|
何人かのご訪問感謝しています。つたない戦争の記録ですが
戦争を知らない世代の人たちがこれを読んで、何か感じてくれたら幸甚です。
前回からの続きです。
また、母子が生活を始めた部屋の裏は墓地になっていました。
そこは、私と、同じ年頃の従兄弟たちと近所の悪餓鬼たちの格好の遊び場でした。
かくれんぼや鬼ごっこ、戦争ごっこをするには、広さといい迷路のような
お墓の配置といい申し分の無いものでした。まことに罰当たりな話ですが、
ご先祖様を尻の下に敷いたり、墓石を倒したりして、私たちは朝から晩まで遊び暮らし、
飽きると海岸に出でて小魚をすくったり、桜貝を拾い集めたりしていました。
いつものようにお墓で遊んでいたとき、突然サイレンがけたたましく鳴り響きました。
火の見櫓が墓地のすぐそばにあったため、その音は頭の上から覆い被さって来て、
腹の底から震撼させました。私たちはお墓にしがみついて泣いていました。
初めての空襲警報に心底驚くとともに、何だか分からなかったけれど恐ろしかった
のを覚えています。
やがて、食料が乏しくなると食料を求めて百姓や親戚の漁師の家に買出しに
出かけなければならなくなっていきました。記憶は曖昧ですが母に連れられて
地方に買出しに行ったときのことですが、途中で空襲警報が鳴り近くの松林の中に
避難しました。そのすぐ後、戦闘機が一機爆音とともに機銃掃射をしつつ
通り過ぎてゆきました。恐ろしさに震えていると、すぐ近くでバスが立ち往生し、
消防団が運転手を非難する大きな声がきこえていました。
近くの山の上の高射砲陣地から、B29 が編隊を組んで飛来するたびに
高射砲が火を噴くのですがけっして当たることはありません。B29は成層圏
を飛んでいて、射程距離にはいることがなかったのです。大人も子供もそれを見て
悔しがったそうです。
前段でも話しましたが日本にはもはや迎撃することすら出来ないほどに戦力が払底
していたのです。あちこちの都市が米軍に爆撃され焼け野原になったという知らせが
聞こえてきて、いずれはここも対象になるかもしれないと大人たちは
戦々恐々としていたそうです。ところがB29は私たちの真上を通過するだけで、
爆撃することはなかったのです。後で聞いて知ったのですが、私たちの住む町は
Y軍港に隣接していたので爆撃を免れたのです。米軍は終戦後、日本占領のため
Y軍港を自分たちの拠点にする計画だったのです。 つづく
|