幼年時代

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小 児 麻 痺 ???

肺炎が快方に向かい二ヶ月ほど経過して、いよいよ小学校入学が近づく頃、今度は

もっと悪い病気に取り付かれてしまった。

「おかあちゃん、足が変だよ」遊びから帰ってきたとき足に違和感を感じた。

「またあ、そんなこと言って、どれ、見せてごらん。どっちの足だい」

「右のほうだよ」と右足を出すと足に触りながら

「何でもないじゃないか、気のせいだよ」そう言ったのでそうかと思った。

しかし翌日、目覚めてトイレに行こうと立ち上がると右足が思うように動かない。

隣で寝ていた母親を揺すっておこした。

「やっぱり足が変だよ。動かないんだ。」眠い目をこすりながら両方の足をさすって

見比べていた母は異状に気がついた。右足が左足に比べて短くなっていた、と同時に

足首から先が曲がりだしていたのである。

「大変、小児麻痺ではないかしら」一瞬母親の脳裏に浮かんだ言葉がこれだった。

このところ身近で小児麻痺が何件か発症していたのを聞いたからである。

「こんな活発な子に障害を残してはいけない。なんとしても直さなくちゃ」母親は

心で固く誓った。そして一生懸命医者を探した。隣近所に相談すると工藤さんや太平堂の

おばさんが口をそろえて逗子市にある外科専門の鈴木医院が良いというので、すがる思い

で担ぎ込んだ。

「やはり栄養失調気味ですね。栄養のある美味しいものを食べさせてやってください。

特にビタミンCが足りないようです。それと少し高いですが注射を毎日打ちに来て下さい」

こう言われた。

注射は大きくて太く、いかにも恐ろしげだった。医者は針先を天井に向け中の空気を抜くと

、右足の太股の中ほどにずぶりと刺した。その痛さは脳天を突き抜けた。

ボクチンは大声で泣いた。痛さもさることながら何か大変な病気らしいという心細さで

泣かずにはいられなかったのである。真偽のほどは定かでないがその注射はストレプト

マイシンだそうだ。

翌日から歩けないボクチンを背負って通院することになった。しかしあの桜山隧道を徒歩で

通り抜けねばならない。小柄とはいえ六歳の男の子である。往復四キロの道のりは負担で

あったはずだが、彼女は我が子を治したい一心で苦痛とは感じなかった。母は強しである。

もっともその時母親は三十になったばかりの女ざかりであった。

注射は嫌だった。が幼いながら必要なことだと認識していたので、いつもは買ってくれない

リンゴやミカンの果物やお菓子を楽しみにして通院した。それと、日々の食事はボクチン

だけが白米になり、おかずは卵と魚がつくようになった。

問題は医者に支払うお金がなかったことである。

わずかばかりの蓄えはすぐに底をつき、母親は嫁入りのとき持ってきた着物を売ることにした。

タンス一棹あった着物はあっという間に空になったが、その甲斐あって病状は回復にむかった。

注射を一本打つたびに、曲がっていた足が元に戻っていくのを目の当たりにした母親は医者に

心から感謝した。一週間でボクチンの足は元通りになり、普通に歩けるようになった。

病名は小児麻痺ではなかったが、いったいなんであったか分からずじまいである。

一番の原因は肺炎と同様栄養失調によるものであるし、カルシュウムが不足していたせいかも

知れない。もし足が曲がったままだとしたら、その後の人生はどう変わったろうか。

想像するだに恐ろしいことである。母親に感謝しても感謝し足りない。

肺炎

 いつものように「なが馬」をしていた。この遊びは守備と攻撃に分かれて相手を

振り落とすか、つぶすかで攻守交替する。守備側は、一人が馬の首になり塀に背を

向け足を開いて立ち、先頭の馬が中腰のまま頭を、開いた股に差し込む。そして順

に二番目、三番目の馬が後ろ向きの前の馬の股に首を入れて連結させ、長い馬を作

る。攻撃側はなが馬の背中に乗り、暴れて馬をつぶそうとし、守備側が必死でこら

える遊びである。

 ボクチンは前から二番目の馬をしていた。背中の上に勢いよく誰かが乗りかかった

そのとき突然ふらつき膝を突いてしまった。悪寒に襲われ、眩暈がしたようだった。

「はええ、もうつぶれたのかよ。どうしようもねえな」西のタケがなじった。

「大丈夫か、怪我しなかったか」すぐ後ろにいたシゲちゃんが手を取って起こして

くれた。

「おめえ、すげエ熱いぞ」どれどれと言って皆がボクチンの額に手を当てて口々に

「本とだ、熱い、すげえ熱いぞ、ちょっとやばいかも」と言った。

「今日はもう家に帰れ」サブちゃんが額に手を触れながら背中を押した。

その時すでに熱が38度を超えていたのであろうか、朦朧となり震えが来て、近くの

塀に寄りかかるように崩れ折れた。

「おばさんを呼んで来い」サブちゃんの声で二,三人が駆け出して行った。

気がついたときは八畳間に寝かされていて、四つの心配そうな顔がじっと見つめて

いた。母親と近所のおばさん達だった。ただその顔が普通より小さく見えた。

不思議に思って天井を見ると、望遠鏡を反対側から覗いたように桟が小さく見えた。

怖くなって目を閉じると体がくるくる回って、どこかへ落ちて行くような気がした。

「お医者様が見えられました」太平堂のおばさんの声が聞こえた。

大きな顔に黒ぶちの眼鏡をかけた医者が入り口の引き戸を開けて入ってきた。

ボクチンの胸をはだけて聴診器を当てながら「どうだ、頭は痛くないか」と言った

ので「痛い」と答えた。事実頭は割れるように痛かった。

「体温は何度でしたか」

「ええ、40度ありました。大丈夫でしょうか」

しばらく慎重に調べていたが、母親のほうに向き直り首をかしげながら言った。

「急性肺炎ですね。このまま安静にして部屋を暖めてやってください。応急手当はして

おきますから、後で薬を取りに来るように」そう言いながら黒皮の鞄を開けて注射器と

薬を取り出すと、有無を言わさずブスッと射した。

「ところで、この子の血液型はなんですか」

「A型のはずです」

「誰かA型の人はいますか。緊急に輸血が必要です」と医者が言った。

居合わせた人々が話し合って永野材木店の職人に頼もうということになった。

太平堂のおばさんが永野材木店と親戚だから代表で交渉に行き,格さんという職人を連

れてきた。格さんは事情を聞くと、ボクチンのためなら喜んで輸血しようと言ってくれ

たそうだ。格さんはボクチンの遊び友達だった。

今考えると何故輸血などする必要があったのか分からない。たぶん当時の食糧事情が

悪かったため栄養失調気味であったせいかも知れない。多かれ少なかれ同年齢の子供

達は皆十分な食料を与えられず飢えていた時代であった。

いずれにしろ何CCか分からないが輸血したことにより快方に向かったことは確かな

ことであった。

肺炎と小児麻痺?

昭和二十三年から二十四年にかけて世相はまだまだ戦争の影を引きずっていた。

今日、社会問題となっている靖国神社と中韓両国にかかわる政治情勢を考えるなら、

この年に判決が下された東京裁判について知る必要があるのではないかと思う。

あまり皆に広く知られていないようなので、以下裁判の全貌を記す。

昭和二十三年十一月十二日極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決が下されて、A級

戦犯と言われた東条英機以下七名が絞首刑、軍人十一名、文官五名が終身禁固刑に

処せられた。この裁判は幾つかの重大な問題を含んでいた。

第一は裁判官が連合国十一カ国から選ばれたこと、原爆投下や無差別空襲が不問に

付されたことの意味で「勝者」の裁きであった。

第二は裁判がアメリカの政策に支障のない範囲と言う枠によって、天皇の訴追を

求める声があったにもかかわらず天皇の戦争責任は免責された。また細菌戦を行っ

た七三一部隊の行為も、アメリカに部隊の研究成果をそっくり渡すことで免責された。

第三は条例で、通例の戦争犯罪に加えて、侵略戦争を計画、遂行した「平和に対する罪」

一般市民に対する虐殺など「人道に対する罪」を問われたが、これは事後法の適用で

罪刑法定主義に反するとされたことである。

その他BC級戦犯裁判が各国で行われ、総数五千七百名のうち、九百八十四名が死刑、

四百七十五名が無期刑、二千九百四十四名が有期刑、千十八名が無罪、二百七十九名が

起訴取下げとなった。主として捕虜虐待、強制労働などに対する裁判であった。

この裁判の問題点は被告人に対して弁護人、通訳が非常に少ない、誤って別人を逮捕、

起訴したケース、責任を命令者に取らせるか実行者の下級者に取らせるかで刑の軽重が

一定でなかったこと、収容中虐待、拷問を受けたことなどである。

(日本の歴史−-近現代史編より)

 と、言うような世の中の動きとはかかわりなく、その年の秋になって、ボクチンは

肺炎に罹ってしまった。

ガキ大将

やがてツネちゃんは中学校を卒業すると郵便局に就職し、親父さん(熊田八五郎)と

一緒の郵便配達を始めた。

親父さんと同じように青い制服、粋に被った制帽で、赤い自転車に乗って颯爽と走る姿は

まことに格好がよく、女の人に大変もてたそうだ。

あれほど硬く結合していたグループもツネちゃんの就職とともにいつの間にかばらばらになっていった。

ツネちゃんに代わるリーダーが生まれてこなかったのが最大の理由である。

 そして何年か無政府状態が続き、やがてボクチンを中心とするグループが形成されていくのであるが、

ボクチンのすぐうえの兄貴分、サブちゃんやタカちゃん、西のタケ、勘左のシゲちゃんたち

とは良く遊んだ。その他のもっと上の年齢の子達は夫々の地域に帰っていった。

 余談であるが、名前の前についている西とか勘左は屋号である。

明治時代に一般人が苗字を持つようになったが、一族であったので同じ苗字になってしまった。

そこで区別をつけるために昔の屋号が使われたのである。

たとえば、太郎左、新屋、権兵衛、勘衛、角エム様、などがある。                 

様がついているのは昔名主をしていたのだろう。

佐島でも同様に同じ姓の一族であったから、お互いを屋号で呼んでいた。

ちなみに、母親の実家は万兵衛(マンベ)、母親の長姉の嫁ぎ先は三浦が崎である。

 子供たちの遊びは野球が中心になっていった。戦後プロ野球が復活し、川上、千葉、水原、与那嶺、

別所等のスターの活躍が喧伝され、日本国中が熱狂した。

ボクチン達も影響されて、仲間が来ればキャッチボールやバッテイング、人数が揃うと

三角ベースで試合をした。適当な広場がないので軍用道路が使われた。

彼らが使用したボールは「はりつけ」に使ったあの軟式庭球のゴムボールであり、グローブを使わなくて

も素手で受け取ることが出来た。バットは竹製か、木を削ってつくった。

正直野球のルールは難しい。ボクチンがはじめて野球の仲間に入れてもらったときは何も分からなかっ

た。ただボールを投げバットを振ることに興味を持っていたが、試合形式になると打ったらどこへどうす

ればいいのか分からず、サブちゃん達に良く怒られた。

「打ったら一塁にいくんだぞ」「三振だから次のやつにこうたいしろ」

「フライが捕られそうなときはベースについていろ」

こうして遊びの中から野球のルールを体で覚えていった。

よその地域のチームと他流試合を積極的に行うのは、ボクチンが小学校の高学年になってからで、

その話はまたの機会に詳述しよう。

我鬼大将グループはいろいろな遊びをした。

鬼ごっこに追いかけっこ、缶蹴り、なが馬、水雷艦長、ピンポン、野球(三角ベース)、買い物ごっこ、

等々毎日日が暮れるまで良く遊んだ。


そのほか自然薯堀、芹、三つ葉、椎茸、など季節の野菜や果物を取ってくるのも遊びのひとつだった。

ただこれらの中に、最後に罰則がある遊びがあった。

「はりつけ」と言って、ずいぶん残酷なもので、たいてい一番弱いものか年下の子がその洗礼を受けること

になる。どのようなものかと言うと、たとえば缶けりで何回かビリになると、塀に向かって後ろ向きに大

の字になって立たされる。

そこへ至近距離から軟式庭球で使うゴムボールをぶつけるのであるが、彼らは痛いところを知っていて、

特にふくらはぎや、両の手の甲に狙いをつけるのである。

その痛さたるや想像を絶する痛さで、たいていの子は泣き出してしまう。

そんなに痛くていやなら、やらなければいいのにと思うかもしれないが、仲間はづれにされるよりはまし

だから、ボクチンはいつもうまくなろうと必死だった。

 また木登り鬼ごっこなる遊びがあった。

森戸川が山に最も接近している所に松ノ木交じりの欅林があった。

木が密集して生えていたので彼らにとって絶好の遊び場となっていた。

ルールは木の上での鬼ごっこなので、移動するにもサルのように木から木へ伝って逃げなければならず、

地上に降りた時点で失格となる。

木の枝を使って隣の木へ移るのは大変難しい。枝を引き寄せるか、乗っている木自体をゆすって隣の木へ

乗り移るかしかなければならい。

木登りはさるやチンパンジイをみればわかるとおりバランス感覚と腕力に優れていなければ出来ない。

だからボクチンは子供の頃、それも大きくなってからも木登りをしていたせいで腕力握力ともに強くなっ

たのではないかと思う。

ボクチンはいつも鬼にさせられて追いかける役が多かった。

と言ってまだ五歳〜七歳であったから、木に登ることが出来なかった。

それでも、登りやすそうな木を見つけて追いすがるとサブちゃんは木の上から小便をかけてきた。

「おおいボクチン、早く追っかけろよ。日が暮れちゃうぞ」と言いながら、木をゆするのだった。

「そんなこといったって、サブちゃんがしょん便引っかけんじゃあねえか。やーめた」

「やめてもいいぞ、その代わりあしたっからここへくんなよ」

「だって木に登れねえんだもの、しょうがねえじゃんか」

「だから味噌っかすはだめなんだ。さっさとけえれ、けえれ」意地悪をしておいてのこりのサルもどきど

もは木から木へわたり、木を揺すって大騒ぎしていた。

遠くから林を見た人はサルの一団がいると思ったかもしれない。


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