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一郎が順調に成長していた1949年頃の世の中の動きはどうなっていたであろうか、
簡単に記すことにする。
1949年(昭和24年)一郎が小学校に入学した年、総選挙により成立した第三次吉田内閣は、
まさに戦後の日本を形作るターニングポイントであった。アメリカはこの時期、日本を共産主義勢力
から守るには、経済的な復興をもたらすことが得策であると考えていた。そして速やかに日本を復興に
導くためのプログラムとして48年「日本経済の安定と復興を目的とする9原則(経済安定9原則)
を指示し、翌年にはドッジラインを実施した。結果としてインフレーションは収束し、経済復興の
基礎は固められていった。
そんな時、日本政府は池田隼人蔵相をアメリカに派遣し「日本政府は出来るだけ早い機会に
講和条約を結ぶことを希望している。講和条約締結後、米軍の日本駐留は日本側から申し出ても
よい」と言う吉田首相のメッセージをJ・ドッジに伝えている。吉田首相は早期講和のために
米軍駐留を認めざるを得ないと考えていたのかもしれない。
1950年(昭和25年)7月朝鮮戦争勃発により日本経済は潤い、警察予備隊の創設によって
再軍備も始まり、日本の独立への準備は整っていった。アメリカにとっても反共防衛のために
日本の重要性は高まっていった。
1951年(昭和26年)9月8日、対日講和条約は調印された。その日、日本国民にはそれまで
その内容について一切知らされていなかった日米安全保障条約が日本側から一人だけ出席した
吉田茂の署名によって調印された。その内容を簡単に整理すると「アメリカ軍の駐留については
日本が希望したものであり、これはアメリカの権利である。だからアメリカは日本の安全に寄与
するために米軍を使用できるのであって、日本の安全を保障する義務は負っていない。また
アメリカ軍は日本の内乱鎮圧のために出動することも出来る。」ということになる。そして
この条約をより具体化するために、翌1952年(昭和27年)、日米行政協定が国会の審議を
経ずに結ばれる。この協定により、米軍は日本のどこにでも基地を設置できるようになり、在日
米軍人その家族には治外法権が保障された。又米軍駐留にかかる経費については、日本も分担する
ことになった。つまり日米安保条約は、対米従属的な規定を無期限に認める内容のものになったの
である。STORY 日本の歴史 -近現代史編 (日本史教育研究会)
1950年(昭和25年)朝鮮戦争が勃発すると日本にいた米軍は次々に朝鮮半島に送られた。
GHQ最高司令官マッカーサーは日本国内の警備が手薄になると言うことで吉田首相に警察予備隊の
創設と海上保安庁の八千人の増員を命令した。52年4月の日米安保条約発効に伴って航空部隊を設置し
て保安隊になった。これが自衛隊の前身である。
1953年(昭和28年)7月27日朝鮮戦争の休戦協定が成立した。朝鮮戦争による軍需物資の
特別注文により景気を回復した日本経済も休戦後一転して不況に見舞われた。会社の倒産や失業者が
増大し、各地で労働騒ぎが起きた。吉田内閣はアメリカとMSA(相互防衛援助法)に基づく「自由
および自由世界の防衛のために軍事力を増強」することを条件にいっそうの軍備強化を求められた。
これを結ぶことで経済援助も認められた。
1954年(昭和29年)3月MSA協定(相互防衛協定)が調印されるのに伴い防衛庁が設置され
直接侵略および間接侵略に対して日本を防衛することを主たる任務とする自衛隊が設置された。
しかしこういった再軍備は、戦力の保持を禁じている憲法第九条に照らして検討されることなく、また
広く国民に問われることもなく進められた。
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