面に集結した。両軍とも講和の機運が高まり、明から使者が来たのにともなって、和平交渉に入ったが折り合いがつかず難航した。
 このような最中、五島勢に一大事が起こった。陣中で疱瘡にかかった純玄が、7月28日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中で五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉青方善助らと協議し小西行長を訪れ、純玄の遺言を伝えた。行長はすぐに名護屋城に使いを走らせたが家臣一同の不安が解けないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家を相続するように勧めた。玄雅は一度拒み、行長はさらに甚吉を召して再協議し、玄雅を再度召して、留守役五島八郎兵衛の息子を養子として受け入れた上で五島家を相続することを勧めた。その条件で玄雅は第21代五島家当主になった。

 北京から明の使節がきた。慶長元年9月1日、大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分を見て激怒し、小西行長の和平交渉が詐欺であったことがわかり、この場で誅殺しようとした。西笑承兌の取り成しと行長自身の陳謝で行長は命を取り留めた。
秀吉は再度出兵を命じた。

慶長の役での五島勢

 慶長元年(1596年)9月、秀吉は再度朝鮮出兵の命を下した。秀吉の作戦目標は全羅道を徹底的に撃滅し、なるべく忠清道と京畿道にも進撃し、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を決め、その他の諸将は帰国させるというものだった。[1]在朝鮮の2万の守備軍を含め、総勢14万1500人が朝鮮半島に進撃を開始した。五島玄雅は、小西行長の軍に属し閑山島の攻略に参加し打ち破っている。

 日本軍は全羅道から忠清道の掃討を順調に行い、反撃してきた明軍を稷山の戦いで蹴散らし首都の漢城を脅かし、京畿道にも進撃して作戦目標を達成すると朝鮮南岸へ撤収して城郭の建設を始めた。

 慶長2年(1597年)12月、建設中の蔚山倭城が明の援将経理楊鎬の率いる5万7千の大軍に包囲された。蔚山城の守将浅野幸長と援軍に駆けつけた加藤清正は未完成の城と兵糧の備蓄など籠城の準備が整わない状態により苦しい戦いを強いられたが、幾度も明軍を撃退し、多くの死傷者を出した明軍の戦意を喪失させた[2]五島玄雅毛利秀元らの援軍に参加し、得意の水軍を率いてこれを救援、明軍の背後を突き突撃した。これを見た加藤・浅野の篭城軍は打って出て、明軍を破り追撃した。明軍の戦死者は2万にも達した[3]。慶長3年(1598年)1月1日のことだった。

 秀吉は、1月17日、寺沢広高を通じて玄雅に、「今度大明人蔚山取還之由注進付 而為後巻雖押出候敵引退之由 既に自此方も安芸中納言 増田右衛門 因幡但馬大和紀伊九鬼父子等可取立旨雖被仰付候右之分候間不及是非候 云々」の朱印状とともに、小袖一服、道服一服を与えた。
 さらに8月、玄雅がいったん帰朝して家督相続の御礼のために大坂城に伺候したさい、秀吉は抜群の戦功を愛でて「豊臣」の姓を名乗ることを許した。

 慶長3年(1598年)五島勢は、小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前とともに順天の東南10kmの光陽湾岸に築かれた順天倭城を守っていた。10月2日から4日にかけて明・朝鮮軍が水陸から順天倭城を攻撃したが、これを撃退する(順天の戦い)。
 この戦いに先立つ事8月18日、既に秀吉は逝去していたが、このことは在朝鮮日本軍には秘匿されていた。10月15日、五大老の名において在朝鮮日本軍に撤退命令が出され、朝鮮より撤退する事となったが、小西軍に属していた五島勢は共に明水軍・朝鮮水軍の海上封鎖を受けて撤退を阻害された。五島勢を含む小西軍を救うため、島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢広高は水軍を編成し救援に赴く。島津らの救援水軍に明・朝鮮の水軍が攻撃に向かって露梁海戦が起きた。

転載元転載元: 還暦の健康管理のブログ

藩政時代以後

  江戸時代の五島列島は大半が福江藩五島藩五島氏の領地となり、小値賀島とその属島および中通島の最北端部は平戸藩の領地となっていた。
 このほか、福江藩の分家として福江島富江に富江陣屋を置いた富江領交代寄合)があり、中通島の一部などにも富江領が存在したが、福江領と富江領の領民間で漁業権などをめぐる衝突がしばしば起こった。
 五島氏の領地は明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に石田城が築城されて今日も福江の中心部に美しい石垣が残っている。

 明治に入り、富江領は本藩(福江藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。その後、鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地勢学上の重要性から大瀬埼灯台女島灯台などが建設されている。

 昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。
 この間、1962年(昭和37年)には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功し、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。

 近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。

五島のキリスト教史

1566年イエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらが五島にも来島してキリスト教カトリック)の布教を行っている。これを受けて翌年に領主宇久純定の子の宇久純尭洗礼を受け[18]1571年に家督を継いでキリシタン大名となっているが、五島のキリスト教はその直後から豊臣秀吉江戸幕府によるキリスト教禁止政策(禁教令)よって一度はほぼ完全に衰退している[19]

 秀吉の時代には九州各地にかなりキリスト教が浸透していたが、キリシタンへの迫害が始まると多くは棄教するか潜伏キリシタンとなった。1597年長崎で殉教した日本二十六聖人に中には五島出身の聖ヨハネ五島もおり、現在では福江島の堂崎天主堂 に彼の殉教を祈念する像が建立されている。

 その後江戸時代中期に、五島藩は大村藩領からの開拓民を移住させる働きかけをし、1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住した。そのほとんどが潜伏キリシタンであったようだが、ここに五島におけるキリシタン信仰が秘密裏に復活した。彼らが藩から土地を与えられたことを知ると外海地方からの移住者が続々と増え、その数は3000名以上にも上ったといわれる。
 しかし、五島藩ではキリシタンに対する厳しい取り締まりはあまり行われなかったものの、今日のように信仰の自由が制度として保障されていたわけではなく、また、移民という立場から、五島の主だった港や平野部ではなく、山間部の僻地や、陸路での往来が困難な奥まった小さな入り江などに移り住んで小規模な集落を作った例が多い[20]
 五島の潜伏キリシタンは迫害の時期にあってはこのような集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。

 幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で浦上の潜伏キリシタンが信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に「浦上四番崩れ」という宗教弾圧を引き起こした。
 この頃には五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていったが、これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返した。久賀島では、200名の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている[21]


 このような迫害を耐え隠れて信仰を守り抜いた五島のキリシタン達は、その後明治政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂教会堂)を建てた。これらの教会は小規模のものが多いが、長崎にある日本最古のカトリック教会の国宝大浦天主堂建立直後といえる時期に建てられ既に100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた比較的新しい教会群とともに今も五島のカトリック信者の心のよりどころとなっている。また、明治期にカトリック教会に復帰することなく、先祖代々からのキリシタンの信仰を受け継いでいるカクレキリシタンの人たちもいて、近年は過疎化や生活習慣の変化のためその信仰伝承は途絶えてしまった所も多いが、いまもカクレの信仰を守る人も僅かながら存在する[22][23]

 五島は現在でもキリスト教徒(カトリック信徒)が比較的多い地域で、人口の10%以上がカトリックである[24]。五島の人にとっては小学校からカトリック信者のクラスメートがいるのはごく当たり前のことであり、いまはカトリックと仏教など他宗教との間に宗教上の争いなども特にない。五島列島であわせて51ヶ所のカトリック教会があり、教会のある風景は長く五島の日常となっているため、郷土五島のシンボルとして皆に愛されている。

 2007年1月23日には、文化庁が長崎の教会群とキリスト教関連遺産のユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リスト入りを決めた。長崎県内に12ある構成資産のうち、五島列島では4箇所の教会が構成資産に選ばれている[25]




天正少年使節団報告書
 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。」。(「天皇の回ザリオ」からの引用


転載元転載元: 還暦の健康管理のブログ

2013-04-09 09:06:27 テーマ:日露戦争

かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ

日露戦争は日本の心を世界に知らしめた

武士道精神。
http://stat.ameba.jp/user_images/20130406/14/jjtaro/e7/ce/j/o0450032612490119017.jpg

 明治37年(1904年)〜明治38年(1905年)の日露戦争は小さな黄色人種が大きな白人をやっつけたことにより、有色人種に希望と勇気をもたらしました。それと同時に日本の心も世界に知らしめたといえます。

 旅順攻防戦終結後の明治38年1月5日、水師営で行われた乃木希典とステッセルの会見は、日本の武士道精神の精髄を世界に知らしめ、日本の精神文化に世界が驚倒した事件でした。勝者と敗者の会見でしたが、「武人の名誉を保たしむべし」という明治天皇の希望によって敗軍の将・ステッセルに帯剣が許されたのです。また、外国の記者から写真撮影の申し出がありましたが、「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道精神が許さない」として断り、「会見が終わり、友人として同列に並んだところならよい」として両軍の幕僚が並ぶ写真だけが撮影されました。
 旅順戦には観戦武官といって外国の武官も数多く参加していましたが、乃木将軍と接するとことごとくその魅力の虜になったといいます。イギリスのハミルトン将軍などは退役後、エジンバラ大学の総長になってからも「自分がもしも日本人だったならば、乃木将軍を神として仰ぐだろう」と学生たちに語り続けたといいます。
 ダグラス・マッカーサーも父のとともに観戦武官として乃木将軍とともに過ごしており、大東亜戦争の日本空襲で乃木神社は爆撃対象からはずさせたといいます。

 米海軍のニミッツ提督は東郷平八郎を敬愛し、大東亜戦争後、戦艦三笠の復元を訴えました。沖縄戦のときに慶良間諸島の日本軍に医薬品を届けたというエピソードもあります。

 日露戦争後のロシア革命においてシベリアにポーランド人の孤児が取り残される事態がおきます。ポーランド系移民協会は欧米諸国に保護を求めますが反応は冷淡でした。このとき委員のひとりがこう述べます。

「私の叔父は10年前の日露戦争に召集されて日本軍の捕虜になり、日本に連れて行かれた。でも叔父は数ヶ月の捕虜生活の間、周囲の見知らぬ日本人にとても親切にされたことをよく私に話して聞かせてくれた。」

 日露戦争時、ポーランドはロシアの属領となっており、ポーランド人は満州の前線に出されていました。日本は捕虜をとても大事に扱いましたから、そのことが伝わっていたのです。そして白人の国ではない見知らぬ日本に援助を求めることになりました。これが日本とポーランドを結ぶ友好の第一歩となりました。

 イスラエル建国の志士とあがめられているトランペルドールはユダヤ人地位向上のためロシア軍に志願し、日露戦争を戦います。旅順守備軍にいました。しかし、明治38年(1905年)1月1日に日本軍に降伏したため、大連から日本の大阪浜寺へ移送され捕虜生活を送ります。ここで彼は日本を学び、日本人の規律の正しさ、勤勉さ、私欲をすてて公のために協力し合うとか、愛国心などを知り、日本人の精神に心酔します。
 トランペルドールは後にイスラエルに戻り、ユダヤ人自衛組織をつくり、ユダヤ人集落をアラブ人の襲撃から守ります。しかし、大正9年(1920年)10月29日にアラブ人の武装集団の弾にあたり致命傷になります。彼はこう述べて息をひきとりました。

「アイン・ダバル!トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」(俺にかまうな。国のために死ぬほど名誉はない)

これは捕虜時代に大阪の浜寺で日本兵士に教えられた言葉でした。彼の遺品は記念館に展示されており「新生ユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と手記が残されています。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」
    『世界に愛された乃木将軍』福井雄三
    『ニミッツ提督と東郷元帥』皆本義博
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」

添付画像
 水師営での会見に際し、乃木、ステッセル両将軍が幕僚たちと撮った写真 〜 国立公文書図書館より

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


本記事は平成21年12月1日「日露戦争は日本の心も世界に知らしめた」を再編集したものです。
 
 

転載元転載元: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫

2013-04-07 09:04:38 テーマ:日露戦争

かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ

ユダヤ人も狂喜した日露戦争の日本の勝利

戦費の多くをユダヤ人が支援した。
http://stat.ameba.jp/user_images/20130406/14/jjtaro/e2/4f/j/o0400030312490109477.jpg

 明治37年(1904年)〜明治38年(1905年)の日露戦争ではユダヤ人ロスチャイルド、ジェイコブ・シフをはじめとする世界のユダヤ人が日本を金銭的に支援しました。他方、ロシアの外債は暴落を続けます。ユダヤ人の妨害によるものです。

 明治37年8月、9月の遼陽会戦、10月の沙河会戦の後の11月10日には第二回外債1200万ポンドが売り切れます。(第一回は1000万ポンド) 明治38年(1905年)3月10日、奉天海戦で日本軍が勝利を収めます。3月25日の第三回外債3000万ポンドが売り切れます。5月28日、日本海海戦で連合艦隊が圧勝。7月8日第四回外債3000万ポンドが売り切れます。これらの外債の半分はユダヤ人の引き受けによるものでした。この四回に及ぶ外債で日本は日露戦争を戦い抜くことができました。

 日露戦争の日本人勝利の報にアジア民族は狂喜しました。
「新京では支那人が日本人と中心街を練り歩き、花火がいつ果てるとのなく夜空をまった。」(ニューヨーク・タイムズ)
 親日国トルコでも熱狂し、トルコ共和国国歌(独立行進曲)の作詞者であるメフメト、アーキフは賞賛を込めて日本の勝利を描写し、女性作家で英文学のハーリデ・エディーブ・アドバルは日本海海戦の年に誕生した息子を「トーゴー」と名づけました。「ノギ」「ジャポンヤ」も付けたといいます。
 支那革命の父と呼ばれる孫文はヨーロッパから支那へ帰る途中、スエズ運河でアラビア人が嬉しそうに「お前は日本人か?」と問いかけてくるので「違う支那人だ。何があったのか、なぜそんなに嬉しいのか」と尋ねるとロシアのバルチック艦隊を日本が全滅させたというのを「自分が勝ったようなものだ」と言って喜んでいたといいます。
 インド建国の父、ジャワハルラル・ネルーは16歳の少年で、「日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍をたくさん買い込んで読もうと努めた」と自伝に書いています。

 日本を支援したユダヤ人も子供に「トーゴー」と名づけることが流行します。トーゴー・ミッズラヒというユダヤ人の中では有名な俳優、作家、映画監督がおり明治38年(1905年)の生まれなのだそうです。イスラエルの国歌「ハティクバ」(希望)の歌詞を書いた詩人のナフタリ・インベルは明治天皇と日本国民を称える詩を発表しました。悪い「ロシアのおばさん」と善い「ニッポンのおじさん」の喜劇なんてものもあったそうです。
 ロシアでは明治14年(1881年)と日露戦争の前年明治36年(1903年)に、ロシア政府の黙認の下で全国規模でユダヤ人街や、ユダヤ人部落の襲撃が行われ、「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)が行われていました。そこでユダヤ人は日本および、レーニンを始めとする過激派革命組織を支援し、日本勝利に熱狂したのです。

 ユダヤ人最大の功労者ジェイコブ・シフは民間の外国人では初めて明治天皇に招待され、謁見し、旭日大綬章を授けられました。午餐会では明治天皇の健康のために乾杯することをこっそり提唱すると明治天皇は破顔一笑され、快諾され、シフの乾杯が終わると明治天皇からシフの健康を祝って親しく乾杯の音頭を取られました。シフは大山巌元帥、東郷平八郎元帥にも招待され、日光、箱根、京都、瀬戸内を案内され、韓国の仁川に行き、そこでも日韓あげての歓迎をうけたといいます。




参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 「歴史通」WILL10月『乃木神話はなぜ生き続けるのか』中山彰彦・山内昌之
添付画像
 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦三笠 〜 国立公文書図書館より

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


本記事は平成21年11月30日「ユダヤ人も狂喜した日露戦争の日本の勝利」を再編集したものです。
 
 

転載元転載元: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫

壱岐文永の役新城古戦場
元軍上陸の際の激戦地
よみがな指定年月日所在地管理・保護団体最寄り駅
史跡(県指定) 
ぶんえいのえきしんじょうこせんじょう
1975年01月07日
壱岐市勝本町新城東触
壱岐市
新城橋下車 徒歩5分
元寇の際,壱岐には元軍が上陸して暴虐の限りをつくした。勝本町内には,とくに文永の役(文永11年1274)に関する伝承の地が少なくない。元軍上陸の地,古戦場跡とされる地などがあり,「勝負坂」・「唐人原」の地名,彼我両軍の合戦があったとされる「鯛の原」その他「高麗橋」などがそれである。また「千人塚」といわれる石碑もある。これらを便宜上一括して,町内の一角に表題の標柱をたて,史跡として顕彰している。


大きな地図で見る
http://www.pref.nagasaki.jp/img/spacer.gif
 
 
 
イメージ 10
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事