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富士山信仰

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天子岳と炭焼艮者の伝説
 炭焼長者の伝説については別にその考証を要することであるが、甲斐の国では、その生れ故郷を例の明見村とし、その名を松五郎と呼んでいる。
 さてこの炭焼長五郎の毎日毎日焼いている炭焼の煙が、富士の山よりも高く立ち昇って、それが遠く遠く都の方からも眺められた。これは不思議な煙だというので、天子様が陰陽師に占わせると、側縁遠い王女様の御婿様になられる方の立てる煙だということで、王女様は、はるばる煙を的に見知らぬ御婿様を御尋の旅に上られた。途中何のおつつがもなく裾野にお着になり、松五郎の荒屋をお訪ねになったところ、折あしく、松五郎は故郷の明見村に行った留守であったので、王女様は、「主人はおわすや。」と尋ねられた。すると、留守の者は、あすみにござらっしやり奉ります。」と答える。
留守の者は、「松五郎は明見村に行って留守でございます。」と言ったつもりだったのであるが、王女は、「明日見に来い。」との返事だと思い、あらためて又翌日尋ねると、留守の者は、又しても「あすみにござらっしゃり奉ります。」と答える。
 王女様を、一度ならず、二度までも無駄足をさせるとは、何という無礼者であろうと、お附の者は大層怒ったが、王女様は、「いやいやその見識は見上げたものだ。」とかえって喜ばれ、あらためて三度お訪ねになって、漸く松五郎にお逢い遊ばした。その折、賭物のしるしに、小判二枚を王女様が贈られたが、松五郎は一向その小判の値打を知らないので、四辺の景色一を御案内の時、近くの池(今の長者が池)に浮いていた二羽の鶴めがけて其小判を投げつけてしまった。その鷹揚ぶりがひどく王女様のお気に召して、まもなくめでたく御夫婦になられた。そのおかげで、炭焼松五郎は、日本きっての炭焼長者と出世した。
 その折、松五郎が小判を投げつけた二羽の鶴は、小判を背負って、富士の人穴の大沼に飛んで行った。それで、大沼には、小判形の草が一杯にあるのだといわれる。
 甲州街道を南へ、茫々とした萱野の果て、毛無山脈の西正面に見える天子岳には、まだ、炭焼長者に嫁がれた王女様の石の祠が、今もあると古われているが、この碑の伝説の跡を尋ねて、富士の山麓をめぐったら、湖に、森に、山に、河に、幾多の伝説は、泉のごとくに湧いていることであろう。

富士の白雪伝説

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<写真は宝永4年の富士山大噴火の時の絵図>


高士の白雪にからまる伝説
 富士の抜穴が、所甜人穴以外に信ぜられた伝説は富士の白雪の解けて地下水となり、三島の落ちて冷水泉と湧き出ずる伝説である。俗謡に
   富士の白雪や 朝日で解ける
   解けて流れて三島へ落ちて 三島女郎衆の化粧水
 というのがある。ところが、古く「山家鳥虫歌」の記録には、
   やまな白雪 朝日で解ける
   とけて流れて三島へ落ちて 三島女郎衆のけしょう水
 となっている。そこで、原唄に「やまな」と歌われているものは、実際は、簡単に、「山な」と、何々を指してともない抽象の字句であったらしいが、或は「山な」は箱根山ではないかと言っている。ところが、後世には、いつの間にやら、富士の白雪として歌っているので、その方が一般的になってしまった。
 或人の説には、
「富士の白雪は、解けて流れて三島へ落ちない。むしろ黄瀬川へ流るるのが地理に合致している。こうなると、三島女郎衆の化粧水とならないで、却って、黄瀬川宿の遊女連に用いられなければならなくなる。」と。
 黄瀬川宿は、中古時代の遊所の一で、溜浄と三島の間に介在し、今は、草に埋るる僻地となっているが、その頃は黄瀬川と狩野川の落合にあった小都会で、「曽我物語」に名を知らるる亀鶴のいたのもこの地で、
 「即ちこの黄瀬川こそ、富士の白雪朝日で解けて、解けて流るると形容されても、あえて不審ではない川であったれば、従って古の近所黄瀬川こそ、三島女郎衆の化粧水と歌われた俗謠の根源地であるように見える。」という者もあるけれども、俗謠の行われたのは徳川時代の事で、当時又、遊所は、黄瀬川より三島の盛大を来した町代でもあったようであるから、俗謠の意とするところは、全く三島女郎衆を謠ったので、地理の実際は、「高士山の積雪融解して地底を滑り、ここに洩出する。」(「豆州志稿」)と言われる小浜の泉(三島町の北小浜にある)及び其東北にある菰の池の水の、三島女郎衆の化粧水となったのを指したものであったらしい。
 菰の池にはその伝説があって、池底より滾々として湧く泉こそ、富士の白雪の解けて地底を流れ、ここに湧出するものだと古く信じられていたということである。
 この他に、富士の雪についての伝説は、「駿河風土記」に、「富士の山には、雪の降りつもりであるが、六月十五日に、その雪の消えて、子の時よりしもには、又ふりかわる」とあるぐらいなものである。

富士山に登った人

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富士山に登った人(参考 「富士山 史話と伝説 」遠藤秀男氏著)

 1、日本武尊
 尊が蝦夷を平定後の帰り道、甲斐の吉田の地で富士山により、仮の鳥居を立てた。尊の伝説は山中湖や富士山周辺に数多く残る。尊が土地の賊の計略で、草に放火され窮地に立たされたが、ネズミの教えで周辺の草を薙ぎ払って危難かえあ逃れた「草薙」や「焼津」の地名が残った。この地名が山梨県側にあったとする説もある。

 2、聖徳太子
 推古天皇6年、聖徳太子は数多くの名馬の中から「甲斐の黒駒」に乗って、富士山頂周辺を巡り、信濃方面を散策して戻る。この伝説は甲斐の黒駒地方に色濃く残っている。さらに太子は富士山頂上で大河を発見したり、毒蛇にあったり、
その毒蛇が大日如来に変身したとも伝わる。


 3、弘法大師
 弘法大師の登山は、大同年間(806〜)須走り浅間で修業して、大師自身の机が残っている。

 4、役小角
 「えんのおづね」は、「役の優婆塞(えんのうばそく)ともいわれ、大和の人で、晩年は当時の朝廷とも深い係わりを持っていた。全国津々浦々にその伝説は伝承されている。彼は30歳頃に食事を一切絶ち、松皮や松脂を食して自然界に身を投じた。彼は富士山登山の第一人者として今でも語られている。


 5、日蓮
 文永6年(1269)富士山の中腹「姥が懐」で修業。自筆の経王をそこに埋めたという。

 6、武田信玄
 八葉召さるるなり(「妙法寺記」) 大永二年(1522)登山。

富士山に入定した人々(参考 「富士山 史話と伝説 」遠藤秀男氏著、他)

 1、安山禅師
 山梨県都留郡の人。幼少から仏門に入り、70歳で富士山で死んだといわれ、その弟子の久円も53歳で入定している。
 入定(にゅうじょう)とは、自らの死を持って、多くの庶民の救済と教化にあたるもので、まずは断食して水により体内の汚物をすっかり排出して、最期は体から余分のものは全て無くなりミイラ化していく。約2年間くらいかかるという。

 2、十竜坊承海(じゅうりゅうぼうしょうかい)
 入定は暦応3年(1340)ころで、45歳の時を示す石碑が発掘されている。
 
 3、富士講第六世、食行身禄
 享保18年(1733)食行身禄は63歳の折り、6月13日に弟子を伴い吉田口から登山、釈迦の割り石にて入定の予定が大宮浅間からクレームがついて、7合目の烏帽子岩に変更し、弟子に教えを施し入滅した。

富士山の名前と呼び名

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。即ち、
 「東国典地覧」中、漢城府の下に
   三角山、在揚州之境、一名筆山一新羅称貝児山、云云」
 とあり、
 宋の陶穀が「清異録」には、
   呉越経総監承祐、富傾覇朝、用千金市得石緑一塊、
   天資嵯峨如山、今匠治為博山香爐、峰尖上作一暗□
   出烟則聚而且直、一穂凌空実美観視、親傚朋之呼不二山、云云」
   富士の研究「富士の歴史」
 ホクジの転化フクジの略で、高く綺麗なる義。
 フジナの略で、火山の略。
 フシロの略で、頂上常に雪を載けり義。
 フセの転訛で、物を覆せたる義。
 アイヌ語で、フンチまたはウンチヌブリで、火山または女神の山の義。

   諸書に見える「ふじ」

  常陸風土記  福慈
  万葉集     布時・布土・不尽・布仕・不死
  日本霊異記  富岻・浮土・輔時・附神・不死
  続日本記    はじめて「富士」の名を最初に記す。延暦16年(797)
  日本後記   「富士」 承和8年(841)
  文徳実録    「富士」 元慶3年(879)
  三代実録    「富士」 寛平4年(892)
  
  富士山異名考

  和らかな国にむっくり芙蓉峯
  近江から一夜に咲いた芙蓉峯

  伊勢物語
 
  二十山・時知らぬ山・塩尻の山
  時知らぬ山は富士の峯いつとてかまだらに雪の降るらん
 
 「常陸風土記」には、副慈神に関する伝説が伝えられる。
 むかし、祖神尊(みおやのみこと)諸神の宮処を巡行なされて、駿河国の副慈岳(即ち富士山)に到った時にはもう日も暮れ方であったので、一夜の宿を請われた。
 時に、副慈神の答えのたまわく、「今夜は、新嘗祭で、家内中物忌していますから、おとめ申すわけにはまいりませぬ。」と。
 それで、祖神尊、恨み告げたまわく、
 汝(いまし)が親に、何故宿を借さないのか。さればよし、汝がいるところの山は、生涯夏でも雪霜に襲われて、人も登らず、飲食物を献るものも無からしめ富士を望んとおおせられて、祖神尊は、更に、筑波岳までまいられて、一夜の宿を誘われた。筑波 の神は、今夜は新甘祭でありますけれども、敢てお言葉に従いましようといって、直に飲食を設けて敬い仕え奉った。
 そこで、祖神尊は、歓然として謡いたまうよう
 「愛しきかも我が胤、巍きかも神つ宮、天地を竝斉しく日月と共同じく、人民集い賀び、飲食富豊に、代々絶ゆることなく、日々に弥栄えて、千秋万歳、遊楽窮らし。」
 と謡いたまわれた。それで、副慈岳は、常に雪ふりてりで登ることを得ず、筑波岳は、往集い、歌い、舞い、飲み、喫いすること、今に至るまで絶えないのだということである。
     
   
  十種異名 (「富士山」史話と伝説 遠藤秀男氏著より。) 

  養老山
 ここより参詣でする者は、不老長生を約束される。
  花角山
 木花咲耶姫が鎮座することによって、花が千秋に咲き乱れる様を言う。
  行向山
 赤心をもって参詣する者には、心が行向して迎え、これを加護してくれる。
  来集山
 全国の神仏が参集してくる。
  妙光山
 白雪の輝き、頂上の剣が峰や火口の池を鏡に例え、そこから発する光をいう。
  仙人山
 不老長寿の薬草があり、これを食すると長生きが出来る。
  穀聚山(こくじゅ)
 米穀を集め積み上げた形に似ている。
  天地和合山
 天地を繋ぐ山の意味で、天神地祇がここに鎮座する。
  盤石山
 その形から言う。四方に溶岩や盤石を流したところから言う。
  富士山
 このはなさくや姫が請願された言葉による。

  十五種異名
  不尽山  常に雪の尽きない為にいう。
  理智山  金剛界と胎蔵界の理智を集めた所。
  蹲虎山  (そんこ)頂上に内院に虎の蹲った形をした岩がある。
  行向山  聖徳太子が登山したとき、諸神仏が向かえに出た。
  四八山  頂上の八葉などのほかに、32相仏相を表す。
  四方山  四方均等であるため。
  富士山  いっさい天地の富をつかさどる為に用いる。
  来集山
  仙人山
  穀聚山
  般若山
  養老山
  天童山
  七宝山
  妙香山

   九種異名
  竹取山
  羽衣山
  東山
  未通女子山(おとめこ)
  四季なか山
  国の深山
  神楽山
  鳥の小山
  波の深山

   十種異名
  神路山
  三重山
  見出山(みたで)
  二十山(はたち)
  三上山」
  新山
  塵山
  常盤山
  鳴沢の高嶺
  藤岳

   都良香
  語源を、ふもとの富士郡から出たものとする。

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<角行について>
 富士の人穴
 富士の人穴は、本来は読んで字のごとく、人間の座臥しもしくは入定した遺跡である。富士裾野の上、二千二百十尺の地にある人穴村の人穴も、実は富士講の開祖といわれる行者角行東覚の入定した遺跡に過ぎぬ。
  富士講
 富士講は、いうまでもなく富士霊峰の神霊を崇拝する人々の団結した講社の総称であって、今の扶桑教や実行教丸山教会等の前身で、講社の隆盛につれて種々の話中を生じ、各講中の先達、行人、信徒は、いずれも修験者の姿に凝して禊祓を暇え、或は又般若心経、陀羅尼、呪文等を誦して、陰暦六七月の交に富士登山し、丹誠を凝して祈祷し、神拝式を行う。かくて富士の神霊を拝し、さて日本六十余州の大小神祇、八百万の神々にも及ぶのであるが、こうして、登山祈祷を乞うに、その神験を得ること著しいと信ぜられて、すこぶる隆盛の時代があった。
  開祖、藤原角行
 これ原始時代の山岳崇拝に一種の意義を与えた修験道の一派ともいうべきもので、聞祖藤原角行は、俗名を長谷川左近久光といって肥前長崎の産、後奈良天皇の御宇の人で正保三年(1646)六月二日百六歳で富士の人穴霊窟内に遷化したが、それまでに、富士登山すること百二十八回、御中道廻り三十三度、苦行を修ずること二万日と伝えられている。今、人穴の奥には後代の建設にかかる角行の角塔を存するが、富士講の先達は、その後必ずここにその墓を設くる例となったので、人穴には墓が多い。
 その富士講の隆盛は、徳川時代のことであるが、富士参詣者の群集したことはそれ以前にもある。

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