挫折

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挫 折 その2

 暮れのある昼下がり、ひげトラちゃんの小林先生が本来の職務である簡易保険の集金で一郎の家にやっ

て来た。玄関先で応対に出た母親と四方山話をしている時、一郎の進路についての話題になった。

「中学を卒業したら県立の商工実習へ行かせたらいい。授業料は安いし、卒業すればあそこなら就職の

心配もない。早く社会に出した方がよいのではないか。今から考えておくほうがいいよ」何気なく聞いて

いた一郎は変な成り行きに思わず耳をそばだてた。冗談じゃない、絶対厭だと思った。小林先生は一郎の

境遇を考えて良かれと思って話したのであろう。一郎はその話しを聞いたとき漠然とではあるが

「そんなに早く、今から人生の行く道を決めていいのだろうか、俺はまだ将来を決めたくない。大学に入

ってもっといろいろなことを見たり、聞いたり、体験したいのだ。大学を卒業するまでまだ10年も

あるじゃないか。高校に行って技術を習得しどこかの工場で真っ黒になって働く自分の姿は見たくない」

と思った。一郎の頭には将来自分がどうしたいのかまだ何も考えてはいなかった。ただこれから中学に行

き高校から大学にいくのだろうと思っていただけだ。それならその第一歩として有名私立中学に入るべ

きではないだろうか。だが私立に入ったら今よりずっと困窮生活を強いられるのは眼に見えている。性格

的にのんきだった母親は生活がより苦しくなってもいいと覚悟をしたようだったが、入ってからの入学金

や授業料、制服代、交通費にかかる費用を考えると、可哀相だが試験に落ちてくれたほうがいいと思わざ

るを得なかった。私立に行かせる余裕は無かったのである。
 
 一郎は厭だと言えぬまま三学期を迎えた。

「なあに、入学試験なんて普段の勉強をしていれば、お前の力なら通るさ」小林先生は自信たっぷりに

励ましてくれたので、一郎はすっかりその気になって、「試験などちょろいもんだ」と思うようになり

特別な勉強をしなかった。小林塾でも今の塾のように受験テクニックを教えることはなく、いつも通り

の授業に終始した。

 試験当日は雲が重く垂れ込める寒い日になった。京浜田浦駅を降り、長浦の交差点を突っ切って細い

道を入っていくと長浦港に出る。当時栄光学園は長浦港の脇にあったが、現在は大船の観音様の裏側に

引越ししている。長浦港には米軍の駆逐艦や掃海艇に混じって日本の海上保安庁の船が停泊していた。

校舎は木造二階建ての古ぼけた建物だった。なんでも海軍の兵舎として使われていたらしい。

 一郎はすっかり上がってしまい、何か雲の上を歩いているように心もとない足取りだった。普段は聞こ

えない動悸が早鐘を打つように胸から伝わってきた。答案用紙が配られて最初の問題を見たとき、見た

事もない不思議な設問に度肝を抜かれてしまった。「何だコリャ」いくら読んでも問題の意図が読み取れな

かった。普段勉強している設問は解けたが後はお手上げだった。構内で行うテストとは根本的な違いがあ

った。一方は教えたことを覚えさせるためのテストであるのに対して、入学試験は振り落とすための

テストである。一ひねりも二ひねりもひねってある問題などやったことがなかった。事前にどんな問題が

出るのか調べて、それにあった勉強をしておく必要があったのだ。結果として初めから方向性が間違って

いたと言わざるを得ない。試験の結果はいうまでもなく惨憺たるものであった。一緒に受けた渡辺と熊谷

は受かり一郎は落ちてしまった。あとで聞くのも業腹であったから聞かなかったが、彼らはそれなりの勉

強をしていたに違いないと思った。一郎は試験に落ちたことは悔しかった。「こんな筈ではなかった。偉

そうなこと言っていながらなんてざまだ。俺の実力はこんなものだったのか」と自分を責めた。しかし気

持ちは落ち込むことなく、むしろ肩が軽くなったような気がして「いったい何をしているんだ」と自分自身

に問うた。そのとき「葉山中学へ行こう」と心に決めた。

 一郎が入学試験に落ちたことは彼の周りにいる人々を落胆させた。藤倉先生も、小林先生も納得がいか

ない様子だった。一番納得がいかないのは義父だった。それゆえ彼らは相談して、まだ入学試験の終わっ

ていない、鎌倉にある横浜国大の付属中学を受験させることにした。義父も乗り気になって、前の試験か

ら間がないのに付属中学に行き、願書を取り寄せてきた。一郎はもう試験は受けたくなかった。たとえ受

かったとしても、見たことも無い連中と勉強をしなければならなくなるのは厭だったし、鎌倉に通うのは

あまり気が進まなかった。「葉山中学でいいじゃないか、何故いけないのか」一郎は思ったが、口に出して

いえなかった。ばたばたと話が決まり、結局受験する羽目になってしまった。藤倉先生が言うには葉山小

から付属を受けるのは一郎と、同じ組の工藤さんの二人だそうだ。工藤さんのお父さんは大学で講師をし

ていると聞いた。

 結局又、一郎は受験に失敗したが工藤さんは見事に合格した。義父はあきれた顔をして「まあしょうが

ないか」と言った。母親は一郎が可哀相だといって台所で泣いていた。其の夜義父は酒を飲み不機嫌な様

子で口を利かなかった。一郎が自分の部屋に入ったあと、二人がどんな話をしたか分からないが、あまり

よい話でない事は間違いない。

 無事卒業式を迎えた。卒業式で6年4組の成績優秀者の表彰は総代稲盛、優秀者は一郎と工藤さんにな

った。塾仲間の峰岸義弘は関東学院に、金井は学習院中等部へ、田所さんは北鎌倉女学院へ進み、残りの

大部分は葉山中学に行くことになった。

 この一連の事件、一郎にとっては事件だ、はうまれて始めて味わう屈辱であり、一郎の人生における最

初の挫折だった。それは一郎の胸の中に黒い澱となって残り、これからの長い人生に少なからぬ影響を

与え続けることになる。

挫 折 その1

 1954年(昭和29年)一郎は最上級の6年に進級する。この年の3月、焼津の漁船第五福竜丸が

南太平洋ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による死の灰を浴びた。岡崎勝男外相は「アメリカの

核実験阻止は日本としてすべきではない」と衆議院で答弁したが、杉並区の主婦が原水爆禁止の署名運動

をはじめ、この年二千万人が署名した。翌年第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。

 ようやく日本の高度経済成長が始まろうとしていた。しかしまだ道路を走る車はアメリカ車が多く、

日本車はほとんど見る事がなかった。一郎の住んでいた地区が横須賀港にある米軍キャンプ地に近接して

いたので武山の駐屯基地と行き来する軍属が多く、彼らが乗るアメ車が頻繁に国道を通った。一郎たちは

学校の行き帰りにアメ車の名前の当てっこをした。フォード、シボレー、ビュイック、リンカーン、キャ

デラック、スチュウドベーカー、ジープ、クライスラー、等々特徴のある形と名前をどちらのほうが覚え

ていて早く当てることが出来るか競争だった。又、前年にはテレビ放送が始まり、相撲や野球の中継が見

られるようになったが、54年のテレビ視聴の契約台数は約一万台しかなく,一般の人々が見たのは放送

局が普及を狙って人の集まる街頭に設置した「街頭テレビ」だった。あの頃人々を熱狂させたのはプロレス

の「力道山」である。ちなみにテレビの値段は、当時大卒初任給が7千円に対して18万円もしたのだ。

 ところがある日一郎の隣に住んでいるガキ大将だったツネちゃんの家に電気屋がやって来て、敷地に

生えている松の木にアンテナを括り付け、家の中にドーンとテレビを据え付けていった。父親熊田八五郎

のあとを追って郵便局で郵便配達している、あのツネちゃんである。噂はあっという間に広がり、あれこ

れ言う者がいたがまだ二十歳になったばかりの若者にしては快挙であった。その頃一郎は、オンリーの

節子さんが昔、間借りしていた東向きの窓がある部屋を勉強部屋として与えられていた。ツネちゃんの

テレビ部屋は畑をはさんで一郎の部屋の正面に位置することになり、机に向かうと左横眼に見えた。

近所ではテレビがツネちゃんちだけにしかなく、大人も子供も夜になるとツネちゃんのテレビ部屋に

やって来た。ツネちゃんは鷹揚なもので、自分が特等席に座るほかはうるさいことをいわず、狭い6畳間

と縁側をスペースにして招きいれた。ツネちゃんは得意だった。まだ誰も買えないテレビを買ったのは

俺だけだと一人で悦にってはにんまり笑ったりした。だから見物客が来ることは苦になるどころか、ご機

嫌で出迎えたのである。もともと格好をつけたがる性癖があった。一郎も毎晩見に行った。

 話は変わるが、この年義父は何を思ったのか、PTAの会合に顔を出すようになった。義父はいわゆる

そとづらがよく社交的である代わりに、うちづらが極端に悪かった。ご機嫌のときと不機嫌の差が激しい

のが特徴で、たとえば一郎が熱を出して寝込むようなことがあると、やれ水枕をしなくていいのかとか、

医者を呼んでこようかなどと親身になって心配し、おろおろとして落ち着かない。逆に不機嫌だと口も利

かず、気に食わないことがあると、あの三角白眼で睨み付けるのだ。現在の話だが、彼の家に3匹の

猫が飼われていて、普段餌係をして猫っ可愛がりに可愛がっているかと思うと、突然豹変し、怒鳴ったり

ひどいときは殴ったり足蹴にして、こう言うのが常だ。

「猫なんてバカだから叱ったり叩いたりして悪いと分からせなければだめだ。誰も怒らないから付け上が

るのだ。悪いのはお前達だ」そうして家人のせいにするのである。ジキルとハイドのような性格をしてい

る。義父はPTAの役員を引き受けるようになり、徐々に信用をつけながら、一郎が中学3年のとき

押されてPTAの会長に就任することになる。

 6年に進級しても一郎の快進撃は止まる事を知らないようだった。後になって考えてみればこの頃が

一郎の一番得意な時代であったといってもいい。何をしてもトラブル事はなく順調そのものだった。

 藤倉先生は主力科目のテストの個人成績を後ろの伝言板に張り出した。方眼紙の大きなものに生徒の

名前を書き、その上に一枡を100点にして塗りつぶし点数によって塗りつぶす範囲を決め、順に重ねて

行き棒グラフを作っていくのである。一郎はどの科目もほとんど100点だったから、棒の高さはいつも

一番高かった。もちろん秀才稲盛も高かったが一郎にはかなわず、ただ女子の田代さんが一郎に引けを取

らない勢いで100点を重ね、いつも競争になった。斉藤さんも遜色はない。小学校のテストはそれほど

頭を使うこともなく、きちんと勉強して計算間違えなどしなければ100点をとるのはそう難しいもの

ではなかったのだ。しかしそういう一郎を見て周りが過大評価するようになっていったのである。

 中学進学の選択する時期が来ていた。藤倉先生も小林塾の小林先生も両親も一郎を、当時私立で一番と

言われた栄光学園を受けさせたらどうかと考えるようになり、それが、一郎なら受かるだろうから

ぜひ受験させようということになってしまった。正直に言うと一郎はどうでもよかったのである。稲盛

はどんな事情か分からないが、私立への進学は考えていなかったし回りにいる子達は皆葉山中学へ進学

すると聞いた。一郎はみんなと一緒に葉山中学へ行きたかった。噂を聞くと栄光学園を受けるのは

一組の秀才渡辺靖彦と三組の一郎の近所の床屋の息子熊谷博と一郎の三人らしいと言うことだった。

一郎の躊躇する理由の一つが、家計の問題だった。ただでさえ苦しいのに、仮にも私立であれば余分な金

がかかるのは眼に見えていた。苦しむのは母親である。ところが一番熱心なのは義父だった。義父は気位

が高く見栄っ張りな性格そのままに、自分の子が有名な進学校に進むことを自慢したかったのだ。

そういえばある日母親がしみじみ漏らしたことがある。

「一郎、お前が勉強が出来て良かったとつくずく思うよ。もしお前がだめな子だったら今頃何を言われて

いるか、考えただけでぞっとする。あの人はお前の前では何も言わないけれど、私には随分なことを

言うからね。聞きたくないよ」一郎は義父が母親にどんなことを話して入るのか知りたいと思ったが、

逆に知りたくもないぞと思い直すことにした。どうせくだらない難癖にちがいないからだ。(つづく)

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