逃避行

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 結局その場所で、一郎は何も採れなかった。カネたち三人は鮑3枚、トコブシ10枚、サザエ6個、

ウニを5個採っていた。

「一郎が苦戦している見てえだから少し浅い所に移動するべえ」カネは船を移動させ、入り江になっている

波の静かな場所に碇を下ろした。そこは先ほどのところより少しだけ浅いようだった。

「一郎、もぐってみれば分かるけど、海底に大きな石が転がっているべ、それをひっくり返してみろ。

うしろっ側にトコブシがついているぞ」見かねたカネが教えてくれた。一郎は先ほど練習したとおり海底

までもぐっていって、大きな石に手を掛けて裏返しにした。水の中では浮力がついて、陸上では持ち上げ

られそうも無い大きさの石も、簡単に裏返しに出来た。トコブシが3個ばらばらとはがれて落ちるのが見

えた。あわててそれらを拾い、足で海底を蹴って浮上した。初めての獲物だった。水面に顔をつけて

見守っていたカネが満足そうに声をかけてきた。

「やったじゃねえか。言ったとおりだべ。その調子だ」一郎は楽しかった。

 少し疲れたのでもぐるのは中断し、カネたちの様子を見ることにした。一郎は水面に顔をつけて彼らが

探すのを見ていると、彼らは岩棚や大きな石の下を探っているようだった。一郎はうっかり手を差し込む

と何か毒をもった魚が潜んでいそうで、どうしても挿しむことが出来なかった。岩の上に乗っているのは

サザエかシッタカぐらいだそうで、鮑やトコブシは隠れた所にいるから、下から覗くか、手で探らないと

取れないのだと言った。結局一郎は鮑を見つけることが出来なかったが、ほかにサザエを5個、ウニを

2個採った。4人はそこで鮑1枚、トコブシ12枚、サザエ10個、ウニ5個を追加することが出来た。

 帰りにまた一郎が櫓を漕ぎたいというと、カネは補助櫓もセットして二丁櫓にした。二丁櫓で漕ぐと

船足は信じられないほど速くなった。風を切るように進んでいき、午後の日差しも気にならななかった。

 船を元あった場所に戻し終わると12時過ぎていた。カネは当然のような顔をして砂浜の隅に建てられ

た掘っ立て小屋に入っていき、入り口と窓を開け放った。中は海女小屋のようになっていて、真ん中に

囲炉裏が切ってあった。小屋の隅には木箱に入った木炭が置いてあり、どうやらここでとってきた獲物を

焼いて食べるようだ。忠ちゃんが火を起こしている間にカネは家にとって返し、冷えた麦茶が入った薬缶

と、お結びを作って持ってきた。

「さあ、焼き始めるぞ、網の上に鮑を乗せてみろ」といってカネは鮑やサザエ、トコブシを醤油等の調味料

は使わずとってきたまま焼き始めた。しばらくすると鮑が殻の上でもがくように踊り始め、サザエはきゅ

うっと蓋を閉めて水を出した。

「一郎、これなんていう料理か知ってるか?残酷焼きまたは地獄焼きって言うのさ」マー坊が得意になって

言った。確かに、鮑が熱で踊る姿を見ていると、地獄の釜焼きが頭に浮かんできて残酷だと思った。

 と同時に、何かに似ているぞと思った。そのうちいい匂いが小屋の中に漂い始めて、急に空腹を感じた

4人は生唾を飲み込み、我慢できずに焼けた鮑やトコブシにかぶりついた。誰も口をきかなかった。

鮑は柔らかで美味しかったし、肝は磯の香りが口の中一杯に広がり絶品だった。トコブシは多少堅かった

が、鮑とはまた違った味わいがあり、一人で5枚平らげた。さざえは鮑やトコブシに比べると、うまみで

は多少落ちる。また肝を食べ比べてみると格段の差があることが分かる。ウニを焼いて食べたのは初めて

だったが、甘くて口の中でとろりと溶ける舌触りがなんともいえなかった。

 余談であるが、酒蒸しにした鮑の肝をスライスして、わさび醤油でいただけば酒のおつまみとしてこれ

に勝るものは無いだろう。また鮑の刺身を醤油で溶かした肝と和えれば、これまた絶品である。ウニは

辞書を引くと本体は「海胆」と書き、海胆の卵巣またはその製品を「雲丹」と書くとある。、

 その後一郎は7月一杯、カネたちと毎日海へ出て遊び暮らした。一郎がやったことの無い遊びばかりで

退屈している暇はなかった。葉山の家のことはすっかり忘れたように陽気になり、本来の明るい一郎を取

り戻すことが出来た。

 8月にはいるとすぐに母親から家に帰ってくるようにとの伝言が届いた。

 カネに言うと「もうかえっちゃうのか」と悲しそうな顔をした。一郎もあんな家には帰りたく無かった

が宿題もぜんぜんやれなかったし、勉強も何もしていなかったのでここらで帰ろうと思った。アチーブテ

ストも迫っていた。これからはくだらないことでグジュグジュ思い悩むのはやめて、いま自分に何が出来

るのか、なにをしなければならないのか考えて実行に移そうと思った。

 さらば佐島、ありがとう、カネ、忠ちゃん、マー坊、楽しかったよ。    
                                         (おわり)

 朝10時に忠ちゃんとマー坊を誘ってもぐりに行った。サザエやトコブシ、運がよければ鮑が取れるそ

うだ。今は漁業権があるとかで勝手にもぐって、それらを取ることは出来ない。以前は素もぐりぐらいな

ら大目に見ていたが毎年稚貝を放流している関係で、それさえご法度になった。

 一郎は海水パンツを履き借りた麦藁帽子を被った。カネは昨日の火傷が痛かろうと言って長袖シャツを

貸してくれた。火傷はひりひりしていたから長い時間直射日光に当てたくなかった。

 今度は伝馬船でなく小父さんの焼玉エンジンがついた和船で行くことにした。浜辺の一番後ろに引き上

げてあった船を4人は力をあわせて波打ち際まで押した。船は勢いよく海の中に滑り込んで行った。

小父さんの和船には二組の櫓がついている。最後方の櫓と横の縁につけた補助櫓である。カネは焼玉エン

ジンは使わず、後方の櫓をセットして沖へ漕ぎ出した。船は4人も乗ると極端に船足が鈍り、いかにも

重そうに進んでいく。ギイギイと言う櫓を漕ぐ音を聞きながら、櫓を漕ぐにつれて左右に揺られるまま、

涼しい潮風を体に受けるていると心地がよかった。

 船は防波堤の外側に出た。防波堤の内側は波が穏やかだが外側は荒れ気味でうねりがあった。防波堤

から10m沖合いに碇を下ろし、来ているシャツを脱ぎ捨て4人は水中眼鏡をつけて思い思い、海に

入った。手には金属製の磯がねと言う鮑を取る道具を持っている。一郎は深呼吸し肺に一杯空気をため

、海面に顔をつけて様子を窺った。海の中は思ったより透明度が高く広範囲を見ることが出来た。

水深は3mぐらいで海底はどこぼこした岩が幾つもあり、カジメの林になっていた。忠ちゃんが鮑も

トコブシもカジメを餌にしているから、カジメの林を掻き分けて探してみろといっていたのでカジメに

取り付こうとして懸命に手足を動かしたが、届く前に体が浮き上がってしまい、海底まで達することが

出来なかった。海の中は意外に潮の流れがきつくて、何かに掴まっていないと流されそうだった。

一郎は海面に浮かびながら顔をつけて彼らが泳ぐのを見ることにした。三人ともカジメの林に顔を入れ、

流されまいとしてカジメをしっかり摑んで探していた。最初にマー坊が海面に顔を出した。手にサザエを

二つ持っていた。

「すげえ、サザエだ、どこにいたんだ?」一郎には驚きだった。一郎の泳力では海底にさえ届かないのに、

自分より年下の子がいとも簡単にサザエを取ってきたのだ。続いて忠ちゃんとカネが顔を出した。カネは

手のひら大の鮑、忠ちゃんはトコブシを二枚持っていた。

「カジメの間を探せばいるぞ。一郎、俺のあとについてこいよ」マー坊は口から水を吐き出しながら、つい

て来いと手招きした。

「なんだ、一郎はサザエがどこにいるかわかんねえのか?」忠ちゃんはバカにしたように、ははっと

笑った。一郎は悔しくて何回かもぐろうと試みたが、足が水面を叩くだけで下へ進んでいかなかった。

「一郎、へっぴり腰だから浮いてしまうんだ。体をまっすぐ伸ばして思い切り手で水を掻いて見ろ。そう

すればもぐれるべ」見かねたカネが言った。一郎は言われたとおり体を伸ばして頭から海中に潜り、手で

水を掻いた。今度は2mぐらいもぐれたが、水中眼鏡がみしみしと音をたて、耳がツーンと詰まったよう

になり、怖くなってあわてて水面から顔を出した。たった2mぐらいもぐっただけなのに水圧がかなり

あったので驚いた。しかし何回か繰り返しているうちに徐々に海底に近づいていき、ついにカジメを摑む

ことが出来た。が、今度は息が続かない。サザエや鮑を探す余裕は無かった。(続く)(今宵は眠いので

続きは明日・・・すーすー)

 その晩一郎はカネと布団を並べて寝た。叔母さんの家の二階は6畳間が二部屋あり、階段から奥の

部屋が和子さんと鈴子さんの部屋で、手前がカネと兄の善太郎さんの部屋である。部屋は唐紙で仕切って

いるだけだ。善太郎さんはお祭りの酒を船の仲間と飲んでいて、帰ってくるかどうか分からなかったけれ

ど、帰ってきたときのために、きついとは思ったが布団を三組敷いた。夜中は狭い部屋に5人も寝たら

さぞや、暑苦しくなるだろうと思った。ところが一部屋に一つずつキンチョウの蚊取り線香を炊いて、

窓は開けっ放しのまま寝るから暑くは無いと言った。夜になって海風が山風に変わり、昼間の暑さが嘘の

ように思える涼しさだった。寝転びながらカネととりとめの無い話をした。カネはおっとりしていると言

うかのんびりしているのか、動作も機敏とはいえない。しかし運動能力は優れている。

カネの叔父さんが子供のころの一郎とカネを比べて言ったそうだ。

「一郎はすりすりしていて、やることに卒が無い。それに比べておらがカネはもっそりしている。

一郎の目を見てみろ、きらきら輝いているのに、カネの目はどんよりしているべ」

一郎の眼がきらきらしているのは好奇心が旺盛だったからだ。海辺の子の遊びは見るもの聞くもの、一郎

には初めてのことばかりで、なんでも吸収してやろうとする姿勢が目を輝かせていたのだろう。事実一郎

は佐島へ来るといつも期待で胸をわくわくさせていた。いつの頃からだろうか、一郎の目の輝きがなく

なったのは。

 話はお互いのクラブ活動の話になって、やがて野球談義になった。

「ところでカネは何のクラブに入っているんだ?」

「野球部に入っている。ピッチャーやれって言われて、毎日グランドを走らされている」

「そうか野球部か。俺も野球部に入りたかったんだけど、親父が駄目だっていうから文芸部に入ったんだ」

「何で駄目だって言うんだ?キャッチボールしているのを見たとき、すげーストレート投げていたから

野球部かと思ったぜ」カネは不思議そうな顔をした。

「体が弱いから駄目だって。そんなことは無いんだけどな。俺の球は軽いからな。お前の球は重いし

力があるからいいピッチャーになるだろうって、一目で分かった。先生も認めたんだろう」

「いや、一郎の球はまっすぐだし、回転がいいから手元でぎゅうーんと伸びてくる。俺にはあんな球は

投げられねえ」確かに、カネの投げる球がミットに入ったときの音はズドンと、いかにも重そうな音だが

一郎が投げる球の音はシュパッとミットに吸い込まれていく軽い音がする。この球種の違いは球を深く持

ち、体全体を使って投げるカネの投げ方と、一郎のように球を浅く持ち手首のスナップを利かせて投げる

投げ方の違いだろうと思われる。どちらがいいのかは言い難いが、ピッチャーらしい切れのある球とい

う点で、一郎の球筋のほうが好まれるかもしれない。しかしカネの重い球も力で相手のバットをへし折る

という特徴があって捨てがたいのである。この球筋は硬式野球で力を発揮するだろう。

「三年にいいピッチャーがいねえから俺が試合のとき投げるんだ」

横須賀地区の中学校の中で、剛速球を投げるピッチャーとしてカネの名前があがっているらしい。三浦

高校の硬式野球部のコーチが見に来たという話だ。カネとの話は将来のことになった。

「そろそろアチーブメントテストがあるけど、カネは大丈夫か?高校はどうするんだ?」

「俺は高校にいかねえから、アチーブなんか関係ねえさ」とこともなげに言った。アチーブメントテストと

は神奈川方式といわれた高校入試の選抜対象のテストである。別に入学試験もあったが評価の比重は

アチーブが一番高く内申書と入学試験の三本立てである。神奈川方式というのは、言ってみれば高校版

共通一次試験のことで、このテストの点数によって自分が受ける高校が決まるのである。あの頃三浦地区

では県立の普通高校は横須賀高校と三崎高校、大津女子高、翌年から逗子市立逗子高校も県立になる、

しかなく県立横須賀工業高校、県立三崎水産高校、横須賀市立第一高校、第二高校,市立工業高校、市立

商業高校などがあり、あとは私立高校である。それぞれのレベルで選択することになる。地区ナンバー1

高校は横須賀高校で、葉山中学からは成績上位15人ほどが進学する。

「中学を卒業したら船に乗るのか?」

「兄ちゃんが漁師を辞めたいらしいんだ。体が華奢だからきついらしい。俺は勉強があんまり好きでねえ

し、兄ちゃんが漁師辞めるんなら俺が船に乗らなければならないべ。英二とも話したんだ、一緒に船に乗

ろうって」英二とは母親の実家の次男坊で、カネと一郎と同い年の従兄弟同士である。英二の兄博は

漁師を嫌い高校に進学していた。カネの家では両親と長男の善太郎さんとが散々もめた挙句、家を継ぐの

は次男のカネに決めた。善太郎さんが何がしかの土地を貰って家を出て行くことになるらしい。偶然では

あるが両家とも長男が漁師を嫌い次男にお鉢が回ったのである。カネも英二も子供のころから自分は親の

後を継いで漁師になると決めていたふしがある。漁師に憧れていたのだ。だから進学しなくても自分を

不幸だなどと考えなかったし、なるべくしてなるのだと納得していた。今の時代ならまた違った考え方を

しただろう。

「唯俺は、単に船に乗って網を引くだけじゃなく、エンジン操作の責任者、つまり機関士の資格をとろう

と思っているんだ」カネはそのときばかりは目を光らせて言った。

「それはいい考えだ。もうそこまで考えているのか、俺なんてまだ何も考えていないんだ。どこの高校へ

行くのかも今のところはっきりしないし、その先大学に行くだろうぐらいしか考えちゃいないのさ」

一郎は自虐的に言った。

「そうか、われは大学まで行くのか、大変だな、考えただけでも頭が痛くなる」一郎はカネがしっかり将来

を見据えているのを見て羨ましいと思った。自分は血の池地獄のような精神状態でもがいているのに比

べ、なんて潔いのだろうと、目を洗われる思いがした。なんか自分がグジュグジュ思い悩んでいるのが

ばかばかしくなってきた。俺は俺の道を進めばいいのだ、そのために今、なにをしなければならないか

真剣に考えてみようと思った。カネは眠そうに大きな欠伸を一つすると上を向いて目を閉じた。一郎も眠

くなってきたが、真っ赤に日焼けした肌が熱を持って寝苦しかった。

「ところで、明日はもぐりに行くべえか。われ海水パンツと水中眼鏡持ってきたか?」カネが聞いてきた。

「もぐり用の丸いめがねもって来たよ」一郎はお小遣いをためて去年買ったのだ。一郎は眠くなった頭で明

日のことを想像して心が躍ったが、昼間の疲れからいつの間にか寝入ってしまった。

 翌朝目覚めて隣を見ると、善太郎さんの布団は誰も寝た様子は無く夕べのままだった。仲間と酔いつぶ

れているのだろうと気にも留めなかった。階段の下で叔母さんの驚いたような声がした。

「あら、兄ちゃんこんな所で寝ていたんだ。帰ってきたのは知っていたけど、二階に上がったものとばか

り思っていたよ。風邪引かないかねえ。兼高も一郎もまんまだから下りてこい」

善太郎さんは階段を枕に寝ていた。家まで帰ってきたが階段を登れず酔いつぶれてしまったらしい。

カネの話だと善太郎さんはお酒が強くないので、普段はたしなむ程度だそうだ。家督の問題で両親と

もめたことやら、今後自分はどうするのか考えると不安で、飲めない酒を無理して飲んだのだろう。彼は

社会人ではあったがまだ未成年で、本来酒を飲んではいけないのだが、漁師という特殊な世界では当たり

前のことのように、飲むというより飲まされたのだ。まだ18歳の少年なのである。人生の岐路に立って

青春の悩みを抱えてのた打ち回り、苦しみぬいていたのだろう。一郎はなんとなく判る気がした。じぶん

だけでなく誰もが同じように悩みを抱えて生きているのだと。しかし、親の気持ちはどうなのか。

叔母さんは少年の善太郎さんが飲めない酒を飲んで酔いつぶれている姿を見て、どんなことを思ったのだ

ろうか。一郎はその胸中いかばかりかと思うと胸が一杯になった。

(つづく)

 沖には大小の生簀が5つばかり並んでいた。一番手前の鯖が入っている生簀に舫だ。何十匹という

鯖が群れを成して生簀の中で、独特の背中の縞模様も鮮やかに時計回りにぐるぐる泳ぎまわっていた。

佐島の漁師は捕ってきたカタクチイワシを生かしておいて、遠洋の鰹船に売る仕事を本業にしているが、

彼らが使う巾着網には鰯ばかりでなくいろいろな魚が入ることがある。それらを生簀に入れておいて時機

を見ながら水揚げするのだ。

 午後の日差しは強烈だった。海は油を流したようにぬめっとしていて波も無く、それでもあるかないか

のうねりによって船はゆっくり上下して、時折生簀の木枠がきしきしとかすかな音をたてる。船の上は

日差しを遮るものが無く、直射日光を浴びてものすごく暑かった。兼高に借りた麦藁帽子が無ければ、

一時間もたたないうちに日射病になってしまうだろう。生簀周りにはカワハギや、うまずら、鯵、鯖、

べら、海タナゴ等の小物のほかに黒鯛や縞鯛、メジナも寄って来るそうだ。一郎はそれらの魚を釣り上げ

る自分を想像してわくわくししていたから熱さもさほど感じなかった。

 早速ガニモツを殻から引っ張り出して、頭の部分を切り取りぶよぶよの尻尾に針を通した。通し刺し

にするよりちょんがけにしたほうが食いはいいとカネは言った。彼らが使う竿は山から切ってきた竹を

乾燥させたもので、太さも長さもまちまちだった。針や錘は漁師の子だけあって、親の道具箱から出して

来たのだろう、いいものがついていた。水深は7〜8mあったがリールなどは無く手繰るしかない。

一投目で当たりがあり、引き上げると手のひら大の魚が釣れた。

「やったー、釣れた、釣れた、これなんていう魚だ?」

「むつっ子だ、白むつのこだべ」とカネは言いながら自分も一匹同じ白むつを釣り上げた。忠ちゃんも

マー坊も盛んに釣り上げていた。白むつのほかにカワハギやべら、中に鯵が混じってしばらくは入れ食い

になったがやがてあたりが遠のき、釣れなくなった。潮目が変わって魚が散ってしまったらしい。

 ひと時の興奮が収まり、いざ釣れなくなると改めて、日差しの強さが気になりだした。一郎のむき出し

になっている腕も足も赤く焼け始めじっとしているのに耐えられなくなってきた。風が少しでもあれば

それほどでもなかったのだろうが、そよとも吹かずじりじりと焼かれるばかりだった。一郎は飽きてきた

ので何の気なしに、鯖の泳いでいる中に餌をつけたまま釣り糸をたらした。いきなり食いついてきた。

今までに無い強烈な引きだった。竿先がびりびり震えている。鯖が釣れたときの独特な感触だ。鯖は

餌をくわえたまま生簀の中を半周ほどして、ようやく抜きあげることが出来た。するとカネが言った。

「生簀の中の鯖を釣ったら怒られるぞ。あんまりおおっぴらに釣るのはやめろ。だけど少しだけなら

いいべ」と言いつつ自分も生簀の中で釣り始めた。バカみたいに釣れた。始めは面白がっていたが、すぐ

に飽きて釣るのをやめにした。4人とも暑さにやられてぐったりしていた。帰りの伝馬船は一郎が櫓を

漕がせて貰った。しばらくぶりに櫓を握ったのでまっすぐ進むことが出来なかったが、慣れるに従い

コツを思い出した。しかし5年生のマー坊の方が数段うまくて追いついていくのに必死だった。

 釣った魚を持って帰ると叔母さんがバケツの中の魚を手で触りながら

「鯖なんか釣ってこねーで、むつっ子とゲバチロ(かわはぎ)をもっと釣って来ればよかったのに」と

言われた。生簀に入っている鯖はまだ小さく、料理しても煮付けか焼くしかないし、第一油がのって

いないのであまり美味しくは無いのだそうだ。

 一郎は暑さにやられ、また帰りに櫓を漕いだのですっかり疲れてしまい、二階に上がり大の字に寝転ん

で、そのまま夕方まで寝入ってしまった。夕方目覚めると隣でねていたカネが言った。

「そろそろ日が沈むから叩き網漁に行ってみるか?」一郎は鸚鵡返しに持ち論行くさと言った。すると

カネは物置から物干し竿のような長い竹の棒と、丸めておいてあった網を担いで浜に下りて行った。

伝馬船にそれらを載せ、沖に漕いで行き、堤防の内側の波の穏やかな場所に網を入れた。網は幅1m

長さ30mと細長く、両端に目印の浮きがついている。その網を弧を描くように順に沈めていく。

船は半円形の中心点より少し後ろにおいて、一郎が持ってきた長い棒で海面を思い切り叩いて魚を脅し、

徐々に網に向かって船を進めながら追い込んだ。一回目網を引き上げると、数匹の魚がかかっていた。

どれも手のひら大の海タナゴやべら、メジナの子等の小物ばかりだった。網の入れ場所をいろいろ替えて

何回か同じことを繰り返した。いずれも同じような結果であったが持っていったバケツは満杯になった。

取れた獲物の中で一番の大物は50cm級の鱸である。この一匹がかかったので来た甲斐があったと

思った。カネが言うには冬場には50cm級の鯔も取れるらしい。そのほか運がよければ黒鯛やメジナ

の大物、場合によってはあおり烏賊も入る事があると言った。気がついてみれば回りは薄暗く太陽は

既に西の海に没していた。この叩き網漁は夕まず目が好機だということだった。

 家に引き返して叔母さんに見せると喜んで、「よく獲れたね」といって早速鱸を三枚におろし刺身に

切り分け、残ったあらは潮汁にして夕飯の食卓に上った。空腹だったせいもありなんともいえぬほど

美味しく、自分がとってきたという満足感で腹いっぱい食べてしまった。しかし取れたての鱸の刺身は

こりこりして堅く歯ごたえがすごかった。

 夕食を終えて少したってから風呂に入ろうということになった。叔母さんの家には風呂が無く、隣の

本家の風呂に入れさせてもらっていた。隣といっても20m以上離れている。洗面道具を持ってカネと

本家に出かけた。本家の風呂は五右衛門風呂である。子供のころ、この五右衛門風呂の入り方が分からず

まごまごした記憶がある。風呂桶の中に蓋のようなものが浮いているのと何故か下駄が置いてあった。

蓋が邪魔だと思い、外に出して釜の形の湯船に入った。釜の底が熱いのに吃驚してあわてて飛び出した。

その時一郎はある考えがひらめいた。何故下駄が置いてあるのか分かったと、下駄を履いて入りなおすこ

とにした。本当は浮いていた板を底に沈めてはいるものらしい。何が正しい入り方なのか一郎は未だに

分かっていない。それより驚いたことは昼間日にさらされた肌が真っ赤にはれ上がり、風呂に浸かると

猛烈に沁みた。一郎は思わず悲鳴を上げていた。(つづく)

 懐かしい磯の臭いに混じって海草の腐ったような臭いが辺り一面を覆っていた。夏の光に照らされ干か

らびた海草が浜辺に打ち上げられていた。波打ち際に固まっている部分が蒸れて磯臭い臭いを発している

のだ。それとは違う金属的な臭いも混じっていた。船を引き上げるときに使う油性の滑財である。一郎は

噴出した額の汗を手でぬぐい、空を見上げると強烈な太陽の光が目を射た。一瞬目の中が真っ白になり、

周りのものが見えなくなった。ただ、大きく開いた開襟シャツの中にまで入ってくる爽やかな潮風が心地

よく、それほど暑いとは感じなかった。一郎は開放感に浸っていた。天神が島へ行く三叉路まで来ると、

これから過ごすであろう何日間かの楽しさを想像して胸が高鳴るのを覚えた。天神が島は浜木綿が自生す

る北限の島で天然記念物になっている。島といっても陸続きである。叔母さんの家はすぐそこだ。

 一郎は夏休みになるとすぐに佐島の叔母さんの家に逃げ出すことにした。しばらく滞在するつもりだっ

た。義父は退院してくると、医者からは静養が必要だから仕事はしばらくやめたほうがいいといわれ、八

畳の間に布団を敷いて一日中寝ているようになった。顔も体も相変わらず黄色く、息をしている人間には

見えなかったが、体を動かさない分だけ口やかましく、幼い弟妹が萎縮していた。家の中の空気は澱み

息をするのも憚られるようで、家庭に暖かさは感じられなかった。この家から離れない限り悩みは解決

しないような気がした。一郎は宿題と筆記用具を一纏めにして鞄に詰め込み、家出でもするかのように

あたふたと家を飛び出して長井行きのバスに飛び乗った。佐島入り口の手前の芦名と言う停留場で降り

て坂道を下ってしばらくいくと右手に大楠小学校が見えてくる。校門の脇に薪を担いで本を読んでいる

二宮金次郎の銅像を横目に見て、さらに下っていくと海岸に行き着く。そこから海岸線にそって道が作ら

れ、佐島をぐるっト回っていくと佐島入り口に行き当たる。佐島に行くには二通りの道があるのだ。

芦名の海岸から天神が島に通じる道は昔海だったそうだ。佐島の子達はそれが出来る前は、山越えで大楠

小学校に通っていた。そのため山を崩して海を埋め立てて道路を造ったと義父が言っていた。一郎が遊び

に行っていた頃は海が荒れると道路は波を被り通行不能になった。現在はコンクリートで周りを固めて

ヨットハーバーになり、いろいろな種類の船が繋留されていて、波を被る心配はなくなっている。この埋

め立て事業を推進したのが義父の父親だと聞いた。

 叔母さんの家に着くと、一郎は開け放した玄関に入って行き声をかけたが、誰もいないのかシーンと静

まり返っていた。家の周りにはうるさいミンミンゼミやアブラゼミが鳴き競って耳をふさぎたいくらいだ

った。ずっと歩いてきて急に止まったために、汗がどっと噴出してきた。急いで荷物を置き、玄関の脇

にある井戸で顔を洗った。井戸の水は冷たくて火照った体を冷ましてくれた。

 玄関からは海が見える。沖に防波堤が横たわり、その内側に停泊している大小の漁船がゆらゆらと波に

揺られ、その都度ぎしぎし音を立てていた。夏の海は漣によって光が乱反射してまぶしく、まともに見て

いられなかった。一郎は家の中に引き返すと部屋に上がり、大の字に寝転んだ。

「吃驚したァ。誰がいるのかと思ったら、一郎じゃないか。しばらく見ないうちに随分背が高くなって

最初は誰だかわかんなかったよ」」叔母さんがさも驚いたという顔で一郎を見ていた。うとうとっとして

いる間に寝入ってしまったようだ。

「兼高は?」一郎は一番気になることを聞いた。

「カネなら釣りに行くって出かけたけど、もう帰ってくるべ、、浜に行けば会えるよ」

叔母さんの家から道路まで10m足らずしかなくその先は砂浜である。一郎は靴を脱いで裸足になり、

熱い砂の上を飛び跳ねるように波打ち際まで駆けて行った。沖のほうから一艘の伝馬船が漕ぎ寄って

来るのが見えた。三人乗っていた。兼高の従兄弟の忠ちゃんと五エムのマー坊らしく、兼高が櫓を漕いで

いた。三人とも真っ黒に日焼けしていた。

「おーい、何が釣れたんだ」一郎は手を振りながら大きな声を出したが、三人とも返事もせずに怪訝な顔

をして、そのまま波打ち際に舳先を乗り上げた。

「なーんだ、一郎じゃねえか、われ背が高くなったなあ、あいつは誰だって言ってたんだ」そう言えば

去年の夏休み以来会っていなかったなと思った。伝馬船の中を見るとバケツに鯖が何匹か入っていた。

「俺も釣りがしたい、連れてってくれないか」と言うと兼高は

「昼飯食ってからにするべえ、腹が減ってしょうがねえ。おめえらも飯食ったらまたここに来い」

カネは忠ちゃんとマー坊にそう指示して、釣った鯖を均等に分けて持たした。

 昼飯を食べ終わって、午後一時過ぎ4人は再会し天神が島の近くの磯に行くことにした。兼高の話では

釣り餌をとりに行くと言った。何を探すのかと思っていたら潮の引いたあとの水溜りでガニモツをとるの

だと言う。ヤドカリのことだ。

「ちっこいのを捕っても餌にならないから、出来るだけでっかいガニモツを捕れよ」

「こんなのどうやって餌にするんだい?ゴカイやイソメじゃないのか」

「そんなの捕るのに大変だし金もかかるから、ガニモツの尻尾をちぎって餌にするのさ。柔らかくてぶよ

ぶよだべ。魚にはこたえられねえ餌になるんだ一郎ははじめて知った。海辺の子達の知恵なのだろう。

餌は釣り道具屋で買うものばかり思っていたのだ。15分ほどで大型のガニモツばかり30個以上集める

ことが出来た。午前中に乗っていた伝馬船に兼高と一郎が乗り、マー坊が自分の家の伝馬船を出してきて

忠チャンが乗った。二人とも5年生、6年生だが櫓を操るのは巧みだった。二艘に分かれて沖にある生簀

に舫だ。生簀周りにはいろんな魚が寄ってくるのだといった。(つづく)

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