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富士山の古代の地形と交通関係
ここに記述せんとする入類生活時代には、箱根、愛鷹はもとより富土山も大部分が出來上っていて、地質地理学上には今日のこの地方と、大差はないのである。但し昔目の湖沼が噴火等のために埋没されて、今は丘陵地となった所もあり、湖が変わって田畠耕作地となったり、或は青木ケ原の樹海のような大密林地帯とかわり、駿河湾地方の如き蒼海が変化して、田園耕作地となった所もあり、湖が変わって田畑耕作地となった様な例は澤山あるが、全体に於ける地形と河川の流域は、今日の状況と大差ほない。
富士山裾野の湖沼、河川などは、有史以前から人類生活史と、密接な関係があったもので、それらの河畔の台地や渓谷などに、古代の人類の遺跡が存在して、古代の富士附近への交通が.外廓山脈関係の河川や渓谷をつたはって、富士の裾野渓谷に相往来していたことが、遺跡や遺物の分布状態によって認識されるのである。
<甲府平野>
山梨県の中部なる現在の甲府平野は、太古時代には殆んど大水海となっていたので,今の釜無川沿岸、中巨摩郡から山梨東西八代郡の笛吹川沿岸の、洪積層の高台の下まで淡水の海となっていて、底大湖または甲斐の海と称されていた。
この甲斐海から富士川下流への交通路は、比較的早くに開けていたことが考へられ、また御坂山系を水源地とする淺川・金川の二流は、富士北麓の南都留郡地方と、甲斐の海沿岸の巨摩・八代郡地方との交通関係を、密接ならしめた重要なる道筋であった。
<相模川・桂川>
相模川の、一支流である道志川と酒匂川上流の川内川渓谷は、甲州郡内地方と武相地方伊豆半島などの、海岸地方とを結ぶ重要な交通路で、殊に鮎澤川の渓谷は、今は東海道駿河の小山付近で、駿河と相模の国境なしているが、この鮎沢川の渓谷から明神峠・三国峠を経て、富士裾野の山中湖畔に出る古道がある。一方に山中湖畔を通って、平野村から山伏峠を越へれば、道志川古道である。同じ平野村から綱峠を越せば河内川渓谷の一鼓動に通ずることができる。この方面の古い道路は渓谷を利用し、嶺をつたへて出来ている。
さらに富士裾野の北麓に於いては、山中湖附近の内野・忍草(シボクサ)の洪積層低地から、鳥居峠をこえて明見湖畔への交通路がある。
<古代の内野・忍野>
古代には内野・忍草の洪積層低地は大部分が湖水で、今とは土地の状態が大分変わっていた。今も忍草には、忍野八海があって、内野村の河流と、とともに桂川へ含流しているが、それらの土地は殆んど古代の湖底であつたのである。西北から東南は鳥居地峠続きに、峯が青垣山のようにとりかこんでいて、南は富士裾野の梨が原台地で囲んでいる所の低地全体が古代には湖水なっていたのである。
鳥居地峠をこえた大明見にも、字古屋敷の淵地があり、今は水水田となっている。今の明見湖なども昔は大きな湖水であった。小明見の古原らから向原にかけての、低い洪積層地も湖水の跡である。
<下吉田字新倉・御船山付近の古代>
下吉田字新倉・御船山付近も古代は御船湖と称する湖水であった。この湖は船津村字赤阪付近から、新倉御舟山の附近にいたる間の範囲で、新倉山から今の嘯き山の一部にとりかこまれる所にあったので、延暦・貞観年中の富士の大噴火の際に、溶岩を押し流して、その渾身の全部をうしなったのである。
河口湖附近の地形も古代と大差はないと考へられるが、河口湖の南岸は富士山の噴出物熔岩の関係で、地勢状の変遷が認めえられるのである。剗(せ)の海付近・現在の本栖・精進・西湖の三湖は、一つづきの海と称されていて,長さ五里あまり幅は広いところで一里位と想定され、外廓山脈にかこまれたと、この方面から甲府平野、或は富士川支流の蘆川、常葉川渓谷との交通が考えられ、古代民族が簡単な丸木舟によって湖水を渡り、河口・吉田方面との交通は、比較的早早くから開けていたことが想定される。
<古代の丸木船>
最近湖底から堀出した古代の丸木舟が、西湖畔の鳥居峠の下と、本栖湖畔とのニケ所に陳列してある。
<古代の富士>
古代に於ては富士山の周囲は、満々たる水をたゝへた湖水や沼地で、殆んど水と森林とにとり囲まれていたので、その湖水の両岸には潤葉樹もしくは、針葉樹林の喬木がえんえんとして天を摩し、四時鬱蒼としてなお暗く、きわめて物すごい神寂びた所であったことは、かの忍野かから山中湖への途上、溶岩流上に鬱蒼たる針樅森林の残っているのは、むかしの状態を物語っているのである。
今目の富士の裾野は何処を見ても.殆んど熔岩、砂礫の磽角(ユウカク)たる荒野原となつていて、木と云うほどの木の無いところが多いけれど、青木ケ原や精進湖・西湖のような幽邃神秘境が残っているのを見ても、古代の状況を想像することができる。昔から裾野の湖畔や森林地帯には、雁・鴨のような水鳥をはじめ、無数の鳥類が群をなしていて、鹿・猪・猿・狼・熊などの野生動物が澤山すんでいた
有史以前の富士山四周の状態は、こういう有様であって、そこを生活地盤として彼等先住民族は、居住していたのである。その時代は有史以前の石器時代で、彼等は今日の北海道や樺太・千島などに残っているような、アイヌ人種とその種族を同じくするもので、一番最初にこの地方へ来たものであった。彼等の遺跡はいまなお富士山の山腹、或は四周の裾野その他の各所に残っているが、いずれもその頃の湖畔または渓流に沿った丘陵地帯などに、遺物や遺跡が多く発見されるのである。
----蝦夷という文字が、そのまま「カヒ」と発音されることは、アイヌ研究の重要な資料のひとつと想定される。遠野物語廿四話に、
「村々の旧家を大同と云うは、大同元年に甲斐国より移り来るなれば、かく云うとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部の本国なり。二つの伝説を混じたるにあらざるか。----
という説がある。また同書に「オシラサマ」といふ神を祀る話が出ているが、甲州郡内地方では蚕を「アシラサマ」と称して、崇めている。アイヌは神を「カムイ」と云い、人間と神の差は、人間の偉い尊い者を「カムイ」と考えている。
蝦夷----甲斐----カムイ----神、ここに語言上の関係があると考えられる。
(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)
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