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安易な世界遺産登録は富士山の崩壊を早める

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「高山へも登ったことがあるが、人の通る路で、こんな路って、あるはずがない」
私は日の頃を見た。松の梢の一ところにさしている日光は、赤く乱れて、まさしく夕日になっていた。ひるがえして反対のほうを見ると、赤松の幹の立ち並んでいる薄暗いところを通して、やや遠く、谷としては想像にもあまるような谷を越したあなたに、目と水平をなして富士の頂上近い一部が見えて、一つの赤い岩となって夕日に光っていた。
私は始めて、今いる所と時とを知ることができた。張りつめた心から私たちは、長い時のたったのも心づかずにいた。そしてこの路を行けば、間もなくあの山へ出られるものと思っていた。何というばかばかしいことだと思った。とにかく引返すよりほかはないと思って、谷君を呼ぼうとした。先へ立って登って行った谷君は、見上げるような急な山腹の薄暗い松の下を、白い洋服を着た細い姿をほとんど四つ這いにして、一心に攀じ登っている所であった。その後姿が、その時には不思議なたものに感じられた。谷君よりも先へ立った山案内の姿は、どこへ行ってしまったのか、見えなかった。
私は谷君を呼びもどした。路をまちがえているらしい、引返そうというと、谷君は時計を見てすぐ応じた。時間は六時になっていた。山案内の見えなくなっているのに、谷君は始めて気がついた。ことわって下りようと高声で呼んだが、その声は凝り固まったような静寂のなかへ吸いこまれていって、返事は聞えなかった。手を拍くと、その音は奇怪な音になって高く響いた。下りに向って、その山のいかに峻しいものであるかに、今さらのように驚いた。足をかける足場のない所があった。体を横にしてすべり下りる所があった。駈け下りて倒れようとして、青萱に取りすがって、手を切った所があった。ようやく松林の下を抜けて、小楢と青萱の赤土山へ出た。
ひょっくりと山案内が現われた。青黒い顔は今は青くなって、冷淡であった目はとり逆上(のぼ)せたような表情をもっていた。額からは、汗がたらたらと流れていた。
「路をすっかり間違えてしまいました。あの上へ行くと、なくなってしまっていました。これを真っすぐに下ると船津へ出られます。お供をするといいんですが、そうすると私が帰れなくなりますで」
谷君は銭入から、いくらかの銀貨をつまみ出してやった。「有難うございます」山案内は、掌の上の銀貨を気の毒そうに眺めていたが、お辞儀を続けざまにすると、路を横に切れて、高く繁った青萱を掻きわけて姿を隠してしまった。
案内を怒る心も、愚痴をいう心も起らなかった。小御門で一ぱいになっていた私たちの心は今、船津で一ぱいにされて来た。あの船津まで、一度通った河口湖のそばの町まで、どれほどの道のりがあることだろう。どれだけ遠くても、今はどうでもそこへ行くよりほかは仕方がない。
赤土山を出離れると、私たちの前へは、新しい光最が展けて来た。それは、ふり返ると富士の頂きを左に見あげる山腹であった。萩、萱などのなかにまれに小松をまじえている草原は、きわめてゆるやかな傾斜をもってひろがっていた。遠く、円を描いて続いている山脈が見えて、それが眼下になっているところから推すと、この傾斜はただちにその山脈に接しているものに思われた。仰いで見ては、それほどには思わなかった富士の裾は、いま高い所から見下すと、そのいかに広いものであるかに驚かずにはいられなかった。この傾斜を下りつくしたところに船津はある。が、ここに立ってその町を思うと、ちょうど大海が中の小島のような気がする。ちょっと方角を取り違えても、飛んだ所へ、どんな人里遠い所へ行ってしまうかも知れない。目の前の細路が、私たちには尊いものに見えた。草原のなかに、ようやく認められるほどについている路は、目の前だけはそれとわかるが、少し離れた所は、なびき合う草に隠れて見えなくなっていた。
私たちはおし黙って、ひたいそぎに路をいそいだ。進むに従って少しずつ現われて来る細路を見詰めて歩いているだけで、何も見ようともしなかった。細路の両側の青草の上に、夕日炉金色にかがやいて、こまかく砕けるのが見えた。たちまちそれが消えて、草は青みを失って黒ずんできた。細路は、両側がおぼろになって来ると共に、一層細くなって来た。煙のようなものが目の前をかすめた。それかあとからあとからと続いた。私は歩きながらも眼を挙げて、あたりを見回した。空は輝きを失って高く広くなっていた。歩いている山腹の傾斜は、今は薄闇につつまれて、低く落ち入って来ていた。ふり返って見ると、富士の頂きは今は青黒く変って、そしていちじるしく近くなって来て、頭の上へ迫って来ているように見えた。それは昼の光で見た沈静と繊細を失って、測りがたい力を蔵した怪異なものに見えた。その肩には、いつの間にか白雲が湧いて、ほの白く長くなびいていた。おりおり目の前をかすめた煙のようなものは雲で、それは暗い空のもとを目に見えるほどの速力をもって、麓のほうから頂きへ向って走っているのだったと知った。私たちは、あらんかぎりの速度で歩き続けた。すこしの変化も現われない草原と、前方の山脈とは。同じところに動いているだけのような感を起させた。「どちらだろう?」と、先べ立って歩いていた谷君は、突然にそう唆いて立ちどまった。今はきわめておぼろになった路が、二つにわかれていた。そのどちらに行くべきかもわからないほどに似た路である。問違えば飛んだことになるというおそれは、黙っている二人の胸を圧した。
「こちらのほうが広そうじゃないか」
「そうらしいね」
私たちは、一方の路へ入った。いくらも進まない時であった。谷君は立ちどまってしまった。路の両側の草がにわかに高くなって来て、路は見えなくなってしまったのである。
「問違ったようだ、引返そう」
私たちは、もと来た路を引返そうとした。するとその路は、今が今まで歩いていたその路は、ちょうど消したようになくなってしまって、私たちの目には闇の底につめたく乱れあっている一面の高草が見えるばかりであった。
「マッチ貸したまえ」
私は谷君に、煙草のためのマツチを渡した。谷君のすり出す火は、小さく燃えてすぐに消えた。すりすりしつつ、しだいに遠ざかってゆく洋服の白い色は闇に溶け、おぼろになった。両方で動いては駄目だ。そう思いながらも、私はもどかしい気がして、今消えてなくなろうとする谷君の姿を、闇を透かして見まもっていた。大事な場合だと思った。そう思うと共に、こういう場合には、落ちつくよりほかは仕方がないということが本能的に思われて来た。
「おうい」
と私は谷君を呼んで、
「一と休みしよう」
といって、草の上へ坐りこんでしまった。当てなくこの山の中を歩きまわるくらいなら、野宿をしたほうが安全だ。路がわからなかったら野宿ときめよう。そう思って私は空を見上げた。空にはいつの問にか黒雲が一ぱいにはびこって来ていた。今にも雨になりそうに見えた。しいている草は、もう夜露に濡れていて、湿気が肌にとおって来た。何という虫か、羽のあるらしい虫がいて、顔にさわり手にさわりした。谷君は引返して来た。
「どうにもわからない。わからないはずはないと思うんだがねえ」
「いっそ一晩ここで明かすのはどうだろう」
「駄目さ、凍えてしまう。正午から飲まず食わずだろう。第一着ているものは汗でぐっしょりだ。」
そういわれると、野宿をしようと思った時の気の張りはにわかにぬけてしまって、じっとしてはいられない場所に見えてきた。
「沢を伝って下りてみよう、きっと路へ出られるから」
ほとんど本能的にそういうことが胸に浮かんだ。浮かぶままを私は口にした。私の心は、その言葉を追っかけていった。
「山路ってものは非常に合理的についていて、一歩だって損のないようになっている。だから、雨水の流れる沢を下って行きゃ、きっと路といっしょになる」
心持ちの言わせるままを言っているうちに、私はそのことに対して確信が持てて来た。黙って聞いていた谷君は、どういうわけか賛成した。足で草を分け分け、進んでゆくと、雨水のたまって流れた跡と見える浅い窪みが草の下にあった。それを見失わないようにと、私たちはその窪みへ入って伝っており始めた。窪みは不意に落ち入って、腰ほどの深さになった。野茨(のいばら)にさえぎられ、進めなくなった。
ただ離れまいとする一心から、私たちは、無理にもそこを伝って下った。
「路がある!」
二人は一しょに言った。沢は尽きて、低い草原の上に、ほのかに路が見えて来た直それは、岐れない前の路の続きだということが、疑いなく信じられた。私たちはその路を急いだ。炉は小さな丘の裾に出た。前のほうにも丘が見えた。
「あ、荷車の音がする」
谷君は立ちどまって、驚いたように言った。その調子は、消えてゆく音を追っている心を伝えていた。谷君に聞えたというその音は、私には聞えなかった。こんな所を、今頃誰が荷車などひいていよう。ひいていたにしても何で遠くまで聞えるような音が立とう。
「幻覚だよ」
「そうかしら」
私たちはまた、おし黙って歩きつづけた。丘を越そうとして、その頂きへ登った時であった。二人の目はいっしょに一つの灯かげを認めた。それは、前方に真っ黒く横たわっている山脈の中腹にあたってであった。
「灯!」
そう言って二人は、そこに立ちどまった。言いようもないまでに懐かしい灯は、美しく、まばたきをしていた。丘を下りると、灯は見えなくなった。が、目にはその灯が染みついて、そして二つにふえ、三つにふえて見えていた。
「今夜のことを思うと、これからどんな苦労にでも堪えられるね」
谷君は、歩みをゆるみながら初めてものを言い出した。
「こういう経験もいいにするんだね。あ、虫が鳴いている」
路に沿った草むらの中に、奥のほうに、虫は澄んだ寂しい音を立てていた。今までも鳴いていたらしいが、私の耳は初めてそれを聞いたのであった。私は渇きを感じてきた。感じるといっしょに、それは堪えがたいまでのものとなって来たか、そのへんに水のないのは地勢からもわかっていた}目をさえぎって立っている闇を、押しわけるようにして歩きながら、私の心はただ咽喉の渇きだけになっていた。にわかに水の音が聞えた。それは路ばたの闇の底からで、清らかな水が小石に触れて立てる時の涼しい音であった。
「水があった」
私は不思議がりながら、音のするほうへ寄って行ってかかんだ。そこには乾いた大きな石が転がっているのみであった。手でさぐると、太陽の熱のほとぼりの残った石が続いているばかりであった。そして水音はなくなっていた。
諦めて、こらえて、しばらく歩いた後であった。私の耳にはまた水の音が聞えた。幻覚ではないかと疑いながらも、ともすると本当の水があるのかも知れないと思った。音のするほうへ寄ってゆくと、その音は消えてしまっていた。
ふと、歩いている目の前の闇に、空に見る銀河の一片のようなものが現われた。見ていると、それはこまかく揺れて、滝の水になってきた。私は自身で生む幻覚に翻弄されているのを思った。渇きは、しいて諦めようとすると、今度はその代りに深い疲れが起ってきて、ちょうど背後から強い力で抱きすくめられるように感じた。私は路ばたの草の上へ腰を下してしまった。
「お腹でも痛い?」谷君は小戻りして来て、心配そうに訊いた。
「疲れて動けない」
「いそがないと宿が取れなくなるよ」
私は起ち上って動き出した。心は目の前の暗いように暗かった。私は重い、一かたまりの物となっていた。
「しっかりし給え、船津が見える!」
谷君はうれしいように、私を励ますように言った。いかにも、たくさんの灯影が、真夜中の空の下にむらがって美しくともっていた。一心に思いつめて来た船津であるが、幸いにもこられた船津ではあるが、私の渇きと疲れとは、間近に見えるその灯影を眺めるばかりで、その時はもうその事を喜ぶだけの力もなかった。(大正6年)


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