小林塾

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小林塾 その5

 一行は夕方バンガローに戻り夕食の仕度にかかった。バンガローのすぐ前に簡易竈があり、煮炊き出来

るようになっている。燃料は管理事務所で薪の束と木炭を買い求めた。先生や先輩が背負っていた大きな

リュックサックの中は野菜やお米、肉や調味料のほかに、飯盒、鍋、、包丁などの炊事道具が入っていた

のだ。ご飯を炊くのは初めてだった。飯盒というものを見たのも初めてだった。一郎はお米の研ぎ方や

どのくらい火にかけておくのかも分からなかったが、三回目のキャンプを経験している先輩達が手際

よく教えてくれた。お米が炊き終わったら飯盒を逆さにして蒸らすのだということも学んだ。片一方では

カレーを作るためにジャガイモや人参、玉ねぎを刻んでいた。味噌汁は乾燥若布を水で戻し適当に刻んで

入れるものだった。釣ってきた鱒ははらわたを抜き出し、木の枝に刺して火の周りに立てておいた。

しばらくすると魚の焼ける臭いが漂い始め、おなかがグーと鳴った。

「さあ、飯にしよう」カレーの鍋をかき回していた先生が火にかけてある鍋を下ろして、みんなを呼んだ。

バンガローのすぐ前に七人が座って食事が出来るほどの空き地があったので、そこに借りてきた敷き物を

敷き、車座になって食べ始めた。外に特別なものはなかったが、カレーは美味しいとみんながおかわり

したため、ご飯もカレーもあっという間になくなってしまった。虹鱒の塩焼きはちょうどいい具合に

焼けていて、これも美味しかった。虹鱒を食べたのは初めてだった。普段海の魚ばかり食べていたから、

川魚を食べるには違和感があったけれど、食べてみれば同じだなと思った。

 食事が終わってもまだ明るかった。管理事務所で聞いたところ歩いて10分ほどの所に町営の公衆浴場

があるというので、後かたずけをしてから出かけることになった。味噌汁は余っていたから蓋をして、

鍋や飯盒は洗って外に干したままにしておいた。

 浴場は五人が一度には入れるくらい広かったので先輩達と交代で入ることにした。たまたま外の客

がいなかった幸運に恵まれてゆっくり入ることが出来た。一郎も徹も義弘も温泉に入るのは初めて

だった。お湯は透き通り、水道水と変わらないが、鼻を突くような硫黄の臭いと、流しにこびり付いてい

る黄色の硫黄が温泉だと認識できる。口に含むと少し塩気があった。三人は湯船や洗い場ではしゃぎ、

お湯を掛け合ったり、大きな声で歌ったりしたので先生に注意されてしまった。先輩達もご機嫌で

温泉を堪能している様子だった。

 ところが、浴場に入っているうちに雨が激しく降り出したのである。

「山の天気は変わりやすいのだよ。こりゃあどうかな、すぐ止むかもしれない。しばらく雨宿りだ」

と言って先生は窓から外を眺めていたが、又湯船に入ってしまった。全員が風呂から上がっても雨脚は激

しく稲光とともに突風が吹き荒れ、降り止む気配はなかった。一行は今まではしゃいでいた気分もどこか

に行ってしまった様に放心して窓の外を見ていた。一郎はもしもこのまま天気が回復しなかったらどう

しようと気が気でなかった。歩いて10分の距離はこの雨ではずぶぬれになる。しかし、それは杞憂に

過ぎなかった。雨は1時間ぐらい激しく降ったなと思うと、先生が言ったようにしばらくして小降りにな

り止んでしまった。暑かった昼の気温が一雨降って急に寒くなったため急いでキャンプ村に戻った。

 キャンプ村に戻って驚いたことは味噌汁の入った鍋は蓋が外れ、中に水が入って食べられなくなり、

木に掛けてあった飯盒もあちこちに転がっていて、敷いてあった敷物はずぶぬれになっていた。瞬時に降

った雨の激しさと風によって散乱したのである。山ではこういった現象がしばしば起きるのは常識だか

ら、そのための準備は綿密にすることだと先生が例を上げて皆に教えてくれた。

 バンガローにはまだ電気が引かれておらず、蝋燭が灯りだった。何箇所かある炊事場は電気がついて

いて、そこだけが明るく、あとは暗闇である。昼間空いていたバンガローも満員のようであり、あち

こちで食事をしたり、遅くまで若者が騒ぐ声が聞こえていた。一郎たちは懐中電灯のほかに証明設備を

持ってこなかったので、8時過ぎには寝てしまった。

 翌朝早く、あまりに寒いので目が覚めてしまった。毛布一枚ではとても耐えられないほど気温がさがっ

たのは、天気がよかったために放射冷却が起こったのである。雲ひとつないと言っていい上天気だった。

無骨にそびえる富士山がくっきりと見えた。先輩達はもう釣りに行ってしまったらしい。

その晩管理事務所主催のキャンプファイヤーが行われ、遅くまで歌ったり踊ったりして初めてのキャンプ

生活を堪能することが出来た。

 六年生の夏休みには磐梯山の麓、裏磐梯五色沼でキャンプをした。大爆発によって飛ばされた山頂が

半分残されて、今にも爆発するような様子が不気味だった。山の中腹から見た点在する湖は夏の光を反射

してきらきらと、それぞれ違う色をして綺麗だった。あのころ春日八郎の「お富さん」がはやっていて、一

郎達は東北線の列車の窓から身を乗り出し、大声でおっとみさんと歌った。又これも6年生のときである

が、先生は早慶戦に連れて行ってくれた。その時早稲田の応援席にいたにもかかわらず、慶応の応援を

して、前に座っていた小父さんに怒られてしまった。あのころ一郎は慶応のフアンだった。応援歌「若き

血にもゆる」も好きだったし、あの慶応の帽子が好きでずっと被っていた。

 小林塾は勉強だけでなくいろいろなことを経験させてくれた。小学生の大事な時期に小林先生に教え

を受けたことは一郎の胸に深くよき思い出として残されたのである。(おわり)

小林塾 その4

 「さあ、そろそろ着くぞ、みんな起きて降りる仕度をしろ」小林先生の声で目が覚めた。

窓の外を見ると、バスは町の真ん中をまさに通り過ぎようとしていた。案外にぎやかな町だった。

道行く人々は派手なシャツを着て歩いている。山の中の鄙びた町を想像していたが、ここはすでに

リゾート化され、都会の一部を切り取ってそっくりこの地にもってきたようだった。反対側を見ると

大きな湖が開け、ボートやスワンの形をしたボートが浮かんでいた。バスは湖に沿うように岸辺の近くを

走っていた。町を抜けてすぐにキャンプ場があり、マッチ箱のようなバンガローが点在していた。

一行は役場前でバスを降りて管理事務所に行き鍵を受け取ってバンガローに荷物を下ろした。

先輩たち三人は隣のバンガローに落ち着き、小林先生は一朗たちの方に入り4人部屋になった。中は

4畳間くらいの大きさで窓が一箇所、中断にきられている。部屋の中は板敷きの上に茣蓙がしいて

あり、こんな所で寝るのか、又どうやって寝るのか、背中が痛くなりそうだなと思ったら不安になった。

先生に聞いたら管理事務所から布団を借りると言うことだったので安心した。

 時刻は午後1時に近かったので自宅を出るとき持たせてくれたおむすびで昼食をとることにした。

おなかが空いていたせいもあって、もって来たおむすびを三つとも食べてしまった。徹も義弘も

おにぎりだった。普段は小食なのに、屋外で食べる食事は美味しくてペろっとたいらげてしまった。

「とりあえず、バンガロー村がどうなっているのか、見に行こうぜ」一郎は二人を促した。すると

「どんな人達がキャンプするのか偵察だ。女の子は来てるかな」義弘は女の子が気になる様子だった。

キャンプ場は雑木と松が入り混じった林の中にあった。バスの中で見た印象とは異なり、かなりの

広場に一定の間隔をあけてランダムにバンガローが並んでいた。ざっと数えると30棟ほどで、何箇所か

に炊事場が設けられ、水道が敷かれていた。ゴミ捨て場は管理棟の隣にあり、一括して捨てるようになっ

ている。まだ時間が早いと見えて人の入っているバンガローは少なかった。キャンプ場の真ん中に広場が

あり薪が高く積んであったが何をするのかその時は分からなかった。

 夕食の準備にはまだ早かったので湖に行くことにした。湖はキャンプ場から一分もかからないところに

あった。渚に行くと目の前に大きな湖が開け、富士山がすぐそこに見えた。

 山中湖は富士山に最も近い湖で、湖面の面積は6.8平方キロメートル、標高は981メートルと5湖の中で

最も高く、日本全国では3番目の高所にある。夏の平均気温は20度前後と過ごしやすい所から、箱根、

軽井沢と並び、早くから避暑地として開けてきた。

 波打ち際まで行って湖に手を入れると、その冷たさに驚いた。

「こんなに冷たければ泳ぐことは出来ないな」義弘は裸足になって水に入り、あまりの冷たさに

あわてて戻ってきた。

「標高が高いから水が温められないのだろう」徹が分別臭く、さも知っているような顔をして言った。

富士山は雲ひとつない青空にくっきりと美しい円錐形の姿をしていた。裾野から富士山の中断に向かって

濃い緑色をした人の手が張り付いたように伸び、そこから頂上までは濃い灰色の無生物地帯になってい

る。遠くから見ていた富士山とはかなり印象が違う。遠くから眺める富士山は優しげでスマートななのに

今目の前にある山は休火山だ、何時又爆発が起こるかわからないぞといっているように

傲慢であり、人を寄せ付けることを拒んでいる姿である。頂上はすぐそこにあるように見えるので

簡単に登れそうな気がして、明日は富士登山をするのかと勝手に思った。実際は富士山の標高が

3.776メートルなのに対して山中湖は標高981メートルだからまだ2.700メートルも登らなければならな

い。無理な話であった。もちろん先生のスケジュールに富士登山は含まれていない。

一郎たちのいる所に先輩達がそれぞれ釣竿を下げてやってきた。

「何を釣るんですか。釣れますか?」義弘は自分もやりたそうに尋ねた。

「やって見なけりゃわからないさ、山中湖はブラウントラウトやレインボウトラウトが釣れると案内書に

書いてあるから釣れるんだろう」

 先輩は湖に突き出している桟橋の先端に行って竿を出した。一郎たちもわくわくして一緒について

行った。餌は葡萄虫という餌で、葡萄のつるの中に巣くう昆虫の幼虫だそうだ。普通では手に入れる

ことが出来ない餌で釣具屋にしか置いてないそうだ。これで釣れなければイクラもあるしサシを使うと

言った。サシとは蛆虫のことである。魚はなかなか釣れなかった。葡萄虫で反応がないため先輩は

餌をイクラに代えた。すると四投目で浮きが水平に動いたと思ったら一気に沈んだ。先輩は

「きたっ」といってタイミングよくあわせると魚がかかっていた。魚は激しく抵抗し右に左に走るので

竿は弓のようにしなり、ラインがいまにも切れそうだったが、徐々に手元にひきつけられ、たもで救い上

げられてしまった。美しい模様をした30センチメートルくらいの鱒だった。

「やったー、綺麗な魚ですね、これはなんという魚ですか」徹が興奮して先輩に尋ねると先輩は嬉しそうに

「レインボウトラウトさ、虹鱒だよ。虹のように綺麗だろう」と言った。

そのご先輩達は三人で大小あわせて八匹の鱒を釣り上げた。その中にめったに釣れないブラウントラウト

が一匹混じっていた。話によると岩魚やウグイ、山女も釣れるらしい。(つづく)

小林塾 その3

 夏休みになった翌々日、7月22日早朝、一行は逗子駅に集合して横須賀線で大船にいき、東海道線

に乗り換え、国府津についてから御殿場線に乗り換えた。御殿場線は昔東海道本線だったが丹那トンネル

が開通してからローカル線に格下げになった。国府津駅は重要な拠点であったから昔はずいぶん華やかだ

ったという。駅の周辺には割烹料理屋が軒を連ね芸者集も何人かいたのだ。国鉄の機関区や保線区があり

商店街が国道1号線に沿って発展していた。今は静かな田舎駅で昔の面影はない。

 国府津駅からは蒸気機関車が牽引する列車であった。一郎は蒸気機関車を見るのも乗るのもはじめてだ

った。絵や写真で見たことがあったが実物を前にしてその巨大さに驚いた。義父がこんなすごいのを運転

する機関士だと言ったのを思い出して少し尊敬する気になった。

 当時横須賀線も東海道線もすでに電化されていたから蒸気機関車に乗れたのは貴重な経験だったのであ

る。その後何年もたたないうちに蒸気機関車が廃止されジーゼルカーに変わり現在は電車が走っている。

 御殿場線は国府津を基点に御殿場経由沼津まで、箱根山を迂回するように走っている。国府津を出て

小田原の梅園から松田、山北まではのどかな田園風景が続き、山北から先は酒匂川の渓谷と丹沢山塊の

中に分け入って行く。従ってトンネルと鉄橋を交互に抜けて行くことになる。経験のある方はお分かりと

思うが、列車がトンネルに入ると蒸気機関車の煙が車内に流れ込んでくるため、その都度窓を閉めなけ

ればならない。乗客はトンネルに入るたびに嬌声を上げ窓を閉めた。しかし車内は冷房設備もなく窓を

閉めると暑くてならなかったからトンネルを抜けると一斉に窓を開けた。すると、それまで充満していた

石炭臭い空気が出てゆき、代わりに新鮮な空気が入ってきてほっとするのだった。

 トンネルを出ると酒匂川の清流が眼前に開け美しい渓谷が続く。清流の色は今まで見たことも無い

深い、青というより緑がかった美しい色をしていた。鉄橋を渡るたびに車内は感嘆の声に包まれた。

汽車は夏の日を受けて光り輝く木々の緑の中に突っ込んでいった。標高が高くなるにつれて窓から入って

くる風が少しずつ涼しさを増してゆき、やがて御殿場駅に到着した。乗客の大部分が降りてしまった。

ここからバスに乗り換えて富士五湖に行く者、富士登山をする者に分かれることになる。

「わあっ、一ちゃんの顔がすすで真っ黒けだ」一郎の顔を見て義弘が笑った。

「義ちゃんだって黒いじゃないか」徹が二人の顔を見比べて一緒になって笑っていた。汗をかいた肌に

煤がつき、それを手でこすったのであろう、全員が黒かった。一行はバスの待ち時間に駅の水道で顔を

洗うことにした。鼻をかむと真っ黒だった。

「ひえー、冷たい。飲むとうまいぞ、飲んでみな」小林先生が蛇口についていたコップに口をつけて

うまそうに飲んで見せた。一郎たちは争って水を飲んだ。汗をかいたあとなのではらわたに染みとおる

ようだった。こんなに美味しい水を飲んだのは初めてだと思った。

「バスが来たぞ、お前ら、もたもたしてないで早くバスに乗れ」先輩が大きなリュックを担ぎながら

立ち上がってバスに乗り込もうとした。

「あれ、義弘がいないぞ。荷物を置きっぱなしにしてどこへ行ったんだ、誰か知っているか」人数を

数えていて先生が気ずいてみんなに聞いたけれど誰も知らないと言った。バスの発射時刻が迫ってきたが

義弘はなかなか帰ってこなかった。一行は仕方なくバスに乗るのをやめて義弘が帰ってくるのを待つこと

にした。一本バスを遅らせると1時間待たなければならない。バスの扉が閉まりかけたとき駅の構内から

顔を真っ赤にして義弘が駆けてきた。先生があわてて扉を叩き運転手に乗せてくれるように頼んだ。

すると閉まりかけた扉が開き早く乗るようにいわれたので礼を言って、総勢七人はあわただしくバスに乗

り込んだ。小林先生はバスのほかの乗客にも謝りながら荷物を棚に載せるように指示した。

「お前どこに行っていたんだ」先輩に言われて義弘は急におなかが痛くなったので便所に行っていたと

すまなそうに言ってみんなに謝った。バスの中でひとしきり話題は義弘の便所騒動で盛りあがったが、

朝早く出てきたのと、初めて乗る列車に興奮し過ぎていたのが重なり、バスの心地よい揺れにつられて

何時しか全員居眠りをはじめた。まだキャンプ場につかないうちからとんだトラブルにになり、不安を載

せたまま、バスは一路山中湖に向かって富士の裾野を登って行った。(つづく)

小林塾 その2

 小林先生は彼の風貌から親しみを込めて呼んだのか、あるいは揶揄しているのか、いや、むしろ後者の

傾向が強い、通称「ひげトラちゃん」という愛称がついていた。彼の郵便局での仕事は簡易保険の勧誘

および集金業務だった。各家庭を回って一日のノルマを消化すれば後は自由時間となり、早引けする

ことが出来たのだと思う。一日おきに四時前退社は普通考えられないことだった。

 ひげトラちゃんは変わった人である。何が変わっているかといえば、あのロイド眼鏡にちょび髭の

ちょっと老けたおじさんが、何を狂ったのかお琴を習っていたことである。その後民謡に夢中になり

挙句の果ては日本舞踊まで習い始めた。なんでもあのちょび髭をつけたまま「藤娘」を踊るという

話を聞いたとき、一郎たちは思わず顔を見交わし、笑わずにはいられなかった。想像してもらいたい。

いいおじさんが振袖を着て首をかしげている姿は、どう見ても滑稽というよりおぞましい限りだ。

噂話に寄れば近年のカラオケブーム到来とともに、お弟子さんを集めて歌唱指導をしているとのこと

である。よくよく先生役が好きと見えて懲りない人である。こう書くと小林先生が変人で無能な人に見え

るが、彼の名誉のために言うと、けっしてそのようなことはなく兄弟皆優秀であった。

 一時期小林塾は大変繁盛した。家を改築し二階建てにして、一日に三組二セットすなわち一週間六組

受け入れていた。教師はもちろん小林塾出身の現役大学生があたり、一郎も義弘もアルバイトとして

大いに貢献したものである。やがてあちこちに出来た学習塾が盛んになるにつれて、小林塾は大手の

予備校に押され廃業せざるを得なくなってしまった。

 塾の仲間峰岸徹と峰岸義弘について話をしておこう。一組の徹は小学生のころ、飛びぬけて体格が

よく、運動能力抜群の子だった。運動会の花形であり、特に野球が得意で同年代の生徒とは比べ物に

ならず、すでに五年のときには中学生の実力を持っていた。おまけに気立てがよく、彼の人気は他の

クラスにまで及び、アイドルのような扱いを受けた。一組には勉強だけならすごく出来る渡辺康彦が

いたが徹の人気ははるかに上だったので、六年を卒業するまでずっと級長を務めた。一郎と稲盛の

関係によく似ている。もちろん徹が人気だけでなく勉強がよく出来たことは当然のことである。彼は

高校に進学するとき誘われて法政二校に進み野球部にはいった。中学時代その名声が県内の野球関係者に

いきわたり、当時一番強かった法政二校が勧誘に来たのだった。そして三年のとき巨人軍に入った

ピッチャー柴田を擁して甲子園に出場することが出来たのである。徹はベンチ入り15人の中に入ってお

りレギュラーではなかったが、サブキャプテンとして出場した。プレイは代打として打席に立ち、あわや

ホームランかというライトフライに倒れている。高校を卒業するとき徹は法政大学に進むか、社会人に

いくか悩んだ末、進学をあきらめ社会人野球で活躍することを選んだ。惜しむらくは小学校時代図抜けて

大きかった体格が中学で成長が止まり、普通の人になってしまったことである。中学卒業時小さかった

一郎のほうが背が高くなっていた。少なくとも徹の背丈があと10cm高かったらプロに行くことが

出来たかもしれない。徹とは中学卒業まで無二の親友であったが、高校進学後接触がなくお互いの

進む方向が異なり疎遠になってしまった。

 義弘は三人の仲で一番ませていた。いろいろな情報を仕入れてきては「これ知ってるか」といって

二人を煙に巻くのが得意であった。彼は小学校を卒業すると葉山中学へは行かず金沢八景にある関東

学院大学中高等部へ進み、立教大学経済学部を卒業して老舗の百貨店に入社した。だから義弘とは中学

高校での接触はない。義弘と徹の関係も同様である。一郎が大学に行ってから義弘とは小林塾で一緒にア

ルバイトをしたが六年間の隔たりは大きく挨拶を交わす程度だった。

 小林塾の特徴は毎年夏休みになると野外授業としてキャンプに連れて行ってくれたことである。

五年のときは二泊三日の行程で山中湖に行きキャンプ場のバンガローを借りた。一郎たちだけでなく

三年上の塾卒業生と一緒だった。卒業生達は三度目だといってずいぶん慣れた様子で、落ち着いていて

何事にも手際がよかった。一郎たちは初めての経験であったから戸惑いと期待でわくわくしていた。

(つづく)

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小林塾 その1

 一部の父兄による圧力で新井先生が担任をはずされ、新しく担任になったのは横須賀の小学校から

転任してきたばかりの男の藤倉先生だった。何故新井先生が更迭されたのかは前にも説明したように

新任の先生では高学年の授業は任せられないこと、えこひいきがあることであったが、一番の原因は

辻本と言う暴れる生徒が一人いて授業をしばしば妨害することがあったことである。この辻本は猟師町に

住み、特殊な家庭環境に育った子である。二親が何らかの事情で蒸発し、祖母に育てられていた。

従って生活は当時の平均的な家庭に比べても最低の環境に近かったので、勉強道具も満足に持っていず

教科書さえ買ってもらえなかったのである。あのころ教科書は自己負担だった。新井先生が辻本に出来る

だけの便宜を図っていたにもかかわらず、先生に反抗的で、授業中に授業態度の悪さを指摘されると、

席を立ちわめき散らすか教室を飛び出してしまうのである。先生の言うことなど、はなから馬鹿にして

したい放題であった。彼は貧しさをのろい、両親に捨てられた己の境遇に絶望して捨て鉢になり、子供

ながら世の中に反抗していたのだろう。結局父兄の総意ということで、女の先生では収拾しきれない

から、男の先生に代えるべきであるという大義名分のもと更迭劇が行われたのである。その後辻本は

担任が藤倉先生に代わってから、おとなしくなり授業中暴れることはなかった。

 5年に進級する前、母親に小林塾に行かないかと言われた。なんでも小林寅雄という郵便局に勤務

している人が開いた塾だそうで、一郎より三歳上の生徒が通っていてなかなか評判がよかったという。

たまたま彼らが卒業して次代の生徒を募集しているらしいとの情報を聞き込んだ母親がその気になった

のである。一郎は別に塾など行きたくはなかったのだが、母親が熱心に勧めるので行くことにした。

母親にしても一郎を塾にいかせる費用捻出に苦労することは目に見えていた。しかし一郎の将来を

考えて、自分が無理してでも勉強できる環境を整えるべきだという義務感が決断させたのだった。

あの当時塾などどこにもなかったから、小林塾は草分け的な存在といっていい。

 春まだ浅い二月の初午の日に学校から帰ってきてから小林塾に出かけた。どのようなシステムなのか

誰が一緒なのかわからず不安であった。塾は通学路の途中、焼酎を買いに行かされた田中屋の手前に

あった。家から歩いて15分ぐらいかかる。玄関で声をかけると中年の小柄な男の人が出てきた。

黒ぶちの眼鏡をかけ、口にちょぼ髭を蓄えた、なんとなく代わった所のあるこの人が小林先生だった。

あとで先生がまだ独身であることが分かったが、見た目はずいぶん老けて見えたのである。家に上がって

案内された所は六畳間を板の間に替えた部屋に黒板がすえつけられ長いテーブルと長椅子が二列並べて

あった。そこには思いがけない連中が座っていた。一郎の近くに住む一組の級長峰岸徹と二組の級長

峰岸義弘だった。彼らとは家が近かったが、国道を挟んでいたため我鬼大将グループが違ったせいもあり

一緒に遊んだことがなかったのである。

 余談であるが、一郎の家の150m以内の範囲に葉山小学校5年の各クラスの秀才と呼ばれる子が

集中していたことに気がついた。一組、二組は両峰岸、三組は床屋の熊谷博、四組は一郎、五組は

金井郁夫がそれぞれの組の級長になっている。六組は他の地区が占めた。一郎は五年進級時秀才稲盛を

差し置いて、押されて級長になっていた。スポーツ万能で遊びのリーダーであること、試験の成績が

いつもよかったことなどが作用して人気が上がったのである。多分総合成績では稲盛のほうが上だった

ろう。彼は背が高く太っていたからみんなに大達(おおだち)と呼ばれた。大相撲の大達のことである。

一郎たちは休み時間になると地面に土俵を書いて相撲をとった。図体が大きな割によく負けたのでその名

がついた。運動が苦手だったから、いわゆる動作がドンくさかったのである。それに引き換え一郎は

オール5年で一番足が早いと自負していたし、野球チームの中で中心的存在であった。

 塾での授業は主に国語と算数で4時から6時までの二時間、予習と復習であった。とりあえず

生徒三人で始まった。三人とも理解力が優れていたから、教える小林先生も張り合いがあったようだ。

こうして週三日、一日おきに通うことになった。

 余計な話だが小林先生は公務員であるにもかかわらず週三回も早引けできることが疑問だった。

子供心に大丈夫なのだろうかといらぬ心配をしていたが、別にトラブルはなかったようだった。公務

員の規定に沿えば副業はご法度のはずである。昔はうるさくなかったのだろう。(つづく)

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