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富士山の歴史

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古代民族の移住

富士の山麓地方、裾野の四周に吾ら日本民族の祖先が、いつごろから移佳してきたかと云うと、学者の所謂彌生式土器を出す民族の遺跡であって、有史以前の石器時代当時からこの辺に来て居たと考えられる。それは有史以前アイヌの蕃殖した最初の第一期時代ではなく、第二期時代の中間期もしくは、薪石器時代の終未期と想定するごとができる。これは富士山及びその裾野、甲州郡内、武相の平野及び駿河湾附近一帯の、遺物及び遺跡によって立証することができる。例えば浅間神社社殿のある、大宮町櫻ケ丘の台地の如きは、かれらの遺物彌生式土器類が残っていた。同大宮町黒田星山の墓地、星山字月の輸の如き、富士根村小泉台地のごとき、彼等の遺物がいろいろ残っていた。
須走村に於いても王子ケ池(或は大蛇ケ池)附近と.須走淺間神社裏山続きの酒匂川上流になっている。鮎澤川にのぞんだ丘陵地須走村字音口とにおいて、彌生式土器を発見している。
精進湖畔の精進パノラマ、或は本栖湖畔、河口湖畔などに、やはり彌生式土器が各所から発見されている。その彼等先住民族の遺跡は、主として丘陵地近くに残っている。まれに低い沖積層の土地に残っていることもある。それは沖積層の土地でも、古代に海水または湖沼であって、それが涸れあがった所なれば、そこを住居地として彼等が生活していたことが考へられる。そしてその住居地附近には、かならず清い飲料水の河川があった。
上吉田新屋、梨ケ原臼窪山附近の遺跡などは、みな富士裾野の高燥の高台地であるが、附近には絶えず流れる小川かあって、湧水や湖沼に近接して飲料料水に不自由をしない所をえらんで住居地として居た。

土器及び石器の遺跡

臼窪山、精進パノラマで、谷村町勝山城杜のごとき、麓には清流もしくは湖沼地があって、しかも展望のきく場所には、一望ほとんどさえぎるもののない台地を利用しで要塞地を作るのが常はである。要害地の附近からは石鏃、即ち矢の根石の製造所や、矢の根石を鐙見するのである。
桂川の流域、忍野村字忍草の三左衛門入りについて見ると、上部は小砂のまじった黒い土壌で下にローム層がある。その表土から二尺位下に弥生式土器の破片や、黒耀石の屑などがあり、時には三尺位の深さから、殆んど完全に近い彌生式土器を発見することがある。その附近の地表面にも半磨製のたたき石の如をもあれば、黒耀石の破片や土器の破片などが、廣さ二三十間の場所に点々としている。これは古代の土器製造所の遺跡である。
瑞穂村新倉字日草場には、石鏃を作りかけた屑石や、原料石などを澤山発見したことがある。それらの遺跡は石鏃製作所としての、古代民族の兵器工廠跡である。
河口湖畔勝山村、俗に敷島の松のある字「沖クネ」には、表土から一尺三四寸の下に遺物が包合されて、二尺以内の深さにかぎり、三尺も四尺も下の赤土の中からは発見されない。
河口村字国府の下、御坂峠及び八丁峠への分岐点に近く、俗に疱瘡橋附近の台地から、弥生式土器ならびに敲き石等を発見している。船津村赤坂出口の遺跡よりはその時代も古く、石器時代のものである。河口湖中の鵜の島にもアイヌの有史以前の土器とともに彌生式土器並び祝都の土器類を出している。
足和田山麓の鳴沢大田和の字清水にも弥生式土器が発見され、また大室山付近かの溶岩流の蔽はざる口―ム層地で、素焼き文様の土器が発見された。精進パノラマ登り口で彌生式土器の破片が発見され、頂上では石器の破片及び黒耀石が発見された。精進の鵜峠(ウトウガ)山中附近でも石槍が発見された。
それから大和田や本栖村北の端の遺跡などと共に、精進湖方面には、アイヌ外の先住民族も来ていたか淀遺跡があるのである。
有史以前の日本人遺跡から出る遺物は、まづ石器では石鏃が出る。主として狩猟生活者であった彼らは、鳥獣を捕獲するにはこの石鏃矢の根を使用した。また敵との闘争のために要害(チャシ)などに立て籠もって、この石弓あるいは鋭い竹木滑りなどの鏃を併用して敵に対抗した。護身用の武器として大切な道具であった。
梨ヶ原に近い大臼・小臼には彼らの遺跡がある。梨ケ原開墾のためにその遺跡が撹乱されて発掘された。その遺物の中には彌生式土器の破片と、黒濯石の破片が犬小無数にあって、やゝ完全に近い石鏃もまじってあつたが、この地は石鏃の製造所であつたと考えられる。
石鏃を製作するに使用した原料石は、黒耀石、煙水晶及び角(ツノ)岩が主要なものであるが、稀には水晶粘板岩などを用いる。あまり遠方から原料を運ぶごとを避けて、附近から出る粘板岩を使用して居るのだ。黒耀石は富士山附近から出ないので、信州和田峠か八ケ嶽附近から運ばれ、煙水晶及純白の水晶などは、金峯山か東山梨郡の石森村等から産出したものを使用しているので、富士山地方とそれらめ地方との間に、交通貿易の行はれていたことがわかる。角岩のごときは富士附近はもとより、秩父地方にも産出しない。一番近い原産地は、下野駒場山附近であるが、それが幾多の人の手を経て、この地方へ移入されたものである。
かれらは片匁の磨製石斧を作り、また打製の右斧も作ったが.その形状や趣同においては、非常に拙劣な手法であった。利器としては多く磨製及び打製石斧を用いた。石斧を磨きつける砥石とか、植物の實や殻などを打砕きなどする敲き石なども出る。しかしそれらの石器類は、石器時代のアイヌの遺物にくらべれば、製作手法上不細工にして自然石の河原石のままのようなものを使用している。
海濱地方には錘(オモリ)石(挟線入り)を使用しているので.漁業用の網などもあったことがわかる。その錘石も、河原の丸い自然石程度のものである。錘石に抉り目を入れるばかりでなく、時には半磨製の石斧にも抉りを入れてあるのが、愛鷹山麓や沼津の海海岸地帯から発見されている。
第三期の絡末期時代には、幾らか金鐵を以て作った利器をも使用することを、知つたであらうと思われるのは、日常装飾等に使用した玉製、或いは磨製石鏃などに、小孔を穿たれてあるのを見ることがある。
土器は素焼のうす手のものであるが、その形秩は、翁・鉢・碗・平皿・壺小瓶等で、いずれかも同じような赤褐色を帯びている。まれには、黒褐色を帯びたものもあるが、それは焼いた際の燻(イブシ)であって、火加滅で、燻(イブシ)色を呈したものと思われる。比較的厚手にできている鉢形のものなどは、原料たる粘土の中に小石まじりの砂や、雲母を混ぜてやいたものも稀にはある。これらの土器の中には、把手(トッテ)を施したものがある、多くは牛の角形とか、短かい棒扶の把手を突起させるだけにとどまっている。
瑞穂村日章場、字池の本などの土器把手や大宮町月の輪には牛の角形の把手のついた土器が発見されている。富士山地方のものは稀に赤朱色の、塗料を施したものを見ることがある。これらの土器を利用して、富士山地方に住んでいた民族は、一は地方の山地より、一は南方の海濱地方より移佳してきたもので、主として狩猟の生活をなし、その海濱地方のものは漁業をして居て、この富士裾野の台地附近やその周囲の地に、竪穴を掘って佳居して居たものである。
夏期には草小屋を建てゝ、丘陵上に小村落をつくり、転々として各所に散在して、生を楽しんでいたものと見える。彼等有史以前の日本民族が、富士山附近で活躍していたころには、まだ富士アイヌなどは各所に蕃居していて、対抗せねばならぬこともあったろう。また同種族の間でも闘争が行はれたであろう。そして戦争のための遺跡は主として、山地の城砦にたてこもるので、山城要塞即ちチヤシ(砦墨)などのある場所の城砦附近には、必ず彼等の佳居地があった。

富士北麓の地名由来

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大目村の由来
 富士山が、突然ひょっこり湧き出た時、ドドド、ドド−ン、という異様な響を四辺にとどろかした。その時ならぬ音を聞いて、今の甲斐国北都留郡大目村の人達は、山崩れかと思って表へ飛び出して見たら、眼の前にとてつもない高さの富士山が湧き出ておったので、大きな目を見張って二度びっくりした。それから大目村の名が出来た。
 賑丘の由来
 同じ郡の賑丘の人達は、不思議な音楽が聞えて、すこぶる賑やかなようなので、何事だろうと飛び出して二度びっくり、「やあ、お山の移転だ。」といってたまげ、
 大嵐村の由来
今の南都留郡大嵐村の村人たちは、その音を、はじめ大嵐の襲来かと思ってびくびくものでいたが、やがて静まったようなので恐々出て見たら、雲に突き抜けた霊峯の出現であったので、「これはどうだ。天と地とが繋った。」と驚き叫んだ。
 鳴沢村の由来
 その又隣村の鳴沢では、怪しい沼の沢鳴かといぶかって、皆大騒ぎしたが、確かめてたら富士の山鳴りであったというし、
 道志村の由来
道志村の人達は、「これはどうした事だ。」とびっくり仰天し、
 平栗の由来
平栗の里人たちは、地面にひれ伏してぶるぶるものでいた。その様子が毬粟の平つくばったように見えたというので、今でもその地は、それぞれそういう名で呼ばれるということである。
 明見村の由来
 明見村の人達ばかりは、一向そんな音にも驚かず、誰一人、出てその不思議の山の湧出を見ようとする者がなかったので、近くの村々のおせっかいが、「おうい、此村の衆よう!出来り上手(はで)見さっせ、(出て上の方を見よ)はんてはんて(急いで急いで)、と触れ歩あるいたが、この村の人達は、誰も彼も、「明日に見よう。」といって、その日には、誰一人出て見る者がなかった。ところが、その又翌日には、この村の人達が見ようとしても、見られないような地勢になってしまったので、この村からは、それで、もう何処からも永久に富士の霊姿を見ることが出来ないように変ってしまった。それで、この村を、それから明日見村というのだという。
  
 川柳(参考、富士山をめぐる川柳歴史散歩。清博美氏著)
  孝霊の前は名はなき明日見村
  仰向いて嘘だ嘘だと明日見村

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