富士山

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富士山の噴火

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----この村の東にあたる山の中に、年を経た神通自在の荒神様が住んで居られるので・毎年夏の七夕の日に、供物捧げる事となっています。酒一樽・餅4斗、海の魚と川の魚、新しい野菜と新しい果物、若い生娘を一人添えて、献上することに定められている。これを怠ると大変なことになる。山鳴り震動して風を起こし雨を降らし、大嵐となって田畑を荒らし、人畜に損害をあたえるなど、思いがけない異変が続発する。これが恐ろしいので、毎年この行事を続けているのだが、御供物はなんとでも調達できるが、捧げられた若い娘は返して下さらないから、年頃の娘達は毎年心配して、お召し預かった娘は村のために、この様な悲しい別れをするのだという----。
若い武士はこの話を聞くと、目を輝かして、
「わしがこの娘を送ってあげよう。そして相手を見届けて参ろう」と云った。周囲の人々は驚き、みんなで引き止めた。
「心配するな。わしには自身がある。実は昨夜泊まった近村の農家でこの話を聞いたので、わざわざたずねてまいったのぢゃ」
 というので、一同改めて武士の姿を見直すと、筋骨たくましく、凛々しい顔をしているので、
「それではお願い申し上げましょう」
 武士は娘とともに、船に乗り込んだ。武士が櫂をとって小船を操り、湖水の中ほどまできた時、突然晴れていた空が掻き曇り、暗闇となり、風も強く吹き出した。武士は目を凝らして、微かに見える東の山を、キッと見つめると、中腹の森の中から、真っ黒の雲が、モクモク沸いて出る。その雲の中に、キラッと金色に光るものがあって、水面を波立たせながら木の葉も撒き散らしながら、小船めがけて押し寄せてくる。
 若い武士は、少しも物怖じせずに、櫂を置き、自慢の強弓を握り、鷹の羽の矢を番えて、満月のように引き絞り、
「恐敵々々々々々々----箱根権現、石松八幡神社を始め奉り、日本六十余州の神々、われに加護あらしめ給え、悪魔退散、悪魔退散」
と心の中に念じ、狙いを定めて、いっきに矢を放った。矢は暗闇を走り、光を放す怪物に命中した。金色の玉は微塵と砕け飛び散り、
「ガラガラ、ガラガラ、ゴオ〜ン、ゴオ〜ン」と、耳を劈(ツンザ)く雷鳴が響き渡り、周囲には「光物」が散乱し、その中のひとつが、グーンとうなり聲を響かせて飛んできて、舟の横腹ヘガーンとあたった。
「アツアアアア----」と思った瞬間船は転覆し、武士と娘は水中に投げ出された。
周囲の黒雲は消え、波も静まり、激しい風も治まり、眩いばかりの晴れ間が広がった。
湖畔で見守っていた村人が、事態を心配していると、物の怪を退治した若者が娘を小脇に浜の方へ泳いでくる。村人は歓声を挙げながら、迎えの小船を差し向けた。武士と娘を小舟へ引きあげて.岸辺へつれてきた。
岸に引き上げて見ると、若い武士は手傷は無く、元気そのものであったが、娘は哀れ。若者や村人は必死に介抱したが、娘は二度と目を開くことは無かった。娘の父親は死骸に取り縋って悲しんだ。
「この湖水の真ん中は底が深く、周囲は水は浅く泥が深い。昔からこの海へ入った者は、一人も助かった者は居ない。娘はもともと村のために捧げた命だから、死んでも本望でござりましょう。それにしてもお武家さまはよくまあご無事でこられましたな〜」
 武士は、
「船が覆って、水に投げ出された時に、直ぐに娘を抱えて泳ぎだしたが、不思議な力が我らの体を、底へ底へと引き込もうとする。」そのたびに娘の体が「うき」のようになって、私の体を引きあげてくれるような気がしたが、今にして思えば、死んだ娘の魂が「うき」となって、溺れそうになった白分を導いてくれたものと考へられる。思わぬところで恩義にあづかり、感謝の外はない----」。
と娘の亡がらにむかつて手を合わせた。娘の残し置いた水色の紙に、一首の和歌がのこしてあったので、武士は村の者から受け取って読んで見ると、
「ちぎり置きし露ははかなく消ゆるとも蓮のうてなに、かほりのこさん」 
と書いてあった。あはれ薄命のこの娘は、すでに前夜からこうなることを覚悟していたのだったのかと、いまさら一同の眼をしばたたかせた。
何はともあれ、物の怪を退散させて、村の難儀を除いて下さった、武士にお礼をしなければと、村人一同はお連れ申して、出来る限りのもてなしをした。村人は武士に、荒神様の祟りを恐れ、武士に、「しばらく村に留まっていただきたい」と懇願して、武士も快諾して村に留まることにした。これを機会に村の悪習「人身御供」は無くなったという。村人は感謝の念をこめて武士を尊敬しながら暮らした。
あるとき武士は村人に「これまで犠牲になった娘たちの霊を慰めるために、湖水の浅瀬に「蓮の花」をたくさん植えることを提案した。
村人は「今まで気がつかなかった。村のために犠牲になった娘たちのために、おっしゃる通り、蓮を植えて霊を慰めよう。」と総出で植えつけた。
やがて時が過ぎ、蓮の花は湖水の水面を覆い尽くすようになった。その花の美しさは、多くの娘たちの笑顔のようで咲き誇っていた。また蓮の花の香ばしい香りは近辺の村々へも漂い、多くの人が訪れるようになった。
年が遷(ウツ)り、星がかわり、当時の様子は幻のような記憶になっていったが、村の子供は、振り分け髪の「うない」遊びに、前記の「ぞうり唄」を面白い節をつけて、面白おかしく、うち興じながら唄い遊んでいるのである。
こうした童謡・民話・伝説・昔話には地域の隠された地域の人々の想いが託されている場合も多く見られる。この伝承や唄にも、地域を取り囲む郷土の山々に対する村人の畏敬の念と、鉱山などの秘めた産物をひた隠すために、こうした類の話を創作して、村人を近づけないこともあったと考えられる。
黒雲の中の金色の光
明見村東方の山麓の集落、向原からこの山に登っていくと、細かい水晶が露出している洞窟がある。ここの水晶は、あまりにも細かく、何の役にも立たず、村人は重要視していないが、水晶のある付近には必ず「金鉱」があるという人もいる。
この「東の山」というのは、富士北麓の小沼駅から入る。近頃学生や登山家が登る御正体山の中腹、入山右側の深林地帯である。若き武士が明見湖畔を訪れた建久二年は、曽我兄弟の討ち入りの二年前の話である。

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<日本武尊の故事・丸火の謂れ>

神原理学博士が、富士山麓の水理を調査中、富士古文書の研究者から、明見村の「焼橋」という所は、日本武尊の御東征の際、賊が橋をやいて対岸へ逃れた、遺跡だと聞かされたそうだ。尊の御遭難の場所は、明見と吉田の中間にある原野で、その証として、熔岩を丸火と唱へるのは、この地方独特の名称で、駿河の人は熔岩を単に焼け石と云い、精進・本栖方面の人も、丸火とは呼ばぬ。熔岩はとけて流れるもので、「まろび」がころがるものでないのに、この地方でばかり「丸火」と唱えるのは、(日本武尊が)草薙の剣で草を丸く切りはらい、向い火をつけて丸く焼き払はられたのが「丸火」の語源で、後に富士大噴火の際に、溶岩が火焔をあげて流れ走って、大きく丸く連なったのが、御遭離の折の御状態(オンアリサマ)と似ていたので、その故事を記念するために、その地を「剣丸火」と称えたのである。
他に「桧丸火」・「鷹丸火」・「土丸火」等がある、丸火の出來た延暦十九年(800)、貞観六年(864)は、尊の御東征より七百年ばかりの後の事だが、特にこの吉田地方の丸火に、剣の字を冠したのは、このような故事が語源をなしていのである。
<吉田の火祭りの由来>
前記明見の火祭りの外に、富士吉田でも毎年舊七月廿一日に、盛大なる火祭りを行う。下吉田から上吉田にかけて浅間神社の前まで忌のある家を除き各戸に一本づつ、昔は二間一尺の定めだそうだが、五六間の高さの大松明を数百本ならべて、炎々として天を焦がし、闇もあやなき壮麗なる祭礼で、「美濃のつくま祭」、伊豆の「伊東の尻りつまみ祭」とともに、日本の三奇祭と称されている。
これが毎年富士の山開きだそうであるが、単に噴火を恐れる鎮火祭なれば、富士山麓数十ヶ所の浅間神社で、全部が火祭り行事を行うべきわけだが、吉田の町とそれから噴火に縁の遠い堂の山との二ヶ所だけで、この壮絶なる火祭りを行うのは、果たして何を意味するのであろうか。
吉田の火祭りの謂れを尋ねると、
----富士嶽神社の本社の左手にある小社に、諏訪大明神「建御名方命」を祭られてある「昔、命、追(ト)われさせたまうて、この地に入らせられた時、土民に図って無数の煙火を撚さしめられた。追手はこれを見て、援軍多く列(ツラナ)ると思って立去ったので、命は無事なるを得た。それが七月廿一目の夜であったから、いまもなお、その夜に至れば吉田の各戸、軒毎に松明をともして神事を祝う—---
とい縁起である。「われこの地より他へは行かじ」と誓って信州に諏訪に鎮まりし建御名方命が、吉田まで遺はれて来たというのは怪しい話で、この伝説は目本武尊の御遭難の事蹟と、混同しているようである。
<日本武尊の御痕跡と御由緒>
○ 吉田の浅間神社のうしろ「諏訪の森の大塚山」といふ小丘に、目本武尊が御休息なされた腰掛岩がある。この附近には尊の痕跡が非常に多い。
○ 河口湖の鵜の島は尊が富士山を遥拝して、戦勝を祈願した遺蹟である。
○ 下吉田の下新田の不動様のお札は、日本武尊が弓をもつて、立つて居られる尊像である。
○ 明見村の天都山の篠垣塚は、尊が賊軍を平定した後、富士山を遥拝した遺蹟だという。焼け橋から一丁ばかり離れた所に、「陣の跡」という所が在り
○ 小明見下宿の不動様は尊を祭った社であり
○ 堂谷山上の白王様など
すべて尊の御事蹟に由緒のある事を、断片的にこの土地の人から聞いたのである。
この地方は昔、相模の國の一部であった事は、甲府地方と山をへだてた都留郡とは、人情風俗言語まで異なって居り、都留郡の人は甲府地方を甲州と呼び、甲府地方の人は郡留郡の事を郡内と呼んで、他国の扱いとして居るのでもわかるが、文献としては加茂季鷹(カモノスエタカ)の「富士日記」の一節に「遊行二代真教上人.家集に
甲斐の国より相模を越えける「御坂」といふ山にて
富士のたけを見やりて 雲よりも高く見えたる富士のねの月にへだたる影やなからむ と見えたり
とあり、山中湖北岸の平野なる「平野天神諸記」と題する、氏神所藏の文書の一節に、○「大化五年(649)十月、高座郡ヨリ四郷ヲ割キ甲州に編入。中古宇宙ノ郷中ノ庄と称す」と記されてある。
焼橋は小明見西方寺の裏手より下吉田との中聞を流れる、桂川の渓谷附近の原野を今も字「焼橋」と称しているのであるが、
<秦の徐福>
古文書には
「秦の徐幅がこの地を開拓したので、その子孫の福信といふのが、尊に反逆された賊魁で、向ひ火をたかれて返り討ちにされ、橋をやいてこの部落へ逃げこんだ」と記してある。上古はこの辺に「御船湖」(下吉田新倉付近)「阿祖の海」があり、その中間の原野には、沼沢が澤山あつた。即ち古事記にある、この野の中に大沼あり、という地勢である。なお、ここは富士の裾野から分離された小原野で、東北は高座山から御正体山へつづく山脈で、西北は御坂山脈から三つ峠への、嵩巒(コウラン)かさなり合う中にかこまれて居て、
さねさし(眞嶺刺し)相模の小野に、もゆる火の ほなか(炎中)に立ちて間ひし君はも
と弟橘媛(おとたちばなひめ)のよまれた歌に、ふさわしい地形をそなえている処なのである。

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明見の風土記 堂谷の火祭り

<堂谷の火祭り>
富土の北麓、下吉田駅から東方を眺めると、東南に高座正面に杓子山・東北に御正体山および入山らの山脈で囲まれた盆地が見える。杓子山の麓に富士八湖の一なる明見湖がある。その南北につらなる村が明見村である。
西は桂川、東に明見湖から流れる御座の川の、二流にかこまれた小明見の下宿(シモシュク)から、川をへだて入山の嶺つづきに、「堂谷の山」といふ小丘がある。毎年旧六月六日に、下宿の火の見櫓の下、道祖神様の前へ、松薪や竹茅などを山のように積み上げて、大きな松明をたくさんこしらえ、村の若い衆が大勢で、この大松明を堂谷の山へかつぎト上げ、麓から頂上まで、数十ヶ所に備えつける。
夕暮れになると若い衆は、揃いの浴衣に白手拭いで向こう鉢巻、縄襷(たすき)の甲斐々々しい扮装(いでたち)で、手に手に小松明を振りかざし、堂谷の山へかけのぼって行く。昼間据え付けた大松明へ、一つ一つ火を着けながらのぼる。村から見れぱ、黄昏で黒くなった山へ一筋の火の龍が煙を吐きながら這い上がっていくように見える。
頂上の白王様の碑の前へは、大松明が四本ならべてある。これへ火をつけるとあたりは一面にあ明るくなる。まん中に土俵がこしらえてあってて、若い衆たちは東西にわかれ、かわるがわる飛び出して相撲をとる。数十番の取組があって優勝者は賞品を貰い、酒なども出て大騒ぎをした後で、大松明を四つ一ケ所へあつめて、火烙がパツと高くも燃えあがったとき、一同で鬨(トキ)の声を三唱して、やがて凱旋の支度をなし、小松明をふりかざして、村へ帰って来る。
白王様は悪い虫を退治する神様で、毎年この日に大煙火をたいて.虫除けのお祭りをするのだという。白王様の嶺続きを数丁奥へゆくと、右は入山裏の物すごい山で、左は桂川の流域を見おろす千仭(センジン)の渓谷となる、右の山を権太山と云う。権太山の中腹には、厄病にかかった者や無宿者の死骸を、焼き捨てるところがある。村の子供たちが悪い事をすると、「権太山へやってしまうぞ」と、おどかすとおとなしくなるという、おそろしい所だ。
堂谷山の対向面の、小明見下宿御座の川張縁の岩盤の上に、不動様の小祠がある。この不動様は堂谷の山を見上げて、にらんでいる位置にあり、土地の人は日本武尊を祀ってあると、云いつたえている。

<再び堂谷の火祭り>
焼橋から逃げた賊はどうなったか、青年時代に単身熊襲を征伐せられた、勇猛果敢な貴皇子(日本武尊)に座(オハ)せられる。寒川(桂川の古名)を徒渉(トショウ)する事くらいは食前の茶飯事である。陣の跡で休息して、石橋に狂う獅子の精のような、奮迅のいきおいで渓流をおどり越え、賊輩を襲撃した。
賊は三方を山でつつまれた、明見の盆地へ追いこまれたのが運のつき、皇軍の殺到にたまりかね、堂谷の山へかけのぼったのを、尊の軍は部落の民と協力して、松明をふりかざして追撃し、頂上で殲滅して権太山で焼き払ってしまった。
頂上で虫けらのような悪い賊輩を退治したから、こゝに、祀られる白王様は、悪い虫を退治する神様になられている。そのときの闘争の形が後の世までのこって、いまもなお毎年大炬火をもやして、相撲の行事をつづけて居るのである。それにしても白王様は何様を祀ったのかと、不審におもって尋ねて見ると、「白王」の二字を合せると「皇」の字となり、日本武尊は小碓の皇子様で座(オハ)せられるから、白王様はやはり、尊をお祀りしたもので座せられると、吉田の局長白須氏が解釈してくれた。
<富士古文書・古駅「家基都」(カキツ)>
富士古文書によれば、明見の町はむかし、延暦噴火以前の頃には「家基都」(カキツ)の町と称して、近郷の一の古い駅であったと記してある。「家基都」は「加吉」とも書かれて,発音は「かきつ」であるが、延暦・貞観の富士の大噴火に全滅して、現在は明見の町に、その面影を止めて居るだけである。「古事記」にある尊の御遭難地の「ゆえにここを焼津といふ」とある焼津の所在地が、駿河国志太郡の焼津港で無い事は、周囲の地勢も違い、何らの文献も遺跡も無く、何人も否定している所である。
明見村の古名「家基都」(カキツ・ヤキツ)が焼津と発音が同じによめる事は、動かすべからざる事實の証明であって、付近の地形と云い、環境と云い、火祭りの故事に至るまで、完全に御遭難地の御遺蹟としての、形態を具備しているのである。
但しここで弁護しておきたいのは、福信は悪い奴であるが、その祖先の秦の徐幅はこの地を開拓して、かの国の文化及び技術をつたへ、この村を啓発振興せしめるために非常に功績のあつたことである。部落の人々が尊に協力して、賊の征伐に参加した事は、付近出でる弥生式土器の証明する通り、神代以来古く皇化に浴した民族だからである。土地の人々は「家基都」や「やきつ」と読まれるのを嫌って、「加吉」とあらためたのである。

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河口湖畔嘯山公園(かわぐちこはんうそぶきやまこうえん)

「国立公園繍山入口」と木標の立てゝある、船津町の理髪店の横をまがると、幅二間ばかりの落差一尺くらいづゝの、そまつな石段がある。十数段のぼると、雑草のしげった崖へつきあたる。崖の上には石の鳥居が見える。道は屈折して左へ長く半町ゆき、また右へ折れて約二十間で、石鳥居の前へ出る。
石段からこゝまで、約二十mだが、迂回して來たから大分あるような気がするが、鳥居の下から雑草をけずり落した、幅のひろいすべり台のような坂があって、この崖をすべり降りれば、石段の所まで二三分で行かれる。土地の子供や若い衆は、平気で上下するのだが、山になれない都会の人々にはあぶない。危険だからおよしなさい。
鳥居を潜ると、高さ一丈ばかりの、立派な黒花崗(ミカゲ)石の忠魂碑がある。大山公欝閣下の筆で昭和八年建設だ。ここから四五間のぼると、四桂板ぶきの東屋がある、ここで一服して紫のけむりをはきながら、足もとを見わたすと、湖畔のバスの停留所と船着場から左りへ、登喜和・山岸・大屋ホテルの屋根が見え、村社八王子神社の鳥居が見え、その境内の裏の溶岩の上に、近頃増築された料理屋風の家が目だつ……。
その下の自動車道路に沿って、奇巖突几(トツコツ)としたどすぐらい熔岩湖畔に、数人の人がつりをしている。河ロホテルの背後から、水をへだてゝ対岸の小立部落、敷島の松あたりを見はらすと、湖は藍色に岸辺の断崖は黒褐色に裾野は消し炭色で彩色されている。右側の湖上に突き出した産屋ケ崎(ウブヤガサキ)のトンネルから、甲府通いのバスが飛び出して半円形の磯伝いに疾走して、島原岬に消えた。
大石の部落は桐に隠れてよく見えないが、雲の絶え間に御坂山脈が隠見している。藍色の湖盆は何を写すか、ところどころに鼠色をぼかし、谷風に立つ漣(サザナミ)は白い泡を散らして、定常波は湖面の色彩を、いろいろに変化させている。雨もようなので、船は一艘も出ていない。
位置をかえて東の方を見わたすと、「赤阪鐘かけ松」のあたり、剣丸尾の累々たる熔砦帯を越して、吉田の町がつらなり、浅間神社・小倉山・大臼子臼の丘陵から明見につらなる山脈が・うす墨色に一沫はいた中間を、桂川谷の田園沃野(ヨクヤ)が、パノラマのように展開して居る。しかし南面は天地を包む一大煙幕のような、白雲に遮られて、肝心要の天下の絶景富士山は今日は少しも見えない。
東屋を出て十間ばかりのぼると、草むらの中に、不規則に歪んだ石の碑がある。ここからの展望は、東屋やよりも遥かに雄大で、沖には老樹緑層の「鵜の島」がうかび、その対岸の小海、長浜の方面まで見える。小海付近には実る麦の穂であろう、黄色く区割りされた畑が点綴(テンセツ)されて、藍色の荒涼たる風景を、やゝ朗らかにしている。碑の面には
秋晴れや富士明らかに水鏡  昭和四年初 小波
と刻んである。自分も何か一つと、頭をひねくり
梅雨空や 湖畔にならぶ 貸ボート
富士写す 波をちらすな 渡し舟
と、おぼつかない、十七字の処女作を並べて見た。傍で石楠花(シャクナゲ)の花がわらつている。
付近の藪の中で、木の枝を集めていた村の子供たちに、これから上に昇れば何かあるかと聞くと、頂上には小御岳神社があると云う。
嘯き山は標高一千一百米、登るに四十分、河口湖を脚下に見おろし、遠くは籠坂峠から近くは青木ケ原にわたって、富士裾野を一望の中に収める、雄大なな眺望であると聞いてはいるが、まだ十五六町もあると云うので、今日のお天気では仕方があるまいと、断念して下山することにした。
嘯き山公園には、忠魂碑と東屋と小波の句碑との、三つしか設備がなく、誠に荒涼たるものだが、その眺望の絶佳なことは、精進のパノラマにくらべて、彼は山容の美を味わい、これは湖畔の幽邃(ユウズイ)をうつす、優劣さだめがたき天下の絶景である。五湖めぐりの旅客たちは、三十分の時間を割いて、嘯き山へ登って見た」まえ、湖畔を一周すると同じ情趣を得られ、それ以上の大自然に抱擁される、興味を感ずるであろう。
序(ツイ)でに、船津の村役場へ希望するのは、東屋の附近へ展望客のために、腰かけ台を数個、備えつけて貰いたいと思う。
石鳥居の下の崖の中に、二尺四方ぐらいの小祠が二つある。天神様と誌してある。文化の神を祭るならば祠は一つでよいわけだが、祠が二つあるのは疑義を生ずる訳で、京郡から筑紫まで伝説を遺した菅公が、文化の神として日本全国に祭られているけれど、単に文化の神として祭るならば、祠は一つでよい訳である。祠が二つあるのは、天沸宮以外に、古來より土地の人が尊崇した神様を、合祀したのではあるまいか。菅公以前に古来より伝承された神様があって、そこへ天満天神を合祀したという解釈である。山を崇拝して農業を奨励した天神七代の中の、二柱の神を奉祉して居たのを、後に天満宮を合祀して天紳様といふ称号を継承したものとも考えられる。
嘯き山は付近の溶岩地層とは異なり、地質上から見ても第三期層の、古代より伝わったもので、この山が古代の先住民族要塞地帯であつたということも、考えられているのである。
雨がぽつりぽつりと降り出したので宿へ帰る。大屋旅館の二階の奥座敷、河口湖を見晴らした一番眺めのよい座敷だが、雨が土砂降りとなったので、窓をしめきって退屈していると、番頭の中村君が来て話し相手になってくれた。中村君は主人の弟土地の者だからいろいろ面白い郷土の話をしてくれた。大船津・小船津は二つにわかれていて、二つの部落のものは昔から気が合わない。大船津は八王字の氏子で、小船津は筒口神社氏子となっていて、氏神様まで違っている。その祭りがまた、たいしたもので、若い衆は甲冑を纏い両刀を手挟んで、御神輿を守護して練り歩く、近郷近在から見物に来る素晴らしいお祭りだ。

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明見村 村名の起原と伝説

下吉田から約二十町の山間に、富士八湖の一なる明見湖がある。周囲七八町の小湖で、三方は落葉松(カラマツ)の繁茂した子丘で包まれ、水面は半分以上蓮の葉で埋まっていて、花期は中々美しく遠方から見に来る人も多い。この湖水のまわりに水浅く泥が深く、中央は底の知れないほど深く涌水(ワキミズ)が多い。この湧水が底から砂を吐き出してまわりを深い泥沼としたのだから、水はきれいだが水泳は危険である。湖水の南北につらなる村を明見村という。
この村の名に面自い伝説がある。昔、富士山が一夜にできた時、附近の村の人はその朝はやく外へ出て見ると、大きな山があらわれたので、驚異の感にうたれ大さわぎをして、この村へも知らせに来た
「はんで見さつせへ(早く来て見なさい)はんではんで(急いで急いで)」
とふれあるいたが、この村の人たちは昨夜の大を音にもおどろかず、その不思議な山の出現を見ようともしないで、
「今日は寒いから明日見よう…」
と、家の中にひきこもって見に出る者がなかったので、富士の神様は大変なお腹立で、そんな怠け者ものには私の姿を見せることはできないと、村の南面へ屏風のような小さな山をこしらへて、この村からは富士山を眺める事ができないようにしてしまった。そして村の名は「あすみ」と呼ぶようになった。
<富士山出現の伝説>
富士山の出現には二つの伝説がある。孝霊天皇の御代に近江の湖水が陥没して、一夜に富士山が出来たといふ説と。昔し大邪猛者という巨人が近江の国から、富士山を背負子へのせて、かついで来たが、甲斐と駿河の国境で、背負子の綱が切れて、へたばってしまった。その時の両手の跡が河口湖と山中湖で、明見湖はお臍の下にあたる「しし」の跡だと云う。だから明見湖小さいけれど非常に深く、その底は竜宮城まで続いているので、ワキミズが豊富だというのであるが、地形上この湖水の背後の山岳地帯を越せば、忍野村山中湖付近の地底湖があると想像される。水量過多の地帯と接続しているから、その水が地下水となってここに湧出するものと考えられる。
<富士山の出現のつづき>
.地質学上富士山が出現したのは有史以前、十万年以上も経過しているのだそうだが、それが上古時代に富士山が出現したように考える思想は、万葉集・常陸風土記・三代実録・竹取物語等の文学に富士山は現れているけれど、古事記・目本書紀等の古典には富士山の記事が無いから、神代には富士山は無かったものとしての出現説で、実際は地上に人類が棲息する以前に噴出した富士山、人間が見るべきわかがなく、何れも架空の寓話と断定して差し支えないのである。
<大町桂月氏が明見湖に遊べる文中に、>
丘によれる小祠至りて樹陰に就けば、清風おづから至りて快甚し、殊に丘下より湧きいづる清泉を掬して渇を医せしに、思いの外に清冷なるに一層の快をおぼゆ、一同裸になって汗を拭いしに、あわててこの方をさして急ぎ来る二人の男あり、我等の前に来りて歩をとどむ。この方より湖水のことを問えば、色々説明しければ、「この湖は水浅くして泥非常に深し、泳ぐものあれば必ず溺死するという」
解(よ)めたり、我等が裸になるを見て、泳がむとするかと思い誤り忠告せんとて斯くもあわてて駆けつけしこと、口に出さねど、様子にてそれと知れる。さても田舎の人の命の大切さよ。
富士山麓にありながら、南方の小丘が邪魔になりて富士は見えず、明見は見んとの理想なるが、理想は到底現実と合わず、あはれや、人は空しく明日を夢見て死ぬるなり。明日を夢みて暮すとは面白い解釈である。
<「神皇記」>
富士古文書より訳出したという、「神皇記」の中に左の記事がある。
孝霊天皇の五十年庚申の四月、木花咲耶毘女命、白衣の美女とあらわれて霊夢に富士遥拝を思いたたせ給い、この地に行幸あらせられ、笠砂の埼より天つ大御前に遥拝ましまし、高燈大神宮において祭典式を行はせ給う。
偶々、地大いに震い、不二山の煙り、消え失せ、人心いと安からず、天皇を始め扈従の人々、かつ驚きかつ遥拝ましませしが、既に薄暮に及びぬれば、また明日見むものと、行在所(アンザイショ)に還幸ましましねぬ。これよりこの地方を「明見の里」というと記してある。
以上の諸説をもって明見の起源としているが、いずれもあまり付合いの説で肯定することはできない。

<家基都・蚕(カイコ)を祭る祝典>
元来この村は上古時代に「家基都」(カキツ)と称して居たが、家基都は延暦・貞観の大噴火の際に全滅して、その後年をへて荒野の中に、やや復興したのが明見であるから、明見という名称の起こりは、現在よりおよそ六百年位以前の事と考えられる。
この村に蚕(カイコ)を祭る祝典として、正月の寒いころに、繭玉祭りということをする。枝が八方に成っている形にして飾る。この祭典が始まると、村の若い衆が数人隊を組んで、中の二人はお神楽で見るような古代の装束をつけて、一人は尉の面をかぶり、一人は姥の面をかぶり、多の者は笛太鼓を鳴らして練りながら家々を訪問する。
大勢でどかどかと座敷へあがって来て、「繭玉を致しましょう」と尉は擂粉木(スリコギ)を持ち、姥は杓子を持ち、うやうやしく繭玉の前に三拝九拝して祝詞を唱える。やがて笛太鼓の拍子面白く、繭玉のまわりを躍り回る、興に応じて「鶴々亀々」と叫んで、擂粉木と杓子で繭玉を打ち落とし、みんなで拾ってこれを食べる。最後に擂粉木も杓子も放り出して、尉と姥が相撲をとり。ドタンバタンの大騒ぎをやらかして、二人は組んだままバッタリと倒れると、一同鶴亀々々--------万歳々々目出度い目出度いと囃し立ててこの祭典は終わる。
主人は何がしかの鳥目(チョウモク)を出し、酒などを勧めて労をねぎらうのである。若い衆はたちは打ち興じてまた次の家を訪間する。この原始的な祭典は「かいこの交合」を意味した野蛮なものであるが、その出典を尋ねる荘厳なる故事がある。これも「神皇紀」の記事に、
<「神皇紀」>
昔、国狭槌命、白清瀧比女命ご夫婦、この国を開きたまう時、龍の河原の大松の下の鶴夫婦と、奥の小池の亀夫婦を鍾愛したまい、常に手に持てる杓にて食を投げ与え楽しまれた。ある日、食を与えていると、「都留」(ツル)・家明(カメ)と高くさけんで、互によろこび競いて食し、一食ごとに声いよいよ高く連呼しつつ食せし故、二柱益々興じ喜び、そのあまりの喜ばしさに杓をなげつけ、萬佐々々々々と三唱した。
鶴は舞って松上に止まり「都留」と鳴き、亀は這って池中に入り「家明」と叫んだ。尊はこれこそ「子孫繁盛」の前兆なりと、すなわち投げし杓を取り来り、おし頂きて詔(ノ)りたまわく、「わが子孫は必ずこの杓を身に添え所持せん」と堅く伝えしめた。鶴のとまりところを「都」と名づけ、亀のとまる所を「家」(カ)と名つけたまう。後の世にその地を「家基都」(かきつ)と称した。
<再び家基都>
その後・「家基都」は富士北麓唯一の都となって.永く栄えたが、日本武尊御東征のみぎり、皇軍に抵抗した賊軍の隠れた場所で、史上で有名な「草薙の剣」草を薙ぎ払い、賊を焼き払った古蹟が此処で、現在もなおその所を「焼橋」称している(昭和18年以前)
<秦の徐福>
秦の徐福が富士北麓に移住したというのもこの土地で、徐福の子孫が「秦氏」と称したそうだが、現在(イマ)もなお、この村にに「羽田」という姓が残っている。徐福は農業工業の技術をこの地に普及したので、後の世まで明見は美田に恵まれ、良い米が採れ、この地で織られた甲斐絹は郡内一の良質で丈夫である。
<「家基都」・「加吉」>
徐幅の末裔の福信というのが.日本武尊に反逆した賊魁のように「神皇紀」には記してある。 尊は家基郡を「やきつ」と読ませるようにしたと、古事記にしるしてあるが、里人も「やきつ」というのを嫌って文字を「加吉」(カキツ)とあらためて、やはり「かきつ」と発音する事とした。
これより七百年の後、延暦の噴火に全村熔岩の下に没して、全滅し、わづかに逃げのびた者は山間の僻隅に、かすかな煙りを立てゝ居たのである。
村の口碑によると、昔、この村へ「あるやんことなき尊い御方」が参られて、里人に富士山はいづれにあるかとたづねられた。その日は霧の深かつた日で、しかも夕暮であつたから、里人の指さす、彼方には、富士山は雲にとざされて見えなかつたから、「しからば明日見よう」と云はれたので、それから村の名を「あすみ」と称えた。と言い伝えて居る。
この地は神代からつづいた古い家基都の町だったのが、家基都が「やきつ」と呼ばれるのを嫌って「加吉」とあらためた。その加吉が延暦十九年の噴火に全滅して、その後貞観等の災禍に遇っている。貞観六年は紀元千五百廿五年で、現在より千〇七十余年以前であるが、貞観以後に執筆された古文書の「富士山噴火年代記」等には、「家基都」・「加吉」等の文字が使用されているから、その後にかすかに復興した村も、やはり暫くは、「加吉」と云って居たので、明見の名は現在より凡そ六百年以前に、創(ハジ)まるものと肯定されるのである。
語源上から考えても、この土地の人達は関東地方のあらい言葉で「あした見べい」とは云うが、「あす見よう」などとやさしい言葉は使わぬ。尊いお方は西国の都より来られた御方であられる事は、発音から考察しても明らかである。
<明見村からは富士山が見える?>
この土地の人が作った名なら「あした見村」とでもつけるべき所だが、このやさしい「あす見村」といふ名称の中に、尊い御姿が拝される心知がするのである。この村から富士山が見えぬなど云ふことはうそで、山間の小原・向原等の部落からは富士山は見えないが、湖水の南北に連なる大明見・小明見からは、何処からでも富士山は見えるので、天気がよくさえあれば、明日見る必要はないのであるから、村人がかような名称をつける理由はないのである。さすれぱ村名の起りは、尊い御方の御言葉から出たといふ伝説が実説であると断定してよい事となるのである。
この伝説に残る尊い御方は、如何なる御方におわせらるゝか、深く秘されて何の記録も見あたらず、はっきりした事は申されないが、
----君がため命かひにぞわれはゆく。鶴のこほりに千代をふるなり----
という壬生(ミブ)の忠岑の古歌と関係が」あるのではなかろうか。
<「富士古文書」>
時代は違うが「富士古文書」に、長慶天皇の御紀事が記されて、その中に左の数首が載せられてある。
朕、不二谷に遺し置とて
----玉川や飯盛山に身をかくし忍びまはりし不二の谷そこ----
----身をしづめ都々谷々の遊心はむかしも同じ都なるらん----
----山ふかき都留の郡の大瀧のひゞきは谷の松の尾のうへ----
と、尊き御方の御製が残されて居る。

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