佐島の思いで

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佐島の思い出 その5

 その晩一郎は昼間の疲れが出て早く寝てしまった。母親も兼高の家に泊めてもらうことになった。

夜10時過ぎてから義父が酔って兼高の家にやってきた。例のとおり既にぐでんぐでんに酔っていて

まともな話も出来ない状態であった。それでも彼にとって義姉にあたる家であったから乱暴な口は

聞かなかったが、一しきり大きな声で話していたかと思うとまた、どこへ行くとも言わずふらふらと

出て行った。母親はじめ伯母さんも伯父さんも一緒に泊まっていた叔母さんもしきりに止めたが

振り切って行ってしまった。母親達は久しぶりに姉妹が顔をあわせたものだから話が弾んで12時過ぎ

まで話し込んでいた。そこへ高齢にもかかわらず東谷の姑自らが青い顔をして訪ねてきた。

「おらがの作治は来なかったか?」慌てている様子だった。

「さっき見えて、またどっかへいってまったけど、どうしただ。」伯母さんが答えると

「あんだ、そんだら止めておいてけえれば良かっただによ」姑はなじるように言った。

「どこにもいねえだよ。幸恵の家にも行ってねえし、おらがでアンちゃんと二人で飲んでいただが

言い争いになってプイト出て行ったきりもどってこねえだよ」

「そりゃ心配なこって。どこへ行っただかねえ、梅子(母親の名)、おめえ心当たりはねえのけ」

伯母さんが母親のほうへ声をかけたが、母親はかぶりを振って否定した。

 前にも話したが電話が地区に一軒あるかないかという時代なので連絡を取るのが大変であった。

今日ならば電話で簡単に捜すことが出来るが、いちいち人が確かめに行かなければならなかった。

あとで聞いた話であるが案の定二人は最初和やかに酒を飲んでいたが、突然口論になりお互いに大声を

出してなじり始めたのだそうだ。兄の捨蔵さんは眠くなったと見えてさっさと寝室に入り寝てしまった。

一人残された義父は憤懣やるかたなく、家人に悪態をさんざんついた挙句、帰るといって家を飛び出して

行ったということだった。姑も必死に止めたらしいが訳のわからぬことを言って、何故か身支度

を整えると、「もう来るもんか」と捨て台詞を残して出て行ったらしい。東谷家の人達もなにがなんだ

かわからずさぞ困惑したにちがいない。

「戻ってきたら幸恵の家に行くようにってせってけえな。梅、おめえがつれてけ、たのむな」

姑はただおろおろとそれだけ言うと帰えろうとしたので母親は送って行くことにした。田舎の道だから

街灯もなく、月が出ていなければ真っ暗で年寄りにとってはきついかもしれなかった。幸い月は十三夜

ぐらいで足元はしっかり見えた。その夜はそれ以上探しようもなく、みんなに心配をかけたまま更け

ていった。

 翌日日曜日であったので一日ゆっくりと過ごすつもりであったが、義父のことが気になったので、

母親は嫌がる一郎をなだめすかして早めに家に帰ることにした。結局佐島のどこにも義父の影は見え

なかったので、母親は或いは義父が自宅に帰ったのではないかと、ふとそんな気がしたのである。

自宅に戻って居間に入ったとたん座布団が乱雑に敷かれ、テーブルの上に水を飲んだあとが残っていた。

明らかに夕べ自宅に戻ってきて座布団を敷いて寝た形跡があった。そして朝早くおきて仕事に行った

みたいだった。それならそうと一言言っておけばいいものを人騒がせな男である。それにしても

どうやって帰ってきたのであろうか、バスはとっくに終わっていたし、歩いて帰るには遠すぎるし、

タクシーなどは走っていなかったから謎である。どう考えても歩いて帰ったとしか思えなかった。

本人も照れくさいと見えてあえて謎解きはしなかったし一郎も聞いてみようとはしなかった。

歩けば2時間以上かかるから、家で寝たのは4時間以内であろう。酔っ払い一本橋を渡ると言われる

ように帰巣本能が働いたのかもしれない。義父には人を困らせて喜ぶ習性があるとみえる。

この後ずっと同様の騒ぎを定期的に起こし続け肝臓を傷めるまで止むことはなかった。

楽しかった佐島の思い出は思わぬ結果で終わったが一郎の心に深く刻まれた。これをきっかけに

一郎は夏休み、冬休みのたびに佐島を訪れて長期滞在をするようになったのである。一郎がもう少し

大きくなってから経験した話は又の機会に詳述する。(今回は書きっぱなしで申し訳ない。お許しを)

 

佐島の思い出 その4

佐島漁港は小田和湾の中にある。小田和湾は三浦半島に突き刺さるようにえぐれていて相模湾の

荒波の影響を受けにくい形になっている。だから鰯を入れる生簀を置くのに適しているのだ。

地理的条件が揃ってこの地区の漁師は鰯漁を大昔から続けて来れたのである。

小田和湾の一番奥には武山の少年自衛隊の基地があり、佐島港の対岸には長井港が指呼の間にある。

 「やとしば」を出た船は幾つもある生簀を避けながら小田和湾の真ん中に出た。後ろを振り返ると、

二組の二連船の後を追って、大漁旗で着飾った大小の漁船が何隻も付いてきていた。

どこに隠れていたのかと疑うばかりのおびただしい数だった。青い夏の海に色とりどりの大漁旗が

はためき、華やかな長い行列をつくった。船は上下に揺れながら湾内をゆっくり進み、小田和湾の

入り口まで行ってから一斉に反転した。全船の大漁旗がたてるパタタパタという音とお囃子の出す

軽快なリズムに乗って海上のイベントはクライマックスを迎えた。

「テレツクドンドンテレツクドン、テレツクテレツクテレツクテレツク、オヒーヨー、オヒヨオヒヨ

オヒーヨー」太鼓の音を追って笛の音が続いた。連合艦隊の観艦式に見る整然とした機械的な

美しさとは異なり、色とりどりの大漁旗に囲まれた満艦飾の船が描き出す海上のパノラマは、

それは見事なものであった。一郎は舳先に行って潮風を体一杯に受けてみたり、艫にまわって後続する

漁船を見ては感激し、まるで自分が船団の主人公になったような気になった。兼高(カネ)も

初めての経験だといって興奮していた。

 船団は陸に向かって動き出した。そして「しば」と呼ばれている地区にある防波堤に接岸し

そこで乗船客は降りることになった。防波堤には「やとしば」から移動してきた家族や知人が大勢

迎えに来ていた。その中に母親が心配そうに手を振っているのを見つけた。一郎は何かとてつもない事を

したように思え、得意満面の笑顔で母親に向かって手をふっていた。下船してからも興奮が収まらず、

母親の周りに纏わり付いて船旅の楽しさを話して聞かせた。ところが、歩いているうちに地面が揺れてい

るのに気づいて愕然とした。その日、兼高の家に戻って食事をしているときも、疲れて昼寝をして

いるときも絶えず家が揺れていた。

「家が揺れている」と言ったら「そりゃァ、酔っ払ってんだべ」とみんなに笑われてしまった。

一郎は船酔いをしていたのである。船に乗るのも初めてだし船酔いなどあるとは思いもしなかった。

さすがに漁師の子だけあって兼高は平気な顔をしていた。

 昼寝から醒めると母親が言った。

「東谷の家に挨拶に行くから一緒においで、お義父さんも来ているよ」一郎は東谷家へ行ったことが

なかったから、なんとなく行くのが厭だったけれど、行かなければならないのだろうと感じたので

母親の後を付いて言った。東谷家は兼高の家から「やとしば」方面に5分ほど行った小高い丘の上に

あった。昔この地区の総代のような役目に付いていたとあって、広大な敷地を持った百姓屋だった。

生垣に囲まれた広い前庭があり、玄関まで10mほど敷石が飛び飛びに置かれ、庭の両側には各種の

庭木に混じってミカンやナツミカンの木が植えられていた。家の構えはマンベや兼高の家と同じである

が、もっと大きくてしっかりしている造りだった。屋根は茅葺だが形が立派で、見るからに

堂々としていて裕福な百姓屋を思わせた。玄関を入ると今まで見てきた土間とは比べ物にならない

大きさの土間が裏庭まで続いていた。上がり框を上がるといきなり20畳敷きの部屋と12畳敷きの

部屋が並び、土間の奥のほうはやはり台所兼食堂兼居間になっていて同じような所に囲炉裏が切って

あった。聞いた所によると部屋数は全部で五部屋ということであった。台所には大小の竈が3基、

その隣はガラス戸で仕切った五右衛門風呂が据え付けられていた。

「あんたが一郎ちゃんか、幾つになった?へえ、小二だってかい、しっかりしているね」

太った小母さんが声をかけてきた。あとで聞いた所、義父の妹の幸恵さんということだった。また、

忙しく立ち働いている何人かの人に声をかけられたが、誰が誰だかさっぱりわからなかった。

20畳の部屋にはテーブルを三つ並べ、両側に座布団が敷かれてあり、義父とその兄、この家の

当主の捨蔵さんが早くも酒を飲んで談笑していた。

「一郎、あがってご飯食べろ、明日は日曜日だから今日は泊まっていくんだべ」捨蔵さんが抑揚のない

声で言った。義父もご飯を食べろと進めるのでおずおずとテーブルによって義父たちとは少し離れた

ところに座った。ここも五目と野菜のお煮しめ、お刺身、てんぷらに白身の魚の潮汁だった。

一郎はあまり食欲がわかなかったけれど悪いと思って箸をつけた。みんな親切だったが居心地が

悪かった。兼高の家の人々のような親しみのこもった眼差しでなく、ここの人達は一郎の仕草を

観察するようなどこか醒めた目線だった。

「今度東谷の次男坊の嫁になった子連れの後家がどんな女か、その連れ子の一郎がどんな子なのか、躾は

きちんとされているか、頭はよいのかどうか、或いはどこかに欠点がないだろうか」値踏みしている

意地の悪さが感じられるのだった。子供はこういったことに敏感である。

それにくわえて、この後に起こるかもしれない義父の修羅場が気になっていた。捨蔵さんも義父に

劣らない酒乱だと言うことだったから二人が酒を飲んでいることがどんなに危険なことであるか

この家の人々は知っていたのである。腫れ物にでも触る扱いだった。母親と一郎は早々に東谷家を辞して

兼高の家に戻ってしまった。(つづく)

佐島の思い出 その3

夕方の海は静かだった。人通りはなくただ波の音だけが単調な調べを奏でていた。

沈みかけた夕日はオレンジ色のパステル画を西の空一杯に描いて見せた。

一郎の顔もオレンジに染まり、明日の天気が快晴であることを暗示していた。波打ち際から

15mほどが砂浜で道路はその脇を走っていた。砂浜には網小屋が等間隔に並び大小の船が

引き上げられていた。その前に枕木みたいな材木が油にまみれて何本か置いてあった。

船を引き上げるときに滑剤として使うものである。一郎はおばさんの家の下までやってくると、

だらだらとした坂を上って玄関を開け「こんにちは」と声をかけた。

「あら、驚いた。誰かと思ったら一郎じゃないの、一人で来たのかい」一番上の従兄弟の和子さんが

吃驚した面持ちで迎えてくれた。

 この家は分家として伯父さんが結婚したとき新しく建てたもので、屋根はすでに瓦葺になっていたが、

構造はマンベの家に似ていた。玄関に入ると広い土間があり、漁具が壁にかけてあったり、直接

土間の上に整然と置いてあるのも一緒だった。長い上がり框があり、ガラス障子で仕切られた

八畳間につながっていて、ガラス障子の真ん中に黒光りした大黒柱が威容を誇っていた。

八畳間の奥は台所付き食堂兼居間の板の間、今で言うダイニングキッチンになっている。土間は

板の間の前に続き、そこに竈が二基置かれ、そして裏庭に抜けている。表廊下は玄関と

平行して造られていたが実家と違ってガラス戸が入っていた。やはり居間には囲炉裏が切られ、

いつも神様を背にした場所に伯父さんが座っていたが、その日は明日のお祭りの準備でお宮さん

に行っているらしく不在だった。

「おなかすいたろう、すぐまんまにするから待ってろ。かつ(鰹)のうまいのがあるから」と言って

伯母さんは八畳間にテーブルを出してきてお膳立てをしてくれた。

「一郎、みんなにまんまだとせって(言って)けえな(ください)」一郎は廊下の外れまで行って

薄暗い急な階段を登っていった。従兄弟達は思い思いにくつろいでいた。

「あんだァ、一郎じゃあねえか、お祭りに来たのか?」カネは吃驚した顔をしてしばらく一郎の

顔を見ていたが嬉しそうに、にっこり笑った。一郎もつられて照れ笑いをした。

「伯母さんがご飯だって言ってるから下に行こうよ。鈴子さんも幸子もおいでって」

「あれえ、一郎だァ」と隣の部屋から鈴子さん達が出てきた。

佐島ではお祭りになると必ず五目飯を作り、人参や牛蒡、椎茸、こんにゃくのお煮しめを炊いた。

そして獲れたての鰹や鮪、鯛などのお刺身が大きな皿の上に盛り付けられ、時にはポテトサラダや天ぷ

らがついた。お吸い物はわかめのお澄ましであった。その晩の食事は楽しく食事中笑いが絶えなかった。

一郎は普段よりたくさん食べてお腹がくちくなり苦しくなってしまった。

 翌朝も晴れ上がり絶好のお祭り日和になった。佐島のお祭りが二十年振りに催されるとあって

佐島出身の小中学生は学校が休みだった。10時に船が出ると言うことなので一郎はカネとその

仲間達と一緒に「やとしばま」で歩いて行った。母の実家の下の砂浜が今日の祭りの出発点であった。

それほど広くない砂浜に竹と注連縄で作られた囲いの中にお神輿が一台置かれていた。波打ち際には

五艘の伝馬船が舳先を沖に向けて並んでいた。沖合いを見ると大型の漁船が二艘お互いの横腹を

着けたところに丸太を渡し、離れないようにロープで固定し、その上にお囃子をする屋台が載っていた。

船は舳先から艫にかけてロープを張り巡らせ、どのロープにも色とりどりの大漁旗が何枚も、これでもか

というほどぶら下げてあり、それらがはためいてパタパタと音を立てていた。一組だけでなく

同じように大漁旗で飾った、もう一組の船も浮かんでいた。どうやらそちらの船にお神輿を載せる

予定であるらしかった。やがて昔の宮廷の衛士を思わせる白い布を纏った男達が現れて、お神輿の周りに

集まってきた。担ぎ手は土地の漁師であるから、色が黒く白布の装いがよく似合っていた。

神主が祝詞をあげたあと、土器(かわらけ)が配られ、お神酒が注がれ、世話役の声がかかって

一気に飲み干し、威勢良く土器を地面にたたきつけた。それからおもむろに担ぎ棒に肩をいれ

「よーいよーいよーいとなっ」の掛け声と共にお神輿が動き出した。三々五々集まって来ていた

見物客から「おおっ」というどよめきが聞こえ、一斉に拍手が起こった。

 佐島のお神輿は東京の三社祭のようなリズム感のあるスマートな担ぎ方ではなく、漁師町特有の

泥臭く力強いものである。

夏の日差しは容赦なく担ぎ手に降り注ぎ、真っ黒に日焼けした顔には早くも玉の汗が浮き出していた。

お神輿が砂浜を二周してそのまま海に入っていくと、見物客は思い思いに掛け声を上げ、更に大きな

拍手をした。お神輿は沖合いに出て行き担ぎ手の顔が海に潜るところまでいっては引き返すと

いったことを繰り返した。やがて、海の中で散々揉んだあと、横に三艘繋いだ伝馬船にお神輿を

載せて、待機しているもう一組の二連船に積み込んだ。すると屋台船でお囃子が始まり、乗船希望者は

波打ち際で待っていた伝馬船に乗って満艦飾の二組の船に乗り込んで行った。一郎たちは真っ先に

屋台船に乗り、はしゃいで二艘の間を行ったり来たりしていた。突然お囃子が急調子になり一段と大きな

音に変わると、二組の船がゆっくりと動き出した。(つづく)






 

佐島の思い出 その2

 余談であるが、この時代電話はまだ普及しておらず、各家庭にいきわたるまでには数年を要する

ことになる。近所に1台有るかないかで、それも大きな商店や事務所に限られていた。一郎の

周りでは永野材木店にあるだけだった。だから隣近所の人達は緊急の連絡時利用させてもらっていた。

知り合いや親戚には永野材木店の電話番号を知らせておいて用があるときかけてもらった。取次ぎは

お店の人が便宜を図ってくれるのだが、お願いするほうは恐縮して申し訳ないと思うけれど、当たり前の

ように対応してくれた。人情も温かだったし、隣組の義務だと思っていたのかもしれない。

 金曜日の午後学校から帰るとすぐにバスに乗って佐島に向かった。バスは30分に1本、昼間の

時間帯は1時間に1本しかなかった。今はワンマンカーばかりであるが当時は車掌が乗車口に

たって切符を切っていた。腰には幅広のベルトを締め体の前に皮製の鞄をぶら提げていた。

発車するときは乗客の安全を確かめて「発車オーライ」と言いながら扉を閉めるのであるが、その

格好がよかったから比較的花形の職場として女の子は憧れたものである。戦後しばらく、バスは

後ろに釜を背負った木炭バスであった。煙を撒き散らして走っているが、時々エンストをおこして

立ち往生した。そんなとき車掌はバスの後ろに回り押すことになる。一郎たちは面白がっていっしょに

押してやった。しかし木炭バスがどんなメカニックで動くのか知る由もなく不思議でならなかった。

バスは全てボンネットが前に着いていた。今のような前がぺちゃんこの車両に変わるのは大分

後になってからだ。

 佐島入り口と言う停留場でバスを降りて、石切り場跡にある手彫りのトンネルを抜けた。

トンネルは車1台がやっと通れる道幅しかなく、裸電球が二箇所、壁に吊るしてあるだけだった。

天井から水が滴たり、今にも崩れそうで薄気味が悪かった。現在は新たにトンネルを掘ってバイパス

道路になり、路線バスが通っている。

しばらく人家のない道を歩いていくと「やとしば」と呼ばれている集落に着いた。

なだらかな斜面にびっしり張り付いているように家が並び、それぞれが石垣で仕切られていた。

母親の実家は斜面の一番下にあり、玄関に着くと30mさきに波打ち際が迫っていた。

潮の香りと海草の腐った臭いが漂う中、江戸時代の百姓屋を思わせるような茅葺の家だった。

驚いたことに廊下にはガラス戸がなく部屋との仕切りは障子だけ、夜は雨戸を閉めるようになっていた。

見たところ廊下は雨に打たれ潮風にさらされて、いかにも古ぼけ、土台はひしゃげていた。

玄関に入るとそこは広い土間になっていた。いろいろな漁具がおいてあり磯の臭いが強烈だったので

はじめ息が詰まるような気がしたが、慣れるに従って気にならなくなった。茶の間と思しき部屋に

囲炉裏が切ってあり、傍らに頭のはげたおじいさんが座ってタバコを吸っていた。

一郎が挨拶すると相好を崩して「おお、一郎か、よく来たな、上がれ、上がれ」と言って

囲炉裏の周りに置いてある座布団をさした。奥の部屋でふざけていた従兄弟達が急に静かになり、

誰が来たのかとじっと聞き耳を立てている気配がしていたけれど誰も出てこなかった。田舎の子

特有の人見知りだけでなく、母の実家、つまり伯父さんの子達とは馴染みがなかったのだ。

一郎は早く兼高のいるおばさんの家に行きたかったので部屋に上がる積もりはなかった。

母親は今日実家で姉妹達と久し振りに集まることになっていたのだ。

「お母さんは今日ここに泊まるけれど一郎はカネちゃんちに行くんだろう?一人でいけるよね」

兼高の家はここから歩いて12,3分の距離だった。

「何だ、もう少ししたら小母さんが帰ってくるから飯を食って行け」とお祖父さんは言ったけれど、

一郎は礼を言って辞退し、薄暗くなった海沿いの道を兼高の家に向かって歩き出した。(つづく)

佐島の思い出 その1

昭和25年一郎が小学校2年の夏。

ニイニイゼミばかり鳴いていたのにそれに混じって油蝉が泣き出した。

今年の梅雨は7月になって激しく降ったり、からっとした青空が続いたりしてじめじめした

梅雨特有の鬱陶しさを感じることはなかった。13日,14日には土砂降りの雨が降って雷が鳴り、

翌日は梅雨明け宣言こそなかったが梅雨の終わりを告げるように朝から晴れ上がった。

蝉の声が一段と激しさを増したようだった。

「明日から佐島のお祭りが始まるから、お母さんは行ってくるけど、一郎はどうする?

 お父さんは夜勤だからあさって行くといっていたよ」

「えっ、じゃあ明日は僕独りになるの?ご飯はどうするの?」

「太平堂の小母さんに頼んでおいたよ。次の日の朝も小母さんがちゃんと起こしに来て

 ご飯も作ってくれるって。泊まりに来てもいいって言ってたよ」

「そんなのいやだ。僕も行きたい」一人っきりになるなんて考えても見なかった。それに

佐島にいって是非やりたいことがあったのである。

「そんなこと言ったって学校はどうするの、休めないでしょう」

 今年のお祭りは20年に一回の大祭だと言うことである。両親の実家からそれぞれ招待

されていたから母親自身がそわそわしていた。母親は一郎に大祭がどんなものか話して聞かせて

あったので、一郎の頭の中はまだ見ぬお祭りのイメージで一杯になっていた。子供も船に乗せて

くれるという話を聞いてなんとしても船に乗りたかったのである。一郎はどうしても行くと言い

張って聞かなかった。結局母親が折れて金曜日学校から帰ってきたら佐島に行くことにして

翌日の土曜日はあまり感心できないがずる休みすることにきめた。

母親の気持ちの中に20年ぶりに行われる自分の故郷のお祭りを一郎に見せておきたかった

こともあり、いい経験だと思ったのである。土曜日には佐島から電話して、中村先生に事情を

話し、了解してもらうことにした。(本日睡魔に勝てず、つづく)

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