戦前

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終戦前(3)

何人かのご訪問感謝しています。つたない戦争の記録ですが
戦争を知らない世代の人たちがこれを読んで、何か感じてくれたら幸甚です。
前回からの続きです。

 また、母子が生活を始めた部屋の裏は墓地になっていました。

そこは、私と、同じ年頃の従兄弟たちと近所の悪餓鬼たちの格好の遊び場でした。

かくれんぼや鬼ごっこ、戦争ごっこをするには、広さといい迷路のような

お墓の配置といい申し分の無いものでした。まことに罰当たりな話ですが、

ご先祖様を尻の下に敷いたり、墓石を倒したりして、私たちは朝から晩まで遊び暮らし、

飽きると海岸に出でて小魚をすくったり、桜貝を拾い集めたりしていました。

いつものようにお墓で遊んでいたとき、突然サイレンがけたたましく鳴り響きました。

火の見櫓が墓地のすぐそばにあったため、その音は頭の上から覆い被さって来て、

腹の底から震撼させました。私たちはお墓にしがみついて泣いていました。

初めての空襲警報に心底驚くとともに、何だか分からなかったけれど恐ろしかった

のを覚えています。

やがて、食料が乏しくなると食料を求めて百姓や親戚の漁師の家に買出しに

出かけなければならなくなっていきました。記憶は曖昧ですが母に連れられて

地方に買出しに行ったときのことですが、途中で空襲警報が鳴り近くの松林の中に

避難しました。そのすぐ後、戦闘機が一機爆音とともに機銃掃射をしつつ

通り過ぎてゆきました。恐ろしさに震えていると、すぐ近くでバスが立ち往生し、

消防団が運転手を非難する大きな声がきこえていました。

近くの山の上の高射砲陣地から、B29 が編隊を組んで飛来するたびに

高射砲が火を噴くのですがけっして当たることはありません。B29は成層圏

を飛んでいて、射程距離にはいることがなかったのです。大人も子供もそれを見て

悔しがったそうです。

前段でも話しましたが日本にはもはや迎撃することすら出来ないほどに戦力が払底

していたのです。あちこちの都市が米軍に爆撃され焼け野原になったという知らせが

聞こえてきて、いずれはここも対象になるかもしれないと大人たちは

戦々恐々としていたそうです。ところがB29は私たちの真上を通過するだけで、

爆撃することはなかったのです。後で聞いて知ったのですが、私たちの住む町は

Y軍港に隣接していたので爆撃を免れたのです。米軍は終戦後、日本占領のため 

Y軍港を自分たちの拠点にする計画だったのです。      つづく

終戦前(2)

米軍による爆撃についてもう少し述べてみたいと思います。

 大虐殺といえば思い浮かぶのはアウシュビッツ、南京、ポルポト、文化大革命等々、

アフリカでおきている抗争、ほかに9.11同時多発テロもその一つでしょう。

この中で、南京大虐殺については中国が反日を煽る手段として30万人といっているが、

当時の状況から見てありえない数字です。

時がたつにつれて中国政府が徐々に増やしていったのでしょう。

何せ、飛流直下三千尺銀河九天より落つる、などと表現する民族ですからむべなるかなと思っています。

 つい、日本の弁護になりましたが本論は米軍の攻撃についてです。

もし、戦後の裁判が平等に行われていたら、日本の戦争犯罪人やナチスとともに米軍こそ弾劾されるべき

であったとおもいます。

米軍の行った無差別爆撃は無抵抗の一般人を、まるで蟻の群れをつぶすように面白がって       

殲滅し尽くしたからです。

この残虐性は非人道的であり、まして広島、長崎における原子爆弾の投下は悪魔の仕業としか言う言葉を

知りません。

多分彼らはどうせ東洋の黄色い野蛮人を殺戮するのだからと痛痒を感じなかったのでしょう。

以上のことから、米軍による爆撃は先に掲げた世界で認めるアウシュビッツやポルポトの大虐殺と比肩し

得る、いやそれらを凌駕するものと、断定せざるを得ないのです。

然るに、世間ではなぜ世界の大虐殺の筆頭に上げないのでしょうか。

世界はこれらの事実を知らないこともありますが、アメリカの西部劇のように単純な勧善懲悪の世界にお

いて、第二次世界大戦に於ける日本は、哀れな憎むべき悪玉という認識しかないのであります。
 
 主文に戻ります。

母子はどうやって生活していたのでしょうか。米軍機が飛来するたびに空襲警報発令の

サイレンがなり、人々は防空頭巾を被り近くの防空壕へ避難しました。

防空壕は隣組が人を出し合って、鑿と金槌だけで山に横穴を掘ったものです。

約縦横一間(1.8m)、奥行き二間半、で穴の一番奥に長さ二間の横穴がありました。

そこに隣組の人たち二十人ほどが避難したものですから、いつも込み合っていて、

人いきれと赤ん坊の泣き声やらで息苦しく、早く解除にならないかと思っていました。

空襲警報解除になってほっとすると同時に、外に出たらたちまち機銃掃射されるのではないかと何故かい

つも首をすくめて、おそるおそる家に帰ったものです。

あとで母に聞いた話ですが、ある日例によって私を背負い避難する途中で機銃の流れ弾が頬をかすめたた

め腰を抜かして道路にしゃがみこんでしまったそうです。

もし当たっていたらその後は想像することも出来ない、すっかり違った人生を送ることになったでしょ

う。 つづく

今日はこのへんで終わりにします。

怠惰で気まぐれな男なので毎日更新出来ないかもしれませんが、読んでみて下さい。

1.終戦前

 まもなく八月十五日が来ます。云わずと知れた終戦記念日です。

しかし私には終戦の日の記憶がありません。

満三歳を過ぎたばかりの年齢では理解することは難しかったかもしれませんが、子供心に恐怖心はありま

した。普通、人間は何歳くらいからの出来事を記憶しているものなのでしょうか?

物心のつく年頃とは幾つでしょう、おそらく五〜六歳頃からの出来事を断片的に思い出すだけでしょう。

ところがいくら幼くても強烈な体験は深い記憶として残っているものです。

 私が二歳の頃父は三十三歳の高齢で召集されました。

父はいつも私を膝の上に乗せて、それは可愛がってくれたそうです。

戦況が傾いて動ける男はだれかれ関係なく召集されるようになりました。

幼い我が子と愛する妻を残して戦地に赴くことは断腸の思いであったろうし、

何をいまさらと割り切れない気持ちを胸に出征して行ったのでした。

残された母子はその日から収入を絶たれ、今まで住んでいた家を他人に貸し、

親戚の家に移り住むことになりました。

親戚の家は板金業を営んでいたので大きな仕事場があり、その一部を改修して二畳一間の部屋を作っても

らいました。それでも母子二人が暮らすには十分な広さでしたが、

鉄板と油と溶接のにおいがしみ込んでいて息苦しいほどでした。

 沖縄、サイパンと本土防衛網が破壊され、制空権を失うと米軍の爆撃機が日本の本土上空に現れるよう

になりました。

B29は9000mの成層圏を編隊を組んで悠々と飛来し全国の都市に爆弾を雨のように降らせました。

日本は刀折れ矢尽きて抵抗するする術さえなかったのです。

米軍は無慈悲でした。

罪も無い人々に容赦ない絨毯爆撃を繰り返し全国を焼け野原にし

、その上これでもかと言わんばかりに広島と長崎に原子爆弾を投下したのでした。                      つづく
 今日はこの辺にしておきます。

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