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<日本武尊の故事・丸火の謂れ>
神原理学博士が、富士山麓の水理を調査中、富士古文書の研究者から、明見村の「焼橋」という所は、日本武尊の御東征の際、賊が橋をやいて対岸へ逃れた、遺跡だと聞かされたそうだ。尊の御遭難の場所は、明見と吉田の中間にある原野で、その証として、熔岩を丸火と唱へるのは、この地方独特の名称で、駿河の人は熔岩を単に焼け石と云い、精進・本栖方面の人も、丸火とは呼ばぬ。熔岩はとけて流れるもので、「まろび」がころがるものでないのに、この地方でばかり「丸火」と唱えるのは、(日本武尊が)草薙の剣で草を丸く切りはらい、向い火をつけて丸く焼き払はられたのが「丸火」の語源で、後に富士大噴火の際に、溶岩が火焔をあげて流れ走って、大きく丸く連なったのが、御遭離の折の御状態(オンアリサマ)と似ていたので、その故事を記念するために、その地を「剣丸火」と称えたのである。
他に「桧丸火」・「鷹丸火」・「土丸火」等がある、丸火の出來た延暦十九年(800)、貞観六年(864)は、尊の御東征より七百年ばかりの後の事だが、特にこの吉田地方の丸火に、剣の字を冠したのは、このような故事が語源をなしていのである。
<吉田の火祭りの由来>
前記明見の火祭りの外に、富士吉田でも毎年舊七月廿一日に、盛大なる火祭りを行う。下吉田から上吉田にかけて浅間神社の前まで忌のある家を除き各戸に一本づつ、昔は二間一尺の定めだそうだが、五六間の高さの大松明を数百本ならべて、炎々として天を焦がし、闇もあやなき壮麗なる祭礼で、「美濃のつくま祭」、伊豆の「伊東の尻りつまみ祭」とともに、日本の三奇祭と称されている。
これが毎年富士の山開きだそうであるが、単に噴火を恐れる鎮火祭なれば、富士山麓数十ヶ所の浅間神社で、全部が火祭り行事を行うべきわけだが、吉田の町とそれから噴火に縁の遠い堂の山との二ヶ所だけで、この壮絶なる火祭りを行うのは、果たして何を意味するのであろうか。
吉田の火祭りの謂れを尋ねると、
----富士嶽神社の本社の左手にある小社に、諏訪大明神「建御名方命」を祭られてある「昔、命、追(ト)われさせたまうて、この地に入らせられた時、土民に図って無数の煙火を撚さしめられた。追手はこれを見て、援軍多く列(ツラナ)ると思って立去ったので、命は無事なるを得た。それが七月廿一目の夜であったから、いまもなお、その夜に至れば吉田の各戸、軒毎に松明をともして神事を祝う—---
とい縁起である。「われこの地より他へは行かじ」と誓って信州に諏訪に鎮まりし建御名方命が、吉田まで遺はれて来たというのは怪しい話で、この伝説は目本武尊の御遭難の事蹟と、混同しているようである。
<日本武尊の御痕跡と御由緒>
○ 吉田の浅間神社のうしろ「諏訪の森の大塚山」といふ小丘に、目本武尊が御休息なされた腰掛岩がある。この附近には尊の痕跡が非常に多い。
○ 河口湖の鵜の島は尊が富士山を遥拝して、戦勝を祈願した遺蹟である。
○ 下吉田の下新田の不動様のお札は、日本武尊が弓をもつて、立つて居られる尊像である。
○ 明見村の天都山の篠垣塚は、尊が賊軍を平定した後、富士山を遥拝した遺蹟だという。焼け橋から一丁ばかり離れた所に、「陣の跡」という所が在り
○ 小明見下宿の不動様は尊を祭った社であり
○ 堂谷山上の白王様など
すべて尊の御事蹟に由緒のある事を、断片的にこの土地の人から聞いたのである。
この地方は昔、相模の國の一部であった事は、甲府地方と山をへだてた都留郡とは、人情風俗言語まで異なって居り、都留郡の人は甲府地方を甲州と呼び、甲府地方の人は郡留郡の事を郡内と呼んで、他国の扱いとして居るのでもわかるが、文献としては加茂季鷹(カモノスエタカ)の「富士日記」の一節に「遊行二代真教上人.家集に
甲斐の国より相模を越えける「御坂」といふ山にて
富士のたけを見やりて 雲よりも高く見えたる富士のねの月にへだたる影やなからむ と見えたり
とあり、山中湖北岸の平野なる「平野天神諸記」と題する、氏神所藏の文書の一節に、○「大化五年(649)十月、高座郡ヨリ四郷ヲ割キ甲州に編入。中古宇宙ノ郷中ノ庄と称す」と記されてある。
焼橋は小明見西方寺の裏手より下吉田との中聞を流れる、桂川の渓谷附近の原野を今も字「焼橋」と称しているのであるが、
<秦の徐福>
古文書には
「秦の徐幅がこの地を開拓したので、その子孫の福信といふのが、尊に反逆された賊魁で、向ひ火をたかれて返り討ちにされ、橋をやいてこの部落へ逃げこんだ」と記してある。上古はこの辺に「御船湖」(下吉田新倉付近)「阿祖の海」があり、その中間の原野には、沼沢が澤山あつた。即ち古事記にある、この野の中に大沼あり、という地勢である。なお、ここは富士の裾野から分離された小原野で、東北は高座山から御正体山へつづく山脈で、西北は御坂山脈から三つ峠への、嵩巒(コウラン)かさなり合う中にかこまれて居て、
さねさし(眞嶺刺し)相模の小野に、もゆる火の ほなか(炎中)に立ちて間ひし君はも
と弟橘媛(おとたちばなひめ)のよまれた歌に、ふさわしい地形をそなえている処なのである。
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