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富士山の歴史

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 富士古文書・宮下文書

 当村の大明見の宮下家には、「富士古文書」というものがあって、神代より伝わった歴史のこと、秦の徐福が当地に来て開拓したこと、吉野朝の遺臣に関する記事らが、かなり詳しく記されているそうだが、筆者はまが古文書を見たことが無かったので、前記宝物調べの折に来会された、当地の考証家宮下半蔵氏より、「富士文庫」と長慶天皇紀略の二書を頂戴して、他日よく研究する事とした。
「富士文庫」は郷土研究の雑誌で、「富士古文書」中の不二山高天原変革史と、富士山噴火年代記等が載ってあり、その他富士研究の記事や古文書の由来が載せてあるが、第一巻だけで中絶したそうである。
長慶天皇の紀略によると,當村へ吉野朝の人々が澤山来られて、宮下家中輿の祖先たる三浦義勝は、建武の中興の大業に参画して、粉骨砕身奮闘したように記述されている。なお、宮下家は、応神天皇第二王子、大山守皇子より引き続き富士大宮司として、連綿たる家柄であると記してある。
これらの真偽の批判は後にゆづり、「富士古文書」の研究に、半生以上も費されたという、三輸義凞氏が大明見の軽島の森を探検した記事をここに拝借する。吉野朝の遺臣が当村に来住するという、理由が氷解するであろう。
御陵と称する所に「天照皇大神」と刻みたる標石あり。その奥に一小祠ありて、その屋根裏に「寛成天皇塚」と刻みあるを確かむ。
またその左右に、佛像の礎石かの如き二基残存しありけり。低回して去るあたはず、漸く附近に石仏造像の破片の散乱するを認め、これを収集して継ぎ合わせしに二佛像となれり、更に左右の礎石安置せしに、右やや大にして、裏面に「長慶天皇」と、、左はやや小にして「皇后藤原氏」と刻み、礎石を洗い観しに、各「陵墓」と刻みありけるを確かめたり。諸陵墓の治めず放置しありければ、恐懼(キョウク)爲す所を知らず云々…・
と記してある。(前章、玉川の歌と、上記諸陵墓の御真影は、写真版にて紀略中に挿入されて居る)

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西方寺(小明見)の宝物しらべ
祖底禅師
月光寺 祖底禅師は新田義重公の五男の額田五郎経義の僧名で、義重公の四男なる経義公の四男なる経義の兄、新田義季(ヨシスエ)は徳川氏の祖であるから、宝物の兜に葵の紋があっても不思議はないわけだが、葵の紋は徳川氏が三河に遷つてから出来た紋だから、この甲冑は後に新田氏に由縁のある者が寄贈したもので鎧櫃中に一所に入れてある、ちぎれた片袖だけが真の遺品かも知れない。こうした由緒があるので甲斐源氏の武田家とも外戚にあたり、江戸時代には将軍家よりこの寺に、何がしかの寺領を賜っていたそうである。
はじめ新田家四家老の一人武藤某は、御曹子経義のために確執を生じ、家老世良田氏を切って浪人し、建久二年(1191)庚戊三月この村へ来て、郷士となり武藤勘太郎と名乗った。経義君は妾腹であったらしい、父親義重公殊のほか寵愛されたが後に京都に行き知恩院に学び、祖底禅師なって勘太郎を尋ねて来た。勘太郎は一寺を建立して祖底禅師を勧請し住職とした。されば武藤家の祖たる勘太郎氏の遺骨は、当山本堂須彌壇の下に納められている。祖底禅師は天幅元年(1233)十月十八日九十二歳の高齢をもって卒、「月光無底榮義禅師」と諡(オクリナ)名している。當山の第二世は勘太郎の子武藤孫太郎義澄、出家して住職となる。
祖底禅師の巻物の中にある、上州緑の郷について、永らく疑義を生じていたようであるが、筆者が最近読んだ中村秋孝博士の、建武中興の回顧に新田家の記事中、太田金山の新田家の御霊所、金龍寺より近郊を一帯を見晴らすと、青々とした沃野つらなり、さながら緑の毛氈を敷き詰めたごとく----と記してある。
この時代には新田家の所領一円を、緑の郷と称したものと思われたが、その後、日本伝説研究中の多胡碑銘考に、和銅年間ころに作った碑文に「上野国、片岡郡・緑野郡・甘楽郡・三郡内内三百戸を併せて、成多胡郡」と立派に「緑野郡」が出ている。また同書に、「今の多野郡は即ち、古の多胡郡、緑野郡、南甘楽郡を合併して、明治二十九年に改称したものである」と記してあった。これで緑の郷の所在はハッキリしたわけである。なお当山には祖底禅師より伝わる十一面観世音菩薩の尊像と、菊花縫い取り模様の由緒のある、古代の法衣が保存されてある。これで当山(西方寺)と新田家との由緒もわかり、後に当村へ吉野朝の人々が、尋ねて来られたという連絡も、ややわかるように思われるが、ここに富士山録案内に記載された、下吉田月江寺の寺記というものを見ると、少しあやしく思われることがある。
月江寺は臨済宗に属し、その縁起は古く、順徳天皇健保四年(1216)三月、新田義重の五男額田五郎経義、剃髪して、鳴沢山の榮西禅師を師とし、榮義と称し当山を開かれたのである。本堂はかって祝融の災いにかかり、今は庫裏に隣接する苑内に、新に書院を建設してある。
と記してある。西方寺と月江寺とは近村の事であるから、何かつながった由締があるのではあるまいか。例えば祖底禅師は九十二歳の長寿を保たれた人であるから、一代のうち二つの寺を建設されたなどとも考えられる。いづれにしても祖底禅師は最初に当村へ来られた事と、当山において入寂せられたことは、現に遺された宝物によっても、明らかに立証されて居るのである。

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富士山麓の先住民族

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)

富 士裾野の先住民族は、原史時代の神代の神々が.鉄製の劔や、鏡、勾玉などを使用した、その時代よりもなお一段と太古に遡のぼって考えることができる。それは石器時代の、いまより三四千年の昔であったと思はれる。
その頃は富士山は絶えず噴煙をはいていて、まわりは千古斧銊(フエツ)の入らざる大森林が文ち並び、大樹巨木の密林が水澤地の湖沼沿岸に、欝蒼としてしげった所で山野を狩猟する山祇部族と、湖海を漁撈する海神部族とが移住して来て居た。
西湖の根場村、精進部落、本栖村等に見られる、古代建築の遺物たる、屋根の上の千木・勝男木は.原史時代の鐵製の利器.匁物、劔鉾などを使用した以後の遺跡で、この辺へ出雲民族が移住して来たことは、精進村の諏訪神社が証明している。
富士淺間神社の御神体「木花咲耶姫命」の伝説や由来を、くわしく考究したらかなり興味ある、古代史の新事蹟を発見することが考えられる。
記紀にある天孫「ニニギノ尊」・「大山津見神・「木花咲耶姫命」の御事績は、果していずこであらせられしか、何故にこの三柱の神々を富十の守護神として、浅間神社に奉祀せられたかといふことは、富士山の周囲をめぐる淺間神社の、神祇奉仕者の諸氏は、充分に研究すべき課題であらうと信ずる。
なお精進附近には、阿難阪、右左口峠、釈迦ケ嶽・龍ヶ崎等の、仏教にちなんだ名称の山が沢山ある。
これら有史以後の中世紀において、行基菩薩が開かれたと云う。足和田山嶺付近に居た行者たちがつけた名称と思われるが、それ以前よりあった名称であろうか。或いはそれ以前に別の名称があったとしたら、前記の「ウタフガ」などとともに、語現上等より研究の余地が残されているわけである。
原始時代に日本武尊が、富士山附近へ来られた頃は、すでに農耕の業も発達していて、裾野には大密林地帯も少なくなり、焼畑などするようになって、茅野原のところがなどが多く、自然と寂しい所になっていたらしい。
しかし太古には特殊な地形地理上の関係から、原始日本人の勢力の中心地として、相当に発達した部落が、各所に散在して居たものと考えられる。
それが歴史時代になって、時世の変化や、度々の富士山の噴火で地形も変わり、溶岩砂礫などのために富士の北麓を、交通し旅行することが困難になって、往来する旅人が苦しむようなことから、後には富士南麓が本街道となったけれども、有史以前には祖先日本人が相当に古い時代から来ていて、一方の富士アイヌ種族を征服して、街道の要害地によって、山河の雄をなしていたことがしのばれるのである。(完)

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先住民族の移住経路水路

(昭和18年、武藤秋月氏著「郷土史蹟と伝説」)
(略)
以上は陸路の関係であるが、彼等の南方より往来したものについて、伊豆半島附近に海上生活をなした彼等のある者は、簡単なる造船の技術があったにちがいない。
原始時代において、伊豆の国より大船を造って貢献したことが、記録に見えている。それら海上生活者は、原始時代にいたって造船の技術が発達したものか、それ以前のかれらがすでにその技術に達していたものか、これらのことも、富土山附近.駿河湾、伊豆地方の海上における交通関係の上から、研究せねばならぬことである。
なお注意すべきことは、大和田、小和田、海和田等の海津見に開係ある地名が、富士北方精進湖地方に残っているとともに、精進湖畔の東の嶺を「ウタフガ」と土俗は呼称している。「ウタフガ」は「ウタバガ」と同一語原で、鵜などの鳥がとまっている峠の意味である。その「タフガ」は「トウゲ」の意味であらう。蒙吉語で「タバガー」、わが国語に転じて「タフガー」、さらに轄詑して「タウゲ」となるので、古い時代の祖先日本人が、蒙古語系の古語「タフガー」を、この地に残しているものと考えられる。
多摩州上流の甲州に丹波山があり丹波川がある、蒙古語「タバガー」の「タバ」のみが山川の名と変じたものではあるまいか。武蔵の多摩川などの「多摩」もおそらく同一語源と考えられる。
こういう古い語の地名が残っているのは、土地が辺鄙なために一度入ったものは、容易に改たまらない山谷の風習で、言葉が化石して残ったものである。それから見ても精進・本栖・西湖附近が、もとの「セの海」沿岸の海津見時代よりも、もっと古い時代の面影がしのばれるではないか。

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先佳民族域砦の遺跡

富士の裾野地帯の梨ケ原には、犬小二箇の臼窪山があるが、これは元來富士の寄生火山であって、臼のような形状になって、中央に窪んだ火口ができている。鐘山(忍野村忍草)とは、桂川を隔てて相対しているが、西が大臼窪山、東が小臼窪山で、桂川をのぞんで並列して居る。
○大臼窪山
大臼窪山は、高さ五六間乃至十間ほどの外郭丘陵が輪状をなしている。一番高い所へのぼるに、八十歩を要し、東南西の外郭丘陵の上部を歩測すると、三百ハ十六歩乃至四百歩ほどを要する。北部はやゝ低くく桂川崖上をのぞんで開口している。その開口する部分の幅七十四歩。噴火口の東内側百九十歩、西内側は五十歩.西内側は二百五十四歩ほどあり、火口は火山礫で埋没している。
丘陵内壁の東南西の三方は、三段の階段となっている。この階段は人口的のものである。この丘陵上にのぼれば西は河口湖・西湖・精進方面の富士の裾野を一眸の中にのぞみ、御坂山系木無山つづきの十二ヶ嶽、その他の連山が見える。東北は内野忍草の平野を脚下に御正体山、山伏峠から道志の山々、丹沢山の一部、籠坂峠につづく天神峠、足柄山方面まで見える要審の地である。
○小臼窪山
小臼窪山は大臼窪と同じ形式で、後方にひらけた口は、幅間高さ五間、外廓丘陵上三百四十歩。内部底百五十歩ほどである。そして後方にひらけた口は、桂川の急流が深潭をたたえている。
古代の内野忍草附近が湖沼であった時代には、満々たる水をめぐらして、今より一層の要塞地であったであろう。
この小臼窪山の南方二手の所に、彼等の居住した遺跡があり、土器・石器の破片が散在していたことは.前章に述べた通りである。
この小臼窪山の外廓丘陵に於いても、その廓内に於いて弥生式土器の一小破片を発見した。その小破片が、その小破片が彼等の石鏃の製造所で、かつ住居遺跡であった所から発見されたものと、殆ど同時代の弥生式土器である。
○大臼窪山
大臼窪山附近ではまだ当時の遺物は発見されないが、小臼窪山では彼等が生活に使用した、土器を発見したので.この山と彼等民族と密接な闘係があったことが考へられる。大臼窪山からは確証すべき遺物は発見されないが、小臼窪とは数丁の距離にあり、同一形式の丘陵である所から考察しても、両者が彼等民衆と関係のふかい、要塞地であったことが想定される。
大臼窪山をもチャシ(砦塁)とする理由は、休噴火口壁の内側に於ける周囲の階段である。人工的に三段の丘階を形作ってあるが、これがどうも近世のものとは思はれぬ。かの朝鮮に於ける鉢巻山類似のもので、鉢巻山は外部に鉢巻をしているが、これは内部に階段が作られている。その様式が、古代に於ける築城法と考えられるのである。
○谷村勝山城址
谷村町の古城、河棚の勝山城址のごときも、歴史記録では淺野某が城を築いたというが.事実はそれよりズツト古い、有史以前の城砦であつた事がわかった。勝山城址の山上で石鏃の破片を発見し、つづいてアイヌ土器、弥生式土器(木の葉痕あるもの)などを発見しているので、一度いここにのぼってて見ると、北は岩殿山方面の北都留の群山から、南は裾野を見はらして富土を中天に仰ぐ、景勝の地でしかも敵の行動を知るに都合がよく、要塞地として桂川上流沿岸に於ける一等地である。城址上に土塁の階段があって、大臼窪山の内部の階段と同一の手法である。
この附近に於ける古代のチヤシ(砦塁)は、谷村町古城山(勝山城址)・大臼窪山、精進バノラマ山・嘯(ウソブキ)山(船津村)などの他にまだ二三あるが、中にも大臼窪山の要塞地は、富士山麓において最も特殊な地形を有するものである。
○富士郡大宮町の黒田附近の城砦
なお富士山の周囲において、富士郡大宮町の黒田附近の城砦である。この地を俗に「月の輪」と称している。月の輸は大宮町字星山区内に属し、その四周の地形がすでに天然の城砦をなしている。後方には断崖あり。前面には古代の湖沼の地を隔てて、富士山に相対し、明星山は近くそびえ、かなり要害の地であった。そごからは主として弥生式の土器や、石器類を出土するのであるが、三方を水にかこまれた地形なので、彼等がこの地に原始的な生活をしていた頃は、四辺は老樹が鬱蒼としてしげり、湧水も潺々(センセン)としてながれ、寂しい物すごい丘陵地であつたと思はせられる。平常は山の根の台上に住み、いざ戦争となれば裏山の城砦に立て篭もって争闘をつづけたものと老えられる。
○富士郡富士根村字箕輪
これと類似するのものが、富士郡富士根村字箕輪にある。ここには彼等日本人が来住しなかった以前に、アイヌの山城要塞であった思われる場所で、地形はほとんど箕の形をして居り、アイヌの遺物も出れば後の日本人遺物である弥生式土器なども出る。これは始め富士アイヌの占拠地であって、後に日本人に占領された遺跡である。
○富士川下流の明星山
 富士郡地方の伝説によれば、富士川下流の明星山は、古代日本人が兇族悪羅王を征服した山城などの、神話が里俗の間に今も残っている。そしてこの地方に割拠していた先住昆族は主として狩猟生活者であって、山祇の神を崇拝した山砥部族であつたことは石器などの遺物によって推考されるのである。

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