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山祇郡族と海神部族

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

山野の神を祀る様式としては、富士山そのものを神として崇拝した、富士郡浅間社のような、あるいは倭文(シヅ)神社のように、白然石を神体として拝殿のみを存じたものや、富士山を神霊として御神体として崇拝したことは、山祇部族によって行はれたことで、神社は有史以前から祀ってあったので、吾々の祖先が崇拝したものばかりでなく、先佳のアイヌ種族の祀った神社も存在して居て、それをまた祖先日本人が受けついで、神として崇拝したことも考えられる。祖宗の神霊を奉祀することは、先住日本人の日常行事の仕事であったから、彼らの生活の地にして神社のない所はなかった。
しからば古代の富士山及びその周囲には、山祇部族の祖宗たる大山津見(オオヤマツミ)神派の神社ばかりかというと、そうでもない。
高原地帯の土地ではあるが、富土の周囲には湖沼が多くあって、甲府平野も古代は淡水の海だったので、附近には大海津見(オオワタツミ)神系の祖神も祭祀せられている。その海神部族も有史以前から移佳していた。
精進湖畔の海和田・大科田の地名は、セの海時代に海神部族が居佳していた事を物語るもので、河口湖畔の足和田や敷島附近の遺蹟、忍草の三左衛門入りの遺跡などは、湖畔生活者たる海神派遺蹟と見ることができる。川口湖畔長浜おける貴船神社、鵜の島弁天、西湖青木ケ原の剗(セ)の海神社などは、河海に因縁のある紳杜である。
三吉村法能字佳吉は即ち佳吉神を祭ったところで、これまた水に闘係がふかい。南都留郡秋山村にも、海河原とか和田などの地名がある、むかし水溜りであったような秋山川の、沿岸わずかの所であるが、この地方にも海神部族が佳居していたものと想定される。
されば吉代の彼らの一部族は、山祇(ヤマズミ)として山野に生活地をもとめ、一部族は海祇(ワタズミ)として河海湖沼などの水郷地に、その生活の舞台を求めたものと思はれる。

山祇郡族と海神部族 その二

○「神祇史」に「巨摩郡の穂見神社は上條南割村にあり。太古に国中に洪水氾濫した際、国ツ神と力を併せ、山を切り、水を流し平土を得たり、故に祭って社稷の神と爲す」とある。
山を穿った「安曇宿禰」は海神「綿積豊玉彦ノ神の子、穂高ノ見命の後なりとある。穂見神杜は穂高見系と同神で、海津見系の紳と思われる。
鉾衛(ホコサキ)神社の旧蹟地、甲州八代郡鉾の木境内から、有史以前の弥生式遺跡を発見している。鉾衝神社は阿曇犬養、海紙大和多羅二世の孫、穂己都久命を祭つたもので、安曇宿彌や阿曇犬養の族が原史時代に、穂見神社或は鉾衝神社を祭ったことは、この地方に海津見神、大和多羅系の海神部族が、古くから佳居していたことがわかる。
信州地方の安曇郡、日本アルプス穂高地方の、穂高神社、佐渡の渡海神社、越後の青海神社、武蔵野青梅も青海の転訛したもので、青梅附近の日向和田の和田神社も、海(ワタ)津見一族に関係がある。
群馬県利根郡片品村・武尊(ホタカ)山を中心として、同地方には穂高神社・小高神社・高尾神社等が沢山分布されている。武尊山は日本武尊(ヤマチタケル)に関係あるとしているが、里俗は「ホタカ」と呼称している。かくして吾妻郡地方にまで分布しているが、同地方の山間の湖沼地に、同一部族が蕃居していた証拠で、海神部族は裏日本の佐渡・越後地方から、上州方面にまで分布していた。
なお大海津見神を祖紳とする彼ら部族は、西は九州の対馬から、北は奥州地方にまで及んでいて、大山祇神祖神とするものの分派とともに、その分布範囲もひろく、その起源もかなり古く遡のぼることができる。
そして彼等の分布区域の中で、富土山及びその周囲の、殊に北麓地方は精進・西湖附近が、古代は満々たる水をたたへたセの海であり、山中湖内野忍草の低地も湖沼であり、甲府平野もほとんど広大なる淡海であった時代の、この地方は水郷の地水澤地として、気候も空気も非常によいので、彼等の勢力範囲として最も理想的な、楽土であったことが認識されるのである。
先住民族の移住経路 陸路 有史以前於ける彼等租先日本人の、或ものは一は狩猟を業とする山祇部族で、一は漁撈生活をする海神部族であったことが考えへられる。
かれらがこの地方へ移佳して来た道筋は、一は裏日本の能登半島方面か、佐渡や越後を通じて信州・甲州というように移佳してきたのである。それより少し後れて駿河湾沿岸、伊豆半島地方から、沼津の海岸地帯富士の南麓、愛鷹山麓に移佳して来た一種族がある。即ち一は北方の山岳地帯より、一は南方の海濱地方より入ってきたもので、この二つの道筋は富士地方における、彼らの文化を知る上に重要な道筋で、有史以前アイヌの石器時代に属する、第二期、第三期ともいうべき時代で、日本における新石器時代中の、中間期から終末期にかけての頃であった。
その頃には富士山地方の交通路は、すでに先佳民たる富士アイヌなどによって、冨土北麓と甲州八代郡・巨摩郡や、信州地方との交通路は出来て居り、精進・本栖方面と富士川上流地方、河口湖附近と東八代の金川・芦川の渓谷沿岸、或は桂川上流沿岸と甲州.信州.武相地方との交通関係、足柄以東と足柄以西も、富士北麓を通じて交通往来があったたことが考えられ、当時すでに富士アイヌの蕃居していたことも、遺物によって証拠立てられるのである。
関東と関西を区分する足柄峠が、交通路となりかけたのもこの時代で、最初のアイヌ石器時代においては、鮎澤川渓谷地帯や道志川渓谷が当時の最古道で、彼等アイヌ人の往来した交通路であった。
伝説によれば、神武天皇の御時代の東海道は、富士北麓から道志川渓谷を通じて、始めてできたもので、道志とは初め「道始」と書いて、それを紀念したといふが、古物遺跡に従えば道志川・鮎澤川渓谷は、実に有史以前の石器時代に於いて、既に開拓されていたので、籠坂峠と富士山と接する須走村梨ノ木平に、アイヌの遺物(土器)を発見し、同村音口にては弥生式土器を発見したので、籠坂峠も有史以来の石器時代に、交通往来していたことが考えられる。
それから箱根山中の須雲川(早川上流も、富士北麓から駿河湾・伊豆半島地方に、アイヌの往来した古道であった。森林と水澤とを背景とした富土裾野からは.この足柄山を越えるか、須雲川の早川尻に出てくるのでなければ、駿河湾沿岸や西伊豆地方から相模方面へ出られなかった。箱根の峻険と足柄山によって、富士・愛鷹山の裾野地方が.地形上相模地方と分界されているためである。
先住民族の移住経路水路 以上は陸路の関係であるが、彼等の南方より往来したものについて、伊豆半島附近に海上生活をなした彼等のある者は、簡単なる造船の技術があったにちがいない。
原始時代において、伊豆の国より大船を造って貢献したことが、記録に見えている。それら海上生活者は、原始時代にいたって造船の技術が発達したものか、それ以前のかれらがすでにその技術に達していたものか、これらのことも、富土山附近.駿河湾、伊豆地方の海上における交通関係の上から、研究せねばならぬことである。
なお注意すべきことは、大和田、小和田、海和田等の海津見に開係ある地名が、富士北方精進湖地方に残っているとともに、精進湖畔の東の嶺を「ウタフガ」と土俗は呼称している。「ウタフガ」は「ウタバガ」と同一語原で、鵜などの鳥がとまっている峠の意味である。その「タフガ」は「トウゲ」の意味であらう。蒙吉語で「タバガー」、わが国語に転じて「タフガー」、さらに轄詑して「タウゲ」となるので、古い時代の祖先日本人が、蒙古語系の古語「タフガー」を、この地に残しているものと考えられる。
多摩州上流の甲州に丹波山があり丹波川がある、蒙古語「タバガー」の「タバ」のみが山川の名と変じたものではあるまいか。武蔵の多摩川などの「多摩」もおそらく同一語源と考えられる。
こういう古い語の地名が残っているのは、土地が辺鄙なために一度入ったものは、容易に改たまらない山谷の風習で、言葉が化石して残ったものである。それから見ても精進・本栖・西湖附近が、もとの「セの海」沿岸の海津見時代よりも、もっと古い時代の面影がしのばれるではないか。

富士山の遺蹟と分布

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遺物・遺跡の分布図

 遺物上から見ると、相模の海浜から酒匂川を上流に伝わって来た海岸アイヌ、即ち、相模野アイヌの一分派で、海岸から河流を伝わって湖畔などに漂泊したもので、山地の所謂「甲州蝦夷」・「八代アイヌ」とはその部族を異にしている。
考古学上「相模野蝦夷」または「富士アイヌ」と命名している。
富士山東麓の遺跡 有史以前に於ける「富士アイヌ」の遺跡として数えるべきものは、富士山東麓にありては、
・駿東郡須走村字梨木平・同王子ケ池附近・北郷村大御神・北郷村上野・六郷村柳島・六郷村生土・足柄村竹の下・御殿場東山・御殿場二の丘・高根村字水土野・富士岡村大坂・深良村字深良・公文名・泉村字大烟・泉村茶畑
北麓、桂川上流の遺跡 富士北麓、桂川上流方面にあっては、
・瑞穂村字下吉田・月江寺畔の後山・瑞穂村大字新倉・字、古屋・黒木澤・瑞穂村裏の御船山付近・瑞穂村新字古屋如来寺門前・瑞穂村新倉字大欅(池ノ本)日草場・大牛窪・字古屋山の神

河口湖畔の遺跡
・船津村字中村・小字背戸の山(この遺跡は熔岩流下より遺物土器を発見したもので、船津村八王子権現神社裏の、溶岩下遺跡とともに、注意すべき所)。
<船津村>・船津村小字平浜・船津村東電取入口附近・船津村字淺川・船津村御屋敷・船津村宮ノ森字鵜泊リ・船津村バス停留所附近の熔岩下遺跡
<小立村>小立村大字茅ケ島・小立村字御館・小立村乳ケ峠
<勝山村>・勝山村大字前原字一本松(山ノ神東端)・勝山村大字宮の丸・勝山村小島小字中畑・長濱材渡般場附近
<大石村>・大石村大字藥研澤・大石村字中澤小字地藏澤・大石村下の峰(俗に中河原)・大石村字中の澤小字長門・大石村大字鉢窪字古屋・大石村鵜の島
<河口村>・河口村大宇峰・河口村浅間神社境内・河口村字廣瀬、小字大畑・小字淵の前・河口村字城古山・河口村字産ケ崎山・河口村字谷抜・河口村懸の水附近・河口村字尾羽根・河口村建石・河口村三ツ峠共有地(木無山)・河口村三ツ峠山頂上(標高六千尺)
西桂村 ・西桂村字下葛地の寺野澤・西桂村字友塚.同字城屋敷・西桂村字小沼・西桂村字倉見白山神社境内
開地村 ・開地村熊野碑硫境町
東桂村 ・東桂村字山梨・東桂村字夏狩下の原・東桂村字十日市場・東桂村十日市場小字馬場船・東桂村ババクネ・東桂村大石ガネ・東桂村鹿留(シシドメ)発電所放水口・東桂村字賓鏡山西南丘陵。
宝村 ・宝村大字河棚小字城山頂上・宝村河棚正覚寺跡・宝村八幡原・宝村丼字御殿山の麓・宝村原・宝村字牛の鼻・宝村下大幡字加部屋・宝村字廣教寺門前
(この附近の遺跡は相模蝦夷即ち富士アイヌ等と其部族を異にするものあり、併記して後考を待つ)
谷村町 ・谷村町上町、秋葉社内・谷村町下谷小学校敷地内・谷村町字城の腰・谷村町姥澤・谷村町小字新井・谷村町字家中・谷村町同横吹・谷村町上谷字天神町
・谷村町下谷道生堀・谷村町トクシゲ・谷村町深田シンセイ院下
壬生(カセイ)村 ・壬生村字古谷戸・壬生村先の宮・壬生村大字井倉字馬場・壬生村大棚・壬生村菖蒲澤・壬生村ツギ松・壬生村小形山字松葉・壬生村諏訪神社跡附近
・壬生村古川渡・壬生村川茂の東端
盛里村 ・盛里村大字與縄(俗に下山)・盛里村字日影・盛里村同村字矢崎・盛里村字原明・盛里村同村會雌・盛里村朝日馬場・盛里村尾崎(小学校敷地内)
大月 ・大月町都留小学校敷地内・田野倉村桃曽根・三吉村字法能、字戸澤・玉川字日の出
明見 ・明見村大明見字古屋敷・大明見小字長日向・奥の澤・明見湖中・明日村子古原・字天都峰・小明見向原・字畝・大明見柳畑・大明見向坂
・その外大明見字新畑の溶岩流下に遺跡がある。
忍野村 ・忍野村鳥居峠附近・梨ケ原忍野温泉道入口附近・忍野村字内
中野村 ・中野村大字寺の澤
鳴沢村 ・鳴沢村大田和字宮の前
道志村 ・道志村字神地・道志村、犬椿・道志村久保・道志村小善地
上九一色村 ・ 西八代郡上九一色村大字飯田・上九一色村字精進字鵜峠(ウトウガ)・上九一色村精進区笈の峠・上九一色村精進湖畔字イモアナアド
・上九一色村本栖字北の畑・上九一色村字宮の前(本栖湖畔)
甲州蝦夷種 郡内の道志村小善地及び秋山村字寺下、同村富岡等の遺跡は、所謂山地の甲州蝦夷種のものに属し、富士アイヌとはその性質を異にしていたと考えられる。富士山の西南富士郡地方の、彼等の遺跡の主なるものは、
・猪の頭・白糸村字佐折・柚野村字上柚野・下條材田尻・大宮町字瀧戸・犬宮町星山・大宮町黒田・大宮町沼久保・富士根村字村山・富士根村箕輸
・岩松村字岩本・今泉村・原田村・富士岡村字比奈・富士根村字小泉・富士根村石原・富士根村粟倉字三崎
これらの富士アイヌ遺跡の中で、猪の頭、瀧戸、村山の遺跡は.富士北麓地方とその遺物の上連絡関係を保持している事が、微細な点で共通の蹟が認められる。
お愛鷹山麓 かれらの遺跡、須津村中里・字増川・青野・柳澤・鷹根村字東原、同村西推路・同村東推路・金岡村字中澤田・東熊野堂・酉熊野堂・岡宮等に於いて発見されているが、それは富士北麓及び富士郡地方の遺跡と同じものが多く、富士山の周囲をとりまいていた。彼ら富士アイヌは同一種族であったことを、遺物の上で論明されている。

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

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富士山の古代の地形と交通関係

 ここに記述せんとする入類生活時代には、箱根、愛鷹はもとより富土山も大部分が出來上っていて、地質地理学上には今日のこの地方と、大差はないのである。但し昔目の湖沼が噴火等のために埋没されて、今は丘陵地となった所もあり、湖が変わって田畠耕作地となったり、或は青木ケ原の樹海のような大密林地帯とかわり、駿河湾地方の如き蒼海が変化して、田園耕作地となった所もあり、湖が変わって田畑耕作地となった様な例は澤山あるが、全体に於ける地形と河川の流域は、今日の状況と大差ほない。
富士山裾野の湖沼、河川などは、有史以前から人類生活史と、密接な関係があったもので、それらの河畔の台地や渓谷などに、古代の人類の遺跡が存在して、古代の富士附近への交通が.外廓山脈関係の河川や渓谷をつたはって、富士の裾野渓谷に相往来していたことが、遺跡や遺物の分布状態によって認識されるのである。
<甲府平野>
山梨県の中部なる現在の甲府平野は、太古時代には殆んど大水海となっていたので,今の釜無川沿岸、中巨摩郡から山梨東西八代郡の笛吹川沿岸の、洪積層の高台の下まで淡水の海となっていて、底大湖または甲斐の海と称されていた。
この甲斐海から富士川下流への交通路は、比較的早くに開けていたことが考へられ、また御坂山系を水源地とする淺川・金川の二流は、富士北麓の南都留郡地方と、甲斐の海沿岸の巨摩・八代郡地方との交通関係を、密接ならしめた重要なる道筋であった。
<相模川・桂川>
相模川の、一支流である道志川と酒匂川上流の川内川渓谷は、甲州郡内地方と武相地方伊豆半島などの、海岸地方とを結ぶ重要な交通路で、殊に鮎澤川の渓谷は、今は東海道駿河の小山付近で、駿河と相模の国境なしているが、この鮎沢川の渓谷から明神峠・三国峠を経て、富士裾野の山中湖畔に出る古道がある。一方に山中湖畔を通って、平野村から山伏峠を越へれば、道志川古道である。同じ平野村から綱峠を越せば河内川渓谷の一鼓動に通ずることができる。この方面の古い道路は渓谷を利用し、嶺をつたへて出来ている。
さらに富士裾野の北麓に於いては、山中湖附近の内野・忍草(シボクサ)の洪積層低地から、鳥居峠をこえて明見湖畔への交通路がある。
<古代の内野・忍野>
古代には内野・忍草の洪積層低地は大部分が湖水で、今とは土地の状態が大分変わっていた。今も忍草には、忍野八海があって、内野村の河流と、とともに桂川へ含流しているが、それらの土地は殆んど古代の湖底であつたのである。西北から東南は鳥居地峠続きに、峯が青垣山のようにとりかこんでいて、南は富士裾野の梨が原台地で囲んでいる所の低地全体が古代には湖水なっていたのである。
鳥居地峠をこえた大明見にも、字古屋敷の淵地があり、今は水水田となっている。今の明見湖なども昔は大きな湖水であった。小明見の古原らから向原にかけての、低い洪積層地も湖水の跡である。
<下吉田字新倉・御船山付近の古代>
下吉田字新倉・御船山付近も古代は御船湖と称する湖水であった。この湖は船津村字赤阪付近から、新倉御舟山の附近にいたる間の範囲で、新倉山から今の嘯き山の一部にとりかこまれる所にあったので、延暦・貞観年中の富士の大噴火の際に、溶岩を押し流して、その渾身の全部をうしなったのである。
河口湖附近の地形も古代と大差はないと考へられるが、河口湖の南岸は富士山の噴出物熔岩の関係で、地勢状の変遷が認めえられるのである。剗(せ)の海付近・現在の本栖・精進・西湖の三湖は、一つづきの海と称されていて,長さ五里あまり幅は広いところで一里位と想定され、外廓山脈にかこまれたと、この方面から甲府平野、或は富士川支流の蘆川、常葉川渓谷との交通が考えられ、古代民族が簡単な丸木舟によって湖水を渡り、河口・吉田方面との交通は、比較的早早くから開けていたことが想定される。
<古代の丸木船>
最近湖底から堀出した古代の丸木舟が、西湖畔の鳥居峠の下と、本栖湖畔とのニケ所に陳列してある。
<古代の富士>
古代に於ては富士山の周囲は、満々たる水をたゝへた湖水や沼地で、殆んど水と森林とにとり囲まれていたので、その湖水の両岸には潤葉樹もしくは、針葉樹林の喬木がえんえんとして天を摩し、四時鬱蒼としてなお暗く、きわめて物すごい神寂びた所であったことは、かの忍野かから山中湖への途上、溶岩流上に鬱蒼たる針樅森林の残っているのは、むかしの状態を物語っているのである。
今目の富士の裾野は何処を見ても.殆んど熔岩、砂礫の磽角(ユウカク)たる荒野原となつていて、木と云うほどの木の無いところが多いけれど、青木ケ原や精進湖・西湖のような幽邃神秘境が残っているのを見ても、古代の状況を想像することができる。昔から裾野の湖畔や森林地帯には、雁・鴨のような水鳥をはじめ、無数の鳥類が群をなしていて、鹿・猪・猿・狼・熊などの野生動物が澤山すんでいた
有史以前の富士山四周の状態は、こういう有様であって、そこを生活地盤として彼等先住民族は、居住していたのである。その時代は有史以前の石器時代で、彼等は今日の北海道や樺太・千島などに残っているような、アイヌ人種とその種族を同じくするもので、一番最初にこの地方へ来たものであった。彼等の遺跡はいまなお富士山の山腹、或は四周の裾野その他の各所に残っているが、いずれもその頃の湖畔または渓流に沿った丘陵地帯などに、遺物や遺跡が多く発見されるのである。
----蝦夷という文字が、そのまま「カヒ」と発音されることは、アイヌ研究の重要な資料のひとつと想定される。遠野物語廿四話に、
「村々の旧家を大同と云うは、大同元年に甲斐国より移り来るなれば、かく云うとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部の本国なり。二つの伝説を混じたるにあらざるか。----
という説がある。また同書に「オシラサマ」といふ神を祀る話が出ているが、甲州郡内地方では蚕を「アシラサマ」と称して、崇めている。アイヌは神を「カムイ」と云い、人間と神の差は、人間の偉い尊い者を「カムイ」と考えている。
蝦夷----甲斐----カムイ----神、ここに語言上の関係があると考えられる。

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

富士山の出現

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富士山の出現

富士山の出現はおよそ十万年くらい以前と諸説はしてあるが、外廓山脈の御坂層をそれよりもずっと古く、数十万年の経過が説明された。それは、河口湖の北岸大石村久保井に、紡錘蟲レビド・チクリーナという、古生代の動物の化石を含む石灰岩の露出がある。この石灰岩中のレビド・チクリーナによって、久しく不明であった御坂層の確固たる時代が、第三紀中の新統に属するものであることがわかったのである。
山巓(サンテン)道路で有名な、足和田山・小倉山・三つ峠などは、何れもこの御坂層で、桂川(相模川上流)沿岸の山地も、ほとんど御坂層である。御坂層の岩石はいずれも海中に沈積した、あるいはこれを貫いたもので、すなわち、第三紀中の新世ころには、この付近は駿河湾から続いた海であった。その海底は今日の豆南諸島のように、海中火山として噴出を堆積したもので、その噴出の中心は何処であるかわからないが、とにかく噴出物で海底を埋めたのである。それ以来に地盤は一般に隆起して陸地となった。そうして洪積時代に入って、富士山の地体や桂川の渓谷などの部分は地盤が陥落し、富士山のところは地下に裂け目が出来て、この裂目は地球内の岩漿溜の在る所まで通じたので、ここに物凄い地熱の作用が行われ、富士火山を出現するに至ったのである。
(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

八王子神社と筒口神社

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(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

八王子神社と筒口神社の氏子 同じ村でも、八王子神社の氏子と、筒口神社の氏子とは絶対に融和しない、普段から仲が悪く、祭りの時などは必ず衝突して大喧嘩となる。昔は一緒に祭りに参加したが、いつも決まって大騒ぎをやらかすので、近頃(昭和18年以前)一年おきに交代でお祭りをすることにして、この悶着を起こさないよう配慮しているとのことである。
私はそこでこう考えた。八王子神社や大陸方面から渡ってきた神様で、山岳民族の祖先が祀った神様である。筒口神社は住吉の三神の男神に由緒ある神様と考えられるから、水に縁のある漁撈民族が祭った神様と、断定することができる。
古代にこの地に入り込んできた、山岳地帯から来た狩猟民族と、伊豆方面から来た海濱の漁撈民族とが、勢力争いから闘争を続けて来た形が、末裔にいたるまでいつまでも、祖先の信仰的習性が、今の代まで残っていて、このような騒擾(ソウジョウ)が続くのであろう。このほか嘯(ウソブキ)山の頂上にある小御岳神社は、この二つの神社とは別個の存在で、この土地へ一番最初に移住してきた民族が、祭った神様であるも知れない。

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