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安易な世界遺産登録は富士山の崩壊を早める

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「富士五湖めぐり」窪田空穂
三、 富士山の山腹

富士山麓での古駅だという鳴沢へ着いた時は、正午だった。そこは桑畑と麻畑にかこまれた小さな部落で、どの家も家中を蚕棚にしていた。私たちは、ここから富士登山をしょうとしていた。本来は、もう一度船津へ帰って、山中湖を見なから籠坂峠を越えるのであったが、今日途中での出来心で、鳴沢からも登れるというその登り口を取って、登山しようということになったのであった。
本栖から、私たちの乗った馬を曳いて来た馬子の一人は、私たちをそこの飲食店へみちびくと、「私が案内者をさがして来てあげましょう」と言って、出かけて行った。土地では名誉職をつとめているといって、髭を大くわえているその馬子は、好意でしてくれるうちにも、どこか自分の顔でといったような所もあった。
今朝精進の宿から渡されて、腰につけて来た握飯を食べてしまっても、馬子は帰ってこなかった。私たちの握飯を食べているのを、物珍らしそうに見ていた子供たちの散ったあとで、このへんの子供は、米の飯というと珍らしいものにしていると、飲食店の老人の話して聞かせる話を聞いてしまっても、まだ馬子は帰ってこなかった。
「弱りましたよ」と、ようやく帰って来た馬子は、私たちを見ると一しょに言って、困ったという顔をして見せた。どこの家も蚕でいそがしくて、案内をしようというものがない。ようよう一人さがし出したが、……蚕もなく遊んでいるものだが、これは賃銭しだいならしてもいいということで、一円くれといっているというのであった。それを言って馬子は、飲食店の老人の顔を見て、
「小御門までだと、ゆっくり行っても三時にゃ着きますからねえ、……」といって、いかにも法外な請求だということを、その様子で見せた。老人はうなずいて、私たちのほうを気の毒そうに見て、
「小御門ってあすこですからねえ」と、耀く空をへだてて聳えている富士の一ところを指さした。
「初めてだとちょっと何ですが、見当をつけて、見通しに行っても行ける所です」高いからといってことわるわけにもゆかない。しかし足もとを見てむさぼられるというのも快くはない。どうしようと思っていると、谷君は、
「頼もう、連れて来たまえ」と、きっぱりした調子で言った。
馬子か引返してゆくと、そこまで来て待っていたように、すぐに一入の男を連れて来た。五十袷好の、丈のひょろ長い男で、もうそのつもりだと見えて、空脛に脚絆をあてて草軽をはいて、笠をかぶっていた。その様子は、絵に描いてある昔の飛脚に似ていた。顔を見ると青黒い、栄養のわるそうな色をして、冷淡な、面白いことは一つもないといったような、そういうことも思わなくなってしまったといったような目をしていた。その山案内は、私たちの前へ立って知らん顔をしていた。名誉職の馬子の取りなし顔に、
「では一円ということに----」といって紹介した。山案内は、それにも何もいわずに歩き出した。
馬子と飲食店の老人とに挨拶をし、鳴沢をうしろにして、私たちは山案内のあとを追った。三時には遅くも着くという三合目の小御門神社が心の全体となって、一歩一歩、一瞬々々ば、きわやかに過去となっていった。
桑畑が尽きて、粟と唐黍の畑が現われた。それが尽きると、植林になった。それが尽きると、富士の山腹のある都分が目の前に現われた。ゆるやかな傾斜は、きわめて僅かな木立と、一面の青萱と紫の花を持った擬宝珠(ぎぼし)とを持って、日にきらめきながら、遠く、広くひろがっていた。空には雲もなく、富士がその頂上を赤く、ぎらぎらと光らせているばかりであった。そこには何の物音もなかった。
山案内は、黙って大跨に歩いて行った。そこにはもう路もなかった。私たちは傘を杖として、足をすくわれそうな高い草の中を、思いがけなく現われるかなり深い崖を、高い崖を、おくれまいとしてついて歩いた。脚もとのあぶなさは、側目(わきめ)をする事も許さなかった。一あし二あしに心をとられなから、時折、「三時には」と思った。そう思い出した頃には、私たちはもうかなりの時間を歩いたような気がした。
目をあげると、山案内は私たちからすこし離れた所に立ちどまりて、この山の中で初めて見かけた、薪を背負った男と、立って物をいっているのが見えた。私たちがそばに行った時には、薪を背負った男は顔を私たちのほうに向けた。それは髭と芥で真っ黒になった顔の中に、目だけがぎょろぎょろ光っている男であった。「駄目だよ、お前」と、その男は山案内の方へ向いて言った。
「俺あこの山の中に何年もくらしてるが、そんな路あ知らねえよ。お前ここを行きあ、裏山へ出ちまわあ、今夜じゅうにやあ小屋へ着けねえなあ。お前のいう路あ、ずっとあっちだ」
そう言って、その男の指さすのははるかに下のほうで、それによると山案内は、左へ取るべき方角を右へと取ったわけである。私たちにはどちらが本当であるかがわからなかった。が、さし当っては、山案内を信じるよりほかはなかった。山案内はと見ると、黙って立っている。薪を背負った男は、その目を一層光らせて、黙って、歩いて行ってしまった。
「へん、そんなはずがあるものか」
山案内は、冷たい調子で独りごとをいった。しかしすぐには歩こうともせずに、立ちどまったままであちこちと見回した。そこで見ると、私たちがこの山腹へ歩み入ったへんは、はるか下のほうで、今はかなり高いところに来ているらしく、眼に入る山腹は、その遠さと広さとをいちじるしく加えて来ていた。そして私たちの向って行こうとするほうには、常磐木に蔽われた暗い山が現われていて、それにさえぎられてか、富士の頂上は見えなくなっていた。時計を見ると、もう二時になっていた。
不安が胸をかすめて過ぎた。今まで山案内を信じていたあいだは、私たちの歩いているところは、時の上で三時のくることの確かなように、三合目へ向ってゆく一番近い路になっていた。今、山案内を疑い出して来ると、山腹はそのあてにならなく、あぶないことは、大海のように思われて来た。
「大丈夫かい?お前、よく知ってるのかい?」谷君が鋭い調子で訊くと、山案内人は、冷淡な目をすこしまごまごさせた。
「二度行った事があるんですから。大分前ですが」
そういうといっしょに、山案内は方角を下の方へ取って、薪を背負った男の教えた方へと歩き出した。傾斜を下る足は自然と走り出した。青萱は踏み入るにしたがって、きらめきながらなびいた。
眼下に、あまり遠くは見えないところに、赤土の崖が見えていた。そこまで着くには、小走りに大分のあいだを走り続けた後だったので、広いところで見る視覚のあやまりやすいのを思った。崖のところへ来ると山案内は、「路へ出た。これだ!」と、安心と誇りを帯びた調子で言った。その路は、常磐木で黒くなっている山に向うものであった。細い.僅かに人の通るくらいのもので、雨に壊され、青草に隠されて、ようやく見出されるほどのものであった。鳴沢道は、今は廃道になってしまって、わかりにくくなっていると聞いた、その道がこれなのだ。
「随分まわり道をしたらしいね」
あいつ、よく知らないんだ。きょときょとしていやがる。初めっから厭な奴だと思った」
安心すると共に、私たちはそんなことを言った。そして、この厭な山案内と別れられるのも、時間の上から思って、もうじきだと思った。
小楢と青萱との繁った赤土の山を、かなり峻しい傾斜をもって道は続いていた。今に眼界が一変するだろう。そう思って私たちは喘ぎ喘ぎ、すたすたと登って行く山案内の後姿を見ながら登って行った。
小楢と青萱は尽きて、路はにわかに松林の下へ出た、それと共に路は消えてしまって、私たちの前には、ほとんど崖のような唆しい傾斜をもった山腹があるのみとなった。が、雨水の流れ落ちるまにまに掘れた細い溝があって、松のあらわれている根にすがれば、登って登れないことはなかった。いますこしのわけだ。そう思うと、私たちは登れないところも登る勇気が出て来た。
いつか私たちは、目の前の崖を登るだけに心を取られてしまって、何も思わないものになっていた。全身を汗にして、呼吸の困難なのを堪えて、取りすがるべきものだけをせわしく目で捜していた。
草鞋の朽ちたのが、目の前の赤土の中に半分埋まっているのを見た。私は思いがけない物を見かけたような気がした。見回すとそこには、白木を取った跡と見えて、手斧屑(ちょうなくず)が白々と散らばっていた。
そこを通り過ぎようとする時であった。私はすぐそばの四五間ばかりも離れている所から、誰か叱りつけるような声を立てたのを聞いた。驚いてそのほうを見た。そこには何もいなかった。幻覚だったのかと気がついた。しかしその声が二声であったのと、そして今初めて聞くものではなく、親しみのあるものであったことがはっきりとわかった。鋭い寒さが背を走った。私は動けなくなって立ちどまってしまった。
「これは杣道だ」
と、私は確信をもって心でいった。


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