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先佳民族域砦の遺跡

富士の裾野地帯の梨ケ原には、犬小二箇の臼窪山があるが、これは元來富士の寄生火山であって、臼のような形状になって、中央に窪んだ火口ができている。鐘山(忍野村忍草)とは、桂川を隔てて相対しているが、西が大臼窪山、東が小臼窪山で、桂川をのぞんで並列して居る。
○大臼窪山
大臼窪山は、高さ五六間乃至十間ほどの外郭丘陵が輪状をなしている。一番高い所へのぼるに、八十歩を要し、東南西の外郭丘陵の上部を歩測すると、三百ハ十六歩乃至四百歩ほどを要する。北部はやゝ低くく桂川崖上をのぞんで開口している。その開口する部分の幅七十四歩。噴火口の東内側百九十歩、西内側は五十歩.西内側は二百五十四歩ほどあり、火口は火山礫で埋没している。
丘陵内壁の東南西の三方は、三段の階段となっている。この階段は人口的のものである。この丘陵上にのぼれば西は河口湖・西湖・精進方面の富士の裾野を一眸の中にのぞみ、御坂山系木無山つづきの十二ヶ嶽、その他の連山が見える。東北は内野忍草の平野を脚下に御正体山、山伏峠から道志の山々、丹沢山の一部、籠坂峠につづく天神峠、足柄山方面まで見える要審の地である。
○小臼窪山
小臼窪山は大臼窪と同じ形式で、後方にひらけた口は、幅間高さ五間、外廓丘陵上三百四十歩。内部底百五十歩ほどである。そして後方にひらけた口は、桂川の急流が深潭をたたえている。
古代の内野忍草附近が湖沼であった時代には、満々たる水をめぐらして、今より一層の要塞地であったであろう。
この小臼窪山の南方二手の所に、彼等の居住した遺跡があり、土器・石器の破片が散在していたことは.前章に述べた通りである。
この小臼窪山の外廓丘陵に於いても、その廓内に於いて弥生式土器の一小破片を発見した。その小破片が、その小破片が彼等の石鏃の製造所で、かつ住居遺跡であった所から発見されたものと、殆ど同時代の弥生式土器である。
○大臼窪山
大臼窪山附近ではまだ当時の遺物は発見されないが、小臼窪山では彼等が生活に使用した、土器を発見したので.この山と彼等民族と密接な闘係があったことが考へられる。大臼窪山からは確証すべき遺物は発見されないが、小臼窪とは数丁の距離にあり、同一形式の丘陵である所から考察しても、両者が彼等民衆と関係のふかい、要塞地であったことが想定される。
大臼窪山をもチャシ(砦塁)とする理由は、休噴火口壁の内側に於ける周囲の階段である。人工的に三段の丘階を形作ってあるが、これがどうも近世のものとは思はれぬ。かの朝鮮に於ける鉢巻山類似のもので、鉢巻山は外部に鉢巻をしているが、これは内部に階段が作られている。その様式が、古代に於ける築城法と考えられるのである。
○谷村勝山城址
谷村町の古城、河棚の勝山城址のごときも、歴史記録では淺野某が城を築いたというが.事実はそれよりズツト古い、有史以前の城砦であつた事がわかった。勝山城址の山上で石鏃の破片を発見し、つづいてアイヌ土器、弥生式土器(木の葉痕あるもの)などを発見しているので、一度いここにのぼってて見ると、北は岩殿山方面の北都留の群山から、南は裾野を見はらして富土を中天に仰ぐ、景勝の地でしかも敵の行動を知るに都合がよく、要塞地として桂川上流沿岸に於ける一等地である。城址上に土塁の階段があって、大臼窪山の内部の階段と同一の手法である。
この附近に於ける古代のチヤシ(砦塁)は、谷村町古城山(勝山城址)・大臼窪山、精進バノラマ山・嘯(ウソブキ)山(船津村)などの他にまだ二三あるが、中にも大臼窪山の要塞地は、富士山麓において最も特殊な地形を有するものである。
○富士郡大宮町の黒田附近の城砦
なお富士山の周囲において、富士郡大宮町の黒田附近の城砦である。この地を俗に「月の輪」と称している。月の輸は大宮町字星山区内に属し、その四周の地形がすでに天然の城砦をなしている。後方には断崖あり。前面には古代の湖沼の地を隔てて、富士山に相対し、明星山は近くそびえ、かなり要害の地であった。そごからは主として弥生式の土器や、石器類を出土するのであるが、三方を水にかこまれた地形なので、彼等がこの地に原始的な生活をしていた頃は、四辺は老樹が鬱蒼としてしげり、湧水も潺々(センセン)としてながれ、寂しい物すごい丘陵地であつたと思はせられる。平常は山の根の台上に住み、いざ戦争となれば裏山の城砦に立て篭もって争闘をつづけたものと老えられる。
○富士郡富士根村字箕輪
これと類似するのものが、富士郡富士根村字箕輪にある。ここには彼等日本人が来住しなかった以前に、アイヌの山城要塞であった思われる場所で、地形はほとんど箕の形をして居り、アイヌの遺物も出れば後の日本人遺物である弥生式土器なども出る。これは始め富士アイヌの占拠地であって、後に日本人に占領された遺跡である。
○富士川下流の明星山
 富士郡地方の伝説によれば、富士川下流の明星山は、古代日本人が兇族悪羅王を征服した山城などの、神話が里俗の間に今も残っている。そしてこの地方に割拠していた先住昆族は主として狩猟生活者であって、山祇の神を崇拝した山砥部族であつたことは石器などの遺物によって推考されるのである。

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古代民族の移住

富士の山麓地方、裾野の四周に吾ら日本民族の祖先が、いつごろから移佳してきたかと云うと、学者の所謂彌生式土器を出す民族の遺跡であって、有史以前の石器時代当時からこの辺に来て居たと考えられる。それは有史以前アイヌの蕃殖した最初の第一期時代ではなく、第二期時代の中間期もしくは、薪石器時代の終未期と想定するごとができる。これは富士山及びその裾野、甲州郡内、武相の平野及び駿河湾附近一帯の、遺物及び遺跡によって立証することができる。例えば浅間神社社殿のある、大宮町櫻ケ丘の台地の如きは、かれらの遺物彌生式土器類が残っていた。同大宮町黒田星山の墓地、星山字月の輸の如き、富士根村小泉台地のごとき、彼等の遺物がいろいろ残っていた。
須走村に於いても王子ケ池(或は大蛇ケ池)附近と.須走淺間神社裏山続きの酒匂川上流になっている。鮎澤川にのぞんだ丘陵地須走村字音口とにおいて、彌生式土器を発見している。
精進湖畔の精進パノラマ、或は本栖湖畔、河口湖畔などに、やはり彌生式土器が各所から発見されている。その彼等先住民族の遺跡は、主として丘陵地近くに残っている。まれに低い沖積層の土地に残っていることもある。それは沖積層の土地でも、古代に海水または湖沼であって、それが涸れあがった所なれば、そこを住居地として彼等が生活していたことが考へられる。そしてその住居地附近には、かならず清い飲料水の河川があった。
上吉田新屋、梨ケ原臼窪山附近の遺跡などは、みな富士裾野の高燥の高台地であるが、附近には絶えず流れる小川かあって、湧水や湖沼に近接して飲料料水に不自由をしない所をえらんで住居地として居た。

土器及び石器の遺跡

臼窪山、精進パノラマで、谷村町勝山城杜のごとき、麓には清流もしくは湖沼地があって、しかも展望のきく場所には、一望ほとんどさえぎるもののない台地を利用しで要塞地を作るのが常はである。要害地の附近からは石鏃、即ち矢の根石の製造所や、矢の根石を鐙見するのである。
桂川の流域、忍野村字忍草の三左衛門入りについて見ると、上部は小砂のまじった黒い土壌で下にローム層がある。その表土から二尺位下に弥生式土器の破片や、黒耀石の屑などがあり、時には三尺位の深さから、殆んど完全に近い彌生式土器を発見することがある。その附近の地表面にも半磨製のたたき石の如をもあれば、黒耀石の破片や土器の破片などが、廣さ二三十間の場所に点々としている。これは古代の土器製造所の遺跡である。
瑞穂村新倉字日草場には、石鏃を作りかけた屑石や、原料石などを澤山発見したことがある。それらの遺跡は石鏃製作所としての、古代民族の兵器工廠跡である。
河口湖畔勝山村、俗に敷島の松のある字「沖クネ」には、表土から一尺三四寸の下に遺物が包合されて、二尺以内の深さにかぎり、三尺も四尺も下の赤土の中からは発見されない。
河口村字国府の下、御坂峠及び八丁峠への分岐点に近く、俗に疱瘡橋附近の台地から、弥生式土器ならびに敲き石等を発見している。船津村赤坂出口の遺跡よりはその時代も古く、石器時代のものである。河口湖中の鵜の島にもアイヌの有史以前の土器とともに彌生式土器並び祝都の土器類を出している。
足和田山麓の鳴沢大田和の字清水にも弥生式土器が発見され、また大室山付近かの溶岩流の蔽はざる口―ム層地で、素焼き文様の土器が発見された。精進パノラマ登り口で彌生式土器の破片が発見され、頂上では石器の破片及び黒耀石が発見された。精進の鵜峠(ウトウガ)山中附近でも石槍が発見された。
それから大和田や本栖村北の端の遺跡などと共に、精進湖方面には、アイヌ外の先住民族も来ていたか淀遺跡があるのである。
有史以前の日本人遺跡から出る遺物は、まづ石器では石鏃が出る。主として狩猟生活者であった彼らは、鳥獣を捕獲するにはこの石鏃矢の根を使用した。また敵との闘争のために要害(チャシ)などに立て籠もって、この石弓あるいは鋭い竹木滑りなどの鏃を併用して敵に対抗した。護身用の武器として大切な道具であった。
梨ヶ原に近い大臼・小臼には彼らの遺跡がある。梨ケ原開墾のためにその遺跡が撹乱されて発掘された。その遺物の中には彌生式土器の破片と、黒濯石の破片が犬小無数にあって、やゝ完全に近い石鏃もまじってあつたが、この地は石鏃の製造所であつたと考えられる。
石鏃を製作するに使用した原料石は、黒耀石、煙水晶及び角(ツノ)岩が主要なものであるが、稀には水晶粘板岩などを用いる。あまり遠方から原料を運ぶごとを避けて、附近から出る粘板岩を使用して居るのだ。黒耀石は富士山附近から出ないので、信州和田峠か八ケ嶽附近から運ばれ、煙水晶及純白の水晶などは、金峯山か東山梨郡の石森村等から産出したものを使用しているので、富士山地方とそれらめ地方との間に、交通貿易の行はれていたことがわかる。角岩のごときは富士附近はもとより、秩父地方にも産出しない。一番近い原産地は、下野駒場山附近であるが、それが幾多の人の手を経て、この地方へ移入されたものである。
かれらは片匁の磨製石斧を作り、また打製の右斧も作ったが.その形状や趣同においては、非常に拙劣な手法であった。利器としては多く磨製及び打製石斧を用いた。石斧を磨きつける砥石とか、植物の實や殻などを打砕きなどする敲き石なども出る。しかしそれらの石器類は、石器時代のアイヌの遺物にくらべれば、製作手法上不細工にして自然石の河原石のままのようなものを使用している。
海濱地方には錘(オモリ)石(挟線入り)を使用しているので.漁業用の網などもあったことがわかる。その錘石も、河原の丸い自然石程度のものである。錘石に抉り目を入れるばかりでなく、時には半磨製の石斧にも抉りを入れてあるのが、愛鷹山麓や沼津の海海岸地帯から発見されている。
第三期の絡末期時代には、幾らか金鐵を以て作った利器をも使用することを、知つたであらうと思われるのは、日常装飾等に使用した玉製、或いは磨製石鏃などに、小孔を穿たれてあるのを見ることがある。
土器は素焼のうす手のものであるが、その形秩は、翁・鉢・碗・平皿・壺小瓶等で、いずれかも同じような赤褐色を帯びている。まれには、黒褐色を帯びたものもあるが、それは焼いた際の燻(イブシ)であって、火加滅で、燻(イブシ)色を呈したものと思われる。比較的厚手にできている鉢形のものなどは、原料たる粘土の中に小石まじりの砂や、雲母を混ぜてやいたものも稀にはある。これらの土器の中には、把手(トッテ)を施したものがある、多くは牛の角形とか、短かい棒扶の把手を突起させるだけにとどまっている。
瑞穂村日章場、字池の本などの土器把手や大宮町月の輪には牛の角形の把手のついた土器が発見されている。富士山地方のものは稀に赤朱色の、塗料を施したものを見ることがある。これらの土器を利用して、富士山地方に住んでいた民族は、一は地方の山地より、一は南方の海濱地方より移佳してきたもので、主として狩猟の生活をなし、その海濱地方のものは漁業をして居て、この富士裾野の台地附近やその周囲の地に、竪穴を掘って佳居して居たものである。
夏期には草小屋を建てゝ、丘陵上に小村落をつくり、転々として各所に散在して、生を楽しんでいたものと見える。彼等有史以前の日本民族が、富士山附近で活躍していたころには、まだ富士アイヌなどは各所に蕃居していて、対抗せねばならぬこともあったろう。また同種族の間でも闘争が行はれたであろう。そして戦争のための遺跡は主として、山地の城砦にたてこもるので、山城要塞即ちチヤシ(砦墨)などのある場所の城砦附近には、必ず彼等の佳居地があった。

富士山の遺蹟と分布

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遺物・遺跡の分布図

 遺物上から見ると、相模の海浜から酒匂川を上流に伝わって来た海岸アイヌ、即ち、相模野アイヌの一分派で、海岸から河流を伝わって湖畔などに漂泊したもので、山地の所謂「甲州蝦夷」・「八代アイヌ」とはその部族を異にしている。
考古学上「相模野蝦夷」または「富士アイヌ」と命名している。
富士山東麓の遺跡 有史以前に於ける「富士アイヌ」の遺跡として数えるべきものは、富士山東麓にありては、
・駿東郡須走村字梨木平・同王子ケ池附近・北郷村大御神・北郷村上野・六郷村柳島・六郷村生土・足柄村竹の下・御殿場東山・御殿場二の丘・高根村字水土野・富士岡村大坂・深良村字深良・公文名・泉村字大烟・泉村茶畑
北麓、桂川上流の遺跡 富士北麓、桂川上流方面にあっては、
・瑞穂村字下吉田・月江寺畔の後山・瑞穂村大字新倉・字、古屋・黒木澤・瑞穂村裏の御船山付近・瑞穂村新字古屋如来寺門前・瑞穂村新倉字大欅(池ノ本)日草場・大牛窪・字古屋山の神

河口湖畔の遺跡
・船津村字中村・小字背戸の山(この遺跡は熔岩流下より遺物土器を発見したもので、船津村八王子権現神社裏の、溶岩下遺跡とともに、注意すべき所)。
<船津村>・船津村小字平浜・船津村東電取入口附近・船津村字淺川・船津村御屋敷・船津村宮ノ森字鵜泊リ・船津村バス停留所附近の熔岩下遺跡
<小立村>小立村大字茅ケ島・小立村字御館・小立村乳ケ峠
<勝山村>・勝山村大字前原字一本松(山ノ神東端)・勝山村大字宮の丸・勝山村小島小字中畑・長濱材渡般場附近
<大石村>・大石村大字藥研澤・大石村字中澤小字地藏澤・大石村下の峰(俗に中河原)・大石村字中の澤小字長門・大石村大字鉢窪字古屋・大石村鵜の島
<河口村>・河口村大宇峰・河口村浅間神社境内・河口村字廣瀬、小字大畑・小字淵の前・河口村字城古山・河口村字産ケ崎山・河口村字谷抜・河口村懸の水附近・河口村字尾羽根・河口村建石・河口村三ツ峠共有地(木無山)・河口村三ツ峠山頂上(標高六千尺)
西桂村 ・西桂村字下葛地の寺野澤・西桂村字友塚.同字城屋敷・西桂村字小沼・西桂村字倉見白山神社境内
開地村 ・開地村熊野碑硫境町
東桂村 ・東桂村字山梨・東桂村字夏狩下の原・東桂村字十日市場・東桂村十日市場小字馬場船・東桂村ババクネ・東桂村大石ガネ・東桂村鹿留(シシドメ)発電所放水口・東桂村字賓鏡山西南丘陵。
宝村 ・宝村大字河棚小字城山頂上・宝村河棚正覚寺跡・宝村八幡原・宝村丼字御殿山の麓・宝村原・宝村字牛の鼻・宝村下大幡字加部屋・宝村字廣教寺門前
(この附近の遺跡は相模蝦夷即ち富士アイヌ等と其部族を異にするものあり、併記して後考を待つ)
谷村町 ・谷村町上町、秋葉社内・谷村町下谷小学校敷地内・谷村町字城の腰・谷村町姥澤・谷村町小字新井・谷村町字家中・谷村町同横吹・谷村町上谷字天神町
・谷村町下谷道生堀・谷村町トクシゲ・谷村町深田シンセイ院下
壬生(カセイ)村 ・壬生村字古谷戸・壬生村先の宮・壬生村大字井倉字馬場・壬生村大棚・壬生村菖蒲澤・壬生村ツギ松・壬生村小形山字松葉・壬生村諏訪神社跡附近
・壬生村古川渡・壬生村川茂の東端
盛里村 ・盛里村大字與縄(俗に下山)・盛里村字日影・盛里村同村字矢崎・盛里村字原明・盛里村同村會雌・盛里村朝日馬場・盛里村尾崎(小学校敷地内)
大月 ・大月町都留小学校敷地内・田野倉村桃曽根・三吉村字法能、字戸澤・玉川字日の出
明見 ・明見村大明見字古屋敷・大明見小字長日向・奥の澤・明見湖中・明日村子古原・字天都峰・小明見向原・字畝・大明見柳畑・大明見向坂
・その外大明見字新畑の溶岩流下に遺跡がある。
忍野村 ・忍野村鳥居峠附近・梨ケ原忍野温泉道入口附近・忍野村字内
中野村 ・中野村大字寺の澤
鳴沢村 ・鳴沢村大田和字宮の前
道志村 ・道志村字神地・道志村、犬椿・道志村久保・道志村小善地
上九一色村 ・ 西八代郡上九一色村大字飯田・上九一色村字精進字鵜峠(ウトウガ)・上九一色村精進区笈の峠・上九一色村精進湖畔字イモアナアド
・上九一色村本栖字北の畑・上九一色村字宮の前(本栖湖畔)
甲州蝦夷種 郡内の道志村小善地及び秋山村字寺下、同村富岡等の遺跡は、所謂山地の甲州蝦夷種のものに属し、富士アイヌとはその性質を異にしていたと考えられる。富士山の西南富士郡地方の、彼等の遺跡の主なるものは、
・猪の頭・白糸村字佐折・柚野村字上柚野・下條材田尻・大宮町字瀧戸・犬宮町星山・大宮町黒田・大宮町沼久保・富士根村字村山・富士根村箕輸
・岩松村字岩本・今泉村・原田村・富士岡村字比奈・富士根村字小泉・富士根村石原・富士根村粟倉字三崎
これらの富士アイヌ遺跡の中で、猪の頭、瀧戸、村山の遺跡は.富士北麓地方とその遺物の上連絡関係を保持している事が、微細な点で共通の蹟が認められる。
お愛鷹山麓 かれらの遺跡、須津村中里・字増川・青野・柳澤・鷹根村字東原、同村西推路・同村東推路・金岡村字中澤田・東熊野堂・酉熊野堂・岡宮等に於いて発見されているが、それは富士北麓及び富士郡地方の遺跡と同じものが多く、富士山の周囲をとりまいていた。彼ら富士アイヌは同一種族であったことを、遺物の上で論明されている。

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

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富士山の古代の地形と交通関係

 ここに記述せんとする入類生活時代には、箱根、愛鷹はもとより富土山も大部分が出來上っていて、地質地理学上には今日のこの地方と、大差はないのである。但し昔目の湖沼が噴火等のために埋没されて、今は丘陵地となった所もあり、湖が変わって田畠耕作地となったり、或は青木ケ原の樹海のような大密林地帯とかわり、駿河湾地方の如き蒼海が変化して、田園耕作地となった所もあり、湖が変わって田畑耕作地となった様な例は澤山あるが、全体に於ける地形と河川の流域は、今日の状況と大差ほない。
富士山裾野の湖沼、河川などは、有史以前から人類生活史と、密接な関係があったもので、それらの河畔の台地や渓谷などに、古代の人類の遺跡が存在して、古代の富士附近への交通が.外廓山脈関係の河川や渓谷をつたはって、富士の裾野渓谷に相往来していたことが、遺跡や遺物の分布状態によって認識されるのである。
<甲府平野>
山梨県の中部なる現在の甲府平野は、太古時代には殆んど大水海となっていたので,今の釜無川沿岸、中巨摩郡から山梨東西八代郡の笛吹川沿岸の、洪積層の高台の下まで淡水の海となっていて、底大湖または甲斐の海と称されていた。
この甲斐海から富士川下流への交通路は、比較的早くに開けていたことが考へられ、また御坂山系を水源地とする淺川・金川の二流は、富士北麓の南都留郡地方と、甲斐の海沿岸の巨摩・八代郡地方との交通関係を、密接ならしめた重要なる道筋であった。
<相模川・桂川>
相模川の、一支流である道志川と酒匂川上流の川内川渓谷は、甲州郡内地方と武相地方伊豆半島などの、海岸地方とを結ぶ重要な交通路で、殊に鮎澤川の渓谷は、今は東海道駿河の小山付近で、駿河と相模の国境なしているが、この鮎沢川の渓谷から明神峠・三国峠を経て、富士裾野の山中湖畔に出る古道がある。一方に山中湖畔を通って、平野村から山伏峠を越へれば、道志川古道である。同じ平野村から綱峠を越せば河内川渓谷の一鼓動に通ずることができる。この方面の古い道路は渓谷を利用し、嶺をつたへて出来ている。
さらに富士裾野の北麓に於いては、山中湖附近の内野・忍草(シボクサ)の洪積層低地から、鳥居峠をこえて明見湖畔への交通路がある。
<古代の内野・忍野>
古代には内野・忍草の洪積層低地は大部分が湖水で、今とは土地の状態が大分変わっていた。今も忍草には、忍野八海があって、内野村の河流と、とともに桂川へ含流しているが、それらの土地は殆んど古代の湖底であつたのである。西北から東南は鳥居地峠続きに、峯が青垣山のようにとりかこんでいて、南は富士裾野の梨が原台地で囲んでいる所の低地全体が古代には湖水なっていたのである。
鳥居地峠をこえた大明見にも、字古屋敷の淵地があり、今は水水田となっている。今の明見湖なども昔は大きな湖水であった。小明見の古原らから向原にかけての、低い洪積層地も湖水の跡である。
<下吉田字新倉・御船山付近の古代>
下吉田字新倉・御船山付近も古代は御船湖と称する湖水であった。この湖は船津村字赤阪付近から、新倉御舟山の附近にいたる間の範囲で、新倉山から今の嘯き山の一部にとりかこまれる所にあったので、延暦・貞観年中の富士の大噴火の際に、溶岩を押し流して、その渾身の全部をうしなったのである。
河口湖附近の地形も古代と大差はないと考へられるが、河口湖の南岸は富士山の噴出物熔岩の関係で、地勢状の変遷が認めえられるのである。剗(せ)の海付近・現在の本栖・精進・西湖の三湖は、一つづきの海と称されていて,長さ五里あまり幅は広いところで一里位と想定され、外廓山脈にかこまれたと、この方面から甲府平野、或は富士川支流の蘆川、常葉川渓谷との交通が考えられ、古代民族が簡単な丸木舟によって湖水を渡り、河口・吉田方面との交通は、比較的早早くから開けていたことが想定される。
<古代の丸木船>
最近湖底から堀出した古代の丸木舟が、西湖畔の鳥居峠の下と、本栖湖畔とのニケ所に陳列してある。
<古代の富士>
古代に於ては富士山の周囲は、満々たる水をたゝへた湖水や沼地で、殆んど水と森林とにとり囲まれていたので、その湖水の両岸には潤葉樹もしくは、針葉樹林の喬木がえんえんとして天を摩し、四時鬱蒼としてなお暗く、きわめて物すごい神寂びた所であったことは、かの忍野かから山中湖への途上、溶岩流上に鬱蒼たる針樅森林の残っているのは、むかしの状態を物語っているのである。
今目の富士の裾野は何処を見ても.殆んど熔岩、砂礫の磽角(ユウカク)たる荒野原となつていて、木と云うほどの木の無いところが多いけれど、青木ケ原や精進湖・西湖のような幽邃神秘境が残っているのを見ても、古代の状況を想像することができる。昔から裾野の湖畔や森林地帯には、雁・鴨のような水鳥をはじめ、無数の鳥類が群をなしていて、鹿・猪・猿・狼・熊などの野生動物が澤山すんでいた
有史以前の富士山四周の状態は、こういう有様であって、そこを生活地盤として彼等先住民族は、居住していたのである。その時代は有史以前の石器時代で、彼等は今日の北海道や樺太・千島などに残っているような、アイヌ人種とその種族を同じくするもので、一番最初にこの地方へ来たものであった。彼等の遺跡はいまなお富士山の山腹、或は四周の裾野その他の各所に残っているが、いずれもその頃の湖畔または渓流に沿った丘陵地帯などに、遺物や遺跡が多く発見されるのである。
----蝦夷という文字が、そのまま「カヒ」と発音されることは、アイヌ研究の重要な資料のひとつと想定される。遠野物語廿四話に、
「村々の旧家を大同と云うは、大同元年に甲斐国より移り来るなれば、かく云うとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部の本国なり。二つの伝説を混じたるにあらざるか。----
という説がある。また同書に「オシラサマ」といふ神を祀る話が出ているが、甲州郡内地方では蚕を「アシラサマ」と称して、崇めている。アイヌは神を「カムイ」と云い、人間と神の差は、人間の偉い尊い者を「カムイ」と考えている。
蝦夷----甲斐----カムイ----神、ここに語言上の関係があると考えられる。

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

富士山の出現

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富士山の出現

富士山の出現はおよそ十万年くらい以前と諸説はしてあるが、外廓山脈の御坂層をそれよりもずっと古く、数十万年の経過が説明された。それは、河口湖の北岸大石村久保井に、紡錘蟲レビド・チクリーナという、古生代の動物の化石を含む石灰岩の露出がある。この石灰岩中のレビド・チクリーナによって、久しく不明であった御坂層の確固たる時代が、第三紀中の新統に属するものであることがわかったのである。
山巓(サンテン)道路で有名な、足和田山・小倉山・三つ峠などは、何れもこの御坂層で、桂川(相模川上流)沿岸の山地も、ほとんど御坂層である。御坂層の岩石はいずれも海中に沈積した、あるいはこれを貫いたもので、すなわち、第三紀中の新世ころには、この付近は駿河湾から続いた海であった。その海底は今日の豆南諸島のように、海中火山として噴出を堆積したもので、その噴出の中心は何処であるかわからないが、とにかく噴出物で海底を埋めたのである。それ以来に地盤は一般に隆起して陸地となった。そうして洪積時代に入って、富士山の地体や桂川の渓谷などの部分は地盤が陥落し、富士山のところは地下に裂け目が出来て、この裂目は地球内の岩漿溜の在る所まで通じたので、ここに物凄い地熱の作用が行われ、富士火山を出現するに至ったのである。
(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)


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