中学時代

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 2年に進級と共に組替えがあり、担任が下田経世先生になった。下田先生の担当は国語である。

また彼は下山のお寺の住職でもあった。下山は御用邸付近の字である。お寺は御用邸から長者が崎に

抜ける坂を上りきったところの左側にある。一郎は1年のときもたいした成績を上げられなかったくせに

押されて学級委員長を務めていた。その延長のような感じで2年になっても委員長に選ばれたが、正直、

荷が重い気がした。俺でいいのかなと不安で、小学生のときの自信に満ちた一郎とは違っていた。

違ったと言えば、一郎の背丈が1年から2年になる間に17cmも伸びたことである。学生服がツンツル

テンになり母親を嘆かせた。足も背が伸びるのに比例して大きくなるものだから、靴はすぐに履けなくな

ってしまった。朝礼の並び順は前から3番目だったものが後ろから2番目になり、ちびだった一郎はいつ

の間にか2年の中でも背丈が高いほうになっていたのである。背丈は3年になると更に13cm伸びて

170cmになり、高校で更に2cm伸びることになる。

 体の成長と共に心が同じように成長してくれればよかったのだろうが、そうはいかなかった。

心の中にいつも不安と不満と焦燥が交互に繰り返し襲って来て、一郎はどうしていいのか分からなくなっ

ていた。具体的に何が不安で何が不満なのか、何かに追われているような焦燥感の正体が何なのか分かれ

ば対策の立てようもあったのだろうが、はっきりせず、心の中はただざわざわと不気味な音を立ててい

るだけだった。不幸は重なるもので、体調を崩していた義父は盲腸を併発し入院することになった。盲腸

の手術は順調だったが、術後、前から病んでいた肝臓が急に悪化し、黄疸の症状が現れ始めた。義父の顔

や体全体が黄色に変色し、死体を見ているようで気味が悪かった。義父の入院は意外に長引くことにな

り、母親は二人の子を連れて毎日病院に通うようになった。

 一郎は半ばやけになり、何をするのにも投げやりな態度が目立ってきた。まだ旧校舎にいた1学期の昼

休みは、新しく級友になった信也、ハンメ、鈴貫、悦治達と裏山に入って行き、木の上に小屋を作って遊

んだ。オランウータンが作るように枝を折って組み立て、人が二人は入れるぐらいの鳥の巣に似せて作っ

た。どうっていうことのない子供じみた遊びであったが一郎は楽しかった。つかの間ではあったが気が

紛れるような気がして小屋作りに没頭するようになり、昼休みが来るのが待ちどうしく、授業は上の空で

あった。一郎は頭のどこかで勉強を見くびっていた。そんなに一生懸命勉強しなくても自分は大丈夫だ、

十分理解しているしテストだってそこそこ出来るじゃないかと、現実を直視せず自分をごまかし続けた。

やがて鳥の巣つくりに飽きてくると、いたずらがだんだんエスカレートしていった。一郎が斜面に生えて

いる雑木の先端に登り、足を木から離して一気にぶら下がると、雑木はバキッと大きな音を立てて中段か

ら折れた。そして枝や葉の空気抵抗により雑木はゆっくり倒れて行き、生い茂った木の上に軟着陸した。

なんともいえない快感だった。それを見た悦治や鈴貫が真似をして奇声を上げながら、かわるがわる

木にぶら下がって3本ほど折ってしまった。すぐ下の運動場にいた生徒は何事が起こったかといぶかしげ

に一郎たちを注視していた。その時、聞き覚えのある野太い声が聞こえてきた。

「誰だ、そこで何をしている、降りて来い」

「やべえ、ビヤダルだ」門倉先生だった。ぎょろりとした目で一郎たちが降りてくるのを見つめていた。

まさしく達磨大師の再来を思わせる体型と風貌だった。ビヤダルは怖いと評判である。

「お前達の所属は何年何組だ?担任はどなたかな」ビヤダルはさもあきれたと言わんばかりに、西洋風

に肩をすぼめ両腕を開いた。

「はい、2年3組の下田先生です」一郎は臆せずに答えた。

「お前の名はなんと言うんだ」ビヤダルは一郎の顔を指しながら言った。ビヤダルは3年担当のため一郎

とは面識が無かったが、一郎のことを知っていると思った。職員会議に名前があがっていた筈である。

「東谷一郎です。お騒がせしてすみません」一郎は頭を下げながら答えた。

「ふーん、お前が東谷一郎か、なるほどそうか、ふーむ、下田先生ね」ビヤダルは一郎の名前を聞いて、

しばし何か考えるような素振りをしていたが、一人で納得するように何度も肯いた。

「もう、こんなことをするんじゃないぞ。中学生なnだから子供みたいなことをしてはいけない」と言い

残してビヤダルは去って行った。一郎は怒られるだろうと思っていた。承知してやったことだから覚悟は

出来ていたのだ。しかしまたしてもそれ以上のお咎めは無く、その後一郎たちが山に踏み入ることは

無かった。

 この頃の一郎は八方塞の状態から抜け出そうと、無意識のうちに見えない声を発信していたようだ。わ

ざとバカなことをしてみたり、テストに何も書かずに提出したり、些細なことでクラスメートと争ってみ

たりして、自分の存在を周りの人間に知らせようとしていたのだ。陸上部でもないのに、放課後遅くまで

走り高跳びや、グランドを駆け回っていたことも発信源の一つだったかも知れず、心が何かを求めて

彷徨っていたのである。誰か俺を見てくれ、俺の目を醒めさせてくれ、蜘蛛の糸でいいから俺をこの

奈落から助けて欲しい。家で机に向かっても勉強する気がおきなかった。(つづく)

 陸上競技の郡市対抗戦が行われた。三浦半島は今でこそ3市一郡一町に分かれているが、その頃は

横須賀市,逗子市、三浦郡葉山町、三崎町その他の町村(失念)があった。その後三崎町は付近の町村を

合併して三浦市となり、葉山町だけがどことも合併せず一郡一町を固持している。この郡市対抗が行われ

葉山町の陸協が中心になって選手を選出した。一郎が6年のとき、多分小学生はエキシビションとして参

加したのだろう、100m競争が行われた。葉山小から三名選出され、一郎は三名の中に入っていた。競

技が進みいよいよ小学生の番になった。一郎は三組目だった。一組目の中に一人速い生徒がいて、14秒

2で走り1着、2着は葉山小の小川が14秒9だった。この早い生徒は大きな体でずんぐりむっくりの、

どう見ても速そうには見えなかったが、小川を7〜8m離してゴールインした。2組目は葉山小の林が

15秒0で走り1着になった。一郎が走る3組目になった。周りを見回すとみんな速そうな奴ばかりに

見えたが、前の二組が好成績だったので、絶対に負けられないと思った。予選会では三人とも記録的に遜

色は無かったから、前二組が勝てるなら、自分も勝てると、スタートラインに立っても余裕があった。

一郎は3コースを走ることになった。一郎は号砲と共にロケットスタートを切り、すぐに一番先頭に

踊り出た。そのまま快調に飛ばし、ゴール付近で誰もついて来る奴がいないのを確認して、よせばいいの

にゴールする自分の姿を想像した。両手を挙げて格好よくテープを切るためには3コースでは見栄えがし

ないだろうと思ったのである。そこでゴール手前5mで4コースに入りそのまま、思惑通り両の手を

一杯に上げ、得意げに1着でテープを切った。記録は15秒1である。気持ちよかった。町の人達が

いるところに戻ってくると、みんな大喜びでよくやったと褒めてくれた。よく分からなかったけれど、

町のそのほかの人達は一般もふくめあまり成績が良くなかったらしい。

「小学生様様だな。少しは面目が立ったよ。」と話し合っていた。

 ところが、時間がたつうちに一郎は不安に襲われたのである。コースを変えた一郎はほんらいなら

失格のはずである。4コースの走者の進路妨害をしたことになるのだ。エキシビションと言うことで

なんらクレームはつかなかったが、一郎は競技を終わってすぐあとに自分が反則を犯したことを後悔

し始めていた。何も真ん中で格好よくテープを切ろうなどと考えることは無かったのだ。なんでそんな

気になったのか、余裕がありすぎたこともあったし、何よりも、自分が輝いている姿を見せたかったの

かも知れない。記録的には、余計なことをしさえしなければ0秒2ぐらいは短縮出来ただろう。

 中学には陸上部があったが、長距離の選手ばかりで、短距離やフィールド競技の選手はいなかったので

郡市対抗やその他の競技会に学内から選抜されていくことが多かった。一郎はいろいろな種目に狩り出さ

れた。走り高飛び、走り幅跳び、100m、中でも一番困ったのは400m競争であった。3年のとき

郡市対抗が横須賀市大津の市営競技場で行われたときである。この競技場は400mトラックを持つ

公式競技場である。一郎は走り高跳びにエントリーされていたのだが、この選抜方法がいい加減であっ

た。陸上部の顧問はオケラの綽名のある須藤先生である。放課後一郎たちが走り高跳びをして遊んで

いたとき、オケラがやって来てこう言った。

「郡市対抗が3日語にあるんだが走り高飛びの選手がいない、誰かやってくれないかな」そして一郎が

ベリーロールと言う飛び方で飛ぶと

「上手いな、君、頼むから選手になってくれないか」返事を渋っていると強引に

「よし決まった。後で打ち合わせするからそのつもりでいてくれたまえ」厭もおうもなかった。

競技会が始まった。走り高跳びは1m50cmしか飛べずに、横須賀の中学の子がロールオーバーと言う

飛び方で1m55cmをとび1位、試技の関係で一郎は3位になった。その頃は背面飛びはまだなかっ

た。そして運命の400m競争が迫っていた。しかしこれもいい加減で、オケラは20分前になってから

「選手がいないから誰か出てくれないか」と言ってきた。みんな声をかけられないように下を向いて

小さくなり、オケラと目を合わせないようにしていた。ところがじろじろ見回していたオケラと一郎の

目が合ってしまった。

「おっ、いたいた。東谷君、君400mに出てくれないか、なーに、最後まで走ればそれでいいから、な」

と言った。無責任な話である。厭だと言う間も与えず決めてしまったため、仕方なく走ることにした。

外の連中はほっとした顔をして安堵の吐息をついた。その時点で、一郎は400mがどんなに辛いか

認識していなかった。それがとんでもないことになり、恥ずかしい思いをすることになるのである。正直

一郎はまだ高を括っていて、何ほどのことやあるなどと思っていたふしがある。この辺りが向こう見ずの

お調子者たるゆえんであるのだが、自信過剰が裏目に出た典型的な例であった。

 メンバー中に角井何某という県下でも有名な選手がエントリーしていた。スタートして暫らく、一郎は

400mもあるのだからと思い、スタミナを温存するつもりでゆっくり駆け出したが、角井は信じられな

いスピードで走り出し、1コーナーで早くも先頭に立った。ほかの子も何人かは角井についていったの

だが、一郎ともう一人、逗子中の子かもしれない、が飛び抜けて後方を走る羽目になった。多分逗子中

子も一郎と同じように選抜されたのであろう、気の毒な話である。二人はスピードが上がらず、離される

一方で、300mを過ぎたあたりからもう、息が上がり、足が言うことを利かなくなってしまった。

それもそのはず、400m競争はものすごくきつい競技である。陸上部で400m専門に普段から鍛錬し

ていなけれ走れるものではないのだ。その角井は既にゴールインししていたが、くだんの二人は大きく

遅れ、4コーナーからは走ると言うよりむしろ、歩いているといった感じで、這い蹲るようにゴールイン

することになってしまった。一郎はどん尻だった。恥ずかしかった。猛烈に後悔した。みんなで笑って

いるだろうと思うとオケラが憎らしかった

 その後、一郎は何度も狩り出されたが、陸上競技は面白かった。しかし上には上がいるものだ、世間は

広いなーっと、つくづく思い知らされたのである。(つづく)

 その日の事件はまだ終わったわけではなかった。山の麓まで逃げ帰った一行は興奮冷めやらず、まだ

胸が高鳴っていた。マサは青い顔ををして震えていたし、ハルコは怖いといって帰りたそうな素振りだ

った。作坊は竹で作った山芋いれを大事そうに抱えていた。みんな無口になってしまった。ヒマワリが

彼らに与えたショックは大きかったのである。そんな空気を振り払うように栄助が「腹減ったなあ」と

言った。そういえば昼近い時刻いになっていた。

「どうする?このまま帰るか」一郎はいまいち物足りなかったのでみんなに聞いてみた。

「なにする?また戻るのかい、今日はもうやめたほうがいいんじゃね、まもなくお昼だべ」と良雄がさも

恐ろしいといわぬばかりに肩をすくめた。

「だけど、面白くないよな。このままじゃ中途半端だ。もう一仕事やるか?」横に被っていたGマ−クの

ついた野球帽を直しながら言った。

「仕事って、何やるんだ?」作坊が目を光らせて、興味深そうに言った。

「お前ら、喉が乾いてないか?俺はからからだ。これからタンゾに行って柿を盗ろうぜ」タンゾとは

谷戸になっている土地に田んぼや畑が綺麗に整備された場所の地名である。坂になっている中断に

柿の木が5本並べて植えてあった。三日前に一郎は一人で下見に行き、全ての柿の木に赤い実が鈴生り

なっているのを確認してあった。一郎はここの柿のうち、右三本が渋柿で左の二本が甘柿なのを知って

いたのだ。ガキ大将だったツネちゃんが教えてくれたのである。そしてこの柿の持ち主がめったに

来ないのを知っていた。

「おもしれえじゃん、俺も喉が乾いたから、柿食いてえ」作坊がすっかりその気になったようだ。

「ハルコとマサはどうすんだ?帰ってもいいぞ、何、一緒に行くってか、柿が食いてえだと?」一郎は

二人を連れて行きたくなかった。遊びとは言え盗みである。しかし彼らは盗みという認識ではなく、

実らせているものを盗ることと、山で自然になっている実を採ることと同じ感覚でいたから、罪の

意識は薄かったのである。丹精を込めて実らせたものを、遊び感覚で失敬される持ち主はたまったもの

ではないだろう。まして食べ物が十分にあった時代ではないから、貴重な食べ物であったはずだ。最近

のように、せっかく実っても採ることをせず、カラスや小鳥の餌になっているのを見ると隔世の感が

ある。しかし、当時の腹をすかした餓鬼どもにはお誂えのご馳走であった。

 衆議一決した一行は少し戻って蛇の出た雑木林と反対側の杉林の中に入って行き、一山超えてタンゾに

到着した。行程15分、急な斜面を上り下りしたので、余計喉が渇いてしまった。目の前には赤く実って

瑞々しい、いかにも美味そうな柿がおいでおいでをしているように見えた。身を潜めている林から柿の木

まで約10mほど離れていた。一郎は人がいないかどうか、透に偵察に行けと命じた。透は身をかがめて

少しでも隠れることが出来る木の影や、土手の下を走って行って、柿の木の下にたどり着いた。そして

人がいないか確認して手で円を描いた。一郎はわくわくしていた。みんなは戦争ごっこでもしているよう

な気分になっていた。一郎はみんなの先頭に立って、腰を曲げ、頭を低くコンバットのように素早く

駆け出した。透は誰もいないと合図してきたから、別に警戒する必要はなかったのだが、そうしなければ

ならない雰囲気だった。良雄は半信半疑でまだ迷っているようだったし、マサとハルコは緊張して足を

がくがくさせてついてきた。

「いいか、間違えるなよ。右の三本は渋だぞ。左の二本だからな」一郎は確認のため言い聞かせた。

「赤いのを採れよ、採ったら入れられるだけポケットに入れろ。枝を折るな、実だけ採れ。それから

やばくなったら、林の中にくらまして逃げ込め」

一番左の木に良雄と栄助と透が登っていって、早くも最初に採った柿にかぶりついた。

「うんめー、たまんねー」と言って、良雄は柿の皮と種を吐き出した。

「柿の木は折れやすいから気をつけろよ」一郎は隣の木に登りながら注意した。

一郎のあとを追って作坊が登ってきて、盛んに採ってはポケットに入れていた。ハルコは一郎とは反対の

幹に取り付き一つマサに採ってやり、自分も二つ取るとスカートのポケットに入れて、降りてきてマサと

交代した。マサは危なっかしい格好で木に登り始めた。

 ここまでは順調だった。があいにくその日は日曜日だったため、思わぬ展開が待っていたのである。

「この野郎、どこの餓鬼だ。ふてえやつらだ」持ち主が突然現れた。杖代わりに持ってきた棒を振りかざし

下のほうから柿の木に向かって突進してきた。けちべえと綽名される勘兵衛の親父だった。この付近の

大地主だが綽名の通りけちの上に意地悪で有名だった。年齢は40代後半のようだが既に頭は大分

禿げ上がっていた。平日は役場に勤めていて不在だが、日曜日であったため散歩がてら、畑の見回りに

来たのにぶつかってしまったのだ。

「逃げろ!、もたもたするな!」一郎は大声で逃げるよう指示すると、自分も素早く木から飛び降りて

杉林に向かって走り、林の中断まで逃げて後ろを振り返った。良雄を先頭に作坊、栄助、透、ハルコが

転げるように一郎のあとを追ってきていて、はーはーと息を弾ませていたが、マサがいなかった。

するとマサの大きな泣き声があとを追うように聞こえてきた。

「しまった。つかまっちまったか、参ったな」一郎はマサとハルコを連れてきたのを悔やんだ。相手が

悪いと思った。あの噂のけちべえである。

「おーい、お前ら、こいつを置いていくのか」けちべえが怒鳴っていた。

「こいつをおまわりに突き出してもいいのか?」おまわりと言う言葉にマサは一段と大きな声で泣き

わめいた。

「いっちゃん、どうしよう、マサが・・」弟を質に取られた良雄はおろおろと落ち着きがなかった。

「どうするって言ったって。しょうがねえ、助けなきゃ」一郎は迷ったが責任を感じていた。リーダーとし

てやらなければならないことは一つだった。

「俺が行って謝ってきてマサを貰ってくる。お前らここで待ってろ」というと

「いいや、いっちゃん一人行かせるわけにはいかねえ、俺達も行くよ」と良雄が作坊や栄助を見ながら

言うと、みんなうんうんと肯いた。一郎は良雄の意外な言葉に「へえ」と思い、彼が案外に成長して

いるのに驚いて思わず顔を見つめてしまった。

「分かった、ありがとな、それじゃあみんなで誤りに行こう」一郎は覚悟を決めて先頭に立ち、林から

出て行った。一郎の陰に隠れるように後を付いてきた。

「出てきやがったな、悪たれどもが」勝ち誇ったようにけちべえが声をかけてきた。

「すみませんでした。お願いですからその子を帰してください。盗ったものは返しますから、勘弁して

ください」一郎はけちべえに頭を下げた。

「何だ、女の子もいたのか、どこの子だ?あっ、熊田んとこの娘か。女だてらに柿泥棒たァ恐れ入った

な、先が思いやられるわい。ああ、お前は東谷だな。お前が頭か?盗ったものを全部出してみろ」

 全員が前に出て盗った柿をポケットから出して並べた。出てくるは、出てくるは、作坊はズボンの

ポケットの中だけでなく、首からシャツの中に入れてお腹の周りが膨らんでいた。透は脱いだ上着に

10個ほどくるんでいたのを並べたし、良雄は一つのポケットに3個づつ入れてあった。ハルコは

スカートを袋にして持っていたので歩きにくそうだった。みんな出し終わると30個ほどの塊になった。

「お前らなあ、本来ならおまわりに突き出されても文句は言えないんだぞ」から始まって、えんえんと

お説教が続き、仕舞いには親を呼んで来いと言い出したが、一郎がひたすら恭順の姿勢を崩さなかったの

で怒りも収まったようだった。

「まあいい、今日は許してやるが、今度やったら承知しないからな」と言って

「せっかく採ったんだから、一人に1個やるからもっていきな。正直に戻ってきた仲間思いのその気持ち

に免じて褒美だ」以外だった。けちべえがそんなこと言うとは思わなかったのである。今までの評判は

なんだったんだ。人は見かけによらないと思った。一郎は礼を言って一つ手にとった。するとマサまで

泣きながら手を出してきた。

 元いた杉林に戻り、置いてあったのみや山芋の入った竹の包みを担いで帰途に着いた。全員精神的

な疲れと空腹で口をきくものはいなかった。朝渡った森戸川まで戻ってくると、今にも降りそうだった

雨が落ちてきた。空に手をかざしながら良雄がぽつんと言った。

「今日はついてなかったな。ヒマワリは出るし、けちべえに捕まるし。あーあ、とうとう雨まで降って

きやがった」 (つづく)

 秋も深まった日曜日の朝、目が覚めて寝ぼけ眼のまま窓を開けて空を見ると、どんよりと曇っていて、

今にも雨粒が落ちてきそうだった。この地区では暖かいせいもあって、紅葉が遅い。たとえ紅葉しても

北国や山国のように全山燃えるようだという形容など出来ない。枯れた茶色がかっていてあまり美しい

とはいえないのである。その中でひときわ目を引くのは山芋(自然薯)の葉である。藪や雑木の枝に盛り

あがるように巻きつき黄葉した葉は美しい。美しいばかりでなく美味しい山の恵みでもあるのだ。小さい

頃、ツネちゃん達のあとを追いかけてあちらの山こちらの山を駆け巡ったことを思い出していた。

「そうだ、そろそろ山芋を掘るのにいい時期だ、アケビも食べごろだろう。よし、山に行くか」

 この一年一郎は鬱々として楽しむことがなかった。妹は5歳、弟は3歳になり、親にしてみれば可愛い

盛りの七五三を控え、義父も母親も二人にかかりっきりになっていた。義父はよだれを流さんばかりに

甘やかし、妹や弟の言うことを「そうかそうか」と言ってなんでも聞いてやるのに比べ、一郎の胸のうち

を斟酌する余裕すらなかったのである。ただ悪い兆候として、義父の健康状態が思わしくなく、医者に

かかるようになった。義父は自分の調子が悪いため、ままにならないものだから機嫌が悪く、いつもいら

いらしていた。戦争中から戦後にかけて日常的に、浴びるように飲んでいた酒とタバコが原因だと分か

っていながら、相変わらず酒もタバコもやめようとしなかった。母親に聞くと義父の肝臓は相当痛んで

いるという話だった。母親も一郎も始終びくびくして、腫れ物にでもさわるような有様だったから、

一郎は義父の近くに寄り付こうとしなかった。するとまたそのことが気に障り「可愛げのない奴だ」と

いって、酒を飲みながら母親をちびちび弄るのである。一郎はなるたけ知らぬ振りをしていたが、徐々に

心が荒れていくのを止めようがなかった。遅れていくのがひしひしと分かる勉学への不安と焦り、反抗期

と義父への不満があいまって、胸の中がざわざわと不気味な音を立てていた。やり場のない鬱屈した思い

を何かにぶつける必要があった。なんでもよかった。大好きな野球に打ち込めればまだ救いがあったの

だろうが、義父は野球部への入部を、何故か頑として認めようとしなかったのである。4年のとき、

ツベルクリン反応が陽性になりBCGを打つことになった。それが効きすぎたのか軽度の肺結核の兆候

が見られるようになり、一時期体育の時間見学していたことがある。多分そのことが原因で、義父は

激しい運動は無理だと判断したようだ。

 その日も義父は勤めに行かずに、具合が悪そうな様子で、布団から起きては来なかった。母親は

「大きな音を立ててはだめよ」と妹と弟に言って聞かせていた。一郎はいたたまれず、朝食をとるとすぐに

うちを飛び出して行った。一瞬たりとも家に居たくなかったのである。良雄の家に行って良雄を呼び出し

「これから、山芋を掘りに行くから誰か行きたい奴連れて来い」と言うと良雄は作坊、栄助、透を連れてき

た。いつものように味噌っかすのマサと男勝りのハルコが「俺達も連れてって」と聞かなかった。ハルコは

女の子とはあまり遊ばず、いつも一郎達の後を付いてきた。木登りをやらせてもマサの比ではなく、行動

は機敏だった。

 当時どこの家にも山芋を掘るための「のみ」と呼ばれている、1mほどの長さの棒の先端部分に長方形の

鉄製の刃物がついた道具があった。本来の使用目的は木材の柱を地面に埋め込む穴を掘るための物らし

い。良雄も作坊ものみを持ってきた。栄助と透は穴掘り用のスコップを手にしていたが、マサとハルコは

手ぶらでやって来てはしゃいでいた。その頃まだ林業が盛んで永野材木店は多くの山師を抱えていた。

山師の仕事は無用な下枝打ち作業と下刈り、植林、木材の伐採である。そのために近隣の山は整備され、

そまみちが作られていた。だから子供達が山に入っても危険はなかったのである。山は少しでも放って

置くとすぐ竹やら雑草が生い茂り道がなくなってしまうのだ。近年緑派と称して、緑を守るんだなどと

いって山の雑木を切るときちがいみたいに騒ぎ立てる輩が居るが根本的に考え違いをしていると思う。

戦後の復興が急ピッチで行われ、杉やヒノキの需要が逼迫していたので、毎日大量の木材が切り出されて

いった。いつの頃からであろうか、永野材木店のあれほどいた山師が姿を消し、比例するように山が荒れ

ていったのは。今では近くの山さえ篠竹や雑木が生い茂り入ることさえ出来ない。

 木登り鬼ごっこをした林を抜けて森戸川を渡り対岸の山に入った。そま道は整備されていたし、杉の林

の中はきちんと下刈りされていた。狙いは斜面に生えている杉林の中だった。斜面を登っていくと昔誰か

が山芋を掘った穴が埋められずにいくつかあった。一郎はツネちゃんから掘った穴は埋め戻しておけ、

そして根の部分をそこに挿しておけ、そうすれば来年また同じ所に生えてくるぞ、それがマナーという

もんだといわれた。細い杉に巻きついている山芋の蔓を見つけることは難しく、また地面から生えている

場所を特定するのも厄介だった。一郎は見当をつけておいた場所に行き、山芋の蔓を丁寧に辿って生えて

居る場所を見つけた。良雄も作坊もそれぞれ探し当てて掘削にかかった様子だった。山芋の掘り方には

コツがある。ただ闇雲に上から垂直に掘っても掘りきれる物ではない。斜面に沿って地中深く潜っている

山芋を傷つけないよう注意深く掘り下げていくのだ。大変な労力がかかるため、子供は一本掘ればくたく

たになった。一郎は指二本分の太さのある、長さ80cmぐらいの中物の山芋をようやく掘ることが出

来た。晩のおかずにするには十分な大きさだった。一郎は一本掘っただけで疲れてしまったので良雄を

見に行くと、親指大の山芋を、まだ一心に掘っていた。作坊は人差し指大の先が太った一本を堀上、竹を

切ってきて折れないように包んでいた。一郎と良雄の山芋も一緒に包んだ。栄助と透は蔓を探せなかっ

た。マサとハルコは杉林の中で追いかけっこをして遊んでいた。

 一行はすっかり疲れてしまい、今度はアケビを取りに行くことにした。雑木林に入っていくと、大きな

欅の木に巻きついているアケビのつるを発見した。梢を見ると紫色をした食べごろのアケビがたくさん

ぶらさがっていた。良雄と栄助が木に登っていった。熟れて半分口があいて中の白い実が見えているのも

あった。だが開きすぎのアケビは大抵、鳥に中身を食べられていてもぬけの殻が多い。割ると中

に白い、熟れると透明感のある甘い種がはいっている。その部分だけ味わって、黒い種を吐き出すのだ。

甘味のない時代だったから、美味しいと思ったが、今食べてみれば、さして美味いものではない。

 一郎は上を向いていて良雄達にアケビのある場所を指示するのに夢中になって、足元までは注意が

まわらなかった。何かに見られているような気がして、ふと足元を見たとき、一匹の蛇が足元に近寄って

来るのをつけた。一郎は一瞬総毛だった。誰でもそうだが一郎は蛇が苦手だった。なんでも人類は恐竜

時代のDNAを持っているから本能的に爬虫類を警戒するのだそうだ。幸い一郎はゴム長靴を履いていた

から咬まれる心配はなかった。しかしその蛇は見たことも無い、紫の体色に丸い形の斑模様で、頭は三角

形の典型的な毒蛇の特徴を持っていた。一郎は咄嗟に持っていたのみで蛇を突き刺した。何回も、何回

も、これでも食らえとばかり必死になってのみを振るった。蛇がのたうつ姿を見て一郎は残忍な気持ちに

なっていくのをとめることが出来なかった。

「良雄、蛇が出たぞ、ヒマワリだ。今のみでついてやったから、もう死んでいるかもしれないが、ここを

引き払うぞ、降りて来い」

「まだちっとしか採れてねえよ」

「それよりか、ここに居たらまだ出るかもしれないからな。それでもいいのかよ」

「待ってくれ、今降りるからよ。本当にひまわりだったのかよ。それはやばいじゃん」

その頃、子供達の間で噂になっていたヒマワリという蛇は、マムシより強烈な毒をもつと言われていた。

実際にいたのかどうか疑問であるが、一郎は確かにヒマワリだったと、その気味の悪い物体を思い出す

たびに、確信している。冷静に見ればマムシだったかもしれない。が、いずれにしろ秋のマムシは逃げず

に向かってくるからといわれた言葉が頭にあって恐ろしかったのだ。ハルコとマサは一郎の言葉で、悲鳴

を上げてその場を転げるように逃げ出して行った。(つづく)

中 学 時 代 その2

 中学校の授業は小学校と異なり、教科ごとに受け持つ先生が代わるシステムだった。1時限ごとに

先生が代わるのでその都度雰囲気も変わる。つまらない授業もあれば、冗談を行って笑わせる先生、いか

にもこわもてのぴんと張り詰めた授業があったりして面白かった。中でもブルドッグと綽名されている

副校長先生の世界地理の授業は私語するものがなく、しんとしてしわぶき一つ聞こえなかった。聞こえる

のは先生のどすの利いた太い声と、ノートをとるさらさらという静かな音だけである。大きな体格と、ブ

ルドッグのような精悍な顔つきは新中学生にとって、それは恐ろしい存在だった。国語は篠崎と言う女の

先生が担当だった。篠崎先生は当時の一般的な女の人に比べると大柄で、多少太めであるが、若い頃は美

人であったと思われる。お年はよく分からないが多分、50代であったのだろう。なかなか厳しい先生で

、授業中はいつも目を見るように、発表するときも先生の目を見るように指導された。一郎たちが坊ちゃ

ん刈りをしているのを見て「中学生になったのだから髪を前にたらさずに横に分けなさい」と言われた。

翌日からみんな分け目を入れて登校してきた。お互いの分け方がなんとなく様になっていないのを見て笑

いあった。そのほか特異な綽名を付けられた先生方を紹介しておく。達磨大師に風貌が似ている社会科

担当の門倉先生が怖い存在だった。背が低くて丸々と太った毬のような体型、太い眉とぎょろっとした

大きな目をしていたのでビヤダルの綽名がついていた。その大きな目で睨まれると本当に怖かった。音楽

担当はオキャンと呼ばれる北村先生である。綽名から分かるように女の先生で、これまた年齢不詳の

大年増である。まだ独身と言うことだったが、オキャンは一郎と八つ違うツネちゃんがいた頃からいたか

ら30代だったか、或いは40代だったのかもしれない。甲高い声で話すのと怒るとキャンキャンスピッ

ツが鳴く様だったのでその名がついたものと思われる。保健体育の須藤先生は何故かオケラと呼ばれてい

た。風貌からついたのか、ゴマすり体質を生徒に見透かされてオケラと付けられたのか不明である。そう

言えばオケラは副校長ブルドッグの腰巾着のようにいつもお愛想を言っている姿を見かけた。小学校の時

同じクラスにいた佐藤正の父親、綽名はノソ、は背が高くひょろっとしていて頭が薄かったのでハゲとも

呼ばれている国語の先生である。さすがに息子のいる1年の担当からは外れていたので授業を受けた

事はない。英語の担当は三田村と言う女の先生で、タヌキと呼ばれていた。単純に体の格好がタヌキに

似ているだけだ。まん丸で小柄な体に丸い顔、眼鏡をかけていた。もう一人英語と社会担当のサダチャン

と呼ばれている門野先生がいるが、これは名前の貞夫からきている。同様にケイセイも名前の下田経世

からとった綽名で、国語の先生である。このケイセイ、下田先生は後に一郎と深く係わってくる。

 中学になって新たに増えた科目は英語と職業家庭、習字、保健だった。美術も学問としての授業は初め

てで、小学校の頃のようにただ絵を書いていればいいのとは異なっていた。一郎は絵を描くのが苦手

だった。だからいつも真面目に描いたことがなかったから描くだけなら最低の成績を付けられても文句

は言えなかったが、美術のテストになるときちんと答えを出したので困った先生は評価3をつけざるを

得なかったのだ。毎年全学年の写生大会が開かれ、夏の葉山海岸を中心にして、おのおの好きな場所を選

んで写生し、提出する事になっていた。2年の時、一郎は海で遊ぶ絶好の機会だと思い、画用紙全体を

真っ青にぬり左下に白で氷と書いただけの絵を早々と書き上げ、森戸神社裏の磯で遊んでいた。本当は

こんなことしたくはなかったのだが、反抗期と家のごたごたが重なって、やたらに、気が滅入り、わざと

したことではあった。お叱り覚悟の上の行動だったが、不思議なことに何故か担任からも美術の栢山先生

からも、なんのお咎めもなかった。その折始めてみる顔が近くで絵を描いていた。丁寧に描かれた商店街

の絵だった。一軒一軒の様子をこと細かにいろんな色を駆使して描いていた。一郎は目を見張ると同時に

感心した。後になって分かったのは田川勝人だと言うことと転校生らしいと言うことだった。小学校の時

に転校してきたがクラスが違うため分からなかったのである。この田川勝人は同じ高校に進学してから

親しくなり山勘同様生涯の友になる。

 社会科も1年次日本地理と世界地理、2年次日本史と世界史、3年次政治倫理公文、理科も同様に

生物、科学、物理に分かれていた。新しく教科にくわえられた英語はリーダーとグラマーに分かれ、

職業家庭も農業、工業、商業、家庭科に体操も保健と体育に,数学も代数と幾何にわかれ、それぞれ

一教科となっていた。小学校の授業と比べるとより学問的であり、専門性が増していて、覚えなければい

けないことが多かった。一郎はまだ小学校の延長気分が抜けず、深く勉強しようとはしなかった。授業は

聞いた限りにおいてはよく理解できたしそれほど難しいこともなかったのだが、中学の授業はそれだけで

は理解したとはいえなかったのである。教科書を読み分かったつもりになっただけで、その実なにも

分からないのに等しい。演習問題を数多くこなし様々なケースに対応できる能力をつけなければならなか

ったのである。当然のごとく成績は下降線を辿り、6年のときのあの輝きは急激に色あせていった。

(つづく)

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