富士山チャンネル

安易な世界遺産登録は富士山の崩壊を早める

富士山をめぐる著書

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

「隔掻録」

<登山口>
北口を吉田と云い、南口を須山口、須走口と云い(この二口駿東郡)村山口、大宮口(富士郡)と云ふ。五口各々村名を以て呼ぶ也。須走口は山上八合目に至りて吉田口と合す。故に山上には南北二口なるのみ、南を表とし、北を裏とすれども、昔より北口を登る者多し、殊に身録派の行者、不便の国といえども北口に来り、身録が先蹝(じゅう)を追う也。
駿州の大宮司も例祭には、北口を登る事を例とする。
<富士の山名主>
富士山足に大石と云える村あり、都留郡なり、其村に弥一右ヱ門と云える者有り、今川家より免許せられたる富士の山名主にて、今川代々の文書数通今に持伝え、山上のこと一切管領せざる事無し。大宮司この家に投宿し、此者を嚮道として登山すること亦恒例なりと云う。
<山開き>
毎年六月朔日を山開きとし(註・以下すべて旧暦なり)七月廿七日を山仕舞いとすれども、強いてする者は三月下旬に二合目まで登り、九月上旬にも五合目迄登る也。
<御山を裂く・風を招く>
行者は南に登りて北に降り、北に登りて南に降るを御山を裂くと称し、扇を持って登るを風を招くと称して両つ乍ら忌む事なり。

<師職の家・役銭>
師職の家は吉田・川口(この間大湖を隔て隣村に非ず)両村に在り、詣人こゝに投宿し山役銭百二十二文を出し祓を修せしむ。(この役銭古へは二百四十四文にて、武田家へ上納せしこと領主小山田信義永録年中古文書に見え、後元亀年中半分に免ぜられ、百二十二文づつ領主へ納めしところ、元禄の頃に至り師職相続の為すべて師職に下し置かれたり。
不浄祓の料三十二文(師職の得分也)
二合目「役の行老」賓銭十二文(六文は別当の得分、六文は師職の得分)
金剛杖の料八文(山上にて発る者有り)
五合目二十二文(十六文は休息料、他は吉田師職得分)
九合目鳥居御橋十四文(この地は駿州の持分にして役銭は吉田の得分也)
頂上薬師ケ嶽二十文(十四文は駿州大宮司、六分は吉田得分)
惣計百二十二文(この役銭昔しは山上処々にて出せしを、今は師職共一度に受取置き後に清算して配当すと也。詣人の煩を省ぐ為なるべし)
<御師の数>
川口頼みの御師ある者も役銭は吉田に納めると也(吉田御師は八十六人、川口御師は不明、吉田入口に詣人の改所あり、この処武田家の頃新銭、悪銭並詣人々数改めの為、領主より奉行を置きし事、永禄二年小山田の古文書に見ゆ)今は只詣人の改のみ也。
強力を傭い(傭銭四百文位)行厨、寒衣、草鞋等を持たしめ、
馬を買い(行程三里、駄賃二百文位)
かご竹与(かご)を貸し(賃銭四百文位)先ず吉田村仙元に詣でる。

開く トラックバック(12)

河口湖情話(その2)

<嫁は親が決める>

幸右衛門もわるい遊びをしないうち、にと縁談がもち上がりその暮れの吉日をえらんで式を挙げることにまとまってしまった。嫁は伜がもらうのではなく、親がもらい与える時代で、親同志さえよければ、結婚の柏手の意志などどうでもよかったのである。

「幸右衛門、おらは言わんともわかっとる。おまえの嫁御が決まったんやな」

どうするてだてもない動揺を、これでもかこれでもかと幸右衛門にいどみ、いたぶることで、いっときでも忘れようとするみよは、精魂つきて眠りかける幸右衛門のからだをゆさぶっては肉迫した。ようやく東の空が白みはじめるころ、やっと平静をとりもどしたみよは、目頃のはげしさに似合わず肩をゆすって泣いたりもしてみせた。

「今日こそ両親に打明けてゆるしを乞うてみる」

幸右衛門は暁の空にのこる星盾をみつめて心に固く言いきかせるようにつぶやいた。

「おらはおまえに捨てられたら死んでやる」

みよははげしい嵐の吹き去ったあと、ヒソヤリする静寂の大気に、まだべっとりとひたいから首すじに汗で吸いついている乱れ髪をかきあげながら、一途のこころをそのままの口調にうつした。

「どうしても駄目ならドラをブツ」

「それでは義理がたくいまもつけとどけをしてくださるお前さんのご両親の顔をつぶしてしまう」

「ともかくおらが説得してみる。明日の晩はきっといいはなしをもってくる」

幸右衛門は、この一年間両親の目を盗んで、毎夜のようにみよと不純の逢引をかさねていることが、うしろめたく容易に打明けられなかったが、今夜の決心が崩れたいうちに打明けようと、急に、笹舟の方へ突っ走った。「

あまりご両親にさからうでねえど」

<タライ舟>

あくる日、ありのままのことを打明けた幸右衛門は、思いがけない両親のいかりにふれて、沈黙させられてしまった。助けられた恩は恩として返しているが、二つも歳上でしかも馬方稼業の娘とは、世間体を考えてもゆるせない、というきわめて常識的の反対であったのだ。説得のつぎは反抗、おどしと、あらゆる手段で両親のゆるしを得ようとした幸右衛門もついには万策つきてしまった。そればかりではない。こんやからは、両親の寝室近くに寝かされて、夜間の外出は一歩もまかりたらぬということになってしまった。

「あんなうまいことを言って、幸右衛門もとうとうこなくなってしもうた」

みよは、孤影しょう然と、魚見岩の上に立って待ちつづけた。かたや幸右衛門はとりつく島のない両親の見張る寝室でこれ又、眠れぬ夜夜を悶々とすごすうち、病人のようにげっそりと類の肉をおどし、三度の食事すら一度もはしをとらなくなってしまった。みよは、五目、六日と魚見岩で夜更けまで火を焚きつづげて、逢引の合図を絶やさずに待ちりづけた。達者のみよの方もそのふくよかな頬がひどくやつれてしまった。幸右衛門が来そうもないという予感がつよくなると、これまで幸右衛門を慕っていた恋情は、じぶんを見捨てた恨みにかわっていった。

みよはついに心を決すると幸右衛門の家へこちらから忍んでいき、もう一度幸右衛門のほんとうの心をしりたかった。あとはもうどうなれその先のことまでは心のうちにはなかった。みよがタライ舟にうちのり、勝山村へ漕ぎ渡ろうとした晩は、妙に宵の口から湖水が不気味に静まりかえっていた。

みよは、タライ舟にのると、目印に、松ヤニの油をともし火に、一本杓子のかいを便ってこぎ出した。この頃のようにすべりのよいボートなら、魚見岩から勝山の沖までは十二、三分だが、うごきのにぶいタライ舟では十七、八分もかかったろう。恋に身を焼くみよが、タライ舟をこぎ出すころになると、一天にわかにかきくもり、湖上が急に波立ってきたが、みよはそんな天侯変異にまったく気づかたかった。そろそろ九月初旬ともなると、突風、つむじ風、台風のおそう季節だ。特に富士山麓の天侯は猫の目のようにはげしくかわる。

「こんやはまたやげに風がつよくて波がさわぐのう。おみよのやつまた惚れた男と逢引か、やれやれわしに似てこん(根気)のいいことよ」 

馬方稼業のみよの父っさんは、昼問のつかれと酒の勢いで雷のようないびきをかいて土間で寝こんでいたが、雨戸を吹き倒し「ザー」と吹っこんできた、雨のいきおいで目をさましたが、起きて戸をたてたおすと、ワラウジの床へはいこんで、すぐ又いびきをかきはじめた。それから五日、みよは家にはもどらなかったが、みよの両親はさして気にもかけなかった。馬方人足の方が、こどもの自由とセックスに対してはもの分かりがよい。かりにみよの姿が三日や四日みえなくても、きりょうよしのみよにむらがる若い衆と、惚れたはれたのイザコザはあってもけっこうそれで青春をたのしんでいるだろうぐらいに考えていたのだ。年頃がきても、貧しくて目下のところは嫁にもやれたい、みよが、男の欲しい女盛りをもてあまして夜毎なにをしていようと、両親は口をつぐんでいなげれば、気性のはげしいみよにやりこめられることもある。

「父さん、たった一目だけだとおそかった幸右衛門いうから、番頭にそれとなく見張らせておくあいだ、幸右衛門を、みよに会わせてやっておくんなさいました。さもないことにはあの子は狂い死にしてしまいますよ」

七日も八日もめし一粒たべず、ほとんど眠る問とても

「みよちゃん、みよちゃん〜」

とうわごとのようによびつづける幸右衛門の恋情にまけて、母は夫の庄兵衛を口説くことになった。

「そうか、音から恋の病いで狂い死にしたもの、首くくりといずれも恋の病いはろくなけっかを生まぬ。一週間ものまず食わずでは死んでしまう。ゆるしたくないことだが、もう一度逢った上で思いきってくるというならゆるさぬでもない。まず先に番頭を見張に岩かげにかくしておきなされ」

厳格の庄兵衛も、伜の恋の病いがこうじてとんだことになってはと、ついに条件つきで逢引をゆるしてやった。

「さあ、一度だけという条件でゆるしがでましたよ」

母からみよとの逢引をゆるされたときくや、幸右衛門は、ふとんをけってはねおき、さっそく空きっ腹へ飯をかっこんだ。夕ぐれを待ちかねて笹舟をこぎ出した幸右衛門は、いつも火をともして魚見岩の位置をしらせてくれる、みよのともし火が、こんやにかぎってみえない不安にかられながら浜へ舟をのりつけた。岩かげでは番頭が先まわりして成行きを見守っている。

「みよちゃん、みよちゃんや〜」

と叫んだが、恋しい、みよの返事はなく、むなしい秋風が波さわぐだげであった。翌晩もまた翌晩も、魚見岩へ通った幸右衛門は、ついに、みよをふたたび見ることはできたかった。

現在いうところの「留守か岩」は、通いつめた大石の魚見岩に、いとしいみよの姿がなかったことから「いつも留守」といった意味合いから名づけられたものである。

「甲斐国志」には、富士山の大噴火で大石がゴロゴ回していたので「大石村」と名づけられたとある。留守か岩はその代表的の一つである。みよがなたくなって八日目、いくらのん死体浮く気の家風でも、みよの両親は心配になってきた。

「おらがのみよをみかげねえかよ」

村々の若い衆をたずねまわる両親の耳に、このときとんだ不吉のニュースがつたわった。

「てえへんだ。おめえのとこの、焼判りおしてあるタレー(タライ)が、鵜の島の浜へ流れついているということだぞ。もしやみよちゃんはタライ舟にのって、あの大嵐の夜流されて溺れ死んだんじゃねえけ」

近所の漁夫のしらせをうけたみよの両親は、さすがに血相かえてみよの姿をさがしもとめていると、

「お〜い、みよちゃんの死体が浮いているとよ〜」

夫婦で笹舟をこいで湖上を探しまわっている耳に、魚を釣っていた漁夫たちの叫びがきこえてきた。けっきょく、みよはわずか十五分かそこいらで着くはずの勝山村の浜の間で、急に崩れ出した台風も、宵の空から吹きつける豪雨と突風にあおられて、まず「ともしび」を消された。ついで対岸の見当を失い、鵜の島の方向へつよい風で流されていくうちに、大波をくらってタライ舟がひっくりかえって湖上へ投げ出されてしまったのだ。

みよの死をきいて幸右衛門があとを追ったのは、まもなくのことだ。口伝では、みよが人魚となって、幸右衛門と逢引きしていたのが「留守か岩」とも言う。

<泉昌彦先生著書「伝説怪談」より>

河口湖情話「留守が岩の悲恋伝説」(泉雅彦著作集「伝説と怪談」より)



嵐に消えたともしび



「この留守か岩は、むかしから若い男女が逢引するところじゃったんや」

初冬の陽射しをからだいっぱいにうけた老漁夫は、ワカサギ捕りの地曳き網をつくろいながら、大石湖畔(河口湖」北岸)の留守か岩におこった河口湖情話をひとくさり語りとつとつきかせてくれた。

訥々(つかえつかえ)としたはなしっぷりは、まことに味もそっけもない荒すじにすぎななかった、が、むかしながらのひたびた湖畔に腰をおろし、ゆるやかなさざ波に洗われている留守か岩の黒い肌をみていると、昔から語りつがれてきた大石村の「みよ」と、対岸勝山村の「幸右衛門」との悲恋におわった逢引の情景が、おのずからまのあたりに、つぎのように展開されていった。



<笹舟>

「ギィ、ギィ」、

笹舟をこぎよせてくる幸右衛門の姿が、みよのかかげるともしびに浮かびあがると、みよはもう待ちきれずに、手にした松明(たいまつ)を波の上に投げすてて、岩の上から一足とびになぎさへはねおりた。

「みよちゃん、ずいぶんと待たせたな」

幸右衛門も幸右衛門でみよが力強く砂浜へひきあげてくれた笹舟からとびおりざまにかげよると、ことばより先にみよの両肩を抱きしめた。

「どうして三日もおらを待ちぽうげさせただよう。にくらしい」

みよは、夏の夜風にあたってさえ、こきざみにからだをふるわせている坊ちゃん育ちの幸右衛門の背を、さらに力をこめてかきいだくと、やっと逢えたうれしさあまって、恨みをことば尻にこめて、幸右衛椚の肩先をかるく噛んだ。

「それがよう、ちょっとふたりにとっては面倒のことが起こって来れなかったんや」

「面倒のことって、じゃあおまえ、父っさまにおら達のことを打明けたのけ」

夜目にもめだつ色白の幸右衛門のほっそりとした首筋に、熱い唇をあてがっていたみよは、ギクッとからだをふるわせて身を放した。

「そこまで話がいかないうちよ」

「あんだって、話をするまえだって」

みよはがっくり、したように浜の砂の上にしゃがみこんだ。みよはしばらく考えこんでいたが、いきなり幸右衛門にむしゃぶりつくと、

「おらはいやだ。だれがなんと言おうとも、いとしいおまえと別れるなんてことは、考えてもいねえ。おらは絶対に別れてやるもんか」

と、幸右衛門の顔を両手ではさみこんで吐き出すように言った。まずい話しと聞けば、あとはもう聞かなくても、いずれ二人を引裂く縁談に相違ないとみよは悟ったからだ。

おなじ男女の恋仲でも、幸着衛門の家はその頃羽振りのよい雑貨の問屋だ。それにひきかえみよの家は、幸右衛門の父につかわれている人足馬子の娘だ。いくら近郷近在に評判のたかい器量よしの、みよでも、金のあるとないとでは、江戸時代の門閥以上仁、身分差別がつけられていた。

従ってどうしても夫婦にたれない場合は、「ドラブチ」といって駈落ちをしたのである。このドラブチについては、岳麓にはかぞえきれない話題がのこっている。駈落ちした女

は、いったん死んだことにして寺でもらいうけ、あとは寺の住職、庄屋、長百姓などの村の顔役が問へ入って、双方異議なしの一札を入れて、晴れて夫婦にするといったはなしのわかる習慣があったのだ。この手を使えば、美しい人妻でも数日雲がくれしていれぼ自分のものにできたのである。



<馴れ初め>

みよと幸右衛門が熱い伸になったのは、なれそめそもそも、みよの父が幸右衛門の父庄兵衛から不義理をした借金のかたに、年季奉公に入ったのがはじまりだ。みよが奉公にのぼったのは十七歳のことだ。そして二年目、目ごろ「弱虫幸右衛門」とあだ名をされていた幸右衛門がめずらしく、水遊びをしていた夏のある目、

「てえへんだあ、幸右衛門が水にはまったよう」

折から使いにでたみよは、こどものさわぎを耳にすると、一散走りに浜へかけつけ、まとった着物をかなぐりすてた。両手を上に上げておぼれている坊ちゃんを助けねばと、赤いお腰一枚にたり、ざんぶと湖水へとびこんだ。馬子の娘だけに、みよは歳とは思えない肉づきのよいからだをし、気性も男勝りのはげしさをもっていた。それにこどものころから水泳も達者であったから、おそれげもなく幸右衛門の「アップ」「アップ」している首っ玉をかかえると、見事に片手でぬき手を切って岸へ助げあげた。背のっぽの幸右衛門はまだこのとき十五の二つ歳下、日頃からひよわなところから、両親は、日陰に咲いた花のようにいたわって、好きな読み書きに寺小屋通いをさ昔ていた。

「おお、これはみよ、おまえが助けてくれなすったか、ありがたい、いのちの恩人じゃ」死んだように浜へ倒れていた幸右衛門は、火でからだを暖めてやり、のんだ水をすっか

り吐き出させてやると、たちまち生気をよみがえらせた。

「ありがとう。みよ、ありがとう」

庄兵衛夫婦は、みよが奉公人であることも忘れて、浜へ額をこすりつけて感謝した。

「決めた年季まで働らかなくともよい。借金の証文、奉公手形も焼きすてました。今日からは生家へもどるたり又ここで奉公するなら決めた給金もさしあげます。どちらでも本人まかせにいたしやしょう」

庄兵衛は、かわいい一人息子の命を救ってくれた礼として、借金を棒引きという善意を示した。結局みよは、生家へ帰らせてもらい、貧しい水呑百姓に精出している母の手助けをすることで大石村へ帰ったのである。

そして三年がすぎ、幸右衛門は十八歳、みよは二十歳の夏をむかえたある日、幸右衛門がひょっこり、みよをたずねてきた。



<浜辺の再会>

「わたしの命を救ってくだすった恩人のおみよさんとやらに会わせてください。両親が盆暮れにはなにかとつけとどけをして御恩にむくいてはいても、わたくしからも一度あつく礼を申しのべたくてまかりこしました」

立派に成長した幸右衛門が、そんな殊勝な心掛けで、みよをたずねたとみるのは見当チがいだ。幸右衛門は、みよにあぶない命を救ケられる以前から、みよを慕っていたのである。それがさらに命を救ってくれたという力強さがくわわってこの二年あまり、いっときもみよのおもかげが忘れかねてつよい恋が成長していたのだ。今目はそのことをタネに、いとしいみよに会いに来たといった方が正直のところであった。

「こんなむさくるしいところよか、広々した大石の浜へいくべえよ」

みよは色白でひよわナ幸右衛門でも、目鼻立ちのととのった男振りを、にくからず思っていたので、再会したときすでに、ふたりの恋はもえあがった。

「おらと坊ちゃんとでは家柄がちがう。いくら命を救ったからといって、しょせんみょうと(夫掃)になることなんぞは思いもよらねえ」

「そんな、おらはもうみよちゃんの顔をみなくっちゃあ、一日もすごせねえ。夜も眠れねえ。のう〜みよちゃん、きっと縁談もたくさんあるべえが、ことわっておらといっしょになってくろよ」

弱い男はたくましい女に心をひかれ、男まさりのする女はえてして、母性愛のようにひよわな男を愛する例がおおい。二人は二度が三度、四度と逢引をかさねるうち、とうとう熱い肌までふれあう仲にすすんでしまった。

そして逢引の場所はのち「留守か岩」といわれる「魚見岩」の上であった。魚見岩とは、釣師や漁師がワカサギなどの群れや釣りの状況をこの岩の上からながめたからである。口伝では、みよがこの岩の上でかがり火をたくのが逢引の合図で、ときにみよの方からもタライ舟に乗って勝山村の幸右衛門に会いにいったという。タライ舟は、岸辺のヨシなどを刈るときに農民のつかったものである。江戸時代はとくに金持ちや家柄をほこる家の伜ほど早婚であった。わるい女遊びを覚えないうちに十八歳くらいで妻をもたせたのである。

江戸時代には遊女がかなりの花柳病をもっていた。このため各地で墓地がアバかれて屍体が盗み出された。人間の白骨の黒焼、幼児の骨の出し汁は梅毒ライ病に効くということが信じられたからだ。梅毒は、いまから四六四年前に天下にタウモという大成瘡(かさ)いでたと「勝山記」にもある。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

「富士五湖めぐり」窪田空穂
一、 乗合馬車
私たち二人は、甲斐の大月駅で汽車を下りた。初めて見る町は、朝の九時ごろの光線を浴びて光っていた。通りをさしはさんで立っている旅館は、どの家の軒も、ちょうど軍艦の満艦飾のように、富士講社の手拭をかけ連ねていた。それを透かして、行きあたりに停車場のような家があって、その前に、二台の馬車が曳きすえてあるのが見えた。私たちは馬車を見るとすぐに、それをめあてにいそいだ。上吉田までの切符を買って、私たちは後の馬車に乗った。「いい馬車だね」と谷君は、馬車を見回していた目を私にうつして、心持よさそうに微笑した。

全くそれは気持のいい馬車であった。車体は細長くて、ちょうど電車のボギー車を小さくしたようであった。車輸が小さいので、腰掛は地の上から計っても二尺ぐらいの高さで、低いがために落ちついた感じを与えた。窓は広くあけて、展望の自由に十分にできるようにしてあった。御者も車掌も、しゃれた洋服を着ていて、東京の電車の人たちよりも気取っていた。地方にありがちな乗合馬車を想像して来た目には、格段なちがいであった。合理的に物をする国だと見える、と感じた。前の馬車にも、私たちの馬車にも、汽車で見かけた顔がいくつも見えた。東京の下町の商人と見える年寄りで、二人の娘を連れた人もそのうちにいて、私たちと一緒であった。
これがみな富士へ行くのかしらと思った。すると、汽車のなかで谷君から聞いた、私たちの知合いで、その健康をあやぶんでいた長さんという顔の青い娘が、つい近ごろ父親に連れられて富士登山をしたという話を思い浮かべた。
富士をちとおっくうに考え過ぎていたらしい。ついでに登って見ようかしら1と、ふと私は思った。
馬が曳き出きれてきた。珍らしくも、その馬は笠をかぶっていた。それは東京の近在の農夫のかぶるような、脚倒で編んだものであった。長い大岩な顔の上へ、小さな笠をちょこんとかぶって、そして両方の耳は、笠から生えたように抜け出している、その恰好の奇妙なのに私はくすくす笑い出した。車中の人々の目も、やはりその笠の上に笑っていた。が、馬は真面目な顔をしていた。
馬車は走り出した。白く乾いた路の側の方に省せて敷いてある古いレールは、馬の走ると共に伸びていった。路の両側は青田でしらじらと穂を出した田、出穂に近い田がまじっていた。田を越して、近く松山が続いていて、そこからは蝉の声が繁く聞こえてきた。路をさしはさんで小川があらわれると、その小川を前にして家かあらわれて、一軒並びに続いていた。そこには、一心に坐繰糸をとっている女、機を織っている女が多かった。
大ていの家の前には狭いところへ器用に植えこんだ朝顔、おいらん草、カンナなどの花が咲いていた。ある家の前には、子供の玩具よりも一やや大きいくらいの水車がしかけられていた。その水車には柄杓が付いていて、めぐるたびに川の水をすくいあげて、桶のなかにあけていた。
飲料のための漉水(こしみず)をしているのであろう。立場は間近くあって、馬はもう二、三べんも取り替えられた。新しく取り替えられた馬は、御者がいかにすかしても、誘っても、動こうとしない。乗客の目は、みな心配そうにその馬に集まっていた。一番注意深く見つめていたのは、さっき飛乗りをして、私たちのそばへ割りこむようにして腰をかけた男であった。それは濃い八字髭をはやして、五分刈の頭をして、かなりはげしそうな目をしていた。白飛白(かすり)を肌ぬぎにして、足は脚絆でかためていた。どっしりと落ちついた、どこか威張ったところのある、地方へ行って、その土地に生え抜いた者にだけ見られる様子をしていた。
「畜生!いやな目つきをしていやがるな!」馬が横へそれて横顔を見せると、その男は子細らしく呟いた。その男と顔を見合せると、谷君は、東京者の明るく軽い心持で話しはじめた、「馬って、それぞれ性分がちがうと見えますね?」
男は強くうなずいて、「馬は調習、って言いましてね、性分を調べる事が第一です。性分を調べて性分にしたがって馴らしてゆくんです。性分にさからっちゃ駄目です」いい事を言っていると思って、私は聞いていた。「さっきの馬はあなたんですか?」と話題を転じた。そう聞けばさっき、五、六匹の馬を一繋ぎにして曳いているのを見かけた。この男は博労だな、と心づいた。男はうなずいた。

その時はもう走り出していた。出しぶった馬は、走りかがとたてがみ出すとさかんに走った。踵を鳴らし、鬣(たてがみ)を振って、爪ざきあがりの路を一散に走り続けた。乗客の心は、馬と、一瞬一瞬に移ってゆく景色に奪われてしまった。みな黙って目ばかり躍らしていた。青田と松山とせまい青空と、どこまでいっても同じような単調な景色ではあるが、すみやかに移ってゆくがために、心を奪われるにあまりあるものとなっていた。博労はいつか消えてしまっていた。路に沿った小川は、幅を加えて、水量を加えて来た。ともすると岸を乗り越しそうにする水は、川底の石に激して真白に砕けた日光にきらめきつしながら、せわしく走り下っていた。
私たちの前には、美しい町があらわれ出した。それは谷村の町であった。立派な建物と、品物の多い店とはその町の豊かさを語りつつも続いていった。青田と松山と狭い青空とは、また始まって来て、どこまでも続いた。「まったく峡(かい)の国だね」緩くなった馬車から、両側の山脈を眺めていた谷君が呟いた。車中の沈黙は破れて来た。「ああ、乗物ですっかり疲れちまった!」投げ出すようにそう言って、つと腰掛から離れて御者のうしろのところまで行って、ふり返って車中全体に笑顔を向けたのは、羅紗の詰襟の服に鳥打帽をかぶった、いかにも健康そうに肥った男であった。「何しても北海道からここまで、できるだけ早く来ようと思って、あらゆる乗替場所で、一等時間の短い列車を選って来たんですからね。」男の目には明らかに、みなの喝采を予期した色があった。車中の者はその顔を見上げただけで、誰も何とも言うものかなかった。多分あまりに率直な調子で話しかけられたので、見当がつかなかったのであろう。「北海道は貧乏人にゃ持ってこいの場所です。単物(ひとえもの)がいりませんからね。もう朝晩は袷ですよ」
男はそう言って、暑そうに見える顔をハンケチで拭いた。そしてむこう向きになってしまった。古い台湾パナマの帽子と、よごれた白のチヨッキと、レーン・コートとの目につく、青白い、痩せた、薄髭を立てた男は、連れかと見える白木綿の富士道者の支度をした、職人かと見える男に、ぽちぽち北海道の話をしていた。
「北海道は寒い時にゃばかに寒い!暑い時にゃばかに暑いんです。それに食べものがなくて、やりきれない所です。それに風儀の悪い所でしてね」
男は風儀の悪さを、にがい顔をして、しかしくわしく説いた。それはいたるところ後家と呼ばれている売春婦がいっぱいにいるということで、そのいかにして買えるかを説くのであった。
富士道者は、他に何か思っているところがあるらしく、その澄んだ目を前面にじっとそそぎながらも、おりおり僅かにうなずいて見せていた。ぼちぼち続いていた家がにわかに多くなった。講社の手拭で包まれたようになった大きな描茶屋があって、それと対して一と目に馬車の会社と見える建物があった。馬車はその前で止まった。そこが吉田であった。
みな下りる客と一緒に、私たちも下りた。路はすぐにかなりな橋になって、橋の彼方は、立派な町並みになっていた。旅館の看板が第一に目を引いた。
「一時遇ぎた、ここで弁当つかってゆこうね。」
谷君はそう言って橋を渡ったところに省る旅館の裏庭のほうへはいっていった。(大正14年)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.

過去の記事一覧

富士山文化と世界遺産
富士山文化と世界遺産
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事