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一行は夕方バンガローに戻り夕食の仕度にかかった。バンガローのすぐ前に簡易竈があり、煮炊き出来
るようになっている。燃料は管理事務所で薪の束と木炭を買い求めた。先生や先輩が背負っていた大きな
リュックサックの中は野菜やお米、肉や調味料のほかに、飯盒、鍋、、包丁などの炊事道具が入っていた
のだ。ご飯を炊くのは初めてだった。飯盒というものを見たのも初めてだった。一郎はお米の研ぎ方や
どのくらい火にかけておくのかも分からなかったが、三回目のキャンプを経験している先輩達が手際
よく教えてくれた。お米が炊き終わったら飯盒を逆さにして蒸らすのだということも学んだ。片一方では
カレーを作るためにジャガイモや人参、玉ねぎを刻んでいた。味噌汁は乾燥若布を水で戻し適当に刻んで
入れるものだった。釣ってきた鱒ははらわたを抜き出し、木の枝に刺して火の周りに立てておいた。
しばらくすると魚の焼ける臭いが漂い始め、おなかがグーと鳴った。
「さあ、飯にしよう」カレーの鍋をかき回していた先生が火にかけてある鍋を下ろして、みんなを呼んだ。
バンガローのすぐ前に七人が座って食事が出来るほどの空き地があったので、そこに借りてきた敷き物を
敷き、車座になって食べ始めた。外に特別なものはなかったが、カレーは美味しいとみんながおかわり
したため、ご飯もカレーもあっという間になくなってしまった。虹鱒の塩焼きはちょうどいい具合に
焼けていて、これも美味しかった。虹鱒を食べたのは初めてだった。普段海の魚ばかり食べていたから、
川魚を食べるには違和感があったけれど、食べてみれば同じだなと思った。
食事が終わってもまだ明るかった。管理事務所で聞いたところ歩いて10分ほどの所に町営の公衆浴場
があるというので、後かたずけをしてから出かけることになった。味噌汁は余っていたから蓋をして、
鍋や飯盒は洗って外に干したままにしておいた。
浴場は五人が一度には入れるくらい広かったので先輩達と交代で入ることにした。たまたま外の客
がいなかった幸運に恵まれてゆっくり入ることが出来た。一郎も徹も義弘も温泉に入るのは初めて
だった。お湯は透き通り、水道水と変わらないが、鼻を突くような硫黄の臭いと、流しにこびり付いてい
る黄色の硫黄が温泉だと認識できる。口に含むと少し塩気があった。三人は湯船や洗い場ではしゃぎ、
お湯を掛け合ったり、大きな声で歌ったりしたので先生に注意されてしまった。先輩達もご機嫌で
温泉を堪能している様子だった。
ところが、浴場に入っているうちに雨が激しく降り出したのである。
「山の天気は変わりやすいのだよ。こりゃあどうかな、すぐ止むかもしれない。しばらく雨宿りだ」
と言って先生は窓から外を眺めていたが、又湯船に入ってしまった。全員が風呂から上がっても雨脚は激
しく稲光とともに突風が吹き荒れ、降り止む気配はなかった。一行は今まではしゃいでいた気分もどこか
に行ってしまった様に放心して窓の外を見ていた。一郎はもしもこのまま天気が回復しなかったらどう
しようと気が気でなかった。歩いて10分の距離はこの雨ではずぶぬれになる。しかし、それは杞憂に
過ぎなかった。雨は1時間ぐらい激しく降ったなと思うと、先生が言ったようにしばらくして小降りにな
り止んでしまった。暑かった昼の気温が一雨降って急に寒くなったため急いでキャンプ村に戻った。
キャンプ村に戻って驚いたことは味噌汁の入った鍋は蓋が外れ、中に水が入って食べられなくなり、
木に掛けてあった飯盒もあちこちに転がっていて、敷いてあった敷物はずぶぬれになっていた。瞬時に降
った雨の激しさと風によって散乱したのである。山ではこういった現象がしばしば起きるのは常識だか
ら、そのための準備は綿密にすることだと先生が例を上げて皆に教えてくれた。
バンガローにはまだ電気が引かれておらず、蝋燭が灯りだった。何箇所かある炊事場は電気がついて
いて、そこだけが明るく、あとは暗闇である。昼間空いていたバンガローも満員のようであり、あち
こちで食事をしたり、遅くまで若者が騒ぐ声が聞こえていた。一郎たちは懐中電灯のほかに証明設備を
持ってこなかったので、8時過ぎには寝てしまった。
翌朝早く、あまりに寒いので目が覚めてしまった。毛布一枚ではとても耐えられないほど気温がさがっ
たのは、天気がよかったために放射冷却が起こったのである。雲ひとつないと言っていい上天気だった。
無骨にそびえる富士山がくっきりと見えた。先輩達はもう釣りに行ってしまったらしい。
その晩管理事務所主催のキャンプファイヤーが行われ、遅くまで歌ったり踊ったりして初めてのキャンプ
生活を堪能することが出来た。
六年生の夏休みには磐梯山の麓、裏磐梯五色沼でキャンプをした。大爆発によって飛ばされた山頂が
半分残されて、今にも爆発するような様子が不気味だった。山の中腹から見た点在する湖は夏の光を反射
してきらきらと、それぞれ違う色をして綺麗だった。あのころ春日八郎の「お富さん」がはやっていて、一
郎達は東北線の列車の窓から身を乗り出し、大声でおっとみさんと歌った。又これも6年生のときである
が、先生は早慶戦に連れて行ってくれた。その時早稲田の応援席にいたにもかかわらず、慶応の応援を
して、前に座っていた小父さんに怒られてしまった。あのころ一郎は慶応のフアンだった。応援歌「若き
血にもゆる」も好きだったし、あの慶応の帽子が好きでずっと被っていた。
小林塾は勉強だけでなくいろいろなことを経験させてくれた。小学生の大事な時期に小林先生に教え
を受けたことは一郎の胸に深くよき思い出として残されたのである。(おわり)
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