ボクチン

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「ボ ク チ ン」

 その年の九月,とうとう部屋が空いてしまった。現金収入の途絶えた母親は追浜にある工場に勤めるこ

とにした。いつも夕方六時頃、京浜急行の逗子海岸駅(今は京浜逗子駅と合併して新逗子駅)から桜山随

道を徒歩で抜けて帰ってきた。桜山随道は長さ400M,二車線、当時は照明も歩道すらもない危険きわま

りの無い代物であったから、よほどの用事が無い限り誰もが通りたがらなかった。まして交通量は極端に

少なく、たまに通る車はアメ車ばかりであった。

 砂利道の広場のようにになった所が子供たちの遊び場であった。交通量がほとんど無く、皆そこに集ま

ってきて、男の子は陣取り、女の子は縄跳びなどして日の暮れるまで遊んでいた。男の子の中で一番小さ

かったボクチンは皆に遅れまい,足手纏いになるまいと一所懸命に走り回っていた。やがて、夕闇が迫る

と子供たちは「ご飯だから早く帰っておいで」と呼ぶ母親の声で、「さよなら三角また来て四角…」と歌

い「また明日遊ぼう、きっとだよ」と声を掛け合って、一人、また一人といなくなってしまった。子供た

ちと一緒に遊んでいるかのように飛び回っていた秋茜(トンボ)の群れもいつか姿を消し、西の空の夕焼

けががどす黒い色に変わり、あたりが薄暗くなってきた。子供たちの声で、あれほど騒がしかった広場は

シーンと静まり返って,急に寂しくなった。ボクチンは一人取り残されていることにきずいた。
 
 誰もいない暗い家には帰りたくなかった。

「そうだ、お母ちゃんを迎えに行こう」足は自然にトンネルへ向かった。

 国道の両側には家が無く、トンネルに近ずくにつれてコンクリートの擁壁がそそり立っていた。その上

は鬱蒼と生い茂った木が光をさえぎり、頭の上に覆いかぶさってくるようだった。救いは空が完全に暮れ

ておらず、ものを識別できたことである。もちろん車も人も通らないからあたりは静寂そのものである。

トンネルは真っ黒で不気味な口をあけて待ち構えているようだった。闇の中に潜む魔物が今にも襲い掛か

ってくるのではないかと思われたが、ボクチンは壁を頼りに恐る恐る進んでいくことにした。何のために

奥へいこうとしたのか、本人も分からない。ただ母親に会いたい一心で進んでいったのだが、内部は鼻を

つままれても分からないほどで、途中行き違いになる危険性もあったのである。入り口で待つべきであっ

た。そのとき三台のジープに分乗した若いアメリカ兵が気勢を上げて通りかかった。大きな笑い声や口笛

を吹いて、まるでからかっているようにバックファイアーのものすごい大きな爆発音をわざと鳴らした。

爆発音はトンネルの壁に反響し,何倍にも増幅して襲い掛かってきた。墓場での警戒警報のサイレンも

怖かったがボクチンが体験した中で一番恐ろしい出来事だった。夢中で入り口に向かって走り耳をふさい

で震えているうちに、騒がしい一団は通り過ぎていった。もとの静寂が戻ってきた。が、残されたものは

排気ガスの臭いと恐怖心、そして怒りだった。

しばらくしてトンネル内にからコツコツと足音が聞こえ、それが徐々に近づいてきて、真っ暗な入り口か

らポット、母親の姿が現れた。ボクチンは母親にむしゃぶりついていき、声を上げて泣いた。恐ろしさと

寂しさ、母親に会えた安堵感がない交ぜになりただ泣くしかなかったのである。

「ボ ク チ ン」

 その後部屋を借りに来た人は女の人で、名前は失念したが、仮に節子さんと呼ぶことにしよう。

節子さんはオンリーと呼ばれている娼婦であった。オンリーとはその名のとおりONLYのことである。

不特定多数を対象にせず一人の米軍人とのみ性交渉をおこなうために一部屋を構え、報酬を得る。

いわゆるおめかけさんの米軍版である。あの頃はみな、生きていくために必死でなりふりかまってはいら

れなかったのだ。まして、女が一人で生活していくための職が無くたとえ幸運に恵まれてどこかの工場

に勤められたとしても、間借りしては、食っていけなかったのである。だから女は女の武器を使ってたく

ましく生きていくことを選択したのだ。前述の和子さんの場合は、たまたま彼女が何らかの特殊技能を持

ち合わせていたか、はたまた英会話が出来たかしたために、米軍基地に就職できたのであろう。そこで米

軍人と恋に落ちたののだ。背景はもう少し異なっていて、彼女の肩に乗っていた重荷も彼女の計算の中に

入っていたかもしれない。たぶん彼女のサラリーでは一家を養ってはいけなかったであろうから。

 節子さんの場合は、初め不特定多数を対象に春をひさぐ、パンパンであった。やはり何らかの心の交流

ががあってオンリーとなったのであろう。彼女の生い立ちや、彼女の背負っているものがどのようなもの

であったのかは知る由もないし知ろうとも思わない。彼女は伝を辿って我が家に部屋を借りに来て、我が

家は種田某氏が引越ししたので部屋が空いていたから賃貸契約が成立したのである。今度は北側の六畳間

を貸すことになった。この部屋は隣の八畳間との境が土壁で、入り口は重たい板戸になっていた。東は腰

高のガラス窓で一間半の引き違い、夜は板戸になる戸袋がついていて、収納は二段の押入れが二畳分あっ

た。この部屋は後にボクチン専用になる。

「ボクチンところはパンパンに部屋貸してやんの」西のタケが憎々しげにいった。

「そんなことないやい」向きになって反論したが、内心忸怩たる思いであった。当時の人々にあってパン

パンという響きは疎ましく人にあらざるといった感覚であったから、子供たちは親たちの会話を聞いて、

忌み嫌ったのである。

 節子さんは気前のいい人だったから相方の黒人兵が持ってくるいろいろな食べ物を惜しげもなく分け与

えてくれた。チョコレートをはじめガムや見たことも無い缶詰め、はじめてコンビーフを食べ感激したり

、一番傑作だったことは細くきったポテトを油で揚げたスナックが美味しくて食べすぎ、気持ち悪くなっ

て戻したことを黒人に話したら笑われたと節子さんに聞いた。あれはビールのおつまみで子供には強すぎ

るのだそうだ。

 節子さんは半年ほどいてどこかへ引っ越していった。あい方の所属する部隊が転戦することになり契約

が切れたのである。彼女がその後どうなったのか知らないけれど、また基地の周辺にたむろしているか、

まただれかのオンリーになっているのか想像すると切なくなってくる。

「ボ ク チ ン」

 三浦半島は東京湾口をふさぐ形に突き出している。また相模湾を形成している一方の半島であり、ちな

みにもう一方は伊豆半島である。三浦半島の東京湾側に横須賀軍港、浦賀ドックがあり、また首都防衛上

半島第二の二子山に高射砲陣地を建設する必要があった。二子山は葉山町側から登らねばならなかったた

め、物資運搬用の専用道路を葉山町長柄につくることになった。そのルートが区画整理した土地の真ん中

を通すことになり、国道から直角に二子山に向かってほぼ直線の道路が出来上がったのである。山の上か

ら眺めると、一匹の大蛇が緑の田んぼの中を泳いでいるようであった。この高射砲が戦時中どのような活

躍をしたか、前に述べたとおりさんざんな体たらくだった。道路は戦後唯一の町道として活躍したが、昭

和四十六年頃逗葉新道が開通してその役目を終えることになった。しかし、今も生活道路として必要不可

欠なものである。

 ボクチン親子には現金収入が無かった。食料は親戚の援助で何とか確保することが出来たが、いかんせ

んお金が無いので、一部屋貸すことにした。当時は住宅事情が極端に悪く借り手は後を絶たない有様で、

最初の家族は種田某という人であった。この家族は戦時中東京から疎開してきた人々で、家族構成は祖母

息子夫婦、その妹とボクチンより二歳年下の男の子の五人家族であった。どうやって寝ていたのか知る由

も無いが窮屈であったことは間違いない。ただ特殊だったことは種田某氏の妹和子と言う人が近くの米軍

基地に勤めていて、生活の糧は彼女の両の肩に掛かっていたことだ。さらに一家を支えていたのは米軍の

黒人兵だった。時々彼が尋ねてくると一家は二人を残して外出したものである。ある日ボクチンが部屋を

訪ねたとき、二人が同衾しているのを目撃した。たぶん黒人兵がチョコレートか何かをくれたのでお礼に

行った時だったが、同じ部屋の中で家族もくつろいでいたから、子供心に何か異様な気がした。結局その

二人は結婚して一家で東京へ帰っていった。後で聞いた話だが女の子が生まれたそうである。

「ボ ク チ ン」

 話が横道にそれたので本文に戻し、「ボクチン」の生活環境についてお話しておきたい。
 
昭和二十二年、ボクチン五歳、物心のつく頃であった。

 父親が戦死したので母と二人暮らしである。二人に残されたものは敷地八十六坪、八畳間

と六畳二間の瓦葺の家屋であった。今で言う3Kである。

 住んでいるこの地区は農家が多く、畑や田んぼの中に間隔を置いて茅葺屋根が点在していた。

土地の長老に聞いた話によると、ボクチンの家は元田んぼであった所を埋め立てた、いわゆる

住宅区画整理地区の一区画に建てられたものらしい。また余談であるが、この区画整理が行わ

れた訳は、この町に御用邸が設けられた事、もうひとつは防衛上の問題であった。御用邸はほ

ぼ町の中央に位置し、相模湾に面した静かな一色海岸に建設された。天気のいい日には大島、

箱根連山、丹沢山塊、その上に富士の明峰を望むことが出来る、絶好の景勝地である。

 隣の逗子市には国鉄横須賀線の逗子駅があり、天皇陛下御一家は御静養のために御召列車で

到着すると、そこから専用車で御用邸まで、町民の熱烈歓迎の中を静々と進んでいくのである。

初め逗子市から御用邸までの交通の便は海岸沿いにある狭い道路だけであった。そのほかのルー

トはさして高くも無い桜山で遮断されていて、逗子市に出るには山越えしかなかった。それゆえ

逗子駅から御用邸までの最短ルートとして桜山に隧道を堀り国道とした。さすがに天皇陛下がお

通りになるだけあって国道は御用邸まで舗装されていた。当時アスファルト舗装は地方では珍し

く、その先が舗装されるには戦後数年を要することになる。区画整理は隧道のずりがつかわれた。

隧道は昭和三年頃完成したと言われている。

「ボ ク チ ン」

 しばらくお休みしていましたが内容を少し変えてまた始めます。読んでください。

 幼年期「ボクチン」と呼ばれていた。何故そう呼ばれていたのか、その頃は分からなかった。

この「ボクチン」という語感は活字で印刷されると、どこにアクセントがあるのか分からないし、

微妙なイントネイションが伝わってこない。英語の発音のように「ボ」の音を強く発音するのと、

今若い人が使う「カレシ」と同じように発音するのとでは、受け取り方がぜんぜん違う。

つまりアクセントを「ボク」に置くのか「チン」に置くのかの違いである。ためしに両方発音し

てみてもらいたい。「カレシ」的発音はどこか揶揄を含んでいるようで、意味不明である。

本人はおおいに不満であったが、グループの最年少なので黙っていた。

 余談であるが、「彼氏、彼女」という呼び方について一言。普段この三人称は、英語的発音で

頭を強く、ツマリ「カ」にアクセントを置く。ところが若い者は「レシ」「ノジョ」を強く発音

する。

一時期テレビコマーシャルで父親が娘に「カレシ」ではなく「かれし」と発音するように注意

するシーンがあったのを思い出すが、われわれ年配者ははまったく同感である。これは年寄りの

思い入れかもしれない。「男女席を同じうせず」といった時代よりは下るが男女交際がままなら

ぬ、そんな頃のプラトニックラブ(platonic love)を思い描くせいかもしれない。ちなみにプラ

トニックラブを辞書で引くと「プラトン的愛、理想主義的愛、肉欲を超越した愛」とある。

マドンナ、憧れの君などと言って遠くからひたすら恋焦がれるだけで声もかけられず、たまたま

デイトにこぎつけたとしても手さえ握れぬ純情さを貴重と思うし、微笑ましいと思える。最近の

若者の恋愛は即物的で、男女関係は性を抜いて考えられないようだ。女性も解放的で性について

は何の戸惑いも無く、単なる快楽の追求にすぎないと思っている。いささか懸念するのは女性の

性である。神は女性にお産という神聖な行事を担う代わりにセックス時、男に数段勝る快楽を

お与えになった。つまり、女性は肉体的により雌に近く、性にのめりこむ恐れ無きにしも

非ずといえる。したがって年齢の低い頃にセックスを知ることはけっして、良いとはいい難い

のである。江戸時代の武士の子女は行儀作法、お稽古事、しかるべき教養、厳格な躾を受け、それ

なりの自覚を持って生活し、どこへ出ても恥ずかしくない女性たらんと努めたのだ。そこまで要求

するつもりは無いがもう少し自分を大切にして、若いうちにこそしっかり勉強し、確かな教養を

身に着けることが肝要である。

 「カレシ」というその音感から受ける印象はどこか退廃的で、「かれし」」というノスタルジ

ックな響きに対して、「カレシ」は単なるセックスフレンドといっているように聞こえる。続く 

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