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彼女は小母さんたちから桃ちゃんと呼ばれている。まだ見習いなのだ。入院して四日目の朝、桃ちゃん
は病室に姿を見せなかった。昨日あんなことがあったからこの部屋に来てくれないのかと不安になった。
病院の雰囲気も何かいつもとは違うような気がした。お昼のときも顔を見せなかった。見舞い客があち
こちの部屋で賑やかになってきた。そしてやっと、その日が日曜日だったことに気がついて思わず苦笑
した。それで桃ちゃんはは来ていないのかと納得した。一郎は無意識のうちに彼女を探していたのだ。
たったあれだけのことで意識するようになるとは思わなかったし、こんなに胸をときめかす事は過去には
なかったような気がする。
昼過ぎ母親が弟を連れて着替えを持ってきた。義父はようやく働ける体になったと言って働きに行く
ようになったそうだ。
「ほっとしたよ」 といって溜息をついた。煩わしい干渉や理不尽な言動から開放されて、母親はようやく
肩の荷が下りたという心境になったのだろう。一郎も家の中にあった重くて澱んだ空気が晴れていくよう
な気がした。弟は来年小学校に上がり、妹は三年になる。義父もそうそう休んで入られなくなったのだ。
母親は一郎が脱いだ汚れ物を持って帰っていった。
翌朝、桃ちゃんはいつものように明るい声で「お早うございます」といって掃除をしにきた。一郎の
ベッドのそばに来ると声をかけてきた。
「この前はごめんね。傷は大丈夫だった?そう、なんでもないのね、心配しちゃった」
「心配してくれてありがとう。先生が傷口を調べて、これなら順調だって、肉も盛り上がってきたし
お風呂に入ってもいいて言ってくれたんだ」 体は看護婦の白石さんが持ってきてくれた熱いタオルで
拭いてあったがそれだけではすっきりしたとは言えず、お風呂に入りたかった。
「そう、あとで看護婦さんに聞いといてあげるね。その時に知らせてあげるわ」 と言って桃ちゃんは
隣の部屋に入って行った。
午後一番のお風呂に入って体を洗い気持ちがよかった。しかしなかなか汗が引かないので屋上に涼みに行
くことにした。久しぶりでお風呂に入ったので疲れてしまった。倦怠感が体全体を包み込んだようで、
踏みしめる一歩一歩が重かった。そればかりでなく、たった4〜5日入院しただけでこんなにも体力が
衰えるものかと驚かされた。エレベーターで五階に行き階段を登った。階段を踏みしめるたびに傷口は
痛みを感じたが、厭な痛さではなかった。屋上に出る扉を開けると、きらきらと光る東京湾が見えた。
フェンスの近くに立って海を眺めた。心地よい風が吹き渡って、今までかいていた汗が見る見る引いてい
くのが分かった。ふと、人の気配に振り向くと、物干し場で桃ちゃんが洗濯物を干しているのが見えた。
一郎はドキッとしたが、何故か嬉しくなった。じっと見入っていると桃ちゃんは一郎の視線を感じたの
だろう、ゆっくりと振り向いた。一瞬吃驚したような目をしたが一郎だと確認すると、にっこり笑い、
声をかけてきた。
「あら、東谷さん、もうお風呂に入ったの?」
「ありがとう、おかげですっきりしたよ。あんまり暑くて汗が引かないから涼みに来たんだ。運動を兼ね
てね。体がすっかりなまっていたよ」 桃ちゃんは洗濯物を干し終わると一郎とならぶようにしてフェン
スにもたれた。
「ここから眺める東京湾て綺麗でしょう?私ここが好きで、お休み時間になると、晴れている限りここに
来て海を眺めることにしているのよ」桃ちゃんは目を細めて海を見ながら、つぶやくように言った。屋上
からみえる海は田浦沖である。大小の船がひっきりなしに行き交っている東京湾航路の要衝の海である。
はるか先に房総半島の鋸山連山がぼんやりと横たわり、右手前は山に隠れているが、田浦湾があり海上
保安庁の掃海艇等が繋留されている。
「ほら、今出て行こうとしている大きなタンカー、あの船がこれからどこに行くのかなって想像するの
よ。中東の港を目指しているならマラッカ海峡を通るに決まっているけど、あそこは海賊が出るって言う
じゃない?もし出会ったらどうするんだろうって思うのよ。そして今度は外国から帰ってくる貨物船、
右のほうからやって来たあの船、あの船はどこから来たんだろう、何を積んでいるのかなって想像すると
半日いても飽きないわ」
「俺も将来外国へ行きたい。もっとも船ではなくて飛行機だろうけど」
「商社に行きたいの?三井物産とか丸紅のような」一郎はそんな名前は知らなかったのでドギマギした。
商社などという職業があること自体よく分からなかった。恥ずかしいと思った。
「そうじゃないけど、世界を見て見たいというだけさ」間抜けな答えだと思った。
「そう、私は女だから世界を飛び回ることは出来ないでしょう。でもねえ、語学を勉強したいと思ってい
るのよ。出来ればスペイン語を話せるようになりたいの」
「スペイン語なんて習ってどうするんだい?」
「出来れば貿易の仕事に携わりたいと思っているのよ」
「へえ、すごいね。大きな夢を持っているんだ。でもさあ、スペイン語はどこで勉強するのさ。英語なら
幾らでもあるのにスペイン語は勉強するところがないんじゃないの?」
「恥ずかしいけど、言っちゃうわ。私ねえ、東京外語大学に行きたいのよ。スペイン語科」 一郎はおもわ
ず桃ちゃんの顔を見つめてしまった。すごいと思った。一郎の頭の中には将来何になりたいとかどこの
大学に行きたいと言うビジョンがまだ何も描かれていないのに、彼女はしっかり将来像を見据えているこ
とに驚いた。昼間働いて夜に勉強する言う、厳しい環境の中にいても夢を失うことなく前向きに生きてい
る桃ちゃんの考え方を素晴らしいと思わずにはいられなかった。
「俺はまだ何にも考えていないんだ」と言うと桃ちゃんは明らかにあきれたという顔をした。
「夢を言っただけよ。思い通りに行くとは限らないわ。今までもそうだったから。きっと実現はしないで
しょう。大学までいけるかどうかさえ分からないのに勝手に夢を見ているだけかもしれないじゃない」
「夢を見ることは悪いことじゃない」
「そうね、あなたには私がどんな暮らしをしてきたか分かるわけないもんね」 誰に言うともなく独り言を
言って溜息をついた。
「あらっ、私何しゃべっているんだろう。仕事、仕事をしなくちゃあ。またね」 桃ちゃんは照れくさ
そうに笑うと身を翻してドアーを開けて病室に戻って行った。一郎は暫らく焦点の定まらない目で海を
見ていた。夢を持たないことがどんなに怠惰なことか思い知らされた。一郎は普通に暮らしている幸せな
高校生の環境とは多少異なる環境に育ったとは言え、それらの高校生と同じように何の憂いもなく高校
生活を送っていられることに気がついた。桃ちゃんの環境を思えばずっと幸せであるはずだ。ただ惰性
に流れて無為に過ごし、何も目標を持たない高校生は罪悪の何物でもないのではないかと思った。
「お前は何のために高校に来たのだ。何のために横高に来たのだ。大学に行く為に来たんじゃないのか。
ではどこの大学に行きたいんだ。将来何を目指すのだ」 一郎は自分自身に問いかけてみた。答えは
まだなかった。
入院八日目に退院することになった。その朝桃ちゃんは病室に顔を見せたが何もいわず、目も合わせよ
うとはしなかった。一郎とは住む世界が違うと知っていたのだ。多分これが永遠の別れになる。だから
なまじ顔をあわせることも声をかけることも避けたのだろう。一郎もこれが恋だとは思わなかった。
一郎はまた普通の高校生活に戻るだけだと思った。
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