戦後

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GHQ 2

この前は失礼しました。眠気には勝てません。

 GHQの主たる任務は日本の治安維持で、今日行われているイラクの

米軍による占領政策と同じです。大きな違いは日本が占領軍に対して従順であった

のに比べてイラクは一部の過激派が徹底抗戦を行っている点です。国民性による

のか、また宗教の違いか、あるいは日本は米軍によって完膚なきまでに殲滅させ

られたため、抵抗する術が無かったのか、逆にイラクは余力を残していたから

抵抗を続けているのか私には分かりません。イラクがいまだに紛糾を続けているのは

多民族国家であるがゆえに民族間の利害関係や、宗教の違いが複雑に絡み合って

統一された国になれないのでしょう。

 GHQの当初の占領政策は非軍事化、民主化により日本がアメリカの脅威となる

ことを防ぐためであったのです。またGHQは日本政府が新聞の発売禁止したもの

を撤回させたり、憲法改正を指示したが日本案が旧態依然たるものであったので

GHQ案を提示し日本国憲法の原案としたり、自由党の総裁で首相候補であった

鳩山一郎を公職追放して吉田内閣を成立させたりしたのです。その頃の日本の

国家財政は危機に瀕していましたので、終戦から暫くはGHQの管理下に貿易庁をおき

輸出入業務を行ない、ばらばらであった為替相場を単一に設定し為替の安定

をはかりました。昭和48年には「経済安定九原則」の実行を強制し、インフレ

抑制を促し、当時の相場を1ドル=360円に設定したのでした。 つづく

 今日は時間が無いので続きは後ほど。

GHQの実績

 また更新が遅れたのはひとえに私の怠惰な性格によるもので、いかんともし難く
汗顔の至りであります。それゆえ自らに鞭打って書くことにしました。

 戦後の日本人の生活環境は概ね前回書いたような暮らしぶりで,人々は

いつも空腹であり、また、衛生的に劣悪な環境であったため、伝染病や栄養失調に

より結核に罹ったりするようになります。また蚤しらみ、南京虫などの寄生虫にも

悩まされました。

 しかし、日本はそれから奇跡の発展を遂げることになりますが、それには

GHQが大きく係ってくるのです。では、GHQとはいったい何なのでしょうか。

 1945年(昭和20年)7月ポツダム宣言が発せられ、日本は8月15日に

降伏し終戦が決定しました。同月30日「連合国軍最高司令官兼アメリカ太平洋陸軍

司令官」マッカーサー元帥が厚木飛行場に着陸、同年9月2日に戦艦ミズーリ号上で

降伏文書調印式がおこなわれました。マッカーサーの司令部がGHQです。これは

表向き連合国とアメリカ陸軍司令部となっているが、マッカーサーは主にアメリカ

陸軍司令官として行動しました。    つづく

眠くなったので次回にしてください。

戦後(幼年期)

 また、しばらくご無沙汰でした。思い出すままに書いてはおりますが、
構成が難しくなかなか筆が進みません。読み返してみて文章力の無いことを
思い知らされました。が、気を取り直して筆を採ることににします。今しばらくの
ご辛抱を。

 終戦後は前にもまして耐乏生活になっていきます。復員者や焼け野原になって

職場を失った人々が日本国中にあふれ、その数二千万人ともいわれています。

その人々を養う物資も、衣食住全てにわたり不足していました。米は配給制でしたが

絶対量が無いので、その他の雑穀類で補おうとしましたが、人々の空腹を

満たすことはできません。人々は「闇米」を求め、いわゆる「買出し」に出ることを

余儀なくされされたのです。そこで、衣類、宝石類を食料と交換するために、

農村に出かけていきました。ところが、食料は国家によって統制されていましたから

なけなしの金を使って買った闇米やいもを、突如臨検と称して警察に取り上げられて

しまうこともしばしばでした。一説によれば買出しの出来ない人の中には餓死する

者もあり、京浜地方で1300人の餓死者がでたと言われています。

 私たち母子もご多分に漏れず「買出し」に出かけることになりました。

秋田県あたりまで行ったそうです。何度か出かけていきましたが幸いなことに

臨検には一度も会いませんでした。もちろん買出し分だけで食べていかれるわけも無く

親戚から食料を分けてもらってどうにか生活することが出来ました。母の生家は

バスに乗って30分、徒歩15分程の半農半漁の寒村にあって、主に鰹の餌にする

カタクチイワシを取る漁師でした。いわしばかりでなく時にはマイワシ、スズキ、

烏賊、ボラ、鰹などが入ることがあり、上物は商品に回し、あとは家庭に持ち帰って

食卓にのぼります。その頃はカタクチイワシがたくさん取れたので沿海漁業の

鰹船に売った残りを煮干、目刺やみりん干にして、あまった物は肥料にしていました。

今は自動車が発達していますが、当時は輸送手段が無いため生の魚を持ってこれません

から重い荷物にならないような干物や、海藻類をもらってきました。     つづく

 今日はこの辺で、また次回、少し難しいお話をします。

戦後(幼年期)父の死

 プリリンさん、nettaiya1971さんコメントを頂き感激しています。つたない文章で
恥ずかしいのですが読んでくれて有難うございます。字がごちゃごちゃしているので
読みにくいかも知れません。もう少しお付き合いください。
 前回、途中で眠くなったため中断してすみません。つづきを書きます。

 昭和二十一年になったある日、壊れた万年筆と象牙の印鑑とともに父戦死の知らせが

入りました。最初に書いたとおり父は三十三歳で召集されその二年後に亡くなったのですが、

死亡年月日は昭和二十年七月二十五日だったそうです。

なんと、後二十日生き延びていればたぶん帰国出来たでしょう。

出征するときも割り切れない思いであったうえ、なんてついていないのだろうと、つくずくそう思いま。

ただ、壊れた万年筆を見て、「ああ心臓に一撃だった、これなら即死で苦しまなかった」と想像でき

るので、そのことだけが気休めです。

 今年のお盆は特別な感慨を持ってお参りしました。なぜなら、長男にお嫁さんが来てくれたので、二人

を連れて報告にいったからです。

二人の感想ですが「ご先祖さまがいたから今がある。感謝しています」と言っていました。殊勝なり。

 父の葬儀がすぐ執り行われました。恥ずかしい話ですが私は人々がたくさん集まってきて忙しく立ち働

くのが理解できませんでした。

母から父の葬式だから静かにしなさいと言われましたが、私ははしゃいでいました。お墓に遺骨を納めに

行く行列で、遺影の後ろに続いてご飯を持つ役目を従兄弟と争ったりしました。  つづく

終戦後(幼年期)

 前回から大分経ちましたが、また更新します。
どうも,字が混み合っていて読みずらいのではないかと思います。
読みやすいように間隔をあけて書いてみることにしました。

 終戦とともに貸してあった家に戻り、母子の耐乏生活が始まりました。

家に戻ったものの収入が無く、食べ物も無いため、しばらくは親戚から

野菜や魚を貰って食いつなぐことになりました。お米は配給制でしたが、

直後は満足な支給も無く、人々は野や山に行き食べられそうな草を争って

取りに行ったものです。野蒜,たらの目、独活、三つ葉、よもぎ、いちじく、

柿、蜜柑、あけび、自然薯等、季節季節の草や果物でした。それもみんなが

争って採りにゆくものですからすぐに無くなりました。採ってきた草はお粥の

具になりましたが、お米が少ないので水っぽくて美味しいものではありません。

またスイトント称するものは、小麦粉を練り適当なおおきさにちぎったかたまりを

出汁の効いていない、醤油で味付けしただけの汁にいれたものです。ほかに蕎麦や

うどんなどを食べましたがやはり,出しが効いていないから美味しいものではありません。

私はスイトンや蕎麦とうどんが食べられなくて泣くものだから、何時も私だけお米の

ご飯でした。         つづく

 今日は眠くなったのでこのへんで次回にまわします。

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