富士山

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『日本後紀」に載る、延暦十九年の噴火
延暦十九年六月朔日、駿河言、自(ヨリ)去三月十四、四月十八日迄、富十山嶺白焼、昼則、煙気暗冥、夜則、火光照天、其声如雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>

富士山噴火年代記
人皇四十三代、元明天皇御宇、和銅六年(713)詔諸国、作風土記、富士山和(は)、相模、甲斐、駿河、三国之中仁(に)有仁依而、三国第一山登(と)申也。
一、左之神社和、風土記仁明也。
駿河国富士郡大宮駅。
正一位浅間名神大社御伝記。
元社、甲斐国都留郡阿曽見駅。
正一位一幣司、小室浅間名神大杜々伝。
都留郡和(は)、大古和(は)、相模国也。中古、孝徳天皇大化五年(649)十月十日、相模国尾分、甲斐国仁入留也。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>



延暦十九年の噴火
桓武天皇、諱名、日本根子皇統弥照天皇登言。延暦十九年之四月中、福地山七拾二箇所与利噴火致志、人馬仁不限羅、草木迄、皆死志多利。
最も場所之与記所之人々和、甲斐、上毛、武蔵、東相模、伊豆、西駿河之国仁野加礼、住人茂多人数成利。

・南湖(宇宙湖)熱湯押込、二湖登成利、寒川之谷川和高久也。

・高座山尾崎和、熱湯尾加武利、小室沢和、湖登成利、背之湖和半分登也。

・大田川和、津武礼而、西田原仁、二里仁一里余之湖出留也(河口湖の出現)。

・村、二十二箇村。阿曽見、東吉田、中吉田、西吉田、日向、川久保、河口駅、山宮、大山、大原、上手、中手、下手、元住、浅川、広里、天神、神原、上山、水市駅、宇宙野、長生。
阿曽見和、家基都駅登茂申也。
是与利下、六箇村。
座見、相模、宮原、田原、田之座、駒沢也。
計、甲斐国分(但し富士北麓)
人戸、一千八百六十余戸。
人数、六千六百余人也。

・山宮村和、岩石土砂四十丈余焼埋太留仁依而、山宮村之宮司、兄弟和、兄、元宮麻呂和、甲斐国八代郡之東、山梨郡登合之中山仁野加礼居留。弟、大宮麻呂和、駿河国富士郡岩本沢仁、野加礼居利。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>

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<この写真は貴重である。もしこのとおりの開発がされていたら富士山は死んだ>


富士山の名称が替わる

福地山(富士山)

延暦十九年(800)の富十山大噴火前までは、人皇十代崇神大皇時代から、人皇五十代桓武天皇時代まで、福地山と表記した。しかし、大噴火は福地山に祭られる神々への信仰を疎かにした、として、福地山を富士山と改称の事、七社の大神の
宮を再創立致す事とし、位階正二位とする事など、ときの朝廷は大同元年(八〇六)六月三日大政官牒状をもって、元宮七社太神官、宮司官下記太夫仁元に命じ、これより富士山という文字を用いた。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>

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<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>


徐福
(略)秦国ノ皇、始皇帝ヲ欺キ、本島二渡ル人ナリ。始祖ヲ徐福ト申スナリ。
徐福ハ始皇帝ヲ欺キ、金、銀、砂金、珠玉、米、塩、味噌、酒、醤油、油、衣類、道具等ヲ十分二用意シ、大船四十ハ艘ヲ造リ、老若男女五百余人ヲ引キ連レ、日本ノ不二山ヲ目当二大海ノ原ヲ東二東ニト舟ヲ漕ギ、何昼夜トナリ漕ギ来タレバ島アリ、日本ノ不二宝来山ナルト、舟ヨリ上リ、アタリヲ巡リ見レドモ、不二宝来川ハ
見エズ、此ノ鳥ニハ非ズトテ、マタ元ノ舟二乗リ、大海ヲ東南二漕ぎ来タレバ左右二島アリ、不二宝来山ハ見エズ。ソレヨリマタ大海二舟ヲ南東二漕ギケレバ、天ハ晴レ、浪静二成リケレバ、大海ノ沖二逢二不二宝来山現ワレ見工給ウ。
五百余人ノ人々皆喜ビ逢拝致シ、舟ヲ早メテ漕ギケレバ、不二宝来山ハ隠レテ形モナキ大山アリ、ココゾ不二宝来山ナリナラント、山ノ裾々野二舟ヲ繋ギ上クテ、見レド見レドモ不二宝来山ノ形ハ少シモナカリケレ。
此処ニハ非ジト五百余人ノ人々手分ケトナリテ、アチコチト尋ネ探シ、漸ク不二宝来山ヲ見付ケタル日ハ、日数ヲ繰レバ三年三月ナリ、コノ所ヲ後二聞ケバ、日本国紀伊国ノ木立ノ大山ダト申スナリ。
ソレヨリ五百余人ハ二度大船二乗リ、不ニ宝来山ヲ目当テニ船ヲ漕ギ、不二宝来山ノ足基二着キ、ソレヨリ不二宝来山ノ中央高天原二登リ、中室二止マリ、五百余人ノ人々ハ皆銘々ガ、コノ中室、大室二止マリ、銘々ノ渡世ノ家業職業ヲ励ミ、子孫繁栄シテ高天原ヲ始メ、近郷ハ、コノ五百余人ノ子孫三分ト政リ、マタ近国ヲ始
メ、東北ノ国々ハ奥羽迄、此ノ五百余人ノ子孫ガ二分通リナリト申スナリ。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>

徐福の後裔
○秦国人徐福ノ男子七子アリ、一男福永、後、福岡ト改メ、二男福万、後、福島ト改メ、三男徐仙、後、福山ト改メ、四男福寿、後、福田ト改メ、五男福畑、コレヨリハ高天原二来タリテ生レルナリ。六男福海、七男福住ノ七子ナリ。
〇二男ノ福島ハ、春族五十人ヲ従工、紀伊国ノ大山二移シ、ソノ土地ヲ開発致ス事ヲ命ズ。コノ大山ノタメニ、不二宝来山ヲ見失ナイ、三年三月コノ所二迷イ居タル山ナルニ依テ、コノ山ノ名ヲ久真野山ト名ズク。コノ時迄二秦国人五百余人ノ子孫ハ繁昌シテ、千余人トナリ給ウナリ。後、福島ノ子孫ハ、徐福ノ霊ヲ、福地山ヨリ久真野山二分ケ移シ、祠ヲ立テ霊ヲ祭ル。コレヨリ福地山ノ徐福ノ宮ヲ本宮ト申シ、(富士吉田市字吉原)、久真野山ノ宮ヲ新宮ト申スナリ(新宮市)。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>

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----この村の東にあたる山の中に、年を経た神通自在の荒神様が住んで居られるので・毎年夏の七夕の日に、供物捧げる事となっています。酒一樽・餅4斗、海の魚と川の魚、新しい野菜と新しい果物、若い生娘を一人添えて、献上することに定められている。これを怠ると大変なことになる。山鳴り震動して風を起こし雨を降らし、大嵐となって田畑を荒らし、人畜に損害をあたえるなど、思いがけない異変が続発する。これが恐ろしいので、毎年この行事を続けているのだが、御供物はなんとでも調達できるが、捧げられた若い娘は返して下さらないから、年頃の娘達は毎年心配して、お召し預かった娘は村のために、この様な悲しい別れをするのだという----。
若い武士はこの話を聞くと、目を輝かして、
「わしがこの娘を送ってあげよう。そして相手を見届けて参ろう」と云った。周囲の人々は驚き、みんなで引き止めた。
「心配するな。わしには自身がある。実は昨夜泊まった近村の農家でこの話を聞いたので、わざわざたずねてまいったのぢゃ」
 というので、一同改めて武士の姿を見直すと、筋骨たくましく、凛々しい顔をしているので、
「それではお願い申し上げましょう」
 武士は娘とともに、船に乗り込んだ。武士が櫂をとって小船を操り、湖水の中ほどまできた時、突然晴れていた空が掻き曇り、暗闇となり、風も強く吹き出した。武士は目を凝らして、微かに見える東の山を、キッと見つめると、中腹の森の中から、真っ黒の雲が、モクモク沸いて出る。その雲の中に、キラッと金色に光るものがあって、水面を波立たせながら木の葉も撒き散らしながら、小船めがけて押し寄せてくる。
 若い武士は、少しも物怖じせずに、櫂を置き、自慢の強弓を握り、鷹の羽の矢を番えて、満月のように引き絞り、
「恐敵々々々々々々----箱根権現、石松八幡神社を始め奉り、日本六十余州の神々、われに加護あらしめ給え、悪魔退散、悪魔退散」
と心の中に念じ、狙いを定めて、いっきに矢を放った。矢は暗闇を走り、光を放す怪物に命中した。金色の玉は微塵と砕け飛び散り、
「ガラガラ、ガラガラ、ゴオ〜ン、ゴオ〜ン」と、耳を劈(ツンザ)く雷鳴が響き渡り、周囲には「光物」が散乱し、その中のひとつが、グーンとうなり聲を響かせて飛んできて、舟の横腹ヘガーンとあたった。
「アツアアアア----」と思った瞬間船は転覆し、武士と娘は水中に投げ出された。
周囲の黒雲は消え、波も静まり、激しい風も治まり、眩いばかりの晴れ間が広がった。
湖畔で見守っていた村人が、事態を心配していると、物の怪を退治した若者が娘を小脇に浜の方へ泳いでくる。村人は歓声を挙げながら、迎えの小船を差し向けた。武士と娘を小舟へ引きあげて.岸辺へつれてきた。
岸に引き上げて見ると、若い武士は手傷は無く、元気そのものであったが、娘は哀れ。若者や村人は必死に介抱したが、娘は二度と目を開くことは無かった。娘の父親は死骸に取り縋って悲しんだ。
「この湖水の真ん中は底が深く、周囲は水は浅く泥が深い。昔からこの海へ入った者は、一人も助かった者は居ない。娘はもともと村のために捧げた命だから、死んでも本望でござりましょう。それにしてもお武家さまはよくまあご無事でこられましたな〜」
 武士は、
「船が覆って、水に投げ出された時に、直ぐに娘を抱えて泳ぎだしたが、不思議な力が我らの体を、底へ底へと引き込もうとする。」そのたびに娘の体が「うき」のようになって、私の体を引きあげてくれるような気がしたが、今にして思えば、死んだ娘の魂が「うき」となって、溺れそうになった白分を導いてくれたものと考へられる。思わぬところで恩義にあづかり、感謝の外はない----」。
と娘の亡がらにむかつて手を合わせた。娘の残し置いた水色の紙に、一首の和歌がのこしてあったので、武士は村の者から受け取って読んで見ると、
「ちぎり置きし露ははかなく消ゆるとも蓮のうてなに、かほりのこさん」 
と書いてあった。あはれ薄命のこの娘は、すでに前夜からこうなることを覚悟していたのだったのかと、いまさら一同の眼をしばたたかせた。
何はともあれ、物の怪を退散させて、村の難儀を除いて下さった、武士にお礼をしなければと、村人一同はお連れ申して、出来る限りのもてなしをした。村人は武士に、荒神様の祟りを恐れ、武士に、「しばらく村に留まっていただきたい」と懇願して、武士も快諾して村に留まることにした。これを機会に村の悪習「人身御供」は無くなったという。村人は感謝の念をこめて武士を尊敬しながら暮らした。
あるとき武士は村人に「これまで犠牲になった娘たちの霊を慰めるために、湖水の浅瀬に「蓮の花」をたくさん植えることを提案した。
村人は「今まで気がつかなかった。村のために犠牲になった娘たちのために、おっしゃる通り、蓮を植えて霊を慰めよう。」と総出で植えつけた。
やがて時が過ぎ、蓮の花は湖水の水面を覆い尽くすようになった。その花の美しさは、多くの娘たちの笑顔のようで咲き誇っていた。また蓮の花の香ばしい香りは近辺の村々へも漂い、多くの人が訪れるようになった。
年が遷(ウツ)り、星がかわり、当時の様子は幻のような記憶になっていったが、村の子供は、振り分け髪の「うない」遊びに、前記の「ぞうり唄」を面白い節をつけて、面白おかしく、うち興じながら唄い遊んでいるのである。
こうした童謡・民話・伝説・昔話には地域の隠された地域の人々の想いが託されている場合も多く見られる。この伝承や唄にも、地域を取り囲む郷土の山々に対する村人の畏敬の念と、鉱山などの秘めた産物をひた隠すために、こうした類の話を創作して、村人を近づけないこともあったと考えられる。
黒雲の中の金色の光
明見村東方の山麓の集落、向原からこの山に登っていくと、細かい水晶が露出している洞窟がある。ここの水晶は、あまりにも細かく、何の役にも立たず、村人は重要視していないが、水晶のある付近には必ず「金鉱」があるという人もいる。
この「東の山」というのは、富士北麓の小沼駅から入る。近頃学生や登山家が登る御正体山の中腹、入山右側の深林地帯である。若き武士が明見湖畔を訪れた建久二年は、曽我兄弟の討ち入りの二年前の話である。


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