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忍野八海

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富士八海とは

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<写真は忍野八海>
△ 富士八海
山中湖--古名石花(カキ)海なり。詳レ古跡部
明見海--小明見村の南にある池水なり。
川口海--延喜式「三代実録」に所載、富士北麓にあり。
西ノ海--(セノ海)古名剗(セ)の海、後世西の字を用いるも、音をとりて、
  「セノ海」といい、今は「ニシノ海」と云う。長浜の西にあり。以下
  三海ともに八代郡にあり。
精進湖--西の海の西にあり、古は岸相接して、同海なりしに、貞観の爆火に焦
石流れ中断して両海(西の海・精進湖)となる。
  本栖湖--出、三代実録、精進湖の西南にあり。
  志比禮湖—-(しびれこ)本栖湖の西にて、山腹にあり。
  須戸湖—(すとこ)駿河富士郡にあり

○麓より猿橋マテ地中一盤石なり。故に井を鑿る事不レ能。この間およそ六里余、これ富士の根石なりと云う。南面も三島あたりに至るまでまたこの如し。

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冨士講(富ではない)開祖藤原角行
<冨士講の開祖・藤原角行>
冨士講の開祖・藤原角行は、冨士山西麓(静岡県)にある人穴に籠もって修行した伝説的な行者である。この角行が独特の行法を編み出し、その伝統を引き継いだのが、食行身禄(身禄派)と村上光清(村上派)の2系統であった。
 甲斐の国では折りしも武田信玄が若くして自立、父信虎を駿河の今川氏に身を任せた大事件が起きた。無血クーデターとも称された、この事件は信玄の人間性と戦国時代の空しさの事件として時々の謎を含めて諸書に紹介されている。
 そうした時代背景の中、藤原角行は、天文10年(1541)長崎に生まれた角行は、日本山岳信仰の祖、役行者の夢告で19歳のときに富士山の人穴に入り、13、5センチの角材の上に立ったままの荒行を1000日間修行に及んだ。その後、富士の山頂をきわめ、全国の主要霊場も廻りさらの苦行を重ねた。
 修行は、不眠の大行51年半、断食行300日、製字(独特の漢字)360字、富士登山128度、琵琶湖での水行100日などがある。
製字とは行者や開祖それに神社などが神代文字に似た異字の製作のことで、角行はこの異字で護符を書き、信者に配っていた。それらはすべて「煩悩を清め、衆生救済」であった。現在でも多くの難字を持つ護符が確認されている。
またこれは伝説の範疇であるが、天正11年(1583)、角行を尊信していた徳川家康が人穴を訪ね、角行に会ったというが、歴史上では確認できない。
江戸で「ツキタオシ」という奇病が流行したことがあった。この奇病から人々を救うために、角行は弟子を連れて江戸入りし、フセギ(角行真筆の護符の配付)を行うと、不思議なことに奇病は終息した。だが、これを聞きつけた江戸幕府は、この行為が禁制切支丹との疑いをかけられ、奉行所で取り調べを受けるが、角行とは家康が以前修行中の角行との関係があったことなどがわかり、人穴へ帰った。
角行(中には書行ともある)その後、修行を積み弟子たちに信仰上の心得などを説きながら、驚異的な生命力をもって106歳まで死ぬまで人穴に籠もっていたという。こうしたことは当時の人々にとっても尊敬に値し、江戸中に冨士講が蔓延する要因ともなった。こうした風潮に手を焼いた幕府は時折、冨士講禁止の政令を出した。しかしその信仰心は弟子や人々それに富士山へのあこがれとが合間見えて継続される。
<角行の死去以後冨士講2つの潮流(身禄派と村上派)>
●身禄
角行は伝説上の人物的存在であったが、これを継承した、「食行身禄」はほぼ実像がわかる。寛文11年(1671)、伊勢国(三重県)一志郡に誕生まれた食行身禄は俗名を伊藤伊兵衛という。身禄の名は、釈迦が末法の世を救う未来仏と予言した「弥勒信仰」に由来。13歳で江戸に入り、商人として成功したが、蓄財は悪であると悟り、以後、蓄財を放棄して、油売りの行商で細々生計をたてながら布教活動に勤しんだ。そのため「乞食弥勒」とも称された。身禄は冨士信仰には専門的な布教者はいらないと、在家主義を標榜し、「衆生済度」を本願として加持祈穣を行わなかったともいわれる。
修験道では、苦行によって滅を軽くするという基本姿勢があるが、食行身禄は他人の病苦を自らの体で代わって受ける「代受苦」という方法を実践した。その究極
の形態が「断食入定」だった。享保18年(1733)、63歳のときに富士山北口7合目の「烏帽子岩」の下で断食行に入り、そのまま入定(死に至る)。それは弥勒の世を到来させるための救世(くぜ)の修行を目的としたものであった。日本各地でも断食行で入定した行者は多く見られるが、身禄の断食行は自然体であり、それは富士山自然界とも同居するものであった。断食行中、身禄は弟子に口述で言行録『三十一日の巻』を残している。また江戸中に富士山がかたどられ、後世においては江戸浅草浅草寺にも造立された。
富士行者の存在が世間一般に知られるようになるのは、この身禄の存在があって以後ことである。それまで冨士講は在野の一組織だったのである。
●村上光清
一方、村上光清は天和2年(1682)、江戸日本橋小伝馬町で葛篭問屋(つづらどんや)を営む冨士行者を父として生まれ、毎年、富士登山と21日間の人穴修行を行っていた。
ほとんど自費で吉田の北口浅間神社の社殿を全面修復するなど、かなり裕福で「大名光清」の異名もある。後世伝わる話として、大尽光清に対し、赤貧の身禄は対抗措置として断食入定をはかったとあるが、これは創作である。光清が神社の社殿修復したのは身禄の死後のことであり、事実とは違う。身禄の入定後、身禄派の冨士講が村上派を圧倒して大きく繁栄したためのものである。
それでは身禄派と村上派の違いは何かといえば、
● 身禄派はあくまでも身禄の教えを中心とした近代的な布教方法をとっていった。
● 村上派は角行の伝統墨守(ぼくしゅ)にとどまったところにある。
以後冨士講は改変を繰り返しながら現在に至っている。富士吉田浅間神社の境内の入り口右方に林立する石碑は、こうした信仰を実践した講組織のもので、富士登山の回数など生々しく刻字されている。扶桑教として現在でも多くの信者を持つというが、その衰退はどこでも同じであり、俗化した富士山はその信仰的な色合いは薄れていく。また村上光清は、浅間神社の裏手に立派な社に伝わり、時折登山者が参拝している。石碑辿っていると、そこには富士山を愛し、富士山を心の拠り所とした時代と当時の人々の俤が彷彿される。

富士信仰 再び角行

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角行の参考資料
富士講の開祖角行

<岩佐忠雄氏著「北富士すそのものがたり」第一巻より>

富士講の開祖長谷川角行
富士講の開祖長谷川角行とは、一体どの様な人であったか、戦国時代の初頭、世の中大いに乱れて、道義全く地におち、群雄各地に蜂起した頃、左近大夫藤原久元の子として生れ幼名武松と云う。
永禄元年、十八才の時、此人を導かんとの大願を発し、諸国修業の後、元亀三年、吉田口より登山、その崇厳なる姿に打たれて、後に前記人穴で苦行の末(天正元年・1573、富士山麓の人穴で、四寸五分角の上に立ち、丈余の杖と、一本の藤蔓にすがって、爪立ち苦行一千日の末、富士講という教倫を編み出す)、正保三年六月二日死去した。時に百五才、 

角行の創唱した教義を一口にして言うならば、「人間日常の機徴」にふれたもので、其頃迄、神遣、仏教、儒教、修験道、の混然とした山岳宗教と浅間神杜に対する信仰から、加持祈薦、卜占(うらない)施術、まじたいなど、いわゆる「おたき上げ」と云う行法を盛んに行なって、商売繁昌、難病平癒、家内安全、夫婦和合、という日常生活に即した、極めて判り易い教義を流布したので、信仰の対照となった当時の下層庶民百姓の間に著しく普及したことは現代の新興宗教の勃興とよく似ている様だ。
併し、この根本となった「御身抜き」と称する秘文や、基言密教や、呪術、場占から来た、難解きわまるいろいろの教典、即ち大行の巻、真言秘書真伝、不二行の巻、法門の巻、其他は一般の人には公開しなかったといわれる。
心ある入信決定(けつじょう)の者のみが開き見ることが出来る。凡人がこれを開き見るときは、たちどころに眼がつぶれる。と云って、固く秘巻を閉じて見せなかった。であるから、余程自信のある者の外は、終生これを見ることはなかったという。たとえこれを見る人があったとしても、当て字や、作り字が余りにも多く極めて難解、読む人に依って十人十色の解釈をしたと云う。
(略)開祖角行以来百数十年の間、民間信仰を、三国一の霊峯富士山と、霊験あらたかな浅間神杜とに結びつけたので、富士へふじへと物すごい登山者が押しよせて、吉田の町は繁昌した。
中輿の祖食行身禄
<岩佐忠雄氏著「北富士すそのものがたり」第一巻より>

富士講中興の祖と云われ、角行書行藤仏よりも知られ、親しまれている角行六世食行身禄(じきぎょうみろく)は、角行以来の教典に、更に新らしい教倫を打出し、角行より一段と人心を把握した。
身禄は、伊勢の国一志郡清水村の生れ、伊藤伊兵衛と云う油商人である。
十七才の時、月行の弟子となり、信仰の念非常に厚く人にこえていた。
或時吉田に来り、油商いの傍ら、富士講に関する新説を説いて、夜の更くるを知らなかった。高声を発して教典を唱える姿は、狂人のごとく、何軒かの御師の坊を転々としたが、皆断られ、落ち着く先が無かったところ、これを喜んで迎えたのが、大田辺こと田辺十郎左衛門だという。
(十郎左衛門は後に北行、月鏡と称し、玉の坊の屋号を授けられ、身禄派第一の宿坊となった。)それ以来理解が深まるとともに、益々、入信者が増加したが、角行の唱えた、呪術・加持蔦・ト占、淫猥と思われる御詠歌等の教義は、つとめてこれを避け、専ら神祇に徹することを心掛けた。
当今迄富士講信者の守り札として授与した「おふせぎ」(御符)すら閉め出す程だった。
享保十八年、富士山七合五勺の、烏帽子岩の岩窟に籠って、一ケ月間の断食修業を行ない、遂に死去入定するまで、有名なる三十一の巻(不説の巻)口述して、これを十郎左衛門が筆記したことは、吉田の人なら大半は知っていることふおもう。
其後、身禄の後をついだ、伊藤一行七世、八世の伊藤参行と続いたのであるが、明治初期の頃には、再び角行の思想が流布される傾向があったと伝えられる。
この頃大宮の浅間神杜の宮司であった宍野半(ししのなかば)が富士浅間神杜の宮司を兼務して、新らたに「扶桑教」という一派をたてゝ今目に及んでいることは前に記した。
しかし富士講の根本義にはたいした変りはない。とも角も、富士講一世角行以来、約三百年、江戸末期まで、信仰界の太陽として、庶民の思想をリードし江戸から関東一円、遠く関西、東北迄も普及したことが、御師の発達につながっていた事は事実である。
食行身禄「不説の巻」の一節に、
----浅間様のお産まれなされ侯ところは「けんこん」と申し侯、この処は富士北口上吉田より一合ほど登り候へば、お胎内と云うところなり----
とあり、「隔掻録」の中には
----中の茶屋より西へ入ること十一町に洞穴あり、「胎内穴」と云う。間口七八問、入ること四五丈ばかりにて、傍らに折れて入る。これより下り平たる岩上に立つ、これを「子返へり」と云う。頭上甚だ迫りはって僅かに進む。ここに乳房のごとき岩あり、水滴りて乳の出るごとし。これより十丈ばかり行けば、稍々広く歩し易し、正面に大日如来の銅像あり、紀を束ねたるがごとし盥石(たらい石)という石あり、形たらいに似たり、中に「えた」のごとき石あり、仰ぎ見れば、石のしわことごとく胸、肋骨に似たり。浅問大神の出現の古跡たりと云う----
と、ある。富士登山をする道者の大半は、この胎内めぐりと、忍野八海及明見の蓬池に参拝することになっている。


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