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冨士講(富ではない)開祖藤原角行
<冨士講の開祖・藤原角行>
冨士講の開祖・藤原角行は、冨士山西麓(静岡県)にある人穴に籠もって修行した伝説的な行者である。この角行が独特の行法を編み出し、その伝統を引き継いだのが、食行身禄(身禄派)と村上光清(村上派)の2系統であった。
 甲斐の国では折りしも武田信玄が若くして自立、父信虎を駿河の今川氏に身を任せた大事件が起きた。無血クーデターとも称された、この事件は信玄の人間性と戦国時代の空しさの事件として時々の謎を含めて諸書に紹介されている。
 そうした時代背景の中、藤原角行は、天文10年(1541)長崎に生まれた角行は、日本山岳信仰の祖、役行者の夢告で19歳のときに富士山の人穴に入り、13、5センチの角材の上に立ったままの荒行を1000日間修行に及んだ。その後、富士の山頂をきわめ、全国の主要霊場も廻りさらの苦行を重ねた。
 修行は、不眠の大行51年半、断食行300日、製字(独特の漢字)360字、富士登山128度、琵琶湖での水行100日などがある。
製字とは行者や開祖それに神社などが神代文字に似た異字の製作のことで、角行はこの異字で護符を書き、信者に配っていた。それらはすべて「煩悩を清め、衆生救済」であった。現在でも多くの難字を持つ護符が確認されている。
またこれは伝説の範疇であるが、天正11年(1583)、角行を尊信していた徳川家康が人穴を訪ね、角行に会ったというが、歴史上では確認できない。
江戸で「ツキタオシ」という奇病が流行したことがあった。この奇病から人々を救うために、角行は弟子を連れて江戸入りし、フセギ(角行真筆の護符の配付)を行うと、不思議なことに奇病は終息した。だが、これを聞きつけた江戸幕府は、この行為が禁制切支丹との疑いをかけられ、奉行所で取り調べを受けるが、角行とは家康が以前修行中の角行との関係があったことなどがわかり、人穴へ帰った。
角行(中には書行ともある)その後、修行を積み弟子たちに信仰上の心得などを説きながら、驚異的な生命力をもって106歳まで死ぬまで人穴に籠もっていたという。こうしたことは当時の人々にとっても尊敬に値し、江戸中に冨士講が蔓延する要因ともなった。こうした風潮に手を焼いた幕府は時折、冨士講禁止の政令を出した。しかしその信仰心は弟子や人々それに富士山へのあこがれとが合間見えて継続される。
<角行の死去以後冨士講2つの潮流(身禄派と村上派)>
●身禄
角行は伝説上の人物的存在であったが、これを継承した、「食行身禄」はほぼ実像がわかる。寛文11年(1671)、伊勢国(三重県)一志郡に誕生まれた食行身禄は俗名を伊藤伊兵衛という。身禄の名は、釈迦が末法の世を救う未来仏と予言した「弥勒信仰」に由来。13歳で江戸に入り、商人として成功したが、蓄財は悪であると悟り、以後、蓄財を放棄して、油売りの行商で細々生計をたてながら布教活動に勤しんだ。そのため「乞食弥勒」とも称された。身禄は冨士信仰には専門的な布教者はいらないと、在家主義を標榜し、「衆生済度」を本願として加持祈穣を行わなかったともいわれる。
修験道では、苦行によって滅を軽くするという基本姿勢があるが、食行身禄は他人の病苦を自らの体で代わって受ける「代受苦」という方法を実践した。その究極
の形態が「断食入定」だった。享保18年(1733)、63歳のときに富士山北口7合目の「烏帽子岩」の下で断食行に入り、そのまま入定(死に至る)。それは弥勒の世を到来させるための救世(くぜ)の修行を目的としたものであった。日本各地でも断食行で入定した行者は多く見られるが、身禄の断食行は自然体であり、それは富士山自然界とも同居するものであった。断食行中、身禄は弟子に口述で言行録『三十一日の巻』を残している。また江戸中に富士山がかたどられ、後世においては江戸浅草浅草寺にも造立された。
富士行者の存在が世間一般に知られるようになるのは、この身禄の存在があって以後ことである。それまで冨士講は在野の一組織だったのである。
●村上光清
一方、村上光清は天和2年(1682)、江戸日本橋小伝馬町で葛篭問屋(つづらどんや)を営む冨士行者を父として生まれ、毎年、富士登山と21日間の人穴修行を行っていた。
ほとんど自費で吉田の北口浅間神社の社殿を全面修復するなど、かなり裕福で「大名光清」の異名もある。後世伝わる話として、大尽光清に対し、赤貧の身禄は対抗措置として断食入定をはかったとあるが、これは創作である。光清が神社の社殿修復したのは身禄の死後のことであり、事実とは違う。身禄の入定後、身禄派の冨士講が村上派を圧倒して大きく繁栄したためのものである。
それでは身禄派と村上派の違いは何かといえば、
● 身禄派はあくまでも身禄の教えを中心とした近代的な布教方法をとっていった。
● 村上派は角行の伝統墨守(ぼくしゅ)にとどまったところにある。
以後冨士講は改変を繰り返しながら現在に至っている。富士吉田浅間神社の境内の入り口右方に林立する石碑は、こうした信仰を実践した講組織のもので、富士登山の回数など生々しく刻字されている。扶桑教として現在でも多くの信者を持つというが、その衰退はどこでも同じであり、俗化した富士山はその信仰的な色合いは薄れていく。また村上光清は、浅間神社の裏手に立派な社に伝わり、時折登山者が参拝している。石碑辿っていると、そこには富士山を愛し、富士山を心の拠り所とした時代と当時の人々の俤が彷彿される。


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