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明見村 村名の起原と伝説
下吉田から約二十町の山間に、富士八湖の一なる明見湖がある。周囲七八町の小湖で、三方は落葉松(カラマツ)の繁茂した子丘で包まれ、水面は半分以上蓮の葉で埋まっていて、花期は中々美しく遠方から見に来る人も多い。この湖水のまわりに水浅く泥が深く、中央は底の知れないほど深く涌水(ワキミズ)が多い。この湧水が底から砂を吐き出してまわりを深い泥沼としたのだから、水はきれいだが水泳は危険である。湖水の南北につらなる村を明見村という。
この村の名に面自い伝説がある。昔、富士山が一夜にできた時、附近の村の人はその朝はやく外へ出て見ると、大きな山があらわれたので、驚異の感にうたれ大さわぎをして、この村へも知らせに来た
「はんで見さつせへ(早く来て見なさい)はんではんで(急いで急いで)」
とふれあるいたが、この村の人たちは昨夜の大を音にもおどろかず、その不思議な山の出現を見ようともしないで、
「今日は寒いから明日見よう…」
と、家の中にひきこもって見に出る者がなかったので、富士の神様は大変なお腹立で、そんな怠け者ものには私の姿を見せることはできないと、村の南面へ屏風のような小さな山をこしらへて、この村からは富士山を眺める事ができないようにしてしまった。そして村の名は「あすみ」と呼ぶようになった。
<富士山出現の伝説>
富士山の出現には二つの伝説がある。孝霊天皇の御代に近江の湖水が陥没して、一夜に富士山が出来たといふ説と。昔し大邪猛者という巨人が近江の国から、富士山を背負子へのせて、かついで来たが、甲斐と駿河の国境で、背負子の綱が切れて、へたばってしまった。その時の両手の跡が河口湖と山中湖で、明見湖はお臍の下にあたる「しし」の跡だと云う。だから明見湖小さいけれど非常に深く、その底は竜宮城まで続いているので、ワキミズが豊富だというのであるが、地形上この湖水の背後の山岳地帯を越せば、忍野村山中湖付近の地底湖があると想像される。水量過多の地帯と接続しているから、その水が地下水となってここに湧出するものと考えられる。
<富士山の出現のつづき>
.地質学上富士山が出現したのは有史以前、十万年以上も経過しているのだそうだが、それが上古時代に富士山が出現したように考える思想は、万葉集・常陸風土記・三代実録・竹取物語等の文学に富士山は現れているけれど、古事記・目本書紀等の古典には富士山の記事が無いから、神代には富士山は無かったものとしての出現説で、実際は地上に人類が棲息する以前に噴出した富士山、人間が見るべきわかがなく、何れも架空の寓話と断定して差し支えないのである。
<大町桂月氏が明見湖に遊べる文中に、>
丘によれる小祠至りて樹陰に就けば、清風おづから至りて快甚し、殊に丘下より湧きいづる清泉を掬して渇を医せしに、思いの外に清冷なるに一層の快をおぼゆ、一同裸になって汗を拭いしに、あわててこの方をさして急ぎ来る二人の男あり、我等の前に来りて歩をとどむ。この方より湖水のことを問えば、色々説明しければ、「この湖は水浅くして泥非常に深し、泳ぐものあれば必ず溺死するという」
解(よ)めたり、我等が裸になるを見て、泳がむとするかと思い誤り忠告せんとて斯くもあわてて駆けつけしこと、口に出さねど、様子にてそれと知れる。さても田舎の人の命の大切さよ。
富士山麓にありながら、南方の小丘が邪魔になりて富士は見えず、明見は見んとの理想なるが、理想は到底現実と合わず、あはれや、人は空しく明日を夢見て死ぬるなり。明日を夢みて暮すとは面白い解釈である。
<「神皇記」>
富士古文書より訳出したという、「神皇記」の中に左の記事がある。
孝霊天皇の五十年庚申の四月、木花咲耶毘女命、白衣の美女とあらわれて霊夢に富士遥拝を思いたたせ給い、この地に行幸あらせられ、笠砂の埼より天つ大御前に遥拝ましまし、高燈大神宮において祭典式を行はせ給う。
偶々、地大いに震い、不二山の煙り、消え失せ、人心いと安からず、天皇を始め扈従の人々、かつ驚きかつ遥拝ましませしが、既に薄暮に及びぬれば、また明日見むものと、行在所(アンザイショ)に還幸ましましねぬ。これよりこの地方を「明見の里」というと記してある。
以上の諸説をもって明見の起源としているが、いずれもあまり付合いの説で肯定することはできない。
<家基都・蚕(カイコ)を祭る祝典>
元来この村は上古時代に「家基都」(カキツ)と称して居たが、家基都は延暦・貞観の大噴火の際に全滅して、その後年をへて荒野の中に、やや復興したのが明見であるから、明見という名称の起こりは、現在よりおよそ六百年位以前の事と考えられる。
この村に蚕(カイコ)を祭る祝典として、正月の寒いころに、繭玉祭りということをする。枝が八方に成っている形にして飾る。この祭典が始まると、村の若い衆が数人隊を組んで、中の二人はお神楽で見るような古代の装束をつけて、一人は尉の面をかぶり、一人は姥の面をかぶり、多の者は笛太鼓を鳴らして練りながら家々を訪問する。
大勢でどかどかと座敷へあがって来て、「繭玉を致しましょう」と尉は擂粉木(スリコギ)を持ち、姥は杓子を持ち、うやうやしく繭玉の前に三拝九拝して祝詞を唱える。やがて笛太鼓の拍子面白く、繭玉のまわりを躍り回る、興に応じて「鶴々亀々」と叫んで、擂粉木と杓子で繭玉を打ち落とし、みんなで拾ってこれを食べる。最後に擂粉木も杓子も放り出して、尉と姥が相撲をとり。ドタンバタンの大騒ぎをやらかして、二人は組んだままバッタリと倒れると、一同鶴亀々々--------万歳々々目出度い目出度いと囃し立ててこの祭典は終わる。
主人は何がしかの鳥目(チョウモク)を出し、酒などを勧めて労をねぎらうのである。若い衆はたちは打ち興じてまた次の家を訪間する。この原始的な祭典は「かいこの交合」を意味した野蛮なものであるが、その出典を尋ねる荘厳なる故事がある。これも「神皇紀」の記事に、
<「神皇紀」>
昔、国狭槌命、白清瀧比女命ご夫婦、この国を開きたまう時、龍の河原の大松の下の鶴夫婦と、奥の小池の亀夫婦を鍾愛したまい、常に手に持てる杓にて食を投げ与え楽しまれた。ある日、食を与えていると、「都留」(ツル)・家明(カメ)と高くさけんで、互によろこび競いて食し、一食ごとに声いよいよ高く連呼しつつ食せし故、二柱益々興じ喜び、そのあまりの喜ばしさに杓をなげつけ、萬佐々々々々と三唱した。
鶴は舞って松上に止まり「都留」と鳴き、亀は這って池中に入り「家明」と叫んだ。尊はこれこそ「子孫繁盛」の前兆なりと、すなわち投げし杓を取り来り、おし頂きて詔(ノ)りたまわく、「わが子孫は必ずこの杓を身に添え所持せん」と堅く伝えしめた。鶴のとまりところを「都」と名づけ、亀のとまる所を「家」(カ)と名つけたまう。後の世にその地を「家基都」(かきつ)と称した。
<再び家基都>
その後・「家基都」は富士北麓唯一の都となって.永く栄えたが、日本武尊御東征のみぎり、皇軍に抵抗した賊軍の隠れた場所で、史上で有名な「草薙の剣」草を薙ぎ払い、賊を焼き払った古蹟が此処で、現在もなおその所を「焼橋」称している(昭和18年以前)
<秦の徐福>
秦の徐福が富士北麓に移住したというのもこの土地で、徐福の子孫が「秦氏」と称したそうだが、現在(イマ)もなお、この村にに「羽田」という姓が残っている。徐福は農業工業の技術をこの地に普及したので、後の世まで明見は美田に恵まれ、良い米が採れ、この地で織られた甲斐絹は郡内一の良質で丈夫である。
<「家基都」・「加吉」>
徐幅の末裔の福信というのが.日本武尊に反逆した賊魁のように「神皇紀」には記してある。 尊は家基郡を「やきつ」と読ませるようにしたと、古事記にしるしてあるが、里人も「やきつ」というのを嫌って文字を「加吉」(カキツ)とあらためて、やはり「かきつ」と発音する事とした。
これより七百年の後、延暦の噴火に全村熔岩の下に没して、全滅し、わづかに逃げのびた者は山間の僻隅に、かすかな煙りを立てゝ居たのである。
村の口碑によると、昔、この村へ「あるやんことなき尊い御方」が参られて、里人に富士山はいづれにあるかとたづねられた。その日は霧の深かつた日で、しかも夕暮であつたから、里人の指さす、彼方には、富士山は雲にとざされて見えなかつたから、「しからば明日見よう」と云はれたので、それから村の名を「あすみ」と称えた。と言い伝えて居る。
この地は神代からつづいた古い家基都の町だったのが、家基都が「やきつ」と呼ばれるのを嫌って「加吉」とあらためた。その加吉が延暦十九年の噴火に全滅して、その後貞観等の災禍に遇っている。貞観六年は紀元千五百廿五年で、現在より千〇七十余年以前であるが、貞観以後に執筆された古文書の「富士山噴火年代記」等には、「家基都」・「加吉」等の文字が使用されているから、その後にかすかに復興した村も、やはり暫くは、「加吉」と云って居たので、明見の名は現在より凡そ六百年以前に、創(ハジ)まるものと肯定されるのである。
語源上から考えても、この土地の人達は関東地方のあらい言葉で「あした見べい」とは云うが、「あす見よう」などとやさしい言葉は使わぬ。尊いお方は西国の都より来られた御方であられる事は、発音から考察しても明らかである。
<明見村からは富士山が見える?>
この土地の人が作った名なら「あした見村」とでもつけるべき所だが、このやさしい「あす見村」といふ名称の中に、尊い御姿が拝される心知がするのである。この村から富士山が見えぬなど云ふことはうそで、山間の小原・向原等の部落からは富士山は見えないが、湖水の南北に連なる大明見・小明見からは、何処からでも富士山は見えるので、天気がよくさえあれば、明日見る必要はないのであるから、村人がかような名称をつける理由はないのである。さすれぱ村名の起りは、尊い御方の御言葉から出たといふ伝説が実説であると断定してよい事となるのである。
この伝説に残る尊い御方は、如何なる御方におわせらるゝか、深く秘されて何の記録も見あたらず、はっきりした事は申されないが、
----君がため命かひにぞわれはゆく。鶴のこほりに千代をふるなり----
という壬生(ミブ)の忠岑の古歌と関係が」あるのではなかろうか。
<「富士古文書」>
時代は違うが「富士古文書」に、長慶天皇の御紀事が記されて、その中に左の数首が載せられてある。
朕、不二谷に遺し置とて
----玉川や飯盛山に身をかくし忍びまはりし不二の谷そこ----
----身をしづめ都々谷々の遊心はむかしも同じ都なるらん----
----山ふかき都留の郡の大瀧のひゞきは谷の松の尾のうへ----
と、尊き御方の御製が残されて居る。
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