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富士山麓の先住民族
(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)
富 士裾野の先住民族は、原史時代の神代の神々が.鉄製の劔や、鏡、勾玉などを使用した、その時代よりもなお一段と太古に遡のぼって考えることができる。それは石器時代の、いまより三四千年の昔であったと思はれる。
その頃は富士山は絶えず噴煙をはいていて、まわりは千古斧銊(フエツ)の入らざる大森林が文ち並び、大樹巨木の密林が水澤地の湖沼沿岸に、欝蒼としてしげった所で山野を狩猟する山祇部族と、湖海を漁撈する海神部族とが移住して来て居た。
西湖の根場村、精進部落、本栖村等に見られる、古代建築の遺物たる、屋根の上の千木・勝男木は.原史時代の鐵製の利器.匁物、劔鉾などを使用した以後の遺跡で、この辺へ出雲民族が移住して来たことは、精進村の諏訪神社が証明している。
富士淺間神社の御神体「木花咲耶姫命」の伝説や由来を、くわしく考究したらかなり興味ある、古代史の新事蹟を発見することが考えられる。
記紀にある天孫「ニニギノ尊」・「大山津見神・「木花咲耶姫命」の御事績は、果していずこであらせられしか、何故にこの三柱の神々を富十の守護神として、浅間神社に奉祀せられたかといふことは、富士山の周囲をめぐる淺間神社の、神祇奉仕者の諸氏は、充分に研究すべき課題であらうと信ずる。
なお精進附近には、阿難阪、右左口峠、釈迦ケ嶽・龍ヶ崎等の、仏教にちなんだ名称の山が沢山ある。
これら有史以後の中世紀において、行基菩薩が開かれたと云う。足和田山嶺付近に居た行者たちがつけた名称と思われるが、それ以前よりあった名称であろうか。或いはそれ以前に別の名称があったとしたら、前記の「ウタフガ」などとともに、語現上等より研究の余地が残されているわけである。
原始時代に日本武尊が、富士山附近へ来られた頃は、すでに農耕の業も発達していて、裾野には大密林地帯も少なくなり、焼畑などするようになって、茅野原のところがなどが多く、自然と寂しい所になっていたらしい。
しかし太古には特殊な地形地理上の関係から、原始日本人の勢力の中心地として、相当に発達した部落が、各所に散在して居たものと考えられる。
それが歴史時代になって、時世の変化や、度々の富士山の噴火で地形も変わり、溶岩砂礫などのために富士の北麓を、交通し旅行することが困難になって、往来する旅人が苦しむようなことから、後には富士南麓が本街道となったけれども、有史以前には祖先日本人が相当に古い時代から来ていて、一方の富士アイヌ種族を征服して、街道の要害地によって、山河の雄をなしていたことがしのばれるのである。(完)
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