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西方寺(小明見)の宝物しらべ
祖底禅師
月光寺 祖底禅師は新田義重公の五男の額田五郎経義の僧名で、義重公の四男なる経義公の四男なる経義の兄、新田義季(ヨシスエ)は徳川氏の祖であるから、宝物の兜に葵の紋があっても不思議はないわけだが、葵の紋は徳川氏が三河に遷つてから出来た紋だから、この甲冑は後に新田氏に由縁のある者が寄贈したもので鎧櫃中に一所に入れてある、ちぎれた片袖だけが真の遺品かも知れない。こうした由緒があるので甲斐源氏の武田家とも外戚にあたり、江戸時代には将軍家よりこの寺に、何がしかの寺領を賜っていたそうである。
はじめ新田家四家老の一人武藤某は、御曹子経義のために確執を生じ、家老世良田氏を切って浪人し、建久二年(1191)庚戊三月この村へ来て、郷士となり武藤勘太郎と名乗った。経義君は妾腹であったらしい、父親義重公殊のほか寵愛されたが後に京都に行き知恩院に学び、祖底禅師なって勘太郎を尋ねて来た。勘太郎は一寺を建立して祖底禅師を勧請し住職とした。されば武藤家の祖たる勘太郎氏の遺骨は、当山本堂須彌壇の下に納められている。祖底禅師は天幅元年(1233)十月十八日九十二歳の高齢をもって卒、「月光無底榮義禅師」と諡(オクリナ)名している。當山の第二世は勘太郎の子武藤孫太郎義澄、出家して住職となる。
祖底禅師の巻物の中にある、上州緑の郷について、永らく疑義を生じていたようであるが、筆者が最近読んだ中村秋孝博士の、建武中興の回顧に新田家の記事中、太田金山の新田家の御霊所、金龍寺より近郊を一帯を見晴らすと、青々とした沃野つらなり、さながら緑の毛氈を敷き詰めたごとく----と記してある。
この時代には新田家の所領一円を、緑の郷と称したものと思われたが、その後、日本伝説研究中の多胡碑銘考に、和銅年間ころに作った碑文に「上野国、片岡郡・緑野郡・甘楽郡・三郡内内三百戸を併せて、成多胡郡」と立派に「緑野郡」が出ている。また同書に、「今の多野郡は即ち、古の多胡郡、緑野郡、南甘楽郡を合併して、明治二十九年に改称したものである」と記してあった。これで緑の郷の所在はハッキリしたわけである。なお当山には祖底禅師より伝わる十一面観世音菩薩の尊像と、菊花縫い取り模様の由緒のある、古代の法衣が保存されてある。これで当山(西方寺)と新田家との由緒もわかり、後に当村へ吉野朝の人々が、尋ねて来られたという連絡も、ややわかるように思われるが、ここに富士山録案内に記載された、下吉田月江寺の寺記というものを見ると、少しあやしく思われることがある。
月江寺は臨済宗に属し、その縁起は古く、順徳天皇健保四年(1216)三月、新田義重の五男額田五郎経義、剃髪して、鳴沢山の榮西禅師を師とし、榮義と称し当山を開かれたのである。本堂はかって祝融の災いにかかり、今は庫裏に隣接する苑内に、新に書院を建設してある。
と記してある。西方寺と月江寺とは近村の事であるから、何かつながった由締があるのではあるまいか。例えば祖底禅師は九十二歳の長寿を保たれた人であるから、一代のうち二つの寺を建設されたなどとも考えられる。いづれにしても祖底禅師は最初に当村へ来られた事と、当山において入寂せられたことは、現に遺された宝物によっても、明らかに立証されて居るのである。


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