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富士宮市の富士山本宮浅間神社の西隣にある市立中央図書館の脇に、
「富士見石」と呼ばれる石があります。
「道祖神」と彫られた石の、向かって右側に横にして置かれている石がそれです。
その石に「富士見石」と彫られています。
以前は、富士見石の上に、道祖神石が載せられていたそうですが、いまは分けて置かれています。
さて、なぜ富士見石というかというと、織田信長がこの石に座って富士山を眺めたところから、この名があるのだそうです。
道祖神石の背(裏側)には、「古伝に曰く」として、「天正十年、織田信長が武田軍との戦に勝って凱旋の折、この地に立ちよった際に、この石に座って富士山を眺めた」というような意味のことが刻まれています。
そこで織田信長の伝記を記した「信長公記」をみてみると、たしかにそれらしいことが記されています。
それによると、巻15の天正十年の「信長公甲州より御帰陣の事」の項に
「四月十二日、もとすを、未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士の根かた、かみのが原、井手野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ、御くるひなされ、富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり」
とあります。
しかし、現在、東隣りには富士山本宮浅間神社があり、北側に図書館があるため、この位置からは富士山は見えません。
教育委員会の説明では、かつては別のところにあったのを図書館開設のため移動したのだと言います。
では、元はどこにあったのか。現在、図書館と浅間神社の間には小川というか、側溝があり、江戸時代の古絵図では、その小川の側に描かれていますので、現在地とはさほど異ならない位置にあったようです。
でも、このあたりの位置では図書館がなかったとしても富士山は見えないはず。
ここから北へ坂を登り、しばらく進んでようやく正面に富士山が見えるのです。
かつては、坂を登って一本松と呼ばれるあたりにあったのではないでしょうかしらん。
ただ、ここからは見えないというのは、北側に向かってやや登り坂になっていること、また神社の社殿、神社の森にさえげられて見えないということです。
神社の社殿は、後の徳川家康によって整備されたと言われていて、あるいは信長のころは神社の杜もなく、社殿も小規模で、その頃はもしかしたら見えたのかもしれません。
信長公記では、このあと神社の社僧とのやり取りがありますので、やはりこの辺りで富士山を眺めたのかもしれません。 にしても、本栖からの道であれば、途中で富士山は見えていたでしょうに、なぜこの地なのでしょう。
おそらく軍勢を引き連れての行動ですから、休息するには浅間神社が最適だったのでしょう。
でもなぜ、富士山がよく見える東側ではなく西側だったのでしょう。
神社と図書館の間に北へ伸びる道があります。この道が富士山へつながる登山道で、ここがその起点です。
当時の地図、地形、地理がはっきりしませんが、自然と本栖からの道のりでも、この道に繋がって到達したものなのでしょうね。
ちなみに、このあと信長は安土に戻り、京へのぼって明智光秀による本能寺の変によって命を落とします。
およそ二ヶ月後のことです。
そして、信長は死して再び富士宮へ戻ることになります。伝説によれば、本能寺の変の後、近くの寺僧によって荼毘に付され、遺骨は富士宮の西山本門寺に葬られたと伝えています。今も信長の墓が本門寺にあります。 富士山登山道起点
右側が浅間神社、左側が富士宮図書館
かつてはわくたまの池で禊をし、ここから富士山へ登ったそうです。
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今年辺り富士山へ登ってみたいなあなどと考えたりしています。
数年前に登ったきりですので。 しかし、このところは体力的にちょっと無理かなぁ、などと弱気になったりもするのですが、80歳の三浦雄一郎さんがエベレスト登頂などのニューズを聞くにつけ、情けないなぁ、なのであります。 ところで富士登山について山梨県と静岡県が登山料を徴収しようと計画しているとのこと。世界遺産に登録され、その整備のため、あるいは年々増えてくる登山者を抑制しようという目的もあるのでしょう。 江戸時代、富士講などで入山料を徴収したことがあったようですが、これとは違う目的で、中世・戦国時代に同じく富士側と甲州側、つまり武田方と北条方が、富士登山者に通行料を徴収したことがあります。 一般の人が富士山にのぼるようになったのは、江戸時代の富士講の興隆によるものでしょうが、戦国時代ころには富士山に登るのは修験者だけだったようです。 当時街道には関所が設けられ、富士への道、いわゆる富士みちにも関所が設けられ、この富士道者に対して、北条氏文書によれば「富士道者之儀 依人二銭宛」徴収したようです。当時は道者は間者と見られたこともあるのでしょう。しかし、料金は関所ごとに異なっていたようで、それが道者の負担になったのか、やがて「富士山参詣之道者 近年一円無之候」と、誰も通らなくなるという事態になったようです。そこで「参詣之道者過分関銭取事 堅停止之儀」と、過分に取るなとか、半分にしろとか、道者を鄭重に扱えとか、あらたに通達を出しています。 その後どうなったか。武田側は、天正10年に織田信長との戦いに敗れた際、信長によって関銭徴収の禁止とされたため(信長公記巻15)、道者への徴収も撤廃されたのでしょうね。 現在、登山料と徴収したからと言って、登山者がいなくなるとは思えません。 登山料もどれくらいなのかはわかりませんが、高くはないのでしょうね。 |
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富士山が世界文化遺産に登録されそうですので、
しばらく富士山について書いてみようかとおもいます。
かぐや姫といえば竹取物語ですが、最後に富士山が出てくることはよく知られています。
竹取物語は平安時代の初期には成立していたとされますが、中世になると舞台が富士地方となって
富士山の神がかぐや姫として語られる物語も出てきます。
南北朝時代の中頃に書かれた『神道集』という、各地の神社縁起を集めた書の中で、「富士浅間神社」の項に、次のような話があります。
人皇二十二代雄略天皇の御代、駿河国富士郡に子供のいない老夫婦が住んでいた。
「死後、極楽往生できるよう、仏祭りをしてくれる御魂子が欲しいものだ」 と嘆いていると、後ろの竹林から五?六歳くらいの幼女が現れた。
翁の名は筒竹の翁、媼の名は加竹の媼といった。 老夫婦はその子を赫野姫と名づけて大切に育てた。 姫は国司に寵愛され、夫婦約束をする深い仲となった。
老夫婦の没後、姫は国司に 「私は富士山の仙女です。老夫婦とは前世で宿縁があったので姫となりました。その果報が尽き、あなたとの宿縁も尽きたので仙宮へ帰ります」 と云った。
国司が悲しむと、姫は 「私は富士山の山頂にいます。恋しくなったら来て下さい。また、この箱の蓋を開けてご覧ください」 と返魂香の箱を与えて姿を消した。
男がその箱を開けて見ると、煙の中に姫の姿が見えた。 ますます姫が恋しくなった男は富士山に登った。 山頂の池から煙が立ちのぼり、その中に姫の姿が見えた。 男は箱を懐に入れて池に身を投げた。 同じような話は、同じ頃に書かれた『曽我物語』にもあり、中世三大紀行文といわれる一つ『海道記』にもあります。
現在、竹取物語の舞台は、京田辺市周辺というのが有力な説ですが、駿河では富士市がその舞台としてもいます。
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ブログをはじめました!
コメント大歓迎です。 これからどうぞよろしくお願いします! 長年住んだ東京から、富士山の見える地へ越してきて、富士山を眺めての毎日で
とても気に入った地所です。
少しづつ、地の情報を流していこうかと思います。
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